【少年期 第三部】 ● 昔のお正月
● 喧嘩の履歴書
● 十四歳の選択
● 旧制中学
● 白いスパイク
● 国防競技
● 学徒動員
● 0さんのこと
● 父の寡黙


【 昔 の お 正 月 】

 そ の 一 「正 月 三 ヶ 日」

 大晦日から一夜明ければ、いよいよ子供たちが待ちに待ったお正月である。私が子供の頃といえばまだ昭和の一桁で、その当時の日本は貧しく、庶民はあくせく働き、質素が美徳の時代だった。だから普段の暮らしで楽しいことはあまりなかった。

 そんな中で楽しかったことといえば何といってもお正月で、この歳になってもお正月を迎えるたびに、幼き日の光景を鮮やかに思い出す。私の少年時代はよくお正月に雪が積もり本当に寒かった。寒さが身にしみた。いくら体を動かしても両手、両足の先は凍えっ放しだった。

 耳にはかさぶたができるし、アカギレや霜焼けで手や足の指に包帯を巻いていた。そんな気象条件だった。でもお正月といえば、一年で飛びっきり楽しい日で、それは嬉しさと一緒になってやってきた。

 せめてお正月だけは、年の初めの目出度さを祝って、楽しく過そうという気持ちからか、大人たちも必要以上に目出度がった。そんな気持ちが子供たちにも伝わって、私たちも嬉しさがてんこ盛りのお正月だった。お正月は何をしても親に叱られない。

 みんな機嫌よくしていた。何か事情を抱えていても、三ヶ日は機嫌よくしていなければならない。普段なら転んで泣く子もぐっとこらえる。正月早々、涙を流すと、その年は泣き年といって、悲しいことばかりあるという意味である。誰だってそんな一年は望まない。

 だから無闇に笑う。おかしくなくっても笑った。いつもは四六時中、忙しく立ち働いている母も三ヶ日は、とりわけおっとり上品に振舞い、子供たちにも小言を言わない。のみならずいっしょになって遊んでくれるのが嬉しかった。

 お正月の家々の門口には松飾りがあり、子供たちはコマやタコ揚げに興じた。子供心にお正月は何か素晴らしいことが訪れてくるようで、胸がワクワクした。どこの家でも元旦は取り敢えず休息する。年始まわりも二日か三日から始めて、松飾りがとれる七日までならよろしいという決まりだった。

 わが家でも正月三ヶ日は休養の日だった。だから、お正月が来ると時間がゆったり流れて、これが限りない喜びだった。子供のころのお正月は休む日だと単純に思っていたし、大人たちも正月を特別な休日として尊んだのか、元旦は一日中、包丁とか箒は使わず、家事は一切しなかった。

 そして、外出も遠慮した。生け花の習慣がない私の家でも、正月だけは松とか万両などの生け花が飾られ、お正月らしい雰囲気が漂っていた。お正月の行事のおもだったことは男の役目で、すべて家長の父が取り仕切った。元旦はまず若水を汲むことから始まる。

 寝正月とはいかなかったようで、一家の主である父は早朝に起きて長屋の共同井戸から若水を汲んだ。父が汲んだ若水を母が茶釜に入れて沸かす。中に小粒の梅干と大豆、それに山椒の実が少々入っていて、それを福茶と称して三ヶ日は勿論のこと、松飾りのとれる七日まで毎日飲まされた。

そ の 二 「初 詣 で」

 わが家にも神棚と並べて恵方棚があった。父がお灯明をともし、家族の者みんなが揃ったところで、「明けましておめでとうございます」と、お正月の挨拶をする。挨拶がすむと父に従い、家族全員が近くの白山神社へ初詣でに出かける。

 朝早くから鳥居をくぐってくる人々の数が徐々に増えてきて、社殿のまえでは焚き火を囲んだ参詣人が暖をとっていた。父は若いころ神官になろうとして修行していたくらいだから、信仰心があつかったようだ。

 まず、私たちを拝殿のまえに整列させると 「高天原にいづまリます、いざなぎ、いざなみのおおかみにもう申す……」 と、大声で祝詞を唱え始める。何事かと参詣に来る人がじろじろ見るので恥ずかしくて困った。

 それはそれでいいのだが、朝早くから何も食べずに神社に行くのは辛かった。白山社から帰ったあとは、早速、お雑煮をいただく。母はこざっぱりした着物に着替え、私たちもきちんと身なりを整えて雑煮の膳に向かう。家族全員がいつになく取り澄まして、他人行儀になるのがどことなくこそばゆく、おかしかった。

