diary
● 2019    ● 2018
● 2017    ● 2016
● 2015    ● 2014
● 2013    ● 2012
● 2011    ● 2010
● 2009    ● 2008
● 2007    ● 2006
● 2005    ● 2004
 

【徒然日記  2019】

since. June. 2014


 このブログの更新日は毎月1日と15日に定めていたが、更新日がアッと言う間に押しせまり、さて、何を書こうかと迷うことが多くなったので、更新日を随時に、また文もほんの数行程度に減らした。

 なるべく政治向きのことには触れないよう心掛け、身近におきた話題だけにしているのは、前と変わらない。

 もともと文才など持ち合わせていないので、大方のご期待に添えるかどうか、はなはだ心許ないが、所詮は “老人のたわ言” と思し召して、暇つぶし程度にお付き合い願えれば、まことに有難い。



2019年1月25日

 歳とともに体重が減って、今は62キロ。若いころの洋服が着れると納得していたが、世の中そう甘くはない。先日、背広を着る機会があって着てみた。

 ところが圧迫骨折のせいもあるが、背中が大分曲がって横幅だけでなく立て寸法もかなり縮んでいる。こうなると健康体操どころではなくなって、体型維持に努めなくてはならない。

 この歳でちょっと気付くには遅い気もするが、背中をピンと伸ばす運動から始めてみた。成果のほどは分からないが。まあ、徐々にやってみるか。

 大相撲初場所の12日目は、横綱白鵬が玉鷲に不覚。11日目に初黒星を喫した横綱白鵬が、過去13勝0敗の関脇玉鷲にも押し出しで敗れ2敗目を喫した。これで連日の黒星で2敗目となった。

 優勝争いは2敗で白鵬、玉鷲が並び、3敗で貴景勝、魁聖、遠藤の3人が追う。

2019年1月23日

 落語ファンなら古典落語演目のひとつ 「ねずみ」 を思い出すだろう。宿賃に困った名工、左甚五郎が借金のかたにネズミを彫る。このネズミが生きているかのように動き回る。その人気で宿屋に客が殺到する。

 東京湾近くの防潮扉に描かれたネズミの絵。こっちのネズミは甚五郎作とは異なり、ぴくりとも動かぬが、世間の方は 「大山鳴動」 である。何でも世界的に有名な正体不明のアーティスト、バンクシーの作品である可能性があるそうだ。

 本物なら東京都は甚五郎作を無料でいただいたことになる。あわてて扉を取り外し、大切に保管したらしい。バンクシー側は真偽を明らかにしていないが、かつてオークションで落札された自分の作品をシュレッダーで切断するなど、カネの世に背を向ける人とお見受けする。

 落書がいつ描かれたものかは不明だが、東京都は長い間、この落書きの存在を知っていた。しかし、バンクシーの作品かもしれないという可能性には、住民からの連絡で初めて気付いたという。何年間も放置されていた 「落書き」 を一転、お宝とあがめる世の中を、ネズミは冷ややかに見ているような気がする。

2019年1月17日

 横綱稀勢の里関が昨日、引退を表明した。休場明けで、もがき苦しむ姿は決して美しくはなかったが、三敗して土俵を降りるとき、引退を決意したすがすがしい顔がそこにあった。切なくも懸命なところはこの人らしい散り際を思わせた。

 周囲が寄せる期待と自身の使命感の大きさは、おそらく短命に終わった理由の一つだろう。角界の顔に怪我をした体をじっくり回復させるだけの余裕はなかったはずだ。横綱にならなければ、長く相撲を取る道もあっただろう。

 二年前の興奮が忘れられない。十九年ぶりの日本出身の横綱誕生である。正攻法の取り口もいちずさを感じさせる土俵への向き合い方も、待ち望んできた横綱の姿に思えた。

 花の盛りの美しさと散る寂しさは、いつの世も表裏一体であろう。遅咲きの鮮やかな大輪で、人を大いに楽しませ、その見事な咲き方ゆえに、散る切なさを多くの人の心にもたらした。そんな横綱ではなかったか。

2019年1月13日

 大相撲初場所は13日、東京・墨田区の両国国技館で初日を迎えた。12日は国技館で土俵祭りが行われ、三役以上の力士らが出席して15日間の安全を祈願した。昨年11月の九州場所を途中休場し、進退懸ける稀勢の里は 「いよいよですね」 と気を引き締める。

