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【老年期 第一部】 |
● 引越し ● K君との再会 ● M君の呼出し ● めぐり逢い ● 酔って侯 ● ビ−ルの味 ● 私の囲碁歴 ● 私と料理 |
| 【 引 越 し 】 |
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そ の 一 「立 退 き 要 求」 長年住み慣れた北区田幡町 (現・金城) の家には、いろいろの思い出が残る。戦時中、母が真っ黒になって、空襲から守った家である。焼夷弾が一発、わが家の屋根を貫いた。だが、母が縄バレンで叩き消した。 「天井の一部を焦がしただけ」 というのが、母の自慢だった。 すぐ西隣りの畑ひとつおいた家まで焼けたが、母の必死の消火活動のお蔭で、わが家から東側十数軒が延焼を免れた。 小学五年生のとき、西区児玉町からここへ引っ越してきてから、もう五十年近くになる。弟妹たちにもそれぞれに思い出があるだろうが、私の青春時代の夢がいっぱい詰まった家である。 二十五歳のとき、質素だったがこの家で結婚式を挙げ所帯を持った。しばらくして、弟妹たちもそれぞれ結婚して家を出た。 やがて私たち夫婦の間にも男の子が三人生まれ、母との六人家族の生活が、この空襲で焼け残った家で始まり、それが長い間つづいた。 大地震にあったり、強烈な台風に見舞われても、このぼろ家は健在だった。狭い庭だったが、四季おりおりの花も咲いていたし、腕白ざかりの子供たちの木登りにも格好の木が何本かあった。 昭和四十七年に母屋を残して二階建ての家を新築し、女房がそこで飲食店を始めた。だが、道ひとつ隔てた家の南側に高層住宅が建ち、太陽を奪われた。どうしてこんなところに、わざわざ住まなければならないのか……と、思うこともあった。 昭和五十四年の春、母が毎年待ちかねるようにしていた梅の花が、早々と七分咲きの便りを届けてくれたが、年の始めから寝たきりになっていた母には、もうそれを目にすることなく、八十歳で他界した。そして、その二年後に、十八年間、生活を共にしてきた義母も、ガンで亡くなった。 わが家をよく訪れてくれた叔父、叔母や、母の古い友人たちも大半は彼岸の彼方に去って、この母屋を懐かしむ人もだんだん少なくなった。三人の息子たちもそれぞれ独立して、あとに残されたのは、私たち夫婦だけになってしまった。 そんなころ借地の立退きを要求され、ごたごたに嫌気がさした。それが新しい土地に移り住むふんぎりになったのかも知れない。 ましてや、女房が十三年間も経営してきた飲食店を閉じてしまったいま、もはやこの土地に私たちを引き止めるものは何もなかった。かくして長いあいだ住み慣れたこの家をたたみ、昭和六十年の夏に引っ越しと相成ったのである。 この町で五十年近く暮してきたことが、つい昨日のことのようにも思われるし、もの心がついてからずっと住んでいたような気もする。ところがいざ引っ越しとなると、初めての私にはその準備に戸惑うばかりだった。 両親ともに働き者だったが、小心かつ律儀で借金も残さなかったかわりに、財産も何ひとつ残さなかった。ただ、このぼろぼろの母屋に仰山なガラクタだけを置いて逝った。もとより書画骨董にあらずして、単なるゴミの山である。 もっともこのガラクタの中には、私たちの家財道具や、弟妹や息子たちが残していった物も多く含まれていたのだが、なんで私がこのガラクタの山を、いまさら片づけなければならないのかと思った。 だが、憎まれ口を叩こうにもこの家には、もう私たち夫婦のほかには誰もいないのである。仕方ないがこの際、敢然とこのガラクタの山に挑むよりほかない。私は引っ越しをまえにして、突如、そう決心した。 そ の 二 「人 生 の 後 始 末」 長い歳月、人が住みつづけた家には、そこに暮していた人の生活のかたちが、よどみのように残っている。その人が愛用した道具類や衣服は当然ながら、どうにも使い途のないようなガラクタの類までたくさん保存されていた。 