突然の衝撃。
 それを発端として、
 派手にガラスや木材が砕ける音。
 この町どころか、日本では動物園にでも行かなければ聞けない獣の咆哮。
 およそ、日常の中で生きているのなら一生耳にしないであろう、絶望と恐怖を孕んだ人の悲鳴。
 何が起きているのか分からない。
 だが、一つだけ、俺の中の、言うなれば『血』の脈動がある事実を教えてくれた。
 化物が、
 殺すべき化物が、
 この近くにいる。 


「おいおい。一体全体、何が起きてんだぁ!?」
 我慢できないと言った様子で有彦が席を立った。
 異常が起きてから時計で確認していないが3分か4分たった今でも、騒ぎが治まる様子はない。それどころか、先程よりも随分近くで聞えるような気さえする。
「ふ〜む、確かにおかしいな。」
 落ち着いたところしか見せたことのない一子さんもこの時ばかりは眉間に皺がよっている。頬を伝って、冷や汗がつぅーっと落ちていったのも気のせいじゃないだろう。
「志貴様・・・」
 最初の衝撃の時に眼を覚ました翡翠が弱弱しく声をかけてきた。
「一体、何事なのでしょうか・・・?私、すごく心配です・・・」
 確かに、翡翠の不安はもっともだ。
 この状況は明らかに何かがおかしい。そのおかしいと思う感情が、どうしても、あの忌まわしい四季の一件と結びついてしまう。
 しかも、俺の場合、退魔の家系である『七夜の血』がある。それが告げているのだ。
 だから分かる。
 ヤバイ。とてつもなくヤバイ何かが近づいて来ているという事実に。
「!」
 ビクリと、俺達全員が戦慄した。
 いつのまにここまで来ていたのか。
 悲鳴が、今、扉の向こう側で響いた。
 悲鳴だけではない。荒々しい獣の息遣いや、何か柔らかいものをグチャグチャと気持ちの悪い音を立てて咀嚼する音までが聞えてゾクリとする。
 その獣としか思えない何かが齧っているものは・・・・
「くっ―――!」
 ギリギリまで想像してしまったことを頭を振って誤魔化す。
 俺はこの期に及んで考えているのだ。これは何かの悪い夢で・・・そうそう、この前有彦とホラー系のビデオを見たからその影響で・・・だからきっとおぞましい化物が扉を突き破ってウワーーー!って俺が悲鳴を上げたら夢から覚めて・・・俺の声を聞いたメイド服姿の翡翠が驚いて飛んでくる・・・そして、どうしました志貴様!?と心配そうな顔をする彼女に大丈夫だよ。ただちょっと夢身が悪くてね・・・と言って頬にキスをする・・・翡翠は真っ赤になって・・・
――ばかばかしい!!
 くだらないことを考えた自分に腹が立つ。
 夢であるはずがない。現実から逃げても仕方ない。扉の向こうで起きている異常は、紛れも無い現実だ。
 『いい? ピンチの時はまず落ち着いて、その後によくものを考えるコト』
 先生の言葉を思い出す。
 そして、軽く深呼吸。
 一回・・・
 二回・・・
 三回・・・
 OK落ち着いた。
 今一番にしなければならないこと、それはここにいる俺自身と、翡翠、有彦、一子さんを守ることだ。
 扉の前に立つ。
 人差し指でフレームを撫で、その感触を確かめる。
 扉の向こうの奴が入ってくるようならこいつを外す。
 この眼、直死の魔眼を以ってあらゆるものに存在する『死』――『線』を、『点』を見極める。
 ポケットに手を入れ、七つ夜を手にする。 
 そして、このナイフで刺して、斬って、通す・・・!
 奴はまだそこにいる。
 来るなら来い。
「・・・・」
 じっと、奴が動き出すのを待つ。
「志貴様?」
「遠野?」
「有間?」
 三人が怪訝な顔をしているようだが、見ている暇は無い。
 喉がカラカラに渇く。頬を汗が伝う。手が滑りナイフを握る握力が落ちる。
 時間にして、十秒足らず。が、この緊張状態はかなり辛い。
 相変わらず獣っぽい息遣いは聞えてくる。奴はまだそこにいる。あのガリガリ、グチャグチャという不快な音がないのだから食事は終わっていると見ていいだろう。ならば他の獲物を探しに行くなり、ここに飛び込んでくるなりするのではないか・・・
 勿論、それは相手が俺の予想通り『獣』の類であればの話だが、他に考えられない。
 だったら、何で何時までもその場にいるんだ?
