【少年期 第二部】 ● 小学生のころ(低)
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● 遠泳大会
● 幼馴染
● 庄内川


【 小 学 生 の こ ろ (低 学 年) 】

そ の 一 「通 信 簿」

 小学校の入学式は、嬉しくって付き添いの母より先に駆け出し、ピカピカの校章をつけた学帽を被りゴムマリの弾んだような足取りで、仲良しのМ子と手をつないで憧れの校門をくぐった。

 一年生の学級編成は男子ばかりの 「男組」 と女子ばかりの 「女組」 と、人数の関係で男子、女子が半々の 「混合組」 の三学級だった。私は 「男組」 に編入され、担任の先生は坊主頭で黒の詰襟服を着た男のY先生だった。

 新入生の真新しい国語の本は 「ハナハトマメマス」 から始まるハナハト読本で、表紙は白だったのを覚えている。

 「ハナハト読本」 は大正期から昭和初期にかけて使用された国語読本の愛称で、正式名称は「尋常小学国語読本」。

 巻一の冒頭が 「ハナハトマメマス」 から始まるためこの愛称がついた。
                             ハ ナ ハ ト 読 本

 大正7年より使われていた 「ハナハト読本」 は、とても簡単な物ばかりの内容だった。

 私は四月生れで、みんなより多少なりとも早く生まれている。体も大きく、クラスのなかでは目立つ存在だった。だからすぐガキ大将になった。おまけに慌て者で忘れ物の名人だった。必ず忘れ物をする。

 いつだったかランドセルを忘れ学校へ行ったことがある。これには親も先生もあきれ返った。友だちには笑われるし、学期末の通信簿には 「集中力に欠ける」 と書かれた。

 それほどデキの悪い子ではなかったが、なにしろ腕白で正義感が妙に強く、無法者と取っ組み合いの喧嘩も辞さない子供だった。そして、じっとしているのが苦手だった。きっと授業中も落ち着かない生徒だったに違いない。

 私は 「よく勉強のできる子」 だったが、宿題を忘れたり、遅刻したり、授業中に騒いだりして、いつも立たされていた。教室内で立たされることが多かったが、あるとき掃除当番をサボって、
「廊下で立っとれ!」
 と、厳しい口調で先生に命令された。

 水を張ったバケツを両手に下げて、ひとりしょんぼりと廊下の片隅で立っていた。これは罰としては最高刑だった。それでも素行はちょとも改まらない。

 授業の休み時間に職員室に立たされたりして屈辱を味わった。だが、なぜ立たされたのか理由が理解できていたので 「ちくしょー」 とかは思っていたが、先生に反発することはなかった。

 一学期が終わる日の教室は、ふだんより賑やかだ。騒がしいだけでなく、何だかみんなそわそわした様子だった。生まれてはじめての通信簿と夏休みで、おしゃべりの話題は、そのことに集中した。

 終業式のベルが鳴って廊下で身長順に並んでいても、胸がドキドキワクワクでいっぱいのまま、隣のクラスが歩き出すのを待っていた。終業式が終わって教室に戻ると、まわりの席でみんなが通信簿を見せっこしている。

 私も二つ折れになった通信簿をそっと開いてみた。驚いたことに、ほかの科目はだいたい 「甲」 が多いのに、なんと操行だけが 「丙」 だった。これでは恥ずかしくて、友だちに見せることもできない。私はそっと通信簿をカバンの中にしまった。

そ の 二 「祖 父 の 死」

 その夏休みの宿題にセミの標本を作った。私たちの周囲には、手つかずの自然がふんだんに残されていて、原っぱの近くの松林でセミがよく捕れた。林に入ってセミを追っていると、偶然、松の根元からセミの幼虫が這い出しているのを見つけた。

 そっと掘り出して、狭い台所のカーテンにつかまらせておいた。翌朝、そのセミの幼虫が羽化して部屋中を飛びまわり、食事の支度に起きてきた母が腰を抜かしそうになったことがある。

 あとでさんざん叱られたが、幼虫の背中がぱくっと割れて、出てきたセミの濡れたような透明な羽根を見たときの感動は、いまだに忘れられない。楽しみながら命の不思議さや、いとしさに触れたひと夏だった。

 暗いじめじめした地中から這い出して羽化したセミたちは、太陽の下で、何日、生きられたのだろう。ようやく陽の当たるところへ出てきたセミたちは、そのあと虫かごに閉じ込められ、家の中で短い一生を終えて宿題の標本にされた。