 先日、兼高(かねたか)かおるさんが他界された。九十歳。旅に生きた人の旅立ちである。かって日曜の朝、家族とともにテレビで遠い世界を見るのが楽しみだった。紀行番組 「兼高かおる世界の旅」 は、お茶の間から遠い国々を見る小さな窓でもあった。

 得意の語学力に加え、兼高さんの旺盛な好奇心と行動力。その力のおかげだろう番組に精彩をもたらした。テレビの小さな画面の向こうの異国情緒は今も思い出せる。宇宙ほども遠い世界を目指した冒険のような旅だった。

 yahooジオシテイズの引っ越しについては、東京の次男が来月帰ってきて面倒を見てくれることになった。期限が迫っているので心配だが、まあ、何とかやってくれるだらう。

2019年1月8日

 なんと、これから2ヶ月余り後の2019年3月31日に Yahoo!ジオシティーズがサービスを終了するという。無料レンタルサーバーは本当に怖い。いつサービスが止められても、利用者は何も言えない。他社サービスへ引っ越さなければ、私のホームページやブログはすべて消えてしまう。

 なぜYahoo!ジオシティーズのサービスは終了するのだろう。その理由は一言では説明できないそうだ。採算面や、今後システムを維持するためのテクノロジーに関する複数の課題などを総合的に判断した結果、これ以上の継続は難しいという判断に至ったという。

 ブログを継続するには、他社サービスへ引っ越しするより方法がない。が、その作業が難しい。少し手掛けてみたが、私の手には到底、負えそうもない。さて困った。最終的には15年前にホームページを立ち上げてくれた、東京の次男にお出ましを願うしかないか。

2019年1月7日

 2019年3月31日をもって、Yahoo!ジオシティーズのサービスが終了となる。サービス終了まで残り約2ヶ月余りとなった。他社サービスへの引っ越しを迫られているが、これがなかなか難しい。

2019年1月5日

 工事中につき暫く休みます。

2019年1月1日

 明けましておめでとうございます。

 お健やかに新春をお迎えのことと存じます。本年もどうぞよろしくお願い申しあげます。



藤根鍵市

copyright (c) 2004 Kenichi Fujine All Right Reserved.


徒然日記/2018
  diary
● 2018    ● 2010
● 2017    ● 2009
● 2016    ● 2008
● 2015    ● 2007
● 2014    ● 2006
● 2013    ● 2005
● 2012    ● 2004
● 2011    ●−−−
 

【徒然日記  2018】

since. June. 2014


 この日記の更新日を毎月1日と15日に定めているが、次の更新日がアッと言う間に押しせまり、さて何を書こうかと迷うことが多い。なるべく政治向きのことには触れないよう心掛け、身近におきた話題だけにしている。

 もともと文才など持ち合わせていないので、大方のご期待に添えるかどうか、はなはだ心許ないが、所詮は “老人のたわ言” と思し召して、暇つぶし程度にお付き合い願えれば、まことに有難い。



2018年2月1日

        


        「蝋  梅」

 今日から2月に入った。だが、いまはまだ大寒中で、一年でもっとも寒い時である。「春は名のみの風の冷たさや」 で、もうしばらく寒さが続くだろう。

 全国的には大陸から押し寄せた “大寒波” が居座って寒い2月入りとなったが、あと3日も経てば節分、立春がやってくる。

 そして、寒かった冬が終わりを告げ春が始まる。春を待ちわびていたせいか、この日を迎えれば心が少しは温まっていくだろう。

 このころになると、蝋梅がかぐわしい香りを放ち始める。早春の香りだ。ほとんどの樹木が葉を落として眠っている何も無いこの季節、一本だけ綺麗な淡黄色の花を付けているのも不思議である。

 花が無ければほかの樹木と変わらず眠っているように見えてしまう樹の枝に、いきなり、淡い黄色の花が付いているのである。黄色はひどく目立ち、とても心和ませるものがある。

 1月14日に年賀はがきの抽選会が行なわれ、当選番号が発表になった。番号をチェックしながら、年に一回、安否を確かめ合う年賀状だけのお付き合いになってしまった友人もいるが、年賀状を眺め直すのも楽しい。

 届いた約50枚の賀状を照合する。こうゆう時、「切手シート当たってるかな〜」 なんて下位から見ていくって好きじゃない。やっぱり1等から見ていかなくちゃ……。というわけで、1等→2等→3等・・・終了。あっけなかった。

