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【中年期 第二部】 |
● ぶらり一人旅 ● 嵯峨野 ● 祇園祭り ● 熱海の夜景 ● 恐山の大祭 ● 富山の魅力 ● おわら風の盆 ● はだか祭り |
| 【 ぶ ら り 一 人 旅 】 |
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そ の 一 「南 紀 の 駅」 紀伊半島を半周する紀勢本線が、昭和三十四年七月に全通して二、三年たっていたから、私がまだ三十六、七歳というところだったろうか。べつにたいした目的もなしに、連休と有給休暇を合わせ五日間の余裕をもって、和歌山の南あたりへぶらり一人旅に出かけたことがある。 国鉄という厳しい規律に縛られた職場で日々を送っていたので、そういう自由気ままな旅というものにずっと憧れていた。リュックには着替えや洗面道具のほか、時刻表などといっしょに、カメラと部厚い滝沢馬琴の南総里見八犬伝を入れた。 この南総里見八犬伝は中学のとき、漢文の先生がまるで講釈師のような名調子で朗読してくれたのが、いまだに印象に残っていたので、もう一度、じっくり読み返してみようと思っていた本である。
早くも思いつきの旅に不安がよぎった。だが、バスで小一時間ほど山あいを行ったところに、小さな温泉卿があるということを、なんとか駅員から聞き出すことができた。そこへはバスの便しかなく、駅員が指さす先に回数券発売所があった。 とにかく旅館だけでも調べてみようと、淡い期待を抱いて駅員が指さした回数券発売所に行ってみたが、やはりそこは空しく無人で “切符はワンマンバスの中でお求め下さい” という黄ばんだ張り紙が、乱暴にテープで壁にとめられていた。 その張り紙の横に、これも陽に焼けて黄ばんだ旅館のパンフレットが、紐でくくられ束になってぶら下がっている。それは全部ひとつ旅館のもので、そこにはいましがた駅員から聞いたばかりの温泉郷の名が、誘惑的に輝いて見えた。 ほかにあれこれ迷う宿がないので、まず旅館に宿泊の予約を公衆電話で入れてみようと思って、近くの電話ボックスに駆け込んだ。電話台の下に端がめくれ茶色に変色した電話帳があったので、パンフレットの旅館に電話してみた。 だが、電話口に出た男は、泊める側とは思えないような横柄な口ぶりで、私の名を何度も確認したあと、 「一人客なのか?」 と、咎めるようにして聞く。 観光地の旅館が一人客を嫌うという話は、何かの本で読んで知っていた。だが、いまは観光客が少ない時期である。だからどこへ行っても飛び込みで問題はなかろうと、旅に出るまえに名古屋駅の旅行案内所でも言われてきたばかりだった。 最初からこういう感じの悪いところに泊まるのも嫌だった。振り出しに戻ってしまうけれども、そこまで行けば外に宿があるかも知れない。 やめてしまおうかと思い始めた矢先、どうしたわけか電話口の相手が、急に相好を崩すような感じで、 「ほな、お待ちしとります」 と、一方的に電話を切った。 そ の 二 「町 中 の 宿」 バスが発車する時間もあと少しというタイミングのよさもあって、結局、私は流されるようにそのバスに乗り込んだ。バスは町中を走るうちにどんどん客が増えてきて、驚いたことに目的地に着くころには、ほぼ満員に近かった。みんな老人ばかりだが、どうやら旅行客のようだ。 これはひょっとすると、“鄙には稀な名湯 かも知れないぞ!” という期待感で私の胸はにわかにふくらんだ。しかし、降りたバス停は予想をはるかに覆すようなちょっとした町中で、宿はその雑然とした商店街の真ん中にあった。 パンフレットには渓流沿いの宿と書いてあった筈だが、そのバス停のすぐまえに、さっき電話した宿が建っていた。いささか愕然としたが、同乗していた老人たちの大半がその宿にぞろぞろ入っていく。 それらの客を迎えにきた宿の番頭らしき人などもいたものだから、あれよあれよという間にどんどん事態は進んで、気がついたらいつの間にか宿の部屋に通されていた。だが、窓を開けてがっかりした。 