黒いコートをなびかせ、百八十センチを超えるであろう、一人の男は目の前のビルを見つめていた。
彼の名はネロ・カオス。死徒二十七祖が十にして『混沌』の名を持つ死徒。
彼は、目的の男が現れるのを、ただひたすら待っていた。
このビルに使い魔を放ったのは単なる食事のためだけで、別に場所はどこでも良かった。
だが、まさかそこにいようとは思っても見なかった。
『赤い刃』
その姿を使い魔達の『眼』を通して彼は視ている。
間違いない。
今回使役した使い魔の中で最強である『ライオン』を屠った奴の神や悪魔の領域であろう所業を見間違うはずがない。
風が吹く。
コートが風になびき、彼の首から下が覗いた。
黒い。ひたすらに黒く、それでいて、不気味に蠢きながらも、無数の心音や息遣い・・・生命の象徴とも言うべきあらゆる音が響いている。
しかし、彼の耳に入るその数は普段より少ない。
『赤い刃』と戦い、二百ほど『混沌』を灰にされたのだ。
『赤い刃』の持つ、『命を否定する』能力はあらゆる生命の存在を消し去ってしまう。いかに不死身と称されるネロ・カオスも、この世から消え失せてしまったものを再生することは出来ない。
今の彼は、ネロと呼ばしめる六百六十六の混沌はない。
だが、
ネロは笑う。
―――それでこそ、我が混沌となるに相応しき力!
彼を取り込み、その力を自分のものとすればそのアルクェイド・ブリュンスタッドに届くかもしれない。届かずとも、失った二百匹もの同胞以上の価値はあるはず。
先程まであれ程耳障りだった下劣な人間達の悲鳴はもう聞えない。恐らく全て食い尽くしたのだろう。
そして、食事を行ったはずの、約二十匹の使い魔も殆どが戻ってこない。
十中八九、奴の仕業だ。
カンカン、と階段を下りる音が聞えてくる。
奴が来た。
奴が来た。
奴が来た。
身体を形成する混沌達が騒ぎ出す。
やがて、彼の前に待ち望んでいた男が現れた。
全身を黒で統一した装束。
その手に握る、彼の二つ名の由縁である赤いナイフ。
命を否定する、『赤い刃』東条文也。
死徒二十七祖の十、ネロ・カオス。
二人は対峙した。
「久しぶりと言いたいところだが、初めましての方が適切かも知れぬな」
向き合っていたまま続いていた沈黙を最初に破ったのはネロだった。
実は、文也とネロは戦っているが、お互いが顔を合わせていたわけではなかったのだ。
あの時、文也が三栗矢市のあるデパートにいることを掴んだネロは、食事も兼ねて文也を探し出すために使い魔達をデパート中にはなった。
彼の思惑としては、使い魔達をけしかけて、文也を燻りだそうというものであったが、予想に反して、いつまでも文也は現れなかった。
ネロは知る由もないが、埋葬機関に知り合いのいる文也は、ネロについての知識をある程度持っていた。そのため、使い魔の数が異常に多いのに気づきや否や、襲ってきた死徒がネロであると看破したのだ。
文也の『命を否定する』能力は存在そのものをなかったことにする能力であるので、無論、不死性の強いネロにとっても天敵だ。が、使い魔を六百六十六も有するネロと正面から戦えば、持久戦で勝てないことは眼に見えている。
故に、文也はデパートの中を利用して姿を見せず、ネロに使い魔を使っての戦いを強いることで彼の戦力を削っていったのだ。
結果、その場はネロの混沌を二百ほど『否定』し、何とか追い払った。
「確かにな。実際に顔を合わせたのはこれが初めてだが・・・しかし、本当に裸コートとはな・・・変態も良いとこだぜ・・・」
「我が身は死徒。故に人間の概念など通用せん。」
「だからって、もう少し選ぶってこと出来ないのかよ。それじゃ、死徒だって退くぜ。」
「生憎と、他の死徒とも関らぬのでな。」
「・・・・」
―――無愛想なやつだな・・・
口の中で小さく舌打ちし、文也は呟いた。
時間を稼ぎたいのだが、この死徒が相手では会話が続きそうにない。
ビルの中にはまだ志貴達がいる。少なくとも、彼等がこの場を無事に離れてくれるまではネロを引き付けておく必要がある。
こうして態々ネロの前に出たのもそれが目的だ。本来の六百六十六の混沌を二百も失っているとは言え、残りは四百以上も残っている。正面から戦って勝てるわけがないのは明白で、今回も隠れて戦いたいのが本音だ。