 そういえば、様子が変だ。この状況なのでよく聞いていなかったが、息遣いが少しだが違う。
 さっきは餌を貪ろうとする食欲を感じさせるものだった。が、今は何か唸っているような音が聞える。
 この唸り声は獣が警戒して出す威嚇の音・・・?
 その音に気づいた瞬間だった。
「!!」
 耳をつんざく音。
 獣の悲鳴が上がった。
 なっ、何だ。何が起きた。
 悲鳴と、何かが転がりまわり壁にぶつかる音が響く。この部屋の扉にもぶつかり、部屋が揺れた。
 しばらくして、それも収まり、辺りは静寂に包まれた。 
「・・・志貴様・・・?」
 何が起きたのか分からず、助けを求めるようにして翡翠が袖を引っ張る。
 しかし、俺だって分からない。
 正直言って過度の集中をしていたのにその脅威がいきなりいなくなるもんだから少し、思考が麻痺してしまった。
 とにかく、もう危険な気配はない。それだけは間違いなさそうだ。
 と、その時、
「大丈夫か!?志貴!!」
 扉を開き、文也が転がり込んできた。
 開口一番そう言って、文也はテーブルに両手を付いて荒い呼吸を繰り返す。
 どうやら俺達の危険を察して来てくれたらしい。文也の後ろには一山の灰が積もっているし、黒い服はあちこちが破れ、右の二の腕辺りがじっとりと湿り、袖から手の甲を伝って、赤い液体が流れている。
「文也!」
「大丈夫だ」
 素早く左手でその場所を隠す文也。
 しかし、流れてくる血の量から言って、大丈夫とは思えない。
 せめて止血でもしようと思ってハンカチを持って手を伸ばすが、文也は首を振り、
「志貴、皆を連れて逃げろ・・・」
 今だ呼吸の整わない口で搾り出すように言った。
「文也?」
「いいから行け!!ここは俺に任せろ!!」
 ギロリと、血走った眼でこちらを見上げてくる。
 だが、待て。
 ここは任せろ?一体何を言っているんだ?こんな場所に一人で残る気なのか?
「おい!一体何なんだ!?何が起きてるんだ!?」
「死徒が来ている!!」
「シト?」
 使徒だろうか?文也の言わんとすることがよく分からない。
「吸血鬼だ!!吸血鬼が来てるんだよ!!」
 文也は怒鳴った。  
 吸血鬼・・・!?
 心臓が一際大きく鼓動した。
 吸血鬼、吸血鬼、吸血鬼・・・
 弓塚・・・
 四季・・・
 路地裏に散在した屍、
 撒き散らされた赤い血、
 赤い眼、
 口元から一筋落ちる血の線・・・
「う―――」
 眩暈がする。
 吸血鬼、たったその一言で頭の中をあの、凄惨な出来事が突き抜けていった。
 反転してしまったとはいえ、四季を殺さねばならず、秋葉を、琥珀、弓塚を死なせる理不尽な結果となった怒り、
 皆を失ってしまい、逃げ出したくなるような思いに囚われるほどの悲しみ、
 何度となく死を感じた恐怖など、様々な感情が一気に噴出し、しばらく目の前が真っ暗になる。
「きゅ・・・吸血鬼・・・だと?」
 しばらくの間を置いて、ようやく落ち着いてきたところで、俺は文也の台詞を繰り返した。
「あぁ・・・それもかなりやばい奴だ。『混沌』、ネロ・カオスって言う吸血鬼がいる・・・」
「ちょっ、ちょっと待ってくれ!!」
 有彦が口を割り込んでくる。
「吸血鬼ってなんだ!?大体、何でそんなのがここに来るんだ!?」
「詳しく説明している暇は無い!!志貴!とにかく皆を連れて逃げてくれ!!ネロは俺がどうにかしてやる!!」
「待て文也!!だったら俺も行く!!」
 文也の言うネロという吸血鬼がどんな奴かは見当も付かないが、文也一人に危険な目に遭わせるわけにはいかない。
 普通の人間なら確かにただの足手まといになるだろう。だが、文也と同程度の力を俺も持っている。力になれるはずだ。  
「駄目だ!!ネロは俺が必ず消してやる!お前を危険な目に遭わせられるか!」
―――何だと!