 年が明けて間もなく小寒に入り、そしていちばん寒い日とされる大寒がやってきた。暦では二十四節気のひとつで、今年は一月二十日から、二月四日の立春までの約二週間がそれに当たる。

 寒さもいまが最も厳しいころで、もうしばらくはじっと春を待つ日々がつづくだろう。 「冷えるなぁ〜」 と感ずるが、それにしても芯から冷える大寒の二文字は、いまが冬のただ中と改めて思わせる。

 大相撲初場所14日目、平幕の栃ノ心が松鳳山を下し、千秋楽を待たずに初優勝。春日野部屋に46年ぶりの賜杯をもたらした。

 勝ち名乗りを受ける姿は侍だった。ジョージアから来日し12年あまり。栃ノ心が右膝の大ケガを乗り越えて初優勝。喜ぶ前に、寄り切った松鳳山にそっと手を伸ばした。

 「勝った瞬間はやった!! と思ったけど、それを抑えた。あまり涙は見せたくない。そう教えられてきた。相手に対して失礼というのもある」。相撲道から得たことを実践。見事だった。


 妹 の 死

 七歳年下の妹が、昨年の暮れに死んだ。八十五歳だった。合 掌。

 お通夜の晩、私は柩の蓋を両手でそっとずらしてみた。目のまえに妹の顔があらわれたが、安らかな表情だった。もの言わぬ遺体にいささかの恐怖も感じない。

 葬儀は暮れも押し迫った年末に、北区の葬儀会場で行なわれた。振り返えさせる余裕も与えず、死者をまっすぐ浄土へ導きやろうとするかのような、低いくぐもった読経の声が響く。

 遺族のつぎに焼香台に立ち祭壇に手を合わせる。私の知っている一番、元気なころの妹の顔が、カラー写真になって菊の花に囲まれ、祭壇の中に収まり笑いかけている。菊の香りが線香の煙にまぶされて息苦しいほどだ。

 ようやく会葬者の焼香が終わり、導師が退場する。人々は万感の思いで、花で飾りつけられた会場に残る。子や孫、数人の男の手で祭壇から棺が下ろされ、蓋が開けられる。

 一週間まえに電話で話したばかりの妹は、いま、経帷子を身につけて胸の上で手を組み、美しく化粧された顔で目を閉じていた。蝋のようになって閉じた眼は、はるかな闇のなかを浮遊しているのだろうか。

 それはやがて赴くべき浄土をじっと夢みているように思われた。取り囲んだ人々は、渡された白菊をつぎつぎに棺に入れ、白い菊が冷たく固まった肉体を埋めていく。

 いとおしむようにその顔をそっと撫でてやる。泣くまいと思ってもつい涙が頬を伝う。妹は八十五年の生涯を閉じて、いよいよダビにふされるのだ。

 血の繋がる肉親との別れは辛い。兄が妹を送るという順当でない逆縁を悲しみながら、私は妹を見送った。そして、波乱に満ちた妹の生涯を、何度も何度も心の内で繰り返し思い浮かべていた。

ページTOPへ

【ホームへ戻る】

直接このページにいらした方は、こちらにメニュー画面があります。



2018年1月15日

        


       「寒 椿」

 松の内から伊吹おろしが降りてきて、今年の名古屋は寒いお正月だった。ひとりで囲む鍋の温かさや、みかんの甘酸っぱさに、今年もつつがなくお正月が来たんだなぁ……と、静けさが沁み入る新年を過ごした。

 年始にきた息子たち一家が帰った後、一人だけというのはじつに静かである。私は冬の日ざしが差し込む部屋で、ゴロリと横になってうたた寝をしたり、TVを見たりしてゆったり過ごす。今年もこんなふうにノンビリしたお正月だった。

 正月の行事だが、私の楽しみは何と言っても 「箱根駅伝」 を見ることである。今年もまた正月二日の朝八時からテレビ観戦。

 そんな正月の過ごし方になってもう何年になるだろう。二日つづけて約十時間、ほとんどテレビの前に釘付けになる。今年の箱根駅伝は青学大が4連覇を果たした。

 箱根駅伝がなぜ面白いのか、それは箱根の山の登り降りにあると思う。海抜八百b余りの山を駆けを登り、駆け下りる駅伝は、富士山駅伝を除いて他に知らない。

 山を登る事さえ難儀に思うのに、駆け上がるのだ。そんな肉体に鍛え上げた選手に、手放しで拍手を送りたい。私なんか、今や階段を上り下りするだけで息が上がってしまう。


 正月五日に小寒が過ぎて、七日は春の七草粥である。子供たちがまだ小学校に通っていたころ、どれがセリかハコベラなのか説明できず、 「とにかくお腹にいい薬草も含まれているんだって」 と誤魔化して、食べさせたことを思い出す。

