彼は眼を覚ました。
ここ数日、ねぐらに使っている廃屋から抜け出すと、既に夜の帳が落ちており、月が空を照らしていた。
今は、人の時間ではない。彼のような化物の時間だ。
大きく息を吸い込んだ。冬の冷たい空気が肺の隅々まで息渡って心地よい。
良い夜だ。彼はそう思った。
空には、一つの星も見えない。暗い、昏い、黒い夜。
そんな中、夜空を支配しているのは、満月。
その色は、赤くて、朱くて、まるで血のよう。
「良い夜だ」
今度は口に出して言ってみた。まさに、今日という日にふさわしい。
力を蓄えるために、こそこそと人間を遅い、血を啜ってきた。嘗ての自分には考えられない屈辱的な日々に、何度涙を流したのだろうか……
だが、その甲斐あって、全身に信じられないほどの力が満ちている。この力なら、誰にも負ける気がしない。
「行くぞ……」
そう言って、彼は振り返った。
闇の中、何十もの赤い点が、ギラリと光った。
「今日も駄目か……どこに潜んでんだか……」
「同感だね」
屋敷への帰り道、文也とフィルはそろって溜息をついた。
久我峰達から話を聞いてから、彼らは遠野槇久の捜索を開始した。
通常、死徒を探し出すには、死徒が作った『死者』を全て倒して燻りだすか、彼等の食事場所を見つけて、現場検証をしなければならず、いずれの場合も、無駄を覚悟で町を歩き回る必要がある。しかも、死徒が活動する夜に限定されることも多い。
こういう時も、文也の能力は役に立つ。『死の気配』を感じ取れば、食事場所も容易に見つかるし、死の象徴と言える、死徒や死者自身の存在も察することができる。昼から調査を行い、もしねぐらを見つけられれば、先制攻撃も可能だ。
この能力を使って、文也はフィルと共に、遠野槇久を探し回っていた。が、三日間、脚を棒にして探し回ったが、本命の遠野槇久のねぐらどころか、死者にさえ出会わない。食事場所なら幾つか探し当てたが、どれも微かな血痕があるだけで、大した手掛りとは言えない。今日も二人は、何の収穫も無いまま、屋敷へ戻ることを余儀なくされた。
「しかし、三日も探して死者の一匹も見つからないとはな。よほどかくれんぼが得意と見える……どう思う?」
最強レベルの殺人鬼、『赤い刃』である文也も、この進展の無さにげんなりとして、フィルに意見を仰いだ。
「色々と考えられるね。まず、奴は、死者を最低限……そうだね。最初に自分が噛んだ本の数名程度に抑えている。そいつらに予め、人間を完全に平らげるように命令を与えてやれば、死者が増えることもないから、その文、僕らに気づかれる心配も減る」
「待てよ。少ないなら、死者から供給される力の量も減るだろ? それじゃあ、力を蓄えるのに時間がかかる。慎重にやるにしても、効率が悪くないか」
「同感だね」
フィルも同意した。
「フミヤの言う通り、これは効率が悪すぎる。大体、クガミネの話では、トオノマキヒサは棺を破って外に出るのに随分と苦労したらしい。つまり、トオノマキヒサの力はかなり弱かったんだ。多分、人間レベルだろう。なのに、そんな行動をしていたら、何時までたっても力が戻らない……却下だね。まぁ、これは最初から殆ど期待してないよ」
「他はどうだ?」
「トオノマキヒサが自ら人を襲っている。当然、死体は一つも残らないように、骨も残さず食べてしまう。死者から力を貰うよりも、こっちの方が、力は溜まるよ」
「無理だな」
即座に否定する文也。
「今度は大胆すぎだ。そりゃ、墓から出たばっかの頃はやるだろうよ。力が足りないから仕方なく、だ。けど、死者が造れるくらいに力が溜まったら使わないわけがない。死者は、自分の身を隠したまま、力が得られる便利な道具だ。それがあるのに、危険を冒してまで自分が動く必要は無い」
「そうだね」
「そうだね……って、クイズやってるわけじゃねえんだ。これじゃ手詰まりだぜ。まさか、奴は全然違う場所で血ぃ吸ってんじゃないだろうな」
「それは無いよ。トオノマキヒサが、ナナヤであるシキを狙っている以上、この町にいることは間違いない。それに、死者だけを僕たちの知らない場所に送っていることも考えにくい。親の支配を逃れて完全に死徒となった奴ならいくら離れたって平気だけど、死者はあんまり親から離れると、性能が落ちて、親に送れる力の量もかなり減る。少しずつ領地を広げていかない限りはね。まぁ、死徒二十七祖クラスのベテランならできるかもしれないけど、死徒になって間もない奴にできるわけがない」
「結局、何もわかんねえってことかよ……」
「そう結論を急ぐものじゃないよ。さっきまでの会話から、@力を得るために、多くの死者を使っている。A死者は、@の条件を満たした上で、僕らから身を隠す術がある。Bこの町にいる。これらがハッキリしている」
