松尾芭蕉の「古池や蛙とびこむ水の音」という俳句を知ったのは、小学生の頃だっただろうか。教科書か、あるいは何かの本をコピーしたプリントで、イラスト付きで解説されているものを見て知ったと記憶している。その解説イラストには、池に蛙が飛び込んでいる姿が描かれていた。それ故、私はその後十数年、この句が蛙を描いている句だと思い続けた。

  しかし、冷静によく見てみると、この句には「古池がある」ということと、「蛙が飛び込む水の音がした」ということしか描かれていないということが解る。描かれているのは蛙の飛び込む「音」であって、「姿」ではない。もしかしたら、そこには蛙などいないという可能性も十分あり得る。

  そもそも、この句はどのような状況で作られたのだろうか。「古池」をずっと眺めていて、蛙が飛び込む様子を見て作ったとは考えにくい。蛙の姿を見たのなら、その姿を句に描きそうなものだ。古池の方で何か水音がして、それを聞いて、その様子を俳句にしようとした。その音の正体が何であるかは解らないが、『「蛙が飛び込んだ音」にしておくと、俳句的に面白いのではないか』と思って作られたと考える方が自然である。

  よって、この句の解釈は、「古池の方で、蛙が飛び込んだ音だと思いたくなるような水音がした」とか、「水音がした。近くにある古池が、蛙が飛び込む様子を連想させる」といったものであるべきだ。「蛙が飛び込んだ」ということを「決定的事実」としてこの句の解釈に盛り込んではならないのだ。

  自分のイメージの中から蛙の姿を消してこの句を読めば、そこには無限の宇宙が広がる。水音の正体は、魚が跳ねた音だという可能性もあり得るし、誰かが古池に石を投げ込んだ音だという可能性もあり得るし、古池のそばに便所があって、そこで用を足してる音が古池の水音に聞こえたという可能性もあり得る。

  私はこの句を知った当初、何が面白いのかサッパリ解らなかったが、イメージから蛙の姿を抹消した途端、この句が面白く見えてきた。それと同時にその頃、俳句というものが面白く見えてきた。


2005.1.5記


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