【青年期 第二部】 ● 買出し
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【 買 出 し 】

 戦中、戦後を通じて食糧不足が長くつづいていた。昭和十七年ごろから主食をはじめ、食べ物の多くは配給制度になっていたが、配給だけではとても足りない。日本中のほとんどが、どう食べていくか、どう生き延びていくかに苦しんでいた。

 いまの若者には 「ごはん」 と問えば 「白い」 というのが第一印象だろう。ところが、当時はどこの家でも五分搗き、三分搗き米が普通で、さらに押し麦はもちろん、トウモロコシや、大豆の挽き割りを三割、四割と炊き込んだものが大半だった。

 ことに私の家では文字どおり貧乏人の子沢山で、安価だという理由で磯にうち上げられた荒昆布まで入っていて、お釜の蓋をとるとまだら模様だった。そして、戦争が激しくなるにつれ、肝心の米までが手に入りにくくなった。

 戦争が終わっても人々の生活を取り巻く環境は厳しいものだった。配給米の遅配・欠配は戦争中よりもひどくなり、食糧を得る手段を持たない人々は、郊外の農家に買い出しに行かざるを得なかった。わが家にも食糧難の危機が訪れた。

 母は米や野菜など売ってもらうため着物を持って行く日がつづいた。とくに終戦後の一、二年は食糧難に悩まされた。政府から配給される食糧だけでは家族は腹いっぱいにならず、ことに主食が足りなかったのである。

 豊かな食生活ではなかった。弟妹たちと卓袱台を囲み、大鍋で作った雑炊や煮込みうどんで飢えを凌いだ。弁当箱に麦飯やさつま芋を詰め、職場で弁当を開くときも、母の苦心作にも拘らず中味を農家出身者に覗かれると恥ずかしくて、蓋で隠しながら食べた記憶がある。

 あのさして遠くない時代の昼食風景が思い出される。その当時、わが家は母と私たち兄弟姉妹の六人暮らしだった。だが、みんな食べ盛りで配給ではとても足りる筈がなく、米に代わる主食として、さつま芋やじゃが芋、かぼちゃを食べつづけ、太っている子供など一人もいなかった。

 大豆から油を搾り取った油カス。かぼちゃの茎を乾燥したもの。海藻緬と称する真っ黒なうどんなどなど…。そのほか、少しでも澱粉、蛋白質、脂肪を含んでいるものは何でも口にした。だが、これらはじつに不味くて閉口した。

 人々は食べ物を捜して血まなこになっていた。とくに主食のほうは相変わらず慢性的に不足していて、食べ物の心配をしなければならなかった。
「ああ、食べるものが欲しい」
 と、呻くように呟いていた。

 お百姓さんの稲刈りあとの落穂拾いにも行った。僅かであるが “塵も積もれば山となる” で持ち帰り一升瓶に詰めて棒切れで脱穀した。これで暫らくは食いつなげる。さつま芋堀りがあれば芋づるを貰い、外皮を剥ぎ茹でて保存食にした。

 食べ物を得るためには恥も外聞も無い。これも立派な主食である。麦ご飯が炊き上がると上層に集まった麦をよけ、真ん中の米の多いところを掘り取って茶碗によそるので、よく母に叱られた。米が乏しく白米食ならおかずも不要で、何でもいいから、一度、満腹してみたいと思っていた。

 食糧をいかに確保するかが一番の難事で、母はいつも調達に苦労していた。父が終戦の年に死んでしまったので、主食の買出しは長男である私の役目だった。勤務の余暇に、リュックを担ぎ、殺人的な満員列車に詰め込まれて、食糧の買出しに出かけた。

 山深い信州の山道で、ずっしりと肩に食い込むリュックを背負って、山を見上げたその途端、冬山の荘厳さに圧倒され、電気に打たれたようにその場に立ち竦んでしまったことがある。まじかに見上げた冬山の姿を、いまでもはっきり思い出すことができる。

 お米や薩摩芋などの買出しに田舎へ行く。違法行為であっても自分たちの身を守るためにはそれしかない。各駅では取締りのため、警察官が目を光らせている。運悪く見つかれば没収である。

 ときには帰りに駅で長時間待たされたり、汽車が途中で動かなくなったりと苦労させられたが、とくに辛かったのは、重いリュックを背負って駅まで来ると、取締りの警官らしいのがいる場合である。見つかると全部没収されかねない。

 そうゆうときは回り道をして隣りの駅まで歩いた。ある日のこと、私は中央線の松本まで買出しに出かけた。駅から何キロも離れた農村でリュックいっぱいの米を分けてもらい、母の喜ぶ顔を思い浮かべながら帰りの汽車に乗り込んだ。夕方、名古屋駅に着いて、「アッ、しまった!」 と直感した。

 通路で五、六人の警官が一斉取締りをしているではないか。それらしい荷物を持った者は一列に並んで調べられている。私もその場で御用になってしまった。汗とともに背負ってきたリュックの米は、全部、強制買い上げされて悔しい思いをしたことがある。

 あの当時は買出し人と取締り警官のイタチごっこだったが、何十回となく買い出しに行った中の一場面を苦々しく思い出すのである。あの食糧難時代からまだ半世紀しかたっていない。

 飽食の現代ではとても想像できないが、いかに食に飢えていたかを語っても、もう今の若い人にはあまり通じなくなってしまった。私たちの世代は僅か半世紀の間に、この両極端を体験したことになる。当時は白米などは無縁に等しかった。

 終戦前後のあの飢餓時代を思えばもったいない話だが、いまは純白のご飯が当たりまえの時代になった。光沢があり、ふっくらとしたササニシキや、コシヒカリなどのブランド米を、品種を選んで食べている。

 食糧難を経験した者には 「白米ごはん」 はこんなにも美味しいものかという感動がある。というのも育ち盛りに口にした主食が、もっぱら芋やカボチャであり、未精白の押麦やフスマパンばかりだったからだ。

 私がいままでいちばん感動したのは、終戦直後に駅裏のヤミ市で食べた銀シャリである。世の中にこんな美味しいものがあるのかと思った。ヤミ米で炊いたご飯はキラキラと銀色に輝いていた。長い欠乏の末に味わったあの感動は、もう二度と無いだろう。

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   藤根鍵市
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