パラドックス系               Management Of The Absurd
 行動心理学による新ビジネス発想法      Pradoxes in Leadership
 リチャード・ファースン           Richard Farson
 早川書房
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 ◎逆説と不条理をもろに抱きとめろ
 
 確固として不動、しかも心身を癒し、有益な唯一の真理は、不条理性のみである。
 〜アンドリュー・サーモン〜
 
・不条理さ(absurdity)と愚かさ(stupidty)の違い
 愚かさは一つの行動、誤っていて無能であり、事実を認識出来ない振るまいを指す。
それは、愚鈍さのことであり、人間に可能なすべての感覚を必ずしも有していない事から来る無感覚性のことを指す言葉。愚かさは誰か別の人間がそれをみれば正しいやり方が容易にわかる。他方、不条理さは一定の状況における本質的な人間性そのものから生じてくる。在来型の思考法と矛盾し、それは通常、一つの問題というよりも、一つのジレンマをもって対決を迫ってくる。極めて優秀な人材であっても、解決をはっきりと言いきることができない。コントロールも不可能であり、しようとする企ての矛先をくじいてしまう。
 逆説性と不条理性は人間が組織に集う限り、我々とともにいつも存在するものなのである。
 
1◇ 深遠な真理は、その逆もまた真である
 
 科学などで築いてきた合理的な考え方は、一方でわれわれを制約もしてきている。いつしか気づかぬうちに直線的になり、分類や範疇を重視する論理の動物となってしまった。物事は良いか悪いか、正しいか誤っているかのいずれかであり、両方同時ということはありえないというわけである。しかし、相対立する二物ほど密接に関連しているものもない。 例えば、組織が健康であるためには、正しいコミュニケーションが充分行われていることが肝要であるが、健康であるためには、「歪み」も「騙し」もまた必要である。労働者は「歪み」や「騙し」の結果、自分たちのリーダーには自信があり、公正で、有能であると信じるようになるので、リーダーシップが必要とする根固めができ、トップリーダーは組織内で労働者層をめぐる些細な問題やどうでもいい小さな失敗など耳にしなくてもすめば、かえって心が乱されず、身を守ることができる。
 人間の営みにおいては、何らかの形での騙しはむしろ常態的な存在であって例外などではない。たいていの場合、それは嘘をついているとはみなされない。なぜならそれは、純粋な正直さにかけているもの、すなわち人間の意思伝達の錯雑さや、人間関係のバランスを保つために人間があれこれ巧みに操作しなければならない様々な方法を補うものだからである。対局にあるものの共存を素直に認められるようになれば、正直と欺瞞とが、ある逆説的な方法でともに機能し作用していることが理解できる。
 
・反対のものが高めあう
 反対物は共存しうるだけでなく、お互いを「強め、高めあう」こともある。苦と楽で例にとると、かゆいところを掻くという行為にはその両方が含まれている。かゆいことは嫌なことであり苦である。しかし、掻くのは楽であり、また苦でもあり、その両方が同時に出てくる。仮にかゆいところをあまりにも長く掻きすぎると、逆に大変な苦痛となって楽ではなくなる。だが両者が共存し、一体化している瞬間もある。真理と虚偽も、善と悪も、またこれと同じなのである。
 
2◇ 明白なものほど見えにくい
 
 巨大なトラックが低い橋梁の下で立ち往生して警察官たちが頭を抱えていた時に、一人の小さな子供のアドヴァイスによって動かすことができたという話を聞いたことがある。この少年は、現場を調べてから、妥当な(明白な)提案をしたのだが、それはタイヤの空気を少し抜けば、トラックの高さを低くできるというものであった。この少年が立証したように、見えざる明白さというものは、コロンブスの卵と同じであり、誰の手によっても見えるようになり得るものなのである。これを行うことが、組織にとって最も貴重な貢献となることが多い。だが、それには、伝統にとらわれない発想を必要とする。深く根付いたイデオロギーや文化に根ざした価値観、視野の狭さ、ごく限られたことしか受け止めず見ようとしないこと、他人の判断への盲従、これらはすべて、実際に動いている事柄を見抜こうとする際の障壁となる。そして、見えなかった明白な事象がひとたび指摘されると、われわれは次の二つの反応のいずれかをしがちである。それを無視または拒否するか、あるいはあたかもそんなことは前からずっと知っていたといわんばかりに、「もちろんそうさ」とうそぶくのである。
 
3◇ 重要な問題ほどスキルの問題ではなくなる
 
 親であることはマネジメントの特殊なケースの一つである。何人かの大人にそれぞれの子供時代の両親からの扱われ方等について聞いた場合