だから、今は兎に角、志貴達を逃がすこと最優先にしようと決めた。彼等の安全が確保できれば、以前のように隠れて闘うことも出来るし、逃げることも可能かもしれない。
それに、時間がたてばシエルや、親友の援護も期待できる。
そうなれば、勝ち目はある。
超一流の殺人鬼の彼は、今の状態で自分に勝算が無いことは痛いほど分かっていた。
「なぁ・・・しかし、あんたも物好きだよな。俺摂りこんだって例の姫様に叶うとは思えないんだけど・・・」
「ふむ・・・だが、私の失った二百余の混沌より価値があるのは事実だ。」
「そいつはどうも。けど、ここでもう一戦やって無駄に混沌消費したんじゃ、割が合わなくならないか?」
「そうなれば、また強力な素材を取り込むまでよ。」
ネロの視線が動く。
その先にあるのは、文也の後ろにあるビルだ。
スッと、血の気が引くのを感じる文也。
―――気づいてやがる・・・
ネロはあのビルに無数の使い魔を放った。
そして、使い魔からの情報はネロ自身に伝わっていく。
だとすれば、間違いない。
ネロは千年の長期に渡って生きてきた死徒であり、優れた魔術師だ。
ならば、志貴達を見つけるや、彼らが、『普通とは違う』存在と気づき、しかも、自分にとって有用であろうと結論付けたとしても不思議はない。
「どうした?赤い刃よ。顔色が優れぬようだが・・・」
文也の同様が気に入ったのか、ネロは口角を吊り上げる。
「ハッ、お前のその変質者ファッションを直視したせいで気分が悪くなっただけだよ」
「解せぬな・・・」
不意に真顔になり、ネロ。
「何がだよ?」
「貴様の行動全てに対してだ。」
「別に・・・普通のつもりだが・・・」
「本来の貴様なら私に有無を言わせず、殺しに掛かるだろう。だが、何故だ?このような会話で無為に時を過ごすなど、貴様らしくない。」
コートの下から覗く、ネロの泥のような黒い身体が脈打ち、人としての輪郭が分からなくなるほど膨れ上がる。
まるで沸騰。蒸気が逃げ場を求めて彼の体内で暴れている、そんな感じだ。
「出でよ。我が同胞」
ネロの厳かな声とともに、どす黒い泥が体中から噴出する。
泥は、ネロの身体を離れ、地面に落ちると、次々と形を変えていく。
「まっ、マジかよ」
性質の悪い悪夢を見ているのだと、文也は本気で考えたくなった。
彼の前には、軽く百を超える獣の群れが、その倍の数の眼を向け、喉を鳴らしている。
犬、ワニ、鹿、大蛇、虎、豹、サイ、ゴリラ・・・カラスや鷹、蝙蝠のような飛行生物もいる。中には、何の冗談か、モアやドードー、ブルーバックといった既に絶滅してしまった生物までいる。
それらの全てが文也を胃袋に収めようと身構えている。
「動物園開いたら大儲けだな、混沌・・・骨も残さず食っちまう気かい?」
「心配せずとも良い。こやつ等は貴様の四肢を食らうためだけに用意したに過ぎん。」
殺しはしないが、達磨にすると言いたいらしい。
四肢を失い、動くことも出来ない状態にされ、そこからあの黒い混沌に飲み込まれる・・・その様は胃の消化に似ているのだろうか・・・?
どう考えても、一思いに殺してくれた方がマシだ。
「このサディストが・・・」
不快感を禁じえない。
「行くぞ、赤い刃」
お喋りは終わりだと言うようにネロは獣たちに命令を下そうとする。
「待ってくれよ。俺的には折角、ネロ様という、一生のうちにまず会えないお方とお話できる光栄に巡り合ってんだぜ。せめてもう少し喋らせてくれよ。」
「笑止、臆したか、赤い刃」
―――臆してるよ・・・
冗談ではない。
不利な条件が揃いすぎている。
人と死徒との身体能力の差。
多勢に無勢。
何もない平坦な地形。
更には、彼の後ろにあるビルにはまだ志貴達という守るべき存在がいる。
シチュエーションは絶望的。
逃げろ。
逃げろ。
生物としての生存本能が肉体に響く。
殺す。
殺す。
同時に、湧き上がる死神の性。
勝ち目のない戦いへの恐怖と、眼の前の化物を殺せる歓喜の壮絶な拮抗。
逃げろ、逃げろ、殺す、殺す、逃げろ、逃げろ、殺す、殺す、逃げろ、殺す、逃げろ、殺す、逃げろ、殺す、逃げろ、殺す、逃げろ、殺す逃げろ殺す―――!!
葛藤は刹那。
だが、彼にとっては途方も無く長い時間。
その先で目覚めたものは、
恐怖でも・・・
殺戮衝動でもない。
「ネロ・カオス・・・」
文也は、守るために戦うことを選んだ。
志貴を、翡翠を、有彦を、一子を守る。
―――それができるのなら・・・!!