 七草粥を家庭で作ることも少なくなり、これを食べると病気にならないという言い伝えも忘れがちになった。お母さん方も 「セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロ」 と即座に言える人は、そう多くはいないようだ。

 正月の十一日は鏡開き。神様に供えた鏡餅を小さく割り、おしるこなどにして食べ、一年の健康を願う行事。もともと武家社会の行事で、具足開きと言っていた。鎧や兜に供えた鏡餅は刃物で切ると切腹のようだと嫌い、そのため餅を木槌で開くようになった。

 松の内も終わってお正月気分もすっかり抜けたが、歳を重ねたせいか年々お正月という雰囲気が感じられなくなった。それでも今日は小正月。全国各地には様々な風習が残っている。

 病気をしないようにと、いまも一般には小豆粥を食べる風習はあるが、もっとも小正月でなくとも、小豆のような豆を煮るのは、けっこう手間ひまがかかる。のんびりと小豆粥などすすってもいられないので、私は小豆粥はやらない。

 また 「どんど焼き」 と言って、神社で松飾りやシメナワ、書き初めを燃やす小正月の行事があり、正月飾りや古いお札、書き初めなどを焚く。私が子供のころは町内でやっていて、正月の風物詩として親しまれていた。

 自分の書いた書き初めも燃やす。書き初めを火に投じて、高く舞い上がると字が上手になるといわれていたが、私にはとくに効き目はなかったようだ。

 残り火にあたったり、竹の先に挟んだ鏡餅を焼いて食べれば、その一年間は健康などの言い伝えもあり、その年の無病息災を願った。こんがり焼けたところをハフハフ言って食べた思い出でがある。

 また、小正月は女正月と言って、暮れから正月にかけて何かと忙しかった女の人を、せめて一日でも家事から解放してあげようと労をねぎらう意味でこう呼ばれ、主婦がゆっくり休める日でもある。

 地域によって、いろいろな行事が行われている小正月風景も、年々変わりつつあるようだが、昔ながらの伝統行事は、いつまでも続いてほしいと思う。

 今年も静かな正月だった。人生という旅の中、正月が来るたびに心のふるさとへ抱く郷愁は懐かしい。

 それにしても北風が冷たくなったなぁ……と、思つているうちに小正月も過ぎ去ろうとしている。この季節、乾いた風がコートの衿をかすめて駆け抜ける。間もなく大寒である。


 昔 の お 正 月 (自分史より)

 大晦日から一夜明ければ、いよいよ待ちに待ったお正月である。私が子供の頃といえばまだ昭和の一桁で、その当時の日本は貧しく、庶民はあくせく働き、質素が美徳の時代だった。だから普段の暮らしで楽しいことはあまりなかった。

 そんな中で楽しかったことといえば何といってもお正月で、この歳になってもお正月を迎えるたびに、幼き日の光景を鮮やかに思い出す。

 私の少年時代はよくお正月に雪が積もり本当に寒かった。寒さが身にしみた。いくら体を動かしても両手、両足の先は凍えっ放しだった。

 耳にはかさぶたができるし、アカギレや霜焼けで手や足の指に包帯を巻いていた。でもお正月といえば、一年で飛びっきり楽しい日で、それは嬉しさと一緒になってやってきた。


 せめてお正月だけは、年の初めの目出度さを祝って、楽しく過そうという気持ちからか、大人たちも必要以上に目出度がった。そんな気持ちが子供たちにも伝わって、私たちも嬉しさがてんこ盛りのお正月だった。

 お正月は何をしても叱られない。みんな機嫌よくしていた。三ヶ日は機嫌よくしていなければならない。普段なら転んで泣く子もぐっとこらえる。正月早々、涙を流すと、その年は泣き年といって、悲しいことがあると言われた。

 だから無闇に笑う。おかしくなくっても笑った。いつもは四六時中、忙しく立ち働いている母も三ヶ日は、とりわけおっとり上品に振舞い、子供たちにも小言を言わない。のみならずいっしょになって遊んでくれるのが嬉しかった。