まだ手に握りしめているお粗末なパンフレットに “山あいの渓流の瀬の音が、優しく朝のお目覚めを誘います” などとあるのは、一体どこの宿屋の話かと、帳場に行って問い質したくなるような風景だった。 すっかりしてやられた気分になり、腹いせにリュックを部屋の中に放り出したのだが、その途端、カメラが入っていることに気づき、慌ててまた抱え上げるというようなドタバタを、のっけから一人で演じることになってしまった。 なるほど、旅をするときは “まったく当てずっぽうは危険である” と言うことを早速、学んだが、驚いたことにそんな宿でも思いがけないほど混んでいた。だが、その理由を間もなく知ることとなった。 この町はある有名な宗教の総本山になっていて、年中なにがしかの法会があり、そのたびに町が賑っていることが分かった。しかも私が泊まった日が、その期間に当たっていたらしい。丁度、かきいれどきを迎えていて、たくさんの信者が県の内外から集まってきたところだった。 それにしてもこの時期、よく部屋が空いていたものだと、少し無念まじりに感心したのだが、信者でない私にとっては、まことに居心地の悪い場違いの一泊ということになってしまった。 ゆっくり渓流の音を聞きながら山里の湯につかる予定がすっかり外れ、大勢のじいさんたちに混ざって、まことに窮屈な風呂からそそくさと上ってきた。 そして、およそ真心のこもっていない夕食を、口だけは愛想を言っているつもりらしいが、ぞんざいで慌ただしい仲居の給仕で、まだ陽の高いうちから食べなければならなかった。 そのいまいましい宿に泊まって唯一、収穫だったのは、この奥に一軒の温泉宿があることを夕食のとき仲居から聞き出したことである。 そのときはまだ、明日どこへ行くという当てがまったくなく、このままではまた降りた駅に舞い戻っていくしかない状態だったから、まあ言ってみれば、藁にもすがりたい心境だった。 どうやら仲居はそのあたりの出身らしく、まるで自分がその温泉宿の女将にでもなったような顔で、 「そりゃあもう、ええ湯やからのう」 と目を細め、自慢げに何度も言った。 そ の 三 「山 峡 の 隠 れ 宿」 翌朝、私は憤然として宿の支払いを済ませ、その旅館のすぐまえのバス停から午前中に一本だけというバスに乗って、さらに山奥の朽木沢という温泉卿を目指した。 十数人の客を乗せて発車したバスは、ものの十分も走ると、一人降り二人降りして、申し訳ないほどに空いてしまった。バスはずっと山あいを走っていく。いったいこの辺りに住む人々は、なにを生業にしているのだろう。 辺鄙な谷間のところどころに集落があり、こんどは降りる客の数くらいまた適当に乗ってくる。しばらくそんな風景を楽しんでいたが、やがて眠気がさしてきた。 乗り越してはまずいので運転手に、 「朽木沢で降りたい」 と、告げると、 「着いたら起こしてあげるよ」 と愛想よく返事をくれた。 バスは正午を少し過ぎたころ、目的のバス停に着いた。あたりを見まわしても昨日とは違って町並はなく、遠くにぽつりぽつりと農家が見えるだけだ。こういう日本昔ばなしのような場所を望んでいたので、まさに文句なしである。 だが、ここで降りる客は私一人だけだった。バスが走り去ると何となく心細くなってしまった。目指す宿がどこにあるのかさっぱり見当がつかない。仲居が言った旅館は本当にあるのだろうか。もしなかったら……と、思いつきの旅にすこし不安がよぎる。 仲居は 「歩いていけばすぐだ」 と言っていたが、さて、どっちに歩いていったらいいのか、まったく分からない。車がときおり走り過ぎるが、人の姿はどこにも見当たらない。 仲居は 「渓流沿いの宿だ」 と言っていたから、とにかく渓流を捜さなければと単純に考え、山側に進んでいくべきだろうと取り敢えず目標を絞った。私の推測はなんとか当ったようで、有難いことに十五分ほど歩いた道路沿いにその宿の看板を見つけた。 “朽木谷の隠れ宿” というのがその宿の呼び込み文句らしい。心強くなって元気よく看板の矢印の方向に進んでいくと、やがて先ほど降りたバス停よりずっと家が多くなってきて、あたりは次第に集落の形をなしてきた。 ふたたびバス停が見えてきたので、妙な気分のままそのバス停に近づいてみると、なんと 「朽木沢奥」 とあるではないか。