「とんでもないことになりましたね」
そう呟いたのは、スーツに身を包んだ肥満体の男。久我峰斗波。
久我峰は遠野家の分家で、異端としての血は薄いものの、と尾のグループの三分の一を掌握する力を持っている。
その家の長男であり、会社を幾つも動かす立場にいる彼は、温和な顔立ちに反し、少々のことでは動じない胆力の持ち主だ。
にも拘らず、この時の彼は青ざめた顔でがたがたと何かに怯えていた。
「まったくだ。あのような例はなかった。それゆえにわしも失念しておったわ」
久我峰の独白に応じた初老の男の名は時南宗玄。異端に造詣が深い闇医者で、遠野家のお抱え医者をしている。服装は着物で、鋭い目付きからは異様な凄みがあり、医者とは思えない。
無論、闇医者などという仕事柄、久我峰と同様に、以上には慣れている。そんな彼も、頬を伝う冷や汗を止めることはできなかった。
「確かにそうですね。今回のようなケースはレア中のレアです。しかも、今まで全く尻尾をつかませないほどの狡猾ぶり。予想以上にデンジャーな事態です」
三人目の声の主は、まだあどけなさの残る青年だ。
金髪、蒼眼の西欧人の容貌。すらりとした長身に、蒼を基調としたロングコートを羽織っている。天井のシャンデリアの光を受け、首に下げた銀色のチョーカーがキラリと光った。
「早急に事を終わらせる必要があります。その『吸血種』の狙いは分かりますか?」
「うむ。まず間違いなくあそこを狙うであろうな」
青年の問いに応える時南。
「七夜の末裔が住む、遠野の屋敷だ」
「ふ〜〜〜、治療完了〜〜」
文也の治療を終え、シエルは額に薄らと浮かんだ汗を手の甲で拭った。
ネロ・カオスとの戦いの後、気を失った文也をシエルが、『感応』で疲れきった翡翠を志貴がそれぞれ背負い、屋敷まで戻って来た。
志貴のほうは、体力の消耗はあるが、身体にダメージはないようだったので、翡翠の看病を任せ、自分は文也の手当てを始めた。
文也の傷は重傷だったが、致命傷に至るものはなかったので、治癒の魔術をかけておいた。元々シエルは多くの魔術回路を持っているので、効果は高い。加えて、文也自身も人間離れした生命力を持っているのだ。二、三日もすれば跡も残さず完治してしまうだろう。
とりあえず、文也は大丈夫だと結論付け、シエルは部屋を出た。
志貴がいる部屋に向かおうとするが、その足は少し重い。
何となく、このまま彼に会わずに帰ってしまいたい。
「は―――。私も未練がましいですね」
自嘲気味に呟いた。
屋敷に着くまでの間、シエルは志貴に自分の秘密を話した。
自分は吸血鬼を狩るためにこの町に来たこと。学校にはその吸血鬼を探す目的で潜り込んだこと。話がややこしくなるので、自分が先代ロアであったことや、埋葬機関のことは話さなかったが、それら以外は全て話した。
志貴は、最初は驚いたようだったが、今一つピンと来ないところや、『異端者』に慣れているせいもあり、あっさりとシエルの正体を受け入れてくれた。
それはそれで嬉しいのだが、彼のその時の台詞は、酷く残酷に、耳に響いた。
『先輩が何であれ、俺の大切な先輩には変わりないから』
彼らしいといえば、彼らしいのだが、何て愚鈍な一言だろう。
期間が短かったとはいえ、彼は自分の想いに全く気づいていなかったのだ。
それどころか、『先輩』以上の存在として見ようともしなかった。
全く、遠野志貴という人間は本当に酷い人間だ。彼に恋するシエルにとって、これほど残酷なことは無い。
「……」
気がつくと、志貴と翡翠のいる部屋の前に来ていた。
恐らく、中では志貴が翡翠の世話を甲斐甲斐しく焼いていることだろう。
翡翠。志貴が選んだ女。自分ではなく、だ。
彼女を嫌っているわけではない。が、そんな光景を見るのは妬ましい。
「って、何考えているのでしょう?」
頭を振って、思考を中断させた。
分かりきっているじゃないか。既に納得したはずだ。
シエルにとって、遠野志貴は後輩で、彼にとって自分は先輩だ。
迷いを振り切るように、ノックをしようとした時だった。
ピンポーン! ピンポンピンポンピンポーン!!