そ の 三 「年 賀 式」

 むかしの元旦は登校日になっていて、小学校の校庭で年賀式が行われた。紋付羽織に袴姿の町の有志や、軍服にいっぱい勲章をつけた在郷軍人など多くの人々が出席して、生徒たちとともに新しい年を寿ぐ。

 国旗掲揚のあと、君が代の斉唱、教育勅語の奉読、来賓の式辞とつづく。校長先生の教育勅語の奉読は、厳粛そのもので出席者全員が不動の姿勢で聞いた。

 だが、来賓の人たちの面白くもおかしくもない話を、寒風の下で、ながながと聞かされるのには閉口した。式の最後は全員声高らかに 「元旦の歌」 を歌った。

     ♪ 年の初めの ためしとて
         終わり無き世の めでたさを
       松竹立てて 門ごとに
         祝う今日こそ 楽しけれ ♪


 文語体の歌を、ところどころ意味不明になりながら歌った。あのころはオルガンの伴奏で、オルガンを弾く女の先生は引きずるような袴をはいていた。そして、式の帰りに紙袋に入ったお菓子がもらえた。式から帰ってくると、まず父からお年玉をもらう。

 そして、最初に叔母の家に年始に行く。何故かと言うと、男の子が元旦の朝、一番に年賀に来ることを吉として、お年玉を弾んでくれたからである。年始から帰ると、そそくさと昼飯をすませ、お年玉をポケットにねじ込み活動写真を見に出かける。お正月はこれが唯一の楽しみだった。

そ の 四 「活 動 写 真」

 町には二つの活動小屋があった。一つは大黒座といって、時折、浪曲などの実演もやっていた。私がたまに、父に連れて行ってもらったのが大黒座である。活動小屋に入ると、先ず便所の匂いがしたものだ。そして、コンクリの床を歩くカラコロという下駄の音。

 階段の下には下足番。休憩時間には、窓があけはなたれ、カーテンの透き間から青空が見えかくれしていた。下の客席は木製の長椅子。二階は少し料金が高く、ゆるく傾斜した板の間に茣蓙が敷いてあった。何銭か出して、小さな座布団や煙草盆を借りる人もいた。

 始まりのブザーが鳴ると、係の人が暗幕を閉じて歩く。客も手伝う。そのジーッ、ジーッという音を耳にすると、いささか緊張したものである。舞台の袖に弁士が登場すると、客は一斉に拍手する。そのころは活動写真といっていた。もちろんモノクロの無声で、忍者映画が全盛だった。

 当時は忍者を主人公にした “児雷也” という、リバイバルものが上映されていた。目玉の松ちゃんこと尾上松之助というのが当時の大スターだった。派手な衣装と髪型の忍者姿で大蛙の背に乗り、しきりに呪文を唱えると、突然、白煙が舞い上がる。

 九字を切ってパッと消えたり、ガマや大蛇を出して観衆をやんやと沸かせていたのだが、いまだに目玉の松ちゃんの憂いに満ちた瞳が、懐かしく思い出される。

 嵐寛寿郎主演の “月形半平太” というのもあって大ヒットした。弁士はスクリーンを見ながら登場人物の声となり、男や女の声色でセリフを喋る。

「月さま、雨が……」
「春雨じゃ、濡れていこう」
 東山三十六峰しずかに眠る丑三つどき、
 夜の静寂を破って突如として起こる剣戟のひびきィ……。

 と、観客を自然と映画に引き込んでいく。スクリーンに字幕は出るが、弁士の解説で物語が展開していく。この名調子にのって、オーケストラボックスから生演奏のチャンバラ音楽が聞こえてくると、もう手に汗握って熱心に見入った。

 いま思えば他愛ないものだが、この時代の若者たちを魅了して大評判だった。二階で見ていると、お尻が茣蓙の上を滑り、少しずつ前進して困った。 「おせんにキャラメル」 と言いながら、お婆さんが売りに来る。四角い岡持には、落花生やラムネも入っていた。

 スクリーンに 「完」 という字が出て、大きな拍手が起こる。と同時に、暗幕をあけるジーッ、ジーッという音が館内響きわたる。窓から差しこむ光線のまぶしさ外気の冷たさが、私たちを夢の世界から引き戻したのである。

 もちろん映画館は超満員である。映画を観て外に出ると、頭がくらくらして足がふらつく。人いきれで館内に二酸化炭素が充満し、酸欠状態におちいるせいだ。お正月はいつもそうなるのに懲りもせず出かけた。

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