時は夜。
昨日の大雪を降らせた厚い雲が空を覆い、月は見えない。
各階に幾つかの店舗を持った小さなビルがある。
そのビルの前には小さな駐車場がある。
ただの駐車場なのだから、別段不思議な場所ではない。
普通車が五、六台も止まれば一杯になるであろう、小さな空間だ。偶然、今は一台も止まってはいないとはいえ、広さは感じない。
一見しただけでは、ただの狭い駐車場にしか見えないだろう。あちらこちらに雪に紛れて灰が積もっているが、気をつけてみなければ誰も気づかない。
だが、試しに一歩足を踏み入れてみると良い。
すぐに、空気が違うことに気づくだろう。きっと、息苦しくなるに違いない。
次に、恐怖を感じるだろう。自分の死を予感してしまうから。
そして、ニ歩目を踏み出せなくなるはずだ。
原因は、そこにある、二つの人影。
ありえないことだった。たった二人いるだけで、そこは、人の世界ではなくなっているのだ。
二人。
命を否定する、『赤い刃』東条文也。
死徒二十七祖の十、『混沌』ネロ・カオス。
彼らは人ならざる者達だ。それ故に、こうやって相対すれば、否応なく世界を書き換えてしまう。
疾る。
疾る。
無数に疾る、赤い軌跡。
東条文也が刃を振るうたびに、黒い獣達は灰となって崩れ落ちる。
獣達は、正面から、横から、背後から、上空からも襲い掛かってくるが、その牙や爪が彼を引き裂き、食いちぎる前に、刃に切り伏せられる。
集中。
ただ、ひたすらに集中する。
獣達は全て、殺意を持って近づいてくる。
殺意――『死の気配』。文也はそれを敏感に察知し、次の行動を選び出す。
相手は人間よりも遥かに身体能力で勝る獣。たった一つのミスが死に繋がってしまう。
極限まで鋭さを増す、文也の感覚。
まさに、この時の彼は、完全なる、抜き身の『赤い刃』となっていた。
「はあっ!!」
目前まで迫ってきた大犬を、横薙ぎの一閃で喉を掻っ捌く。
大鷲が急降下してくるが、その勢いを殺さず、身体を回転させ、円運動を利用して、再度横一文字の斬撃を見舞い、灰に変える。
文也は瞬きの瞬間に、二匹の獣を殺してのけた。傍目にはいきなり獣が灰に変わったようにしか見えない。そんな動き。
「やはりな。我が混沌より生まれし、獣達を屠る主の力、我が同胞となるにふさわしい」
既に何体か倒されていながらも、ネロは慌てた様子は無い。文也から距離を置いたまま、余裕の観戦を決め込んでいる。
対する、文也は満身創痍だった。『死の気配』で先読みが出来るからといって、全ての攻撃が防げるわけではない。
幾ら、七夜と互角に戦う彼でも、無傷でいられるはずがないのだ。
加えて、疲労もある。反射神経も、技の切れも、最初に比べて随分と落ちていた。
どう考えてもこのままではマズイ。
しかし、今の彼は『文也』ではなく、『赤い刃』だ。
『赤い刃』は、命を否定する刃。故に、目の前の敵を殺しきるまで、戦い続けるだけの機械。
故に、劣勢を理由に逃げたりはしない。
「出でよ」
再度、ネロの身体のあちこちが膨れ上がり、無数の獣が姿を現した。
今度はただ、突っ込むのではなく、散開し、文也を中心として円を描くように取り囲む。
「さぁ……『赤い刃』よ。この四面楚歌、切り抜けてみるがいい」
咆哮を上げ、襲い掛かる獣達。
ネロの言う通り、この状態はまさに四面楚歌だ。前後左右から攻撃を受けるので、一方の敵と戦っている隙に、残り三方からの敵の餌食となってしまう。
袋の鼠を地で行く文也にとって、ここで取るべき道は戦うことではない。
ならば。手段はただ一つ!!
文也は、突如、迫り来る獣達に向かって走り出した。
ネロのいる方向ではない。彼が目指しているのは、このビルの隣にある駐車場。今いる駐車場よりもいくらか広く、ネロの獣は一匹もいない。しかも、上手くいけば、未だビルの中にいるであろう、志貴達を逃がせるだけでなく、彼自身が逃げる糸口になるかもしれない!