 一年生のうちで一番よく覚えているのは遠足である。テルテル坊主を軒先につるし、翌朝、リュックを背負って大張りきりで校庭に整列した。遠足は動物園だった。その当時、名古屋の動物園は鶴舞公園の中にあって、虎やライオンなど、初めて見る動物に異常なほどの興奮を覚えた。

 遠足が終わったあと、何でもいいから遠足について綴り方を書くようにと、宿題が出された。全文は覚えていないが、最初の書き出しは、

「キョウハタノシイエンソクデス。ボクハウレシクテ、ウレシクテ、タマリマセンデシタ。オベントウハ、オカアサンガツクッテクレマシタ……」

 と、確かそんなふうに書いたことは、いまでも記憶している。

 先生はこの表現が気に入ったのか、クラス全員のまえで私の作文をゆっくり読んでくれた。そして、読み終わると、
「たいへんよく書けています」
 と、ほめてくれた。

 むろんほめられて悪い気はしない。子供心にも嬉しかったことを覚えている。それからは綴り方が好きになり、得意科目の一つになっていった。二年生のとき学級編成で男女混合組に編入され級長を仰せつかった。

 一学期から算数で九九を覚え、三学期になると計算はもっぱら掛け算だった。そして、国語は 「ひらがな」 になった。一生懸命、鉛筆の芯をなめなめ書いた。あまり上手に書けないので消しゴムで何度も消す。

 消しゴムのない子は指の先にツバをつけて擦るので、ノートに穴があいてしまう。そんなことも下敷きの使用で無くなった。セルロイドの下敷には時間割が印刷されていて、これを使えば鉛筆が滑らかにすべって、字がうまく書ける。もうツバをつけて指で消すこともなかった。

 そのころ鉛筆を削るのは 「肥後の守」 と称する折り畳み式の小刀か、斜めに刃のついた 「切り出し」 ぐらいだった。ハンドル式の鉛筆削りが出現するのはずっと後で、これ以外のものでは携帯用の鉛筆削りしかなかった。

 この携帯用の鉛筆削り器は、マッチ箱大のものに刃のついた穴が開いていて、この穴に鉛筆を突っ込んで、鉛筆のほうを強引にまわして削るのである。お昼のご飯はいまと違って学校給食はなく、めいめい持参した弁当を食べていた。

 家が近くのものは帰って食べたり、なかにはご飯だけ入っている弁当箱を持ってくる者もいた。そいつの机の中には梅干と、佃煮の瓶がいつも置いてあって、それをおかずにして食べるのである。クラスに裕福な商家の息子がいて、昼休みになると、お手伝いさんが弁当を持ってやってくる。

 給仕をしてその子が食べ終わると、なんとデザートのリンゴまで剥いて食べさせていた。その一方で、家が貧しくて昼飯が食えない子もいた。どういうきっかけだったか忘れたが、クラスにそんな子がいるのに気づいた。

 その子は自宅に帰って食べた振りをしていたが、じつは家には帰らず、校門を出てその辺をぶらぶらし、適当な時間に教室に戻ってくる。あるとき、私は持っていた玄米パンを、その子にさりげなく差し出した。

「ん……。C君、食えよ」
 と言ったら、無言でその手を払いのけられた。ひもじい思いをしても同情はいらないという、彼なりの意地があったのだろう。無理やり押しつけたら、心なしか目が潤んでいた。

 二年生の三学期に祖父が七十二歳で他界した。私にとっては優しい祖父という思い出しかなく、その死をどう受け止めたのかもよく覚えていない。何しろ私がはじめて身近に眺めた死者だった。

 医者が去り、奥の六畳間に祖父の遺体が残されたとき、私はそっと障子を開けて中を覗いてみた。祖父の様子はいつもと変わらない。顔色もほんの少し青ずんでいたが、目をつむって眠っているように見えた。

 私は小さな声でそっと、
「おじいちゃん……」
 と、親しみを込めて呼んでみた。その時、動くはずのない瞼がぴくりと震えたように感じた。

 その瞬間、私は激しい恐怖に見舞われた。もちろん錯覚だったに違いない。だが、思いがけなく 「おじいちゃんが、目を開けて、こちらを見たらどうしよう……」 と、そんな不安が強い現実をともなって頭の中を駆け巡り、予期しない戦慄におびえて、あわてて障子を閉めた。

 そんな情景をこのあと何度か夢に見た。夢というより、あの時の状況が心の中に潜んでいて、ときおり記憶を鮮明に蘇らせるのである。こうした体験があったからか小学生のときの出来事として、真っ先に思い出すのが祖父の死である。

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