「……そう考えるしかないが、納得できないな」
言って、文也は足を止めた。
「そうなると、死者は前提として、自身の存在を隠すだけの知能があるみてえじゃねえか。今日まで全く、尻尾を見せてないんだ。使者にそんなこと出来んのかよ」
「確かにね……」
フィルも足を止める。
「そもそも、死者はゾンビと言い換えても良い存在だ。親である死徒がすぐ近くで操作している以外は、そんなに複雑な行動は取れないはずなんだがね」
そのまま、右足を軸に回転し、フィルは文也と背中合わせになった。
「だよな……」
頷く、文也。
「そう……だからさ……」
スッと、眼を細め、フィルは周囲を見回した。
街灯があるとはいえ、明るいのはわずかな範囲だけで、殆どは闇に包まれている。
しかし、その闇の中、豆粒ほどの赤い点が、無数にギラギラと強力な光を放っている。
『赤い刃』である東条文也は、『死の気配』を感じ取っていた。
『槍』の名を持つフィルは、その常人離れした五感で、闇を見通していた。
浮かび上がるようにして、ヤツラは姿を現した。
男もいれば、女もいる。年よりもいれば、子供もいる。
服装も色々だ。スーツや制服、コートにジャンパー、中には和服もいる。
だが、一様に、彼らは土気色の肌をし、暗がりにも拘らず、はっきりと見えた、赤い瞳だけが生気に満ちていた。
彼らは死者。死徒に代わって血を啜り、仲間を増やすためだけに存在する呪われた肉人形。
「こういうのは、絶対、親が操ってるんだよね」
死者の数は、三十はいる。完全に取り囲まれていた。
「死者を使っているのは間違いないようだな。だが、やっぱ、さっきの条件に合うとは思えねえ」
死者に視線を向けたまま、文也は毒づいた。
「そうだね。それより、フミヤ。『死の気配』で、トオノマキヒサの居場所は分かるかい?」
「いねえ。こいつらだけだ」
槇久は、フミヤとフィルがいることに気づいていたのだろう。そして、彼等が、自分の目的の障害になると考えた。
そのために、二人を足止めさせるべく、死者を差し向けたのだとしたら……?
考えるまでもない。槇久は、屋敷に向かっている。いや、もしかしたらもう到着しているのかもしれない。
「やるぞ! フィル!」
「イエッサー!」
フミヤは右手で顔を覆った。指の間から覗く瞳が、急速に冷めていく。
フィルはいつの間にか、左手に分厚い本を持っていた。
本の名は、断罪法典。異端者を断罪するための法や刑罰を書き綴った末に、概念武装と化した、法典にして凶器。
フィルは、左の親指だけでパラパラとページを開き、右手を乗せた。まるで本に穴が開いているかのように、手首までが本の中に埋没する。
「断罪法典……」
厳かにそう呟くと、フィルは、勢い良く、沈んでいた右手を本の中から引き出した。
その彼の手に握られているのは、長さ二メートル前後の斧槍。柄から先端までが翠色。エメラルドの如く透き通っている。
左手に本を持っていながら、右腕の長さなど関係なく、斧槍は本の中から主であるフィルの前に姿を現した。
フミヤも、愛用のナイフを両手に生み出し、身構える。
死者達は、そんな彼らに臆することなく、人ならざるスピードで近づいてくる。
「お前の命を否定してやる」
『赤い刃』が駆ける。
「あいつの行き先に、茜と山査子の棘があるように……」
翠の槍が駆ける。
「失礼します。シエル様」
入るなり、翡翠は顔をしかめた。
遠野家厨房は、カレー臭で満ちていた。
久我峰から、遠野槇久の話を聞いて以来、シエルとフィルも、屋敷に泊り込んでいた。
そして、食事係はシエル。メイドの翡翠としては、客に炊事を任せるわけにはいかないのだが、まともな料理が作れない彼女には、そう主張することが出来ない。
結果が、三日間、三食カレーである。姉の琥珀は、カレーを料理と認めていなかったし、志貴と二人きりになってからも時々食べるようになった程度だったので、最初のうちは気にしなかった。だが……三日間、三食連続は流石に辛くなってきた。
「あら、翡翠さん」
エプロン姿のシエルが振り向いた。彼女の後ろにあるまな板の上には、小さな烏賊の破片がある。どうやら今日はシーフードカレーのようだ。
「申し訳ございません。お客様に炊事をさせてしまって」
「あははは。翡翠さん、それ毎回言ってますね。良いんですよ。私が好きでやってることですから。後は煮込むだけですし、少し話をしませんか?」
「はい……」
首肯したが、翡翠は無口で会話が苦手だ。まして、シエルとの接点の皆無に等しい。雑談をしようにも、何を話していいのか分からない。それは、シエルにとっても同じはずだ。二人の共通の話題になることなんて、精々志貴のことだけだ。それにしたって、何を話せばいいのか?
