私とは何か?
という疑問に対して私なりに長いこと考えてきたのだけど正直今のところ納得のいく答えが見つかっていない。
それでもこれまでの途中経過的なまとめをそろそろしてみようかと思いこの稿を書いてみようと思う。

多くの人は”私”といって自分の鼻づらを指す。或いは胸を指す人もいる。
けれども指されたそれらは”鼻づら”であり”胸”である。
脳学者は”脳”こそが自分であるいう。
しかし脳は脳であり、単なる器官の一部であることは死体を解剖すれば誰でも解る筈なのだ。
コンピューター、とりわけパソコンに例えていうならば、おそらく脳とはCPUに当たる部分であろうか。
コンピューターやパソコンに疎いのだが、辞書で調べると中央処理装置とか主記憶装置とあるから、
なるほどそうなのだろうと思うのである。
脳たるCPUに指令を出し計算させその結果をディスプレイ(モニター)に映しださせる。
映しだされた像というのがまさしく現実世界でいうところの諸々の事、つまり食べるとか寝るとか働くとかいった
いわゆるこの世の営みと考えてみよう。
であるとするならば、私とは脳(CPU)に指令をだしている”モニターの前の私”という事になる。
私は人間が人間世界において、頭の良し悪しを語る時、その対象としているのは実は脳の性能のことなのではないかと勘ぐっている。
何故かといえば、それはモニターの前に映しだされる像はCPUの計算によって出されるものなのだから、
CPUの性能が良ければ、いろいろな指令や表現を素早くモニター上に具現化できる訳で、
人間でいえば脳の性能が良ければ難しい計算式を瞬時に解けたり、
思考を整理し論理的に疑問に対する答えを導き出せるという事になる。
”頭の良し悪しとは脳の性能のことである”といえば、「そんなの当たり前だろ」と言われるかも知れないが
私にとってこれは全然当たり前ではない。
何故ってそれは、脳の前に脳に指令を出している私がいるのだもの、、、、、、、、、、

そもそも”頭が良い”という表現が宜しくなく私が思うところの頭の良し悪しとは
実は頭(脳)ではなく心(魂)の方なのかも知れない。
私ははっきり言って自分の脳の性能は良くない方だと思っている。
これを読んでいる人は感じていると思うが、説明が下手だし本当に言いたいこと表現したいことがうまく伝えられない。
これまで書いてきた事がどれだけ他人に伝わっているのか心配になってしまう。
一方で魂の方にはそれなりに自信をもっていて、漠然とではあるが本質(宇宙の真理)に近づこうと日々もがいている。
本質というものをプラトンが言うところのイデアだとするならば、
私はイデアの精巧なコピーを作り自分の中に取り込みたいと思っている。
そしてそれを思うというその事が”魂の良し悪し”ということになるのではないかと考えている。
しかしたまたま、私は人間に生まれてきてしまったばっかりに、本能的にそれを表現しようとしてしまう。
ところが脳の性能が悪いばっかりにうまく表現できず、また伝えることもできない。それが苦しいのだ。
人が生まれながらに背負った十字架の如くである。

予想していた事だけれども、話がだいぶそれてしまいました。
私が言おうとしていたのは”頭の良し悪し”とか”魂の良し悪し”の話ではなかったのに、、、、、、
(私もごく一般的な人たちと一緒で頭の良し悪しに対するコンプレックスがあるのだろうな)

話を戻します。
では心(魂)が私なのかというと、(これが手に負えないのだが)色も形も空間をしめてもいないこれを
私と言い切れない私がいるのです。

先程、”モニターの前の私”が”私”であると言いました。
これを思いついた時ふと、別のことを同時に考えてしまいました。
”モニターの前の私”の存在を果たしてCPUやディスプレイは認識しているのだろうか?と言うことです。
CPUは人間が作り出したプログラムによって動いている。
その時それを作り出した人間の存在を意識はしていないと思われる。
ただ単に受けた指令をプログラム通りにディスプレイ上に表示しているだけだろう。
もし、、、、、もしですよ。
神様というものが居て、我々人間をプログラムしたのだとすれば、我々はプログラム通りに動いているだけで、
実際には物理的に存在していないのかも知れない。
テレビゲームの主人公はプレイヤーに操作されている事を知らないが、
ディスプレイ上ではあたかも自由に動き回っているように見える。
その時テレビゲームの主人公は人間にプログラムされているとは思っていないだろう。
我々人間だってもしかしたら、神々が作ったテレビゲームの中で操作されているだけかも知れない。
と言ったって否定できるものではない。
否定しうるとすれば、こういった疑問を持って考えている自分を考えている時、
或いはその呪縛から解き放たれて、”私”を認識できるのかも知れない。
こういった考えはデカルトの焼きまわしのようでもあるが、確かにそうする事でしか”私”を発見できないのである。

結局今のところ確かな答えには辿り着いてはいませんし、恐らく辿り着く事はできないでしょう。
もしそれが解るのなら、よっぽど性能の良い”脳”の持ち主がとっくに答えを見つけている筈ですもの。
でもね、もしかしたら私が人間でなくなった時、私の魂は宇宙の真理に辿り着くことができるかもしれない。
”精巧なるイデアのコピー”たる魂を目指して生きることが人間の使命なのかも知れません。

”宇宙の真理を目指す”とか”本質に近づく”という事があまりにも漠然としていて、解りづらいとは思うのですが、
私の表現力ではまだ、まだ、、、、伝えきれずに無念であります。
決して妖しい宗教ではないので悪しからず。
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