私は小説を読むとき、時としてその小説の登場人物に感情移入する時がある。
ドストエフスキーの有名な小説『罪と罰』。
私は物語を読み進める内に、その主人公である『ラスコーリニコフ』に共感し、同時に同情に近い感覚を覚えた。
自分はラスコーリニコフだと感じたし、そんな自分が怖いとも思った。
彼は物語の中で、ある論文を発表する。
正確には、(とあるやり取りが原因で)発表された論文に対して解説するのだが、
彼曰く、世の中には『凡人』と『非凡人』がいて、
『凡人』とは、服従を旨として生きて行く人間で、同類を生殖する以外なんの役にもたたない、
いわば『材料』に過ぎない人たちだと言っている。
『非凡人』とは、さまざまな声明を発して、よりよき未来のために現在を破壊することを要求する。
その為には自分の良心に照らして、法の枠を踏み越える権利を持った人たちだと言う。
ナポレオンやマホメットなどが後者に分類される人間だとも言っている。
あえて曲解するならば、前者は虫けら同然、後者は高貴で価値のある人間とも取れる。
事実ラスコーリニコフは前者を『シラミ』と呼んでいる。
この論理は、物語を貫く柱となっていて、彼が犯した犯罪を正当化する為に、しばし用いられた。
つまり彼は、自分は『非凡人』であり、『踏み越える権利』を持っていたのだ。
貧乏で不幸な人間に寄生して生きている、悪徳で傲慢な金貸しの婆ぁさんを殺したからと言って、それが何だというのだ。
寧ろ、それによって、(世の中の為になる)自分の未来の一歩を踏み出す事が出来るなら、
長期的に考えれば善行である。彼はそう考えた。
そうして、一線を『踏み越えた』わけだが、ここから彼の苦難の日々が始まる。
彼は無意識の内に罪の意識に苛まれ、妄想を見、悪夢に苦しめられ、時には狂人と化した。
彼は次第に現実を知る事になる。
ナポレオンはこんなに苦しんだであろうか?
『非凡人』であるナポレオンは、『踏み越える権利』を当然としていただろうし、
であるならば、罪の意識などは露程も感じなかった筈である。
つまり、ラスコーリニコフは罪の意識に苛まれる自分が『凡人』であることを知ってしまったのだ。
この事実が後の彼をさらに苦しめる事となった・・・・・・・・・・・・
まぁ、物語の概要を言えばこんな所だろう。
ラスコーリニコフの論文の中に見られる論理は非常に危険で野蛮に聞こえる。
実際、彼の友人からも批判もされているし、多くの人は馬鹿馬鹿しいと考えるだろう。
しかし、私はある部分に於いて、同意しなければならなかった。
ラスコーリニコフは人間を『凡人』と『非凡人』とに分けた。
私はそれを『考えない人』と『考える』人に置き換える。
『考えない人』とは、目の前の快楽に溺れる人たちの事だ。
自分にとっての損得にしか興味が沸かない。
自分の存在の意味などは、全く考えない。
ただ、『楽しく』生きているだけの人たちである。
『考える人』とは、『損得』ではなく、『善悪』を至上とする。
善行を行う為に、『踏み越える』権利を自分に持っている人たちである。
事実歴史は、そうした人々の革命などによって、流血と屍の上に築かれてきている。
しかし、これには困った事が一つある。
それは『考えているつもりの人』がいる事だ。
『考えても理解できない人』或いは『理解したつもりの人』と言っても良いだろうか。
そういう人たちが正義を振るいだしたら、大変な事になる。
もしかしたら、当の私もこの部類に・・・・・・・・
今現在、(つもりになって)確信を持っている思想が十年後にそっくりひっくり返るかも知れない。
ラスコーリニコフも最後にはそんな風に考えるようになったのではないかと、私は思っている。
私はこの小説を読んだ時『怖い』と感じたと最初に言った。
ラスコーリニコフの苦悩がそのまま私の苦悩であるからだ。
私は自分が『考える人』の部類だと思ってきた。
だから、『考えない人』。彼流に言えば『凡人』を軽蔑し憎みもした。
心の中で何度も殺した。
今現在も殺し続けている。
窓の外では、女がヒステリックに叫んでいる。
金がどうのとか、尽くしてやったのがどうのとか。
相手の男はドスの利いた声でやり返している。
野次馬も「うるせぇ」だとか「死ね」だとか騒いでいる。
私は『あれら』とは違う部類の人間だ。一緒にされたくない。
しかし、私は解っている。自分は『踏み越える権利』を持っていない人間であることを。
『踏み越えた』ところで、自分が壊れてしまうであろうことも。
『踏み越える』権利を持った人たちは、そんな事すら考えないだろう。
考えている時点でそれは、『踏み越える権利』を持っていない事の証明なのだ。
私も知ってしまったのである。ラスコーリニコフと同じように・・・・・・・・・・
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