第十回 動き出す
「あっ」
年季の入った、恐らくは彼女が生まれる前から使われていたのであろう、古臭いかまどの蓋を開け、ゆきのは自分の失敗に気がついた。
――また、二人分炊いちゃった……
炊き立ての白飯独特の良いにおいが立ち上るかまどの中には、たっぷり六合は飯が入っている。一食一合程度しか食べない彼女の場合、どうしても余ってしまう。
米だけでなく、副菜なども二倍の量を作っている。
仕方ないので、とりあえず椀に多めに白飯をよそい、オカズも少し割り増しにして食事をすることにした。あまりは夕食に回し、飯の方は……まぁ、適当に考えよう。
毎度のことだ。息子の銀牙が旅に出てから、三日に一度、酷い時は二日に一度の割合で、ゆきのはこんなミスを犯している。
息子といっても、血の繋がりはない。十六年前のあの日、突然やって来た青い髪の子供に赤ん坊だった銀牙を渡され、以降、育てていたのだ。
成り行き上母親になった身で、彼女は右も左も分からず、散々、右往左往させられた。未婚の母であったため、村人から冷たい視線や、あらぬ陰口もあったが、辛いと思ったことは一度も無かった。
我が子の成長していく姿を見るのが幸せだった。自分の手で一人の子供を育てている実感は喜びだった。
しかし、同時不安もあった。
自分の育て方が本当に正しいのか? 周囲の人間からの風当たりが強いこの村で、本当に良いのか? 自分が生んだのではない子供が、本当に息子だと呼べるのか?
勿論、出来る限りのことはしてきたつもりだ。良いことをすれば褒めてやり、悪いことをすれば叱った。読み書きも、社会生活に必要な様々なルールも、教えられることは全て教えた。が、いつも不安はしがらみとなって、彼女の中にあった。
そして、月日は流れ、銀牙は年頃になるにつれて、村の外、もっと広い世界への憧れを抱くようになっていた。
十五、六歳といえば、大人として認められるのが普通であったから、そろそろ親離れの時期だと感じていたのだ。
弥生との出会いは、丁度良い切っ掛けと言えた。銀牙は旅に出たいと思っていたが、自分を一人にしたくないと、実行に移せなかった。母親思いの優しい子供に育ってくれたのは嬉しいが、そのためにやりたいことをやれなくなって欲しくなかった。
銀牙の足かせになってはいけない。新たな土地で暮らそうと、世界中を旅しようと、恋をし、結婚しようと、それは銀牙の自由だ。
結婚といえば、弥生はなかなか器量も良く、可愛い娘だった。ああいう女の子と銀牙が結ばれるのも、悪くないのではないか?
――そうなれば、あの子は私の義理の娘になるのよね……あんな子に、『お母さん』って言われてみたいわ……
などと、考えてみて空しくなった。
何を妄想しているのだろう……馬鹿馬鹿しい。
ポタリと、頬を伝って、味噌汁の上に滴が落ちた。小さな波紋が生じたが、すぐに消えた。
自分は本当の母親ではないのだ。まして、まともに子育てができた自身もない。そんな人間が母を語るなどおこがましい。
ゆきのは一人、声を殺して泣いた。
よく晴れた午後、聖はベランダで紅茶を飲んでいた。
今日は試合が無い日なので、銀牙は浩也、フラッドは相変わらず稽古に出かけ、皐月や由惟はディアーナを伴って遊びに行っている。忍とラルクレスも、どうやら今後のために調査でもしているのだろう。他の面々も思い思いの場所に行っているらしく、今ここには聖一人しかいない。
で、暇だった。こうやって態々ベランダでティータイムをしているのも、室内よりはましかと思ったからだ。
だが、暇は暇のままだった。
「お姉ちゃん」
不意に、聞きなれた声で、聞きなれない呼び方をされたのは、ティーポットの中身が完全に空になってしまったときだった。
「あら〜〜弥生ちゃん〜〜」
やって来たのが可愛い妹分であったので、聖は顔をほころばせる。
「あらあら、やっとお姉ちゃんって、呼んでくれるのね〜嬉しいわ〜」
「んん……まぁ……」
