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【青年期 第一部】 |
● 終戦の詔勅 ● 国鉄に就職 ● 白衣の天使 ● 駅裏の路地 ● 苦い酒 ● 屋台の月 ● クロダイ釣り ● お召し列車 |
| 【 終 戦 の 詔 勅 】 |
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そ の 一 「軍 需 工 場」 戦時中だったので卒業を三ヶ月繰り上げられて、昭和十八年十二月に旧制中学を卒業した私は、翌年一月に難関を突破して、軍需工場の三菱発動機大幸工場に入社した。 この軍需工場に私が入社したころは、陸軍が飛龍や飛燕など、海軍が一式陸攻や、太平洋戦争の後半に、実戦投入された雷電などのエンジンを製造していた。 配属された部署は検査部で、作業場の高さは15mぐらい、コンクリートで出来た頑丈な構築物だった。これを私たちは 「エンジン・テストセル」 と呼んでいたが、それこそ耳をもつんざく発動機の試運転場だった。 班長を中心に五人一組のチームで、完成した発動機を運転台に取り付け、実際に運転して機能を確かめる仕事だった。だが、新入りの私はガソリンを汲み上げたり、組立工場から発動機を搬送したりの下働きで、とても運転台には近づけない。 それでもエンジンの取り付け作業の傍ら、構造や性能などいろいろ学んだ。発動機の取り付けや、取り外し作業などで、エンジン音が止まり、突然、試運転場に死のような静寂が訪れる瞬間がある。そんな静寂のなかで、ふと一人の工員が呟く低い独り言が聞こえてきた。 「オレはどうやって死ぬのかなぁ……」 そのとき死の恐怖がどこからともなく私を襲ってきた。生まれて初めてのどうしようもない恐怖だった。その当時は同じ職場の人が応召されても、送別の壮行会も決別のセレモニーもなかった。 死は日常にあって特別の意味もない。先にあるのは戦いの前線に送られて、あとは必定の死だった。旧制中学を卒業した者は、十ヶ月の研修期間を終えると、簡単な試験を受けて技手に登用される。私もその年の十一月一日付で技手に登用された。 作業帽にはぐるっと一本の金線が入り、技手はその上にさらに金の単線が一本入る。戦時下では階級制度が徹底していたので、学校を出たての二十歳そこそこの若造でも、例えて言えば、軍隊の仕官なみの扱いで、待遇やその他、あらゆる面で優遇された。 職員と工員とでは、天と地ほどの違いがあったのだ。もらう給料も日給から月給になった。工員のときは、夜勤手当や残業手当を含めても、月に四十円ぐらいだったのが、いっきに六十円にも跳ね上がった。 工員とはべつに職員食堂があって、昼食もそこでゆっくり食べられる。ご飯もいままでの大豆入りと違って 「銀シャリ」 だった。胸のプレートは長方形で六桁の職番が並んでいたのが、丸型の名札に変わって、ちゃんと自分の名前が書かれている。 職員は工場の出入りも自由で、門衛の敬礼を受けながら正門から堂々と出入りできる。ところが工員は、いったん工場に入ったが最後、自由に外に出られない。仕事が終わって退出の際も、工員通用門で門衛に厳重な持ち物検査をされた。 工員からいきなり職員に昇格したので、私は得意満面だった。だが、その反面、いろいろ戸惑いもあった。ときにはやっかみから、伍長と呼ばれる職場の古参工員に睨まれたり、嫌がらせを受けたこともある。 若者はほとんど軍隊に入って同級生は誰もいなくなってしまった。兵隊検査で甲種合格だった私も、いずれ近く兵隊にとられるなぁ……と、覚悟していたので、入隊のときに備えて軍人勅諭や五か条のご誓文を暗証したり、歩兵操典を持ち歩いて読んでいた。 ところがなかなか入隊通知がこないのだ。そんなある日のこと、監督官に呼び出された。何事かと行ってみると、いきなり書類を差し出して、 「これに署名捺印せよ!」 と命令された。見ると兵役延期願だった。 言われたとおりにすると、 「誰にも言うな」 と監督官がニャリと笑って、その書類に承諾印をポンと押した。 国にどんな考えがあって、そうなっていたのか分からないが、多分、軍から派遣されていた監督官の計らいで軍需工場にいた私たち若い技手は、兵器増産のために兵役を延期されていたのだと思う。お陰で私は兵役を免れた。 そ の 二 「大 空 襲」 昭和十九年十二月十三日は、三菱発動機大幸工場がB29の大空襲をうけた日である。あの日は朝から風のない暖かい日だった。昼休みが終わって午後の作業に入った途端、工場内に空襲警報のサイレンがけたたましく鳴り響いた。 いま思い出してもおぞましい。銀色に光る六十二機のB29が上空一万メートルに飛来し、午後一時半から二時までの約三十分間、四回にわたって工場に猛烈な波状攻撃をかけてきたのである。防空壕に飛び込んだ途端、「ドカーン」 という爆弾の炸裂音とともに壕が揺れた。 なにしろ地上六階、地下二階のビルをたやすく貫通する大型爆弾を、三百七十個も工場内に落とされたのである。