 子供心にお正月は何か素晴らしいことが訪れてくるようで、胸がワクワクした。どこの家でも元旦は取り敢えず休息する。年始まわりも二日か三日から始めて、松飾りがとれる七日までならよろしいという決まりだった。


 わが家でも正月三ヶ日は休養の日だった。だから、お正月が来ると時間がゆったり流れて、これが限りない喜びだった。子供のころのお正月は休む日だと単純に思っていた。

 大人たちも正月を特別な休日として尊んだのか、元旦は一日中、包丁とか箒は使わず、家事は一切しなかった。そして、生け花の習慣がない私の家でも、正月だけは松などの生け花が飾られ、お正月らしい雰囲気が漂っていた。

 お正月の行事のおもだったことは男の役目で、すべて家長の父が取り仕切った。元旦はまず若水を汲むことから始まる。寝正月とはいかなかったようで、一家の主である父は早朝に起きて長屋の共同井戸から若水を汲んだ。

 父が汲んだ若水を母が茶釜に入れて沸かす。中に小粒の梅干と大豆、それに山椒の実が少々入っていて、それを福茶と称して三ヶ日は勿論のこと、松飾りのとれる七日まで毎日飲まされた。


 わが家にも神棚と並べて恵方棚があった。父がお灯明をともし皆が揃ったところで、 「明けましておめでとうございます」 と挨拶をする。挨拶がすむと父に従い、家族全員が近くの白山神社へ初詣でに出かける。

 朝早くから鳥居をくぐってくる人々の数が徐々に増えてきて、社殿のまえでは焚き火を囲んだ参詣人が暖をとっていた。父は若いころ神官になろうとして修行していたくらいだから、信仰心があつかったようだ。

 まず、私たちを拝殿のまえに整列させると 「高天原にいづまリます、いざなぎ、いざなみのおおかみにもう申す……」 と、大声で祝詞を唱え始める。何事かと参詣に来る人がじろじろ見るので恥ずかしくて困った。

 それはそれでいいのだが、朝早くから何も食べずに神社に行くのは辛かった。白山社から帰ったあとは、早速、お雑煮をいただく。母はこざっぱりした着物に着替えた。

 私たちもきちんと身なりを整えて雑煮の膳に向かう。家族全員がいつになく取り澄まして、他人行儀になるのがどことなくこそばゆく、おかしかった。


 むかしの元旦は登校日になっていて、小学校の校庭で年賀式が行われた。紋付羽織に袴姿の町の有志や、軍服にいっぱい勲章をつけた在郷軍人など多くの人々が出席して、生徒たちとともに新しい年を寿ぐ。

 国旗掲揚のあと、君が代の斉唱、教育勅語の奉読、来賓の式辞とつづく。校長先生の教育勅語の奉読は、厳粛そのもので出席者全員が不動の姿勢で聞いた。

 だが、来賓の人たちの面白くもおかしくもない話を、寒風の下で、ながながと聞かされるのには閉口した。式の最後は全員声高らかに 「元旦の歌」 を歌った。

  ♪ 年の初めの ためしとて
     終わり無き世の めでたさを

    松竹立てて 門ごとに
     祝う今日こそ 楽しけれ ♪

 文語体の歌を、ところどころ意味不明になりながら歌った。あのころはオルガンの伴奏で、オルガンを弾く女の先生は引きずるような袴をはいていた。そして、式の帰りに紙袋入りのお菓子がもらえた。


 式から帰ってくると、まず父からお年玉をもらう。何歳までお年玉がもらえるか、決まりはないが、子供心に胸を膨らませたものだ。平素はあまり足を向けない叔父叔母のところへも顔を出して、お年玉を貰いに歩いた。

 最初に叔母の家に年始に行く。男の子が元旦の朝、一番に年賀に来ることを吉として、お年玉を弾んでくれた。年始から帰ると、そそくさと昼飯をすませ活動写真を見に出かける。お正月はこれが唯一の楽しみだった。

 町には二つの活動小屋があった。一つは大黒座といって、時折、浪曲などの実演もやっていた。私がたまに、父に連れて行ってもらったのが大黒座である。活動小屋に入ると、先ず便所の匂いがしたものだ。

 階段の下には下足番。休憩時間には、窓があけはなたれ、カーテンの透き間から青空が見えかくれしていた。二階は少し料金が高く、ゆるく傾斜した板の間にゴザが敷いてあった。小銭を出して、座布団や煙草盆を借りる人もいた。