けたたましいインターホンの呼び出し音が、響き渡った。
「うるさいな〜。こんな夜中に誰だよ? 翡翠が起きちゃうじゃないか」
マホガニー製の扉が開き、志貴が顔を出した。
「あっ、遠野君。お客さんみたいですよ」
「そうだね。一体どこの誰何だか……」
余程の急用なのか、相変わらず荒々しいコール音がうるさく耳朶を打つ。
とりあえず、放っておくわけにもいかないので、志貴は玄関まで下りていった。
「はいはいーーー。今出まーす!」
投槍に言って、志貴は扉を開けた。
「?」
そこにいたのは、時南と久我峰、そして見知らぬ西洋人の青年だった。
あまりにも珍しい取り合わせに、志貴は一瞬、面食らってしまう。
「志貴君……重要な話があります……」
久我峰が口を開いた。顔は血の気が失せ、いつもなら口元に浮かぶはずのいやらしい笑みがない。
「何ですか……それ……?」
志貴地震も、知らぬ間に口調が上擦っているのに気づいた。これから久我峰が話そうとしていることが、どれほど重大か、直感的に感じ取っていた。
「あぁ……!」
突然、西洋人の青年が声を上げた。眼と口を最大限に広げて、志貴の後ろを見つめている。
振り返ると、シエルと、先程のインターホンの音で目を覚ましたらしい翡翠が、生真面目にメイド服に着替えて階段を下りようとしていた。
「あっ!」
少年の声を聞き、その姿を認めたシエルは、青年と同じように吃驚して大声を出した。
「弓!?」
「槍!?」
二人の声が重なる。
「えっ……二人とも、知り合い……?」
呆気に取られた志貴は、それだけしか言えなかった。
「始めまして、僕はフィリップ・C・クロフォード。シエルの同僚だ。言い難ければフィルとでも呼んでくれ」
場を玄関から応接間に移し、青年――フィルは、簡単に自己紹介をした。
「意外ですね。まさかあなたが遠野と一緒にいるなんて……」
埋葬機関はカトリックで、異端を敵とみなす傾向がある。シエルの疑問はもっともだ。
「確かにね……もともとは独断でこの町に来た気味を連れ帰るように言われてたんだけど、性質の悪いのが現れたと聞いてね。クガミネ達と協力体制をとったのさ」
「協力って、まだこの町に吸血鬼がいるってことか!?」
ソファーに座っていた志貴が身を乗り出した。後ろに控えていた翡翠もサッと血の気が引く。
「待ってください、フィル。もうここには『真祖の姫』も、『アカシャの蛇』も、『混沌』だっていません。まだ死徒が残っているというのですか?」
「厳密には、死徒ではなく、吸血種じゃ」
シエルの問いに答えたのは時南だった。
「『弓』の嬢ちゃんも、『槍』の坊ちゃんも同じ埋葬機関だから知っているんじゃないか? 遠野の家系は強力な吸血種であることを」
「えぇ、それは勿論」
遠野は実を言うと、その強力な血の力から、海外にまでその名が知れ渡っている。だから、ロアが転生先に選んだのだ。
「それ故に、時折、異端中の異端が生まれることもある」
「じじい……勿体つけずに教えてくれ。その吸血種ってのはどこのどいつだ?」
尋ねながら、志貴の胸中で警鐘が鳴った。
聞くな。聞くな。聞くな。
しかし、どうしても知らなければならないという、ある種の義務感も湧いていた。
「教えろよ……」
絞り出すように、声を出し、先を促した。
「分かった……」
頷く時南。
「生きとったんじゃよ……」
ドクンと、心臓が跳ねた。
「誰がだよ……?」
「お前にとって、あまり良い思い出のない男だ……」
そう前置きして、時南がその名を口にしたとき、
志貴は、
翡翠は、
まさかその名をもう一度、この屋敷で耳にするとは思わなかった。
二人の間では、その名を出さないことは、暗黙の了解でさえあった。
「遠野槇久……奴が、生きて、お前達を狙っている……」
後書き
前回のネロ戦で『赤い刃』は終わったと思った皆様。嫌でも何でもまだ続きます。いやああああ〜しかし、槇久を出すことになろうとは、設定段階じゃ、槇久のまの字も出なかったのに……
『槍』も登場。請う御期待!!