曖昧に頷く弥生。流石に、意図的に言うのはまだ抵抗があるようだ。
「それで、何か御用かしら?」
「うん。お姉ちゃんに、お願いがあって……」
「良いわよ〜〜弥生ちゃんのためなら何だってOKよ〜〜」
「本当にいいの?」
「うんうんいいわよ〜」
「本当に本当?」
『お願い』を口にし辛いのか、確認ばかりを弥生は繰り返す。
「本当に、本当よ〜〜」
「それじゃぁ……」
弥生は軽く息を吸うと、意を決して言った。
「私に、オーバードライブを教えて欲しいの」
一瞬、面食らった。ちょっとだけ予想外だった。
「あらあら、弥生ちゃんがそういうこと言うなんて、お姉ちゃん、びっくりしたわ〜でも、どうしたの? 確かに、今のご時世、力はあるに越したことはないけど……第一、弥生ちゃんには銀牙君という、素敵なナイトが……」
「だからよ……」
聖は怪訝な顔をした。
「あら? 分からないわね〜銀牙君に守ってもらうことに不満があるの〜?」
「ありますよ」
「ありますか?」
「だって……」
言いよどむ弥生。俯いて、握り締めた拳は微かに震えている。
それで、大体分かってしまった。
「良いわよ。お姉ちゃんが教えてあげる」
「えっ?」
あまりにもあっさりと承諾され、今度は弥生が面食らってしまった。
「……あの、ひじ……お姉ちゃん、いいの?」
「えぇ。弥生ちゃんの気持ち、少しは分かるつもりだから」
キョトンとした弥生の顔を見て、聖は微笑んだ。
オーバードライブを習いたいという、弥生の真意は充分に察しが付いていた。
トゥールでの一件は、弥生に酷い心の傷をつけた。そこから立ち直りたくて、強くなりたいと思ったのだろう。
強くなれば、自分の身を守ることも、仲間も守ることができる。
だが、何よりも、弥生は銀牙を意識しているのだ。
銀牙は、弥生を守るという目的のために強くなろうとしている。実際、彼のこの短期間で見違えるほど強くなり、周囲を驚かせている。
旅を始めたころは頼りなかった銀牙のそんな姿を身近で見てきた弥生は、焦りと劣等感を抱き始めたのだ。
自分が落ち込んでいるうちに、銀牙はどんどん強くなる。
自分よりも、遥かに早く、銀牙は前に進んでいく。
そして、銀牙は弥生を守ろうとしている。
銀牙が弥生を守りたいのは恋愛感情なのだと、聖は容易に察しが付いていた。が、コンプレックスを抱えた弥生にしてみれば、自分が弱いから護衛が必要なのだと、ひねくれた解釈をしてしまう。
弥生は自分のせいで銀牙に怪我をしてほしくないし、お荷物になりたくもない。
銀牙とは、常に対等でありたいのだ。
その感情が、何を起因としているのか、聖は敢て、考えないことにした。結論を出すのは弥生だ。
「それじゃ、弥生ちゃん。レクチャー開始するわよ!」
兎に角、今は弥生の願いを叶えてやろうと思った。
弥生の気持ちを分かっていたが、理由はそれだけではない。
彼女は、ただ単に、世話を焼きたいだけなのだ。
自分を姉と呼んでくれる、可愛い妹のために。
「準備は概ね整いました。後はヘイムダル達が神器を見つけ出すのみです」
「ふむ……順調だな」
恭しく頭を垂れ、バルドルは玉座に腰を下ろす男、ガビィル王に『計画』の進行状況を報告した。
ガビィル王。
いまや、世界最強の軍事国家となったガビィル帝国を統べる者。初老に近い年齢でありながら、人を威圧する双眸の鋭い光も、精力溢れる肉体も、微塵も衰えている様子はない。
恐らく、対面すれば他国の王でもひれ伏してしまいそうな威風を、この男は持っている。
絶対的なカリスマ。
王の中の王。
それが、ガビィル王だ。
「くくく……」
ガビィル王は、口元を歪め、立ち上がった。
「ようやくだ……」
天井のステンドグラスから漏れる陽光が、ガビィル王を照らす。
光を全身に浴びるその姿は、バルドルが息を呑むほど神々しかった。
遥か昔より、天空にある太陽の光さえも、王を引き立てる脇役のように思えた。
バルドルは確信した。いや、理解した。
ガビィル王、人にあらず。
彼は、
神だ。