はるか一万メートルの上空から直径七十メートルの円内に、確実に爆弾を命中させるという計器を備えていたから、ひとたまりもない。 工場内は蜂の巣のようにボコボコに穴をあけられて、死傷者多数を出した。私たちが入った防空壕から、二十メートルほど離れた壕にも、直撃弾が命中した。その衝撃で私たちの壕は埋まってしまった。手のひらで叩かれた蟻のように潰されたのかも知れない。 幸い奇跡的ともいえる運のよさで、全員助け出された。わずかの差で直撃を免れ九死に一生を得たのである。この空襲で工場が壊滅的に破壊されたので、翌年の春、北陸・福井の紡績工場跡地に工場が分散疎開することになった。 私も大勢の工員とともに福井へ移った。ところが運の悪いことに、疎開先の福井で、またもやあのおぞましい空襲に出会うこととなったのである。今度は爆弾ではなく焼夷弾だった。宿泊していたのは福井市の中心部を流れる足羽川沿いの浜町にあった料理屋だった。 戦時中だったので軍需工場の宿舎として、強制的に提供させられていたのだろう。大通りをわずかに入ると料亭街で、風格のある老舗がたたずんでいて、川沿いの店は庭から石段を伝って、そのまま水際に降りることができた。 私はまえの工場で爆弾による空襲を体験しているので、焼夷弾などタカが知れていると料理屋の屋根に上って、 「落ちてきたら縄バレンで叩き消してやるぞ!」 とばかりに身構えていた。ところが夜空から風を切って焼夷弾が落ちてくる。 焼夷弾の擦過音を聞いた途端、持ち堪えることなく屋根から転げ落ちるようにして、昨羽川の河原へ逃げ出した。結局、その料理屋もまたたく間に焼け落ちてしまい、焼け出されて農家に分宿することとなった。 そ の 三 「玉 音 放 送」 そのころはすでに敗色濃厚で、国民の間にも厭戦気分がみなぎっていたと思う。そして、早く戦争が終わることを祈っていた。だが、そのへんのところを描写するのは非常に難しい。 「天皇陛下の御為に死ね」 では、腑に落ちないとみな思っていたが、そんなことはおくびにも出せない。 内々の会話でも口に出して言えるのは、 「早く戦争が終わればいいなぁ……」 ぐらいのところで、それもよほど気を許した仲でないと、口に出すのもはばかられた。 ましてや 、そう思っていても、 「この戦争は負ける」 などとは、口が裂けても言えなかった。 人々は日本は勝つと思っていたし、戦後に交わされた戦争の思い出話のなかでも、そう言わなければならないという強制を、かなり長く引きずっていた。そして、負けると思っていた人も、心中かたくその見通しを秘めて語ろうとしなかった。 大本営発表が何を言おうと、もう少し冷静になって考えれば、日本の負けは分かるはずだが、大人たちには焦慮の色も諦めた様子も伺えず、わが身に火の粉が降りかかる予想も人ごとめいていたのである。 終戦の日が近づくとラジオの音楽も静かになり、米軍機の来襲もめっきり少なくなった。そして、8月15日は朝から重大放送があるということが伝わっていた。その日の正午に、私は疎開先の福井の工場内で、天皇陛下の終戦の詔勅を聞いた。 夏の太陽がぎらぎらと輝く暑い日だった。 「大事な放送がある。全員、聞くように」 と言われたのに、ラジオは雑音ばかりで天皇陛下のお言葉は何がなんだかよく聞き取れなかった。 とにかく国民は最後まで戦い抜くつもりだった。だから、きっと励ましのお言葉を下さったのだろうと受け止めた。ところが日本が負けたらしいことは、だれ言うとはなしに分かってきた。戦争は終わったのだという。訳が分からず暫く呆然としていた。 私には意外だという感想はなく、内心、やっぱりそうかと思った。最初に感じたのは、もうこれで死ぬことはないと思った。それ以外に何の感慨もなかった。とにかく、戦争に負けたことを知らされたのである。 あの日は抜けるような青空の広がる好天だった。炎天下でセミの声が精いっぱい鳴り響いていた。しかし、不思議とほかの物音は何一つ耳に残っていない。 「これで空襲もなく、安気に眠れるなぁ……」 と言う人々の安堵の言葉にも、何となくうつろで物悲しい響きがあった。 だが、私は国の敗戦を悲しまなかった。むしろ 「これでやっと終ったんだ」 という開放感を抱いた。それどころかある種の勝利感すら感じた。人生まだまだ先は長い。 あの大空襲で助かった命である。 「戦争といういちばん苦しいところを乗り越えたぞ。よし、これからだ!」 というような気分だった。私は変わり果てた焦土に立って、新しい時代の到来を実感した。 特権階級も支配階級も崩壊して横一列になり、そして、戦争さえ終わればもう自由である。だが、国が戦争に負けたのだから、この先、日本は苦境に立たされるだろう。ましてや生きていくことが、必死の闘いになるに違いない。 しかし、その闘いには自由の身で参加できるのだ。 「だったら闘い抜いて見せるぞ!」 という自信があった。私は自国の敗戦を、どこか遠い国の出来事のように感じて、いま新しい闘いのゴングが鳴ったように思った。 ページTOPへ |