むかしの人には 「もったいない」 という思想や感覚が、垢のように沁みついていて、母もやはりもったいなくて捨て切れなかったのだろう。縁の下や押し入れ、果ては天井裏まで、じつにまあ、ありとあらゆるガラクタでいっぱいだった。 お祭りの破れ提灯、変色した麻の蚊帳。 誰が誰だかさっぱり分からないセピア色の写真。 弟妹たちが残していった衣類。 商売道具だった紙漉の簀桁、刷毛、左官のこて、スコップ。 それに大小の空箱、古毛糸、穴のあいた足袋、水枕……。 ゴミ収集日にはこれらのガラクタを小分けして、何日もかけて出すことになった。一度にゴミ袋の山を家のまえなんかに、みっともなくて積み上げられない。 なかでも厄介なのは粗大ゴミである。月に一度の不燃物と粗大ゴミの日は、朝からひたすら肉体労働である。 戸棚、木製の米びつ、氷の冷蔵庫、古い柱時計、鉱石ラジオ、蓄音機。 火鉢、挽き臼。三人の息子たちが使った二段式ベツト、学用品、スキー用具……。 これらを捨てに粗大ゴミ収集場所までガラガラと台車を牽き、何かに取り憑かれたかのごとく、幾度となく往復した。 使い勝手のよかった、家族の温もりが沁み込んでいるそれらを捨てることに、私は熱中した。かつてそれらを使ったであろう、父母や弟妹や息子たちのことは、ほとんど考えなかった。感傷に浸っている暇などなかったのである。 それでも捨てるかどうか迷ったのが、思い出の品という代物である。そこで思いついたのが、写真で保存するという妙案である。私はそのこと自体が可笑しくて、シャッターを切りながら一人で笑った。 そうこうするうちに、捨てることも、燃やすこともできない類…。たとえば神棚しかり、人形しかり、仏像しかりに行き当たり、どうすべきか私はしばし立往生した。思案のすえ、神棚は七夕神社に、人形は大須観音の人形塚に、仏像は近所のお寺さんに頼んで、それぞれ処分してもらった。 人はなんと様々なものを抱え込み、その都度、怒ったり、笑ったり、悲しんだり、祈ったりして、死ぬまでの距離を歩みつづけることだろう。そして、ある日突然、抱え込んだものについてさえ失念する時がやってくる。げんに母もガラクタの始末をすることなく、私のまえから消えてしまった。 次第にがらんとした、ただの空間になっていくこのぼろ家の中で、私は母のことを懐かしく思い出していた。早死にした父のことはさておき、母が人生の後始末をしなかったのは、この世に残る私への心遣いだったのかも知れない……と。 昭和六十年の夏もようやく終りに近い八月の末に、私たちは父母の位牌とともに、今のマンションに引っ越した。やはり来年のお盆には帰るであろう父母の霊を、この新しく入居したマンションで迎えてやりたいと思ったからだ。 あのガラクタが全部姿を消したいま、3LDKの地面さえないこのマンションへ、果たして父母の霊は迷わず帰ってきたのだろうか。いや、きっと様子を見にやってきたに違いない。そして、田幡町のぼろ家にあったあのもろもろの品は、一体どこえ消えたのかときょろきょろ辺りを見まわしたことだろう。 ここへ落ち着いてからもう十数年になる。引っ越し荷物はだいたい納まるところに納まったが、まだ開けてないダンボール箱が一つ残っている。どうしても捨て切れなかった品が、その箱の中身となってマンションに運ばれ納戸の奥に鎮座している。 そこには母が大切にしていた陶器や、父母の若い日の写真や、そう大切でもなさそうな書類が無秩序に入っている。陶器に混じってそれらの品々が、いかにも慌ただしく放り込まれたかのように、雑多な感じでギッシリ詰まっている。 開かずのダンボール箱は、あれからほとんど動かしてない。だが、ときおりは探し物などで納戸を覗くので、 「ああ、そうだったな」 と、ダンボール箱の存在を確認するのである。 移り変りの激しい世の中で、このダンボール箱の中身だけは、長い時間が停止したままで、早く開けて整理しなければと思う反面、もうずっとこのまま納戸の隅に眠らせておこうかな、という気持ちにもなっている。 ページTOPへ |