私は一つ手前の 「朽木沢」 で降りたらしい。 バス停のまえに煙草屋があったので、入り口に立って声をかけると奥から老人が出てきた。申し訳ないので煙草を一箱買い、宿の所在を尋ねた。少し耳が遠くなっているようだが、すぐに私の質問を理解した。 店のまえまで出て通りを指さしながら、 「この道をもう少し行って、右の小道を曲がると川に出る。その川のふちに宿が見えてくるからすぐ分かる」 と、教えてくれた。 店の老人に言われたままに進んで行くと、やがて木立の先にそれらしい建物が見えてきた。二階建ての古い造りの宿だ。玄関に立つとすぐに老婆が出てきた。 私は予約なしだが、と断わって、 「今夜、泊まりたい」 と、告げた。 老婆はいったん様子を聞きに奥に引き込んだが、やがて再び出てきた。どうやら泊めてもらえるようだ。 案内された部屋は、八畳間に出窓のようなものがついていて、激しい瀬音が耳に心地よい。風呂は一階の玄関横の階段を、川の方に下ったところにあるらしい。 「いつでも好きなときに入れますよ」 と、部屋に案内した老婆がきわめて事務的に伝えてくれた。 私はすこぶる満足していた。昨夜は失敗だったけれど、二日目でほぼ希望通りの宿に遭遇することができた。あとは食事の内容が気になるところだが、どのみち田舎だからそんなに期待しないほうがいいだろうと考えた。 料理をもってきてくれた女将はいかにも如才ない話し方と、その対応がいい。やや小柄だが色白で、全体にふっくらしていて笑うと左の頬に大きな笑窪ができる。縦縞の小粋な和服が、しっとりと身を包んでいた。 名もない小さな寒村に、どうしてこんなひとがいるのだろうかと、私はその洗練された気品に戸惑いを覚えていた。 「何もない田舎やさかい、こいなもんしか用意できんのですのよ」 と言いながら、てきぱきした動作でテーブルの上に、いくつかの手料理風のものを並べてくれる。 そして、そそくさと給仕をしながら、うるさくなく気づまりにならない程度に女将は話しつづけた。この宿には私のほかにもう二組の湯治客が泊まっていて、そのうちの一組は老夫婦であること。もう一人は毎年いまごろになるとやってきて、鉱脈を探しに山に入っていく男がいることなどなど……。 テーブルの上に並んだ料理のうち、山菜の天ぷらはよく冷えたビールにあって、しみじみ美味しい。 「ビールの追加があったらすみませんが、廊下に出てちょっと呼んでくれませんか。すぐお持ちします」 女将はそう言って、片手で拝むようにして部屋を出ていった。 そ の 四 「露 天 風 呂」 風呂はちょっと変わった造りである。よく使い込まれて黒く光る木造りの階段を降りていくと、川を目のまえにして小さな小屋がある。入り口は男女別々だが、脱衣所で服を脱いで反対側の出口を開けると、その横に女の脱衣所の出口がある。 衣服を脱ぐところは別々でもそこを出ると、まぎれもない混浴である。湯舟は頑丈な木で作られていた。背後の岩壁を利用して、巨大な庇のようなものが真横に突き出ている。庇のついた露天風呂といったところだ。 岩壁を伝って鉄管が湯槽まで延び、そこから豊富に湯が流れている。決して豪華ではないが、渓流の風景や溢れている湯など、昨夜、泊まった旅館の仲居が自慢げに言ったとおり、風情のある実に素晴らしい温泉だ。 短かい半白の髪に丸首シャツを着た実直そうな老人が顔を出した。湯の加減を見にきた宿の下働きの人らしい。私を見て小さく頭を下げたが、とくに何を言うでもない。 夜になって急に温度が下がり、襟元が冷たくなってきたので布団にもぐり込み、本を読んでいるうちにいつの間にか眠ってしまったらしい。ふと目を覚まして枕もとの時計を見ると十一時を少し過ぎている。見まわしたが部屋の中に水の用意はないようだ。 喉がカラカラで窓の外から聞こえる瀬音が、その渇きをさらに刺激した。廊下の突き当たりの洗面所で水は飲めたが、せっかく温泉宿にきているのだから、夜更けの温泉に入ってもう一度、暖まり、冷たい水を飲むという魅力的なことが頭に浮かんできた。 玄関の灯りはすでに消されていたが、そこから湯に行く階段の上に、わずかな灯りがところどころ点いていて足もとに不安はない。