私は『他人を信用する』ことは不可能だと別の項で述べた。
しかし、『他人を理解する』ことはある程度可能だと思っている。
『他人を信用する』とは他人の言動を信用するという事だが、
『他人を理解する』とは他人の考えを理解する事だと思って欲しい。
と言っても直接他人の心の中に進入して思考を覗くことでは勿論ない。
どうするのかと言えば、自分の心の中を深く探っていく他ない。
人類の心が何処かで繋がっていると言えば、胡散臭く聞こえるかも知れないが、
それに近いものは、人の心の奥深くにはあるのではないかと思っている。
ここにプラトンを登場させてみたい。
プラトンは我々があらゆる現象として表れるこの現実の世界と
決して表れる事のない絶対知の世界としてのイデアを想起した。
これをアナムネ−シスと言うのだが、つまり我々の精神は現象界に表れる前に
イデア界で真実を見て来たというのだ。
そこには真実しかなく、現象界に現れる全ての現実はイデアのコピーに過ぎないのだと言う。
初めて聞く人には突飛な話であろう。
しかし我々人間は倫理性を持ち合わせている。
正しい事と正しくない事の区別が付く。この区別こそがイデアを理解する上での鍵となるのだ。
倫理とは親なり教師なりに教わったものだと仰る方もいるかと思うが、
それは道徳であると私は解釈する。
倫理に対する私の解釈は決して外部から与えられたものではないと言う事だ。
自分の判定による善悪を倫理だと思って頂ければ幸いである。
道徳とは法律の分野に入ると私は考えている。
法律は単なるルールであって、イコール正しいとは決して言えない。
自分が殺されるのが嫌だから、人を殺さない。殺してはいけない。
という考えは極めて道徳的であると言えるだろう。
では倫理的にみて殺人は悪かと言えばそんな事はない。
もし仮に殺人を善であると言う人がいれば、その人にとって殺人は倫理に反しないだろう。
(これについてはまた別の項で考えてみたいと思っている。)
さて倫理と道徳については別の項でたっぷり語る事にして、
『他人を理解する』とはどういうことかについて話を戻したい。
先ほど、正しい事と正しくない事の区別が付く事が鍵だと言った。
人は『正しい』『正しくない』をどのように判定しているのだろう。
プラトンは深く思惟する事によって、心の中に『おぼろげに』イデアの幻影を見る事が出来ると言いたかったのだと思う。
つまり、深く深く考え抜く事で真実が見えてくると言う事だ。
これは並大抵の事ではない。ある考えが浮かび、さらに考えを巡らせばそれを打ち消す考えが出てくる。
弁証法的にこれを繰り返し、考えに考え抜いた先にようやく真実が見えてくる。
イデア界なるものが本当にあるかどうかは別として、考える事なくしてなにかを『理解する』
ことは出来ない。それだけは確かに言えるのではないだろうか。
『他人を理解する』とは『自分を理解する』ことである。
『自分が考えている』ということは『他人も考えている』のだ。
と解った瞬間他人の心が『おぼろげに』見えてくるのではないだろうか。

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