 始まりのブザーが鳴ると、係の人が暗幕を閉じて歩く。ジーッ、ジーッという音を耳にすると、いささか緊張した。舞台の袖に弁士が登場すると、客は一斉に拍手する。そのころはもちろんモノクロの無声で、忍者映画が全盛だった。


 当時は忍者を主人公にした “児雷也” という、リバイバルものが上映されていた。目玉の松ちゃんこと尾上松之助というのが当時の大スターだった。派手な衣装と髪型の忍者姿で大蛙の背に乗り、しきりに呪文を唱えると、突然、白煙が舞い上がる。

 九字を切ってパッと消えたり、ガマや大蛇を出して観衆をやんやと沸かせていたのだが、いまだに目玉の松ちゃんの憂いに満ちた瞳が、懐かしく思い出される。

 嵐寛寿郎主演の “月形半平太” というのもあって大ヒットした。弁士はスクリーンを見ながら登場人物の声となり、男や女の声色でセリフを喋る。

「月さま、雨が……」
「春雨じゃ、濡れていこう」

 東山三十六峰しずかに眠る丑三つどき、夜の静寂を破って突如として起こる剣戟のひびきィ……。

 と、観客を自然と映画に引き込んでいく。スクリーンに字幕は出るが、弁士の解説で物語が展開していく。この名調子にのって、オーケストラボックスから生演奏のチャンバラ音楽が聞こえてくると、もう手に汗握って熱心に見入った。

 いま思えば他愛ないものだが、この時代の若者たちを魅了して大評判だった。 「おせんにキャラメル」 と言いながら、お婆さんが売りに来る。四角い岡持には、落花生やラムネも入っていた。

 スクリーンに 「完」 という字が出て、大きな拍手が起こる。と同時に、暗幕をあけるジーッ、ジーッという音が館内響きわたる。窓から差しこむ光線のまぶしさ外気の冷たさが、私たちを夢の世界から引き戻したのである。

 もちろん映画館は超満員である。映画を観て外に出ると、頭がくらくらして足がふらつく。人いきれで館内に二酸化炭素が充満し、酸欠状態におちいるせいだ。お正月はいつもそうなるのに懲りもせず出かけた。


 お正月はお年玉でかならずコマを買う。コマまわしはもっぱら男の子が幅をきかせていて、お正月中はまずそれで遊べた。コマはあのころの私たちにとって、きわめて大切な持ち物だった。鉄の輪がはまったコマが多かった。

 それをヤスリやコンクリートでコマの心棒を削って、ふらつかずに安定してまわる座りの見事さなどを競い合った。なぜかコマは、ちょっとよろけてまた立ち直る健気さがある。

 もしかしたらあの日の私たちは、頼りなげによろめき、細かく体を震わせて立ち尽くし、そして、静かに倒れるコマの行く末を確かめるために、コマをまわしていたのかも知れない。

 コマ一つで多彩な遊びがあった。私たちは何の屈託もなくコマで無邪気に遊んでいた。どうしてあんなにコマが好きだったんだろう。唸りを上げてまわるコマをぶっつけ合ったり、手や手より小さな蓋の上に乗せる技も磨いた。乗せて競走も……。

ページTOPへ

【ホームへ戻る】

直接このページにいらした方は、こちらにメニュー画面があります。



2018年1月1日

        


    明けましておめでとうございます。

 お健やかに新春をお迎えのことと存じます。皆様のご健康とご多幸を心からお祈り致します。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 今年も無事にお正月を迎えた。新しく年を迎えたといっても、大晦日と元旦との違いはそれほどなく、同じ日がずっと続いているだけなのだ。

 だが、年が変わって初日の出を拝めば、なぜか気持ちが改まる。考えてみると不思議な感じである。

 先ずはお雑煮である。お正月にお餅というのは切っても切れない縁で、個性豊かに家代々の習いを引き継ぎ、言うならば伝統を食べる。

 わが家は切り餅で、すまし汁の味付け。具は餅菜、カマボコで、鶏肉は入れたり入れなかったり。それに花カツヲをぶっ掛け、時には京風に三つ葉を散らす。そんなものでさっぱり味である。

