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【中年期 第三部】 |
● 開店まえ ● お好み焼き「ふじ」 ● 母とフランス料理 ● 母の死 ● 民 謡 ● 相川音頭 ● 三味線と太鼓 ● 定年と仏像 |
| 【 開 店 ま え 】 |
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名古屋城の北にある名城公園を迂回するように、東から南へ堀川が流れている。川を隔てて自動車学校や教会が散見できるが、さらにその北に、十四階の高層マンションが建っている。私の家はこの高層マンションと道ひとつ挟んであった。 私が小学五年生のとき、それまで住んでいた児玉町の借家が立ち退きになったので、ここへ移り住んできた。それからすでに三十数年も経っている。そのころは、この辺りは寂しい場所だった。 すぐまえに大きな紡績工場があって、コンクリートの高くて長い塀が周囲の家々を遮断していた。ところが、この紡績工場が郊外へ移転し、その跡地に近代的な高層マンションが建設された。 昭和四十八年のことである。辺りはにわかに活気を呈し賑わい始めた。わが家は戦災で焼け残ったものの、戦時中の空襲で焼夷弾の直撃を受けたり、地震や強烈な台風に見舞われたりして、痛みが激しく、ボロ家と呼ぶにふさわしかった。
冬になると日の暮れが早いためか、予定よりも長めの工期となった。それでも4月には仕上った。4月生まれの私が46になったばかりの春だった。 当時、わが家の家族構成は、私たち夫婦に、母親と息子三人。それに女房の母親を引き取っていたので総勢七人だった。子供たちはみな、大学、高校に在学中である。おまけに三男はお金のかかる私立高校に通っていた。 さて、家は建てたものの、私が国鉄からもらってくる少ない給料と、女房が踏むミシンの内職ぐらいではとても追いつかない。そんなわけで、何としてもお金を稼がねば食べていけない状態だった。 私は貧乏を尊いと思っていた訳でも何でもないが 「金儲けだけが人生じゃない。高潔に生きるのだ。貧乏は恥ずかしくない」 なんてカッコいいこと言ってられない。不自由を忍びつつ貧乏な境遇に甘んじている訳には、断じていかなかったのである。 家を建てたとき、階下は最初から店を始めるつもりで土間にしておいた。家のはす向かいに建つ高層住宅とあわせて、ショッピングセンターが出来るということも噂に聞いていた。そうするとこの辺りは人通りがよくなる筈だ。だから早目に何か手頃な商売を探さなければならない。 手芸品店、洋裁店、喫茶店、本屋、洗濯取次店、お好み焼き屋。いろいろ考えてみたが、自分の好みだけで業種を選ぶ訳にはいかないことや、近隣の既成店のことなど、環境との兼ね合いをうまく見つけなければならない。 そんなことがだんだん分かってきた。だが、つまるところ店をやるのは女房だ。いろいろ迷った挙句、 「そうだ。食べ物商売がいい。日銭も入るし食べるもんにも困らんでしょう」 と言う女房のひと言で、食べ物屋に決まった。 大工さんは、次男がアルバイトをしている工芸店の主人に探してもらった。内装は勿論のことカウンターの配置までこの工芸店の主人にやってもらい、半月足らずで店は出来上がった。客席二十のこじんまりした店である。 屋号は苗字の一字をとって、平仮名で 「ふじ」 とした。暖簾は染色屋へ嫁いでいる妹が、紺地の布に屋号を白く染め抜いて贈ってくれた。あとは看板である。看板を上げるとなると、やはり緊張する。 それまでは内輪だけの話だったのが天下に公表され、商業活動として世間との繋がりをもってしまう。繋がりをもたないと商売にならないのだが、これからは背中に看板を背負って歩いているようなものだ。 やる気と弱気、不安と期待が微妙に絡み合い、ひょっとしたら、どえりやぁことやっとるのではないだろうか……と、ちよっとビビったが、とにもかくにもお好み焼きの看板を上げた。 こうして 「ふじ」 は、昭和四十七年四月二十八日の開店をまえにして、前夜から徹夜の作業でその日を迎えたのである。 (注:「どえりゃこと」 とは名古屋弁で 「たいへんなこと」 の意) ページTOPへ |