【 幼 年 期 】 ● 父母の追憶
● ガンコ親父
● 母の面影
● 井 戸
● 閑所(かんしょ)
● 竹雲寺
● みちくさ
● 駄菓子屋
● 夕涼み


【 父 母 の 追 憶 】

        

              「昭 和 6 年」 後 列 右 端 父 母

 私には父と母はずっと以前から、いや最初から父と母であったような錯覚を持っていたが、父母にも当然、子供や青春の時代があったわけである。若いころから紙漉き職人だった父は大正十年(1921年)に結婚して、名古屋市西区の一角で所帯をもった。

 父24歳、母が23歳のときである。父はそのときすでに製紙業を営んでいた。それから五人の子をもうけることになる。正確には六人だが、最初の女の子は小さいとき、住んでいた長屋のそばの池にはまって死んでしまった。

 家に運び込まれたときは、とうにこときれていた。だが、父は泣きながら娘の口に顔を真っ赤にして大きな息を吹き込み、口を離しては名を呼び、また息の吹き込みを繰り返したそうだ。周囲が涙ながらに引き離すまで…。わずか二年の寿命だった。

「もう少し気をつけていれば、死なせることもなかったのに……」
 母はのちのちまで悔やんでいたようだ。
「可愛い子だったよ。義兄さんは大変悲しんで、しばらく仕事が手につかなくってねえ」
 と、かつて叔母が話してくれたことがある。

 私が生れて一ヶ月後の出来事であるから、もちろん私は知る由もないが、その姉とはすでにこの世で対面していたことになる。長女を亡くした父母の愛情は私に向けられ、その可愛がりようは一通りではなかったらしい。

 私のつぎに男の子が二人つづいて生れ、それから女の子が二人生れた。総勢五人の子持ちである。一番下の女の子が生れたとき、母は四十二歳だった。

「いい歳をして」
 と、世間体を気にして、しきりに恥じていたようだが、戦時中は生めよ殖やせよの時代だったので、国策にそったわけである。

 むかしは子供の死亡率も高く、そのうち何人かを病気で亡くすという家もよくあった。いつも子供のだれかが、何かの病気に罹っているというのが常態なので、親としては気の休まるときがなかったに違いない。

 父は明治三十年、母は明治三十一年生れで、いわばどちらも明治の中期よりやや後に生れた明治人間だ。西暦で言えば父は1892年、母はその一年後だから、二人とも前世紀からいたことになる。

 いまでは明治生れの人も少なくなって、滅多に会うこともないが、明治生れというと見るほうも特別の目で見たし、本人たちも確かに明治の気骨を持っていた。

 だが、私は父をそんなふうに見たことは一度もない。老人になるまえに死んでしまったし、私もまだ若かったからである。とにかく父は仕事一辺倒で、子供のしつけはすべて母に任せていたようだ。

 父はだいたい女性に優しく、わが子についても女の子を特に可愛がった。最初の女の子を亡くし、そのあと男の子が三人もつづいたものだから、つぎは女の子を期待していた。そこへ女の子が生れたので、父親の愛情はその子に注がれて、私たち男の子は浮き上がってしまったほどである。

 かつての母も 「もったいない」 が口ぐせだった。日々 「もったいない」 を繰り返した。モノを惜しむだけでなく、それが出来上がるまでの苦労に対する感謝の念を教えたのだろう。乏しい食事を粗末にする子らを厳しく叱った。その当時、多くの子供を抱えて生き抜くのは大変だったと思う。

 父は終戦の年に四十八歳の若さで、母は昭和五十四年に八十歳で亡くなった。父は明治を十四年間、大正を十四年間、昭和を二十年間と三つの時代をそれぞれ平均して割り振ったように生きた。

 母のそれは昭和の時代を長く生きたので、戦前、戦後から高度成長時代を経て、バラエティーに富んだ一生を送ったのではないだろうか。

 考えてみれば親もまた豊かではなかった。毎日汗して働き、明日のために祈り、なお、満たされることのない日々だった。苦しいその日暮らしの中で、快活に生きていた若き日の父と母は、細々と暮らしの煙を立ててきた。

 立ち止まることなく身を労働にさらし、それでもなお輝いていた父や母のことを、知ってか知らでか、ただ、じっと無心に見つめていた、あの遠い日の幼いころの貧しい暮らし向きが思い出される。かえりみて自分も似たようなものだと天を仰ぐ。

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   藤根鍵市
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