「ちょっと、翡翠さんに聞きたいことがあったんですよ」
「はい、何でしょうか?」
本音は話がしたいのではなく、質問がしたかったらしい。それなら、答えるだけなので、まだ楽だ。
まぁ、大したことじゃないんですが……と、前置きして、
「どうして、遠野君を、何時までも志貴様って、呼んでいるのですか?」
と、尋ねてきた。
「えっ……」
シエルは、相変わらず微笑んでいる。しかし、翡翠はえもいわれぬ威圧感を感じていた。
「あなたは、遠野君と身も心も一線を越えた関係。もう、主人とメイドの関係ではない。違いますか?」
「そっ、それは……」
翡翠が返答に窮していると、シエルは更に追い討ちをかける。
「遠野君も言ってましたよ。『どうして翡翠は何時までも様付けするのかな……?』って。あなたと遠野君は、恋人同士なんです。何を遠慮する必要があるんですか?」
「そ、それは……」
翡翠の声が細くなる。蛇に睨まれた蛙のように、翡翠は縮こまった。
シエルはやはり、笑っている。だが、その笑顔は氷の仮面のように冷たく無機質。なぜ、こんな質問をしてきたのか、なぜ、彼女はこんな顔をしているのか、得体の知れない恐怖を覚えた。
「まあっ、翡翠さんも長い間、メイドをやっていたのですから、すぐに呼び方を変えられないだけかもしれません……ですが……」
シエルは足を踏み出し、立ち尽くす翡翠と、鼻の先が触れ合いそうなくらいに近づいた。
「私には、あなたが遠野君との間に距離を取ろうとしているようにしか見えないんですよ」
心臓に、ナイフが刺さったかのような痛みが走った。
「し、失礼します!!」
耐え切れなくなって、翡翠は厨房を飛び出した。
「うわっ!?」
入ってきた志貴とぶつかるが、構わず走り去った。
「……いてて……翡翠の奴、一体どうしたんだよ?」
何も分からず、首を傾げる志貴。
「あ〜〜それはすみませんでした」
シエルは苦笑した。そこには先ほどまでの冷たさは微塵もない。
「遊び半分で、怖い話をしたら怖がらせすぎちゃったみたいです」
シエルの台詞が耳に残る。
『あなたが遠野君との間に距離を取ろうとしているようにしか見えないんですよ』
その通りかもしれない。
自分は志貴を愛していて、志貴も自分を愛してくれている。身体だって、何度か重ねている。
誰がどう見たって、恋人同士だ。それに、数年も経てば、妻として迎えてくれるだろう。
だというのに、なぜ、メイドとして振舞い続けるのだろうか?
長年の癖が抜けない。多分そうだ。
メイドとしての仕事にプライドがある。これも間違いない。
でも、本当の理由は、きっと、違う。
自分は、どうしようもなく汚れているからだ。
泥よりも黒くて、血よりも落ちにくくて、排泄物よりも臭い。
そんな罪に汚れているからだ。彼の側にいて良い存在ではない。
なのに、志貴といることの居心地のよさに、彼の身体を言い訳にして、離れようとはしない浅ましい女。
だから、せめてメイドと自分を位置づけることで、心の中で距離を取ろうとしているのだ。
なんて……
なんて、下賎な女。
「は――」
いつのまにか、屋敷の端まで来ていたらしい。部屋の殆どが閉鎖されている場所のため、照明は点いておらず、暗闇が広がっている。
何だか、この闇は自分の陰鬱な気分を象徴しているような気がして、余計、気が滅入った。
戻ろう。あんな話の後だから、シエルとは気まずいだろうが、先ほど志貴にぶつかってしまった。謝らねばならない。
いつもの無表情を取り繕い、踵を返そうとして、
彼女は見た。
闇。
闇の中、
あの男がいた。
闇とは、視認できない領域をさす。にも拘らず、明かりもないのに、その姿がはっきりと見える。
黒いロングコートを羽織ったその男は、最後に見た姿と変わらないが、目だけが恐ろしく赤い。
「久しぶりだな。翡翠」
男が笑った。歪んだ口元から、異様に長い犬歯が覗く。
遠野槇久がそこにいた。
後書き
一月、一月以上も更新が滞ってしまった!!! 最悪だ。最悪だ!