 腹が立つ。
 危険なのはお前も同じじゃないか。大体、危ないと分かっているならどうして自分から飛び込もうとするんだ!?
「文也さん!志貴様の仰るとおりです!!早くここを立ち去りましょう!!」
「駄目だ!アイツは俺達を逃がさない。最低でも誰かが足止めに回らなきゃ食われるだけだ!!」
 翡翠も同調してくれるが、文也は取り合わない。    
「東条、あんた何でそこまでそのネロって奴に拘るんだい?」
「多分、アイツは俺を狙ってきたからですよ。この惨状も、言って見れば俺が原因でしょうね」
「!」
 これには、尋ねた一子さんだけでなく俺達全員が驚愕した。
「とにかく、俺は奴を倒す!!皆はしばらくしたら非常口から出て行ってくれ。戦いが始まれば充分逃げられる!!」
 話はここまでと言わんばかりに文也は出て行こうとする。
「待て!」
 咄嗟に手を伸ばし、その肩を掴んだ。
 一瞬だけ、秋葉の姿が浮かんでいた。
 あの時、秋葉は俺のために四季に戦いを挑んだ。
 そして、秋葉は四季を仕留める寸前まで攻め立てながらも、最後には、ほんの僅かな隙に反撃に転じた四季の爪に胸を貫かれてしまった。
 俺の脳裏を過ぎったのは正にそのシーン。
 秋葉は俺を助けるために死んだ。
 そして、今文也は俺たちのために戦おうとしている。
 何だか、それが、
 ひどく似通った、不気味な符号のように感じて・・・
 助けるためという似た動機、
 戦うという似た行動、
 その結果・・・
 文也も・・・
 もしかしたら・・・
 何故か、何故か、あの時と同じことが、今から起きてしまうのではないかと考えてしまった。
 勿論、憶測よりも拙くて、勘よりも不確か。
 だが、俺を動かすには充分すぎる動機だった。
 何をおいても、文也を戦わせたくないと心底思った。    
 だから止めた。
 文也が何と言おうと、文也を戦わせない。
 肩を掴まれた文也は部屋を飛び出そうとした割に、俺の手を振り払おうともしない。こちらに背を向けたまま立ち止まっている。
 どうやら、思いとどまってくれたらしい・・・安堵の溜息が口から漏れそうになったその時、
 くっくっくっく・・・と、文也の不気味な笑い声が聞えた。
―――なんだ?どうした?
 付き合いがまだ短いとはいえ、この笑いが文也らしくないことは分かる。
 戸惑いを隠せずいると、文也が振り返った。
―――誰だ?お前?
 そう聞きたくなるほど、文也の様子はおかしかった。
 顔そのものが変わったわけではない。が、妙に細められた瞼の間から覗く瞳の異様なぎらつきや、不気味に歪められた口元は文也の持つ雰囲気を一転させ、醜悪極まりない容貌に変えていた。
「なぁ・・・志貴・・・」
 背筋が寒くなる。何て声を出すんだ。
「あ、あぁ・・・?」
「翡翠さんみたいな感応者ってよう、すげえレアだって知ってるか?」
 クックックと低い声で笑いながら、文也は意味不明のことを聞いてきた。
「は・・・?」
 何を言い出すんだ?
 いきなりの文也の変貌ぶりに驚いていた矢先、こんな質問。意味が分からない。
「もともと巫浄みたいなレア家系の更にレアな能力者だからなぁ、手に入れるために殺戮行為に及ぶ奴もいるし、裏で人身売買の対象にされて、億単位がつくって聞いたことがあるなぁ・・・」  
 胸が詰まる。その能力ゆえに琥珀は遠野槇久によって幼少の頃から陵辱を受け続けてきたのだ。
 後ろで翡翠がうっと、呻き声のような声を漏らした。俺と同じことを思ったらしい。
「ついでに言えば、翡翠さんみたいな感応者はあっちの具合も良いらしくてなぁ・・・性玩具に使いたがる奴もいるって話しだぜぇ・・・・」
 何を、何を、言っているんだ?