だが、彼の眼の前には、通常の三倍程の大きさを持つ、ライオンが近づいて来ている。
その姿は、まるで、ギリシアの英雄、ヘラクレスに与えられた十二の試練に登場するネミアンライオンを彷彿とさせた。
いくら『赤い刃』でも、瞬時に倒せる敵とは言い難い。まして、正面から戦うなど、馬鹿げている。
ライオンとの距離が縮まる。
獲物を食らわんと、大口を開ける。
その瞬間、文也は地を蹴った。
跳躍。
速度、タイミング、彼にとって、どこを取っても完璧なジャンプ。が、ライオンを飛び越えるには至らない。
そんなことは端から分かっている。分かっているからこそ、文也はもう一つの方法に出た。
それは、足場を使っての二段ジャンプ。そして、その足場は、こともあろうか、ライオンの頭!!
突進してくるライオンの頭の上に飛び乗ろうという無謀も、文也にとっては不可能ではないのだ。
文也の足が、狙い通り、ライオンの頭に触れる。
この時、文也からは見えなかったが、ネロは笑っていた。勝利を確信したからだ。
ネロはこの時を待っていた。
文也が、『命を否定する』刃以外で、獣たちに触れる時を!!
「!」
文也はまさに、空中に身を投げようとしていた。が。寸でのところでそれが止められた。
見ると、ライオンの頭が、黒いタール状に溶け、文也の右足首を飲み込んでいた。
逃れようとする前に、頭どころか、全身を黒い泥に変えたライオンは、頭を残して文也の身体を拘束した。
文也は脱出を試み、何度ももがくが、動かせるのは頭だけで、まるでなくなってしまったかのように、身体は彼の意思を受け付けない。感覚さえも失われている。
「くくく……ぬかったな、『赤い刃』よ。それは、真祖さえも捕縛する創世の土だ」
文也がネロ・カオスを引き付けているおかげだろう。俺達は個室を出てから一度として、ネロとかいう奴の使い魔に出会うことなく、無事に非常階段からビルの外にたどり着いた。
後は、ただ走れば良い。走って逃げてしまえば、もう危険は無いはずだ。
――だって言うのに……
まだ躊躇っていた。
もう決めたことだった。翡翠のために、いや、本当は、訳の分からない化物と係わり合いになりたくないがために、逃げることを選んだ。
間違った選択だとは思わない。文也と一緒に戦うなら、『眼』――直死の魔眼が絶対に必要になる。しかし、直死の魔眼は強力な武器であると同時に、身体への負担も大きい。言うならば、諸刃の剣。使うには、あまりにもリスクが大きい。
そして、もし、直死の魔眼によって、あるいは、ネロと戦って何かあったら……
文也の言う通り、遠野の分家が黙ってはいまい。これ幸いと、感応者という、貴重な能力を狙ってくるだろう。
そうなれば、翡翠の行く末など、容易に想像できる。
『琥珀さんがもう一人できるんじゃないのか?』
文也の台詞が胸に突き刺さる。それが、現実のものとなってしまう。
だから、戦うべきではない。文也も戦うなと言ってくれたのだ。迷うことはない。
だが、どうしても、俺はそこから走り出せなかった。
「遠野……」
俺の葛藤を察し、口を開く有彦。コイツにしてみれば、あまりにも奇怪な事態で、人間としての常識がすっかり麻痺しているはずだが、それでも、付き合いの長い悪友の心情は看破できたようだ。
「お前……ひょっとして……」
「五月蝿い!!」
「遠野ぉ!」
「五月蝿い! 五月蝿い! 五月蝿い!」
その先を聞きたくなかった。
有彦は、こう問いたかったのだろう。『文也を助けに行きたいんじゃないか?』と。
確かにその通り。それは間違いなく、志貴の本心だ。一緒に戦えるだけの力はあるし、何より、予感があった。
文也は殺される。それは、確信よりも理解に近い。
僅か二日の付き合いだが、文也に対して強い友情と親近感を抱いている。
文也を死なせたくはない。
今でも、その思いは変わらない。変わらないのだが……
翡翠を悲しませたくない。守りたい。
これもまた、志貴の本心だ。
俺は翡翠を愛している。
幼い頃から好きだった翡翠。
ずっと待っていてくれた翡翠。
いつも支えてくれている翡翠。
いまやなくてはならない存在である翡翠を守ることは琥珀への手向けであり、愛する者としての務めでもある。
文也、
翡翠、
どちらも大切で、どちらも失いたくない。
結局のところ、俺は決断出来ずにいるのだ。
『文也を助けたい』と思う。
『翡翠を守りたい』と思う。
この二つの感情が拮抗し、頭を悩ませる。
時間が経てば経つほど事態は悪化していくのに。
――どうしてこんなことになったんだ……
などと、頭を抱えて無意味なことを考えている。
何て、無様。
「志貴様」
凛とした、声がした。
見ると、
真っ直ぐに、
見上げている。
「志貴様。失礼ながらお願いがあります」
いかにもメイドらしい、へりくだった言い方で、『お願い』を口にする翡翠。
まさか……
君が……
そんなことを言うなんて……
「文也さんを助けてください」
文也を助けてください――戦ってください。
ありえない『お願い』だった。
翡翠は、俺以上に俺の身体を心配してくれている。時折、過剰とも取れるほどに。
そして、俺に何かあったら翡翠自身も大変なことになることになるのを、分かっていないはずがない。
その君が、なぜ……?