湯殿の電気は消されていたが、そのスイッチは脱衣所の入り口の横にあってすぐに分かった。 深夜に谷川沿いの露天風呂を一人で独占するというのは、まことに贅沢きわまりない。激しい瀬音をたてる渓流もそっくり闇の中にあった。私は久し振りに気持ちも体も開放された気分になった。 湯に漬かってしばらくすると、階段を誰かが降りてくる気配がする。すぐに脱衣所の戸が開いて宿の女将の白い裸身が湯気の中に現われた。 夜更けになって気温が急に下がり、夕方、入ったときにはあまり感じなかった湯気が、いまでは柔らかい乳白色の色合いが分かるくらいの濃厚さで、そのあたりに踊っていた。 「まあ、失礼しますね」 と、女将はその体をふたつに折るようにして、湯槽の縁に向かったようだ。 予想もしない展開になって私は戸惑った。だが、よく考えてみるとこの旅館は、小人数で経営しているのだから、すべての仕事を終えて丁度いまぐらいの時間に、やっと風呂に入るというのが日常なのだろう。 「すぐ出ますから」 と、私は気を使ったつもりで言った。 「私なら構わんでいいんですのよ。若い時分からここで殿方衆とお風呂に入るのは慣れてますから、どうぞ気になさらんで下さい」 女将は屈託のない口ぶりでそう言った。 私はいくらか緊張していたが、それでも内心は嬉しい気持ちもあって、女将とゆっくり話ができれば……と、ぼんやり考えていた。 ただ、黙って瀬音を聞いているだけでもよかったのだが、そんな状況で沈黙しているのは、かえって気づまりだったので、私は質問を選びながら、 「この土地で生れたのですか?」 と聞いてみた。 立ちこめる湯気のなかで女将はうなずいた。そんな質問がきっかけになって、問わず語りに女将は自分の生い立ちを話し始めた。なにかの事情でだいぶ前に亭主と別れ、いまは下働きの老夫婦と三人で、この宿を切り盛りしているらしい。 話の内容から推察すると、私と女将はどうやら、あまり歳は離れていないようだ。 「ほやけど中学のときには、倉敷のほうに長いこといたんですよ」 と、女将は付け加えた。 よほど倉敷での日々が楽しかったのか、娘のような華やいだ声で笑った。そして、湯の中に身体がそっくりつかっているので、女将はゆっくり私に近づき、顔を見ながら話をするようになった。 ほんのりと赤味を帯びたうなじに、幾筋もの汗が光っていた。私はその白いうなじにハッとして、思わず目を逸らした。すっかり女将の華やぎの中に取り込まれていた。 私は浴槽の中で谷川に向かって、思い切りよく手足をのばした。女将も私と同じ方向に向かって手足をのばしたようだ。それから熱くなったのか上半身と一緒に首筋を伸ばし、ひっつめた髪の後ろに両手を添えた。 その動きにともなって豊かな胸が湯の上にとび出し、淡い天井からの灯りの中で妖しく光った。凝視するわけにもいかないので私は顔を背けた。ただ、三秒と見ていないはずなのに女将の乳房の白さと、うっすらと浮かんだ静脈までもが目に焼きついた。 話がひと区切りついたころ、女将はざぶりと勢いよく湯から上り洗い場に座った。なぜか今度はそのしなやかな姿態から、私は目をそらすことができなくなってしまった。柔らかい光線の具合なのか、目がなんとなく潤んでいるように見える。 洗い場に上がった女将は私が見ているのを承知で、わざと膝を崩し、奇妙に身をくねらせている。その色っぽい仕草を見ていると、誘っているような気がしてならない……。 思いがけずつい長い湯になってしまったようだ。気がついたら、いつしか激しい瀬音を枕に身を委ねて、私はひとり陶然としていた。 二日連泊して南総里見八犬伝も読み切り、三日目の朝、その山あいの宿を出た。宿を出るとき 「バスの中で食べなさいよ」 と、ひと包みの握り飯を女将から手渡された。バス停まで送るという申し出を断り、私は振り切るように宿を後にした。 ゆるい坂を登り、谷川と並行に走る砂利道に出たとき、私はいったん立ち止まって何ということなしに宿のほうを振り返った。すると女将が玄関でしきりに手を振っている。見上げると朽木沢の空は、来たときと同じようによく晴れて、山の空気はきりりと引き締まっていた。 ページTOPへ |