 散々早く逃げろと言っておいて、今度は意味不明な話を始めている。
「刀崎や軋間とか、その辺りで遠野槇久みてえに反転しかかってる奴もいるかも知れねぇなぁ・・・」
 分からない。こいつの考えていることが。
 それに、どうしてそんなに不快になるような喋り方をするんだ?
「いや〜〜〜あいつら、翡翠さんを遠目で見ながら喉から手が出るような思いでいるのかもしれないねぇ・・・あっ、もしかしたら夜のオカズにでも・・・まっ確かに美味そうだもんなぁ・・・」
「文也!!」
 抑えが利かなくなり、胸倉を掴んで語気を荒げていた。
 危険だと言っておきながら、意味不明な話で結論を出さず、それもこちらが苛立つような口調。挙句の果てに翡翠を貶めるようなことまで言いやがった。 
 頭に血が駆け上る。
「話が読めねえのかよ。この愚鈍野郎。」
 嘲笑が混じる文也の声。
 腹が立つ。それも、もう、どうしようもなくだ。
 お前の鼻面を縮めてやる。
 怒りに任せて拳を振り上げようとして・・・
「お前に何かあったら翡翠さんはどうなるんだって言ってんだ」
 その一言で、我に返った。
「・・・翡翠がどうなるんだって?」    
「分かっていないようだな?いいか。翡翠さんはお前という契約者がいるとはいえ、感応者でレアな存在なんだ。だから、まず間違いなく他の連中が欲しがっているだろう。」
「あぁ・・・」
 いつの間にか文也は俺の知っている文也に戻っていた。さっきまでのギャップがあまりに激しくて少し呆気にとられてしまい、返事も気の無いものになってしまう。
「お前はそういう連中にとって天敵中の天敵、七夜の末裔だ。おかげで奴らは迂闊に手が出せない。つまりお前はただいるだけで翡翠さんを守ってるんだ。」
 だがなぁ、と前置きして文也は語調を強める。
「もしお前になんかあったら、どうなる?お前が弱ればこれ幸いに翡翠さんを攫いに来るだろうな!!そして感応のために色んな連中に夜通し、朝かけ輪姦されるだろうな!」
「それは・・・」
 考えたこともなかった。
 だが、確かに文也の言うとおりだ。遠野槇久のように反転を抑えたいと思っている人間は遠野の血筋の中には沢山いるはずだ。
 もし、そんな奴らのところに翡翠が連れて行かれたら・・・?
 そこで行われることは想像するまでもない。
 そうなれば・・・
「そうなれば、琥珀さんがもう一人できるんじゃないのか?」
「―――!」
 俺と翡翠が最も考えたくないことを文也は残酷に言ってのけた。
 遠野槇久の陵辱を一身に受け続けた琥珀。
 誰にも助けられることもなく、ただ人形だと思い続けることしかできず、遠野への復讐を生きる歯車としてきた哀れな少女。
 あの笑顔だけで固められた琥珀の顔が浮かぶ。
 『人形になれば痛くない』
 彼女はそう言った。そうなることしかできなかった。
「翡翠さんを、そうしても良いのか!?」
 駄目押しとばかりに文也の言葉が突き刺さる。
 良いわけがない。
 大切な恋人を、
 人形になんかしたくない。 
「分かったようだな。」
 文也が背を向けた。
 これからアイツの言う、ネロ・カオスという吸血鬼と戦いに行くのだろう。
 文也を一人で生かせたくないという思いはまだある。
 だが、動けない。
 アイツの言う通りなのだ。
 俺は翡翠を守らなきゃいけない。
 だからこんなところで戦っちゃいけないんだ。
 文也が部屋を出て行った。
 俺は呆然としてそれを見送った。
 程なく、カンカンと階段を下りる音が聞えてくる。
 俺は戦っちゃいけない。
―――だけど・・・
 本当に、それで良いのか?そんな想いが頭から離れなかった。 


後書き  やっと第十回。結構間が開いてしまいました。前回掲示板ではバトルよ〜と言ってましたがすみません。これからです。今回は今まであんまり語れなかったような気がする秋葉さんや琥珀さんが死んだことによる心の傷に触れるようにしてみました。さぁ、次回こそバトルです。


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