殺戮者でも構わない!!
その瞬間、東条文也は東条文也ではなくなった。
闇を纏い、両手には真紅の刃。
命を否定する絶対無比の殺戮者。
赤い刃。
「お前の命を否定してやる!」
個室の外は地獄絵図だった。
あちらこちらに散らばる人の屍は、もはや人の形をしたモノと成り果てている。
果実のように割れて、血と脳漿が飛び散った頭。
無造作に散乱し、残りの部品が分からない四肢。
出来の悪い張り紙がある。が、それは壁に叩きつけられて、厚みを失った人間だった。
床といわず、壁といわず、あらゆる場所にペンキをぶちまけた様に赤いモノがこびり付き、鼻が曲がりそうなほどの血の臭いが充満し、涙さえ出そうだ。
志貴達は吐き気を抑えながら、肉片や血を踏まないようにして歩いていた。しかし、全く踏まずに歩けるはずがなく、彼等の靴は少なからず血に濡れ、柔らかい肉を踏み潰す感触を味わわされた。
「翡翠、大丈夫?」
「はい。私のことはどうかお気になさらず・・・」
志貴としっかりと手を握り、もう片方の手はハンカチで口元を押さえ、答える翡翠。大丈夫と気丈に言ってはいるが、顔色はすっかり血の気がうせて真っ青になっていた。
「でも、まぁ・・・無理はしちゃ駄目だぞ。ちゃんと言わなきゃ・・・」
「はい・・・ですが、志貴様・・・」
「何?」
「文也さんは・・・大丈夫でしょうか・・・?」
翡翠に問われ、志貴は返答に窮した。
文也が心配なのは、志貴も同じだった。文也はこの惨劇を生み出した張本人であるという、ネロ・カオスに戦いを挑んでいるのだ。
ネロ・カオスが何者なのか、死徒と言われる吸血鬼と聞いたが、今ひとつピンとこないが、四季の件を思えばどれほど恐ろしいかだけは理解できる。
―――そんな奴に・・・あいつは・・・
あのまま文也を一人で行かせても良かったとは思っていない。寧ろ、後悔の念さえ今はある。
―――だけど・・・
文也は言った。
『お前に何かあったら翡翠さんはどうなる?』
その言葉が呪縛のように志貴を縛り付ける。
もし、文也の言うことを聞かず、自分も戦いに出れば、ただではすまないだろう。
直感は直感でも、七夜の直感だ。間違いない。
そして、その通りになってしまったら・・・
久我峰や軋間といった遠野縁の一族は志貴が弱ったのを幸いに、感応者という貴重な能力を持つ翡翠を奪いに掛かる可能性は充分にある。
―――そうなってしまえば・・・
待ち受ける未来は生々しく想像できる。
人形を演じ続けた哀れな少女の姿。
琥珀の姿。
『琥珀さんがもう一人できるんじゃないのか?』
絶対にしてはいけないことだ。
志貴は翡翠を必要としている。
感応者としてではなく、一人の男として。
翡翠自身も志貴を必要としている。
言うならばコインの表裏。どちらかが欠けても存在できない。
だから、もう二度と危険に身を晒してはいけないのだ。
「大丈夫だ。俺達が逃げればあいつだって逃げられる。だから早くこの場を離れれば・・・」
「けどよ。お前はそれで納得してねえってツラしてるぞ」
有彦が話しかけてきた。
胸の内を貫かれ、志貴は口ごもる。
「あたしも有彦に同感だね。あんた、後悔してるだろ?」
「それは・・・」
確かにその通りだ。
文也が心配だ。今すぐにでもアイツを止めに行きたい。
だが・・・
だが・・・
「良いんだ・・・」
志貴は震える声で言った。
「けどよ〜」
「うるさい!行くぞ!!」
声を荒げる。有彦でさえも一瞬気圧されてしまった。
「行くぞ!翡翠!」
「あっ、待ってください志貴様!」
翡翠の手を取り、引きずるように歩いていく。
迷いを振り切るように、歩調は妙に早足だ。
「志貴様!痛いです!手を離してください!」
翡翠の懇願も、聞えていない。
行きたいという思い。
行ってはいけないという思い。
葛藤は治まらない。
治まるどころか、もっと激しくなっている。
どうすれば良いのか。
分からないまま、志貴は非常口のドアを開いた。
すごく久しぶり。テストが終わったかと思ったら冬休み明けにはまたテスト。しかもかなりヤバイ奴。最近勉強と小説で結構辛い。ついでに言うと、今回の話は微妙に予定より短い気がする・・・
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