宗教、とりわけキリスト教に関する教義や教えというものは、身近に溢れている。
欧米の小説などを読めば、必ずと言って良い程、キリスト教に関する事柄が頻出しているし、映画もまた然りである。
取り分け、十戒やラザロの復活に見られるような奇跡とか神秘現象というものが、
どうも胡散臭く、私にとっては聞くに堪えないものなのである。
あれらの解釈にしても、こじつけとしか言いようもないものが殆どだ。
宗教とは事実ありきで、それを証明する事を目的として思考を始めるからなのだと思う。
例えば神がいる事が前提とされていて、何故いるのかと言えば・・・・・といった具合だ。
科学も確かに似たような所があって、前提の代わりに仮説や推測を立てる。
それに基づいて、実験を繰り返し証明されたものを事実としている。
実験を繰り返し、信憑性を持たせるという点で違うが、科学とて宗教とさほど変わらないように思えなくもない。
その点哲学は発想が逆である。
ゼロから思考して、結論に達したものを事実とする。
私はもっぱらこちらで、これをやるには自分の頭を使うより他はない。
もちろん、そうして導き出された事実とて真実とは異なるものであるかも知れないが、この点は科学も一緒だろう。
要は常に自分を疑い続ける事こそが、真実への道となるのだ。
宗教に話を戻すと、宗教とは信じる事を重要としている点で、やはり哲学とは逆なのである。
その時厄介なのは、解釈というヤツだろう。
あれを持ち出すと、何もかもが正しくなってしまうのだから恐ろしい。
宗教の教義に限らず、憲法九条の解釈だとか、ノストラダムスの大予言の解釈だとか、
これら全て、抽象的な書き物に対して具体的に説明など出来る筈がないではないか。
出来ないものに対して、しようというのだから土台無理な話なのである。
宗教は心の拠り所として存在すべきであって、決して前に出てきてはいけないものだと思っている。
つまり、心が乱れた時の精神安定剤的な役割、或いはそもそもの心を乱さない為の役割を超えて、
『前提』として出てきてはいけないということだ。
私は疑う事を常としているが、信じる事の大切さも承知している。
だから宗教を否定はしない。
だが、今、世界で行われている多くの戦争を見るにつけ、そんな事を思わざるを得ないのだ。
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