「どうして……?」
それだけしか言えなかった。
「文也さんは志貴様にとって大切な方だと思います。それは、志貴様のメイドである、私にとっても同じことです。ですが、私には戦う力がありません。それ故に、こうしてお願いをしている次第です」
そうだ。俺なら文也を助けられるかもしれない。
しかし、
『琥珀さんがもう一人出来るんじゃないのか?』
呪詛、
呪詛が響いてくる。
戦うな、戦うな、と。
直死の魔眼は危険だ。使えば、ただではすまないかもしれない。無論、何事もなく済む可能性もあるが、そんな不確かな賭けに出たくはない。
だから怖い。
自分が傷つくのは怖いし、それに輪をかけて、翡翠を傷つけてしまうのが怖い。
「勿論、志貴様のお体の事情は心得ております……その、ですので……私が然るべき処置を行えば……その、眼を使っても、短時間ならお体に負担が掛からなくなります」
翡翠の声は徐々に弱々しくなっていき、顔も真っ赤になり、俯いてしまう。
ようやく、愚鈍、絶倫、朴念仁の俺にも翡翠の言いたいことが分かった。
「分かった。よろしく頼む」
「はい……」
目を閉じる。
同時に、俺の唇に恐る恐る、重なる翡翠の唇。
わー! 何やってんだお前ら!? と、乾姉弟が叫んでいるが気にするものか。
熱い吐息。
柔らかい感触。
もう何度となく繰り返してきた行為なのに、心臓が高鳴り、興奮する。
翡翠の身体を抱きしめ、自分から唇を求める。
「んく――!」
ビクンと、身じろぎする翡翠を無視し、貪るように唇を吸い、口内に舌を侵入される。
翡翠が少しだけ抵抗するが、両腕でガッチリと拘束され、それも叶わない。
動けない女の子に乱暴な、殆ど強姦に近いキス。
その背徳感が、更に俺の欲望を熱くさせた。
いや、熱いのは身体も同じだ。
熱い。
翡翠と繋がっている唇を介して、俺の身体は瞬く間に熱を帯びていく。
『感応能力』彼女の力が俺の中へ流れ込んでいく。
「ぷは……」
しばらくして、俺はようやく彼女を解放した。
「翡翠、大丈夫か?」
「はい……その、少し疲れましたが……」
答える声は蚊の鳴く声のよう。
俺に力を与えすぎたせいだろう。腕の中の翡翠はすっかり青ざめてしまい、目も空ろだ。もはや自分の力で立つことも出来ないのか、彼女の重さが伝わってくる。
反対に、俺はこれ以上ないくらい壮快だった。
眼鏡を外す。
驚いたことに、眼鏡を外すたびにある頭痛が全くない。
加えて、身体も軽い。今なら、それこそ、風のように走ることが出来る。
「志貴様……文也さんを……」
「分かってる。有難う翡翠」
微かに乱れた髪をすいてやると、一子さんに向き直る。
「一子さん。翡翠をお願いします」
「任せな。あんたが戻ってくるまであたしが面倒見てやるよ」
一子さんはいつもどおりに戻っていた。突拍子のない展開が立て続けに起こったせいで慣れてしまったのかもしれない。うん、この人ならありそう。
「おい、遠野!」
有彦。こちらも普段の口調。
「何が起きてんのか知らねえが、ちゃんと帰って来いよ。俺も翡翠ちゃんのことが気に入ってんだ。悲しませたらただじゃおかねえぞ」
「意外だな。お前なら『帰ってこなくてもいいぞ。お前が死んだら翡翠ちゃんがゲットできるぜ』とか言うと思ったよ」
「酷いな遠野。俺はそこまで外道じゃない」
「外道だろ?」
「違うって」
この悪友と交わしてきた軽口。コイツとの関係は生涯変わらないだろう。
「じゃ、行ってくる」
「おう、行ってこい!」
三人に背を向け、俺は仲間のもとへと走っていった。
後書き
三ヶ月ぶり!!! いや〜ペンが進まんで苦労、苦労。やっとれんわ〜この話が一番苦労したで〜正味な話。もっと、早く上げななぁ〜