 二つ焼き 一つ仏へ 雑煮餅

 一つは仏前に供えるが、近ごろは、

 雑煮餅 一つで足りし 歳となり

 で、餅の数も少なくなった。

 妻が亡くなって3回目の正月だが、普段は一人で寂しくても気を紛らわせて、そこそこ暮らしてるつもりなのに、お正月がくると何だか無性に人恋しくなっていけない。

 息子たち夫婦や孫たちが来てくれるのを、心待ちしている。三人目のひ孫が先月始めに生まれたが、まだ、顔を見てない。お正月には三人目のひ孫を抱けるのだろうか。

 私はこの春で九十三歳になる。ちょうど古希あたりで、あと十年ぐらいは生きそうだと思った。実際に七十代を上手にクリアして喜寿も過ぎた。

 傘寿の八十代はそれなりに安定期で米寿も過ぎ、かくしゃくと卆寿。するとまた欲が出て白寿。つぎは百歳の頂上を極める。「めでたし、めでたし」 だが、そんなに上手く事は運ばない。

 老いは今後、日々深まりいくだろう。それなりに老いを受け入れるつもりでいるが、ボケが加わると、今後、自分がどう変わるか、これがまったく分からない。

 ボケてみなけりゃ、本当のところは分からない。哀しいことだが、気を取り直し将来を想うも、これがさっぱり分からない。私はまだまだ老いのほんとうの姿を知らないのである。

 いずれにしても酉 (とり) 年を送リ、先ずは 「めでたい新年」 が明けた。老いても季節が移れば春は巡り来る。新しい年が、平穏な戌 (いぬ) 年でありますよう願ってやまない。

※ お 詫 び

 右上diary欄の徒然日記、2004年から2017年までのフアイルがリンクできません。ただいま工事中。しばらくお待ち下さい。


 初 日 の 出 (自分史より)

 2000年の初日の出を、マンションの十四階にあるわが家から初めて見た。昭和六十年にこのマンションに移り住んで十数年になるが、わが家のベランダから初日の出を拝めるなんて知らなかった。

 いままでちゃんとした初日の出を見た記憶が私にはない。初日の出というものには、どうやら縁が薄かったようだ。名古屋の初日の出は七時ということだったので、元旦の朝、私は六時半に起きた。

 町も朝もやの中で静かに元旦の朝を迎えようとしている。寒さに堪えながら太陽が昇ってくるのをベランダでじっと待つ。しばらくすると東の空が明るくなってきた。目のまえを遮るものは一切ない。

 東の空は日の出を予感するような、グレーとピンクの色合いを見せていたが、だんだんピンクが濃いオレンジに変わってきた。六時五十分になると強いルビーの光りが、紫やグレーの中からしみ出してきた。

 それが高いところの雲に反射するのか、どんどんと東の空が明るくなっていく。空の上のほうはまだ紫がかったグレーだが、すでに下のほうは濃い赤や、オレンジが波のようにたなびいている。

 太陽がちょっと顔を出すと、すぐにせり上ってきた。それまでの様々な色が色褪せて見える。真っ赤な太陽は、はっきりした輪郭の大きな火の玉のようになって、急ぎ足でぐんぐん昇っていく。

 半分ぐらい姿を見せたときには、生命力に溢れ、強いけれど優しさを含んだ、どこまでも真っ赤な太陽だった。他のものと比べようのない、言葉も出ないほどの大きさである。

 でも、決して恐ろしがらせるような気配はなく、威張っているような様子もない。昇るにつれて子供のとき画用紙に描いたような、まわりのギザギザや、光線とかがまったくない、まん丸の太陽である。

 そして、それは神々しいほどの光りを放っていた。肉眼でもしっかり見ることもできた太陽は、そのうちだんだんと赤から金色に変わって、山並みを離れたときは、もう直視できないほどの眩しさになっていた。

 いつもと変わらぬ太陽なのに、初日の出は見る人の気持ちを清々しくしてくれる。神々しい初日の出に向かって手を合わせるとき、なぜか厳かで幸せな気持ちになれる。むかしの人が 「おてんとうさま」 と、拝んだことが頷ける。

 「ちょっとでいいから、これからの二十一世紀を見て死にたい」 と言いながら、先に逝ってしまった人たちのことを、私は思い浮かべていた。偶然ではあるけれど2000年という千年に一度の、いわゆるミレニアムの年に居合わせて初日の出を拝めたことは、やはり幸せだったと思っている。





ページTOPへ

【ホームへ戻る】

直接このページにいらした方は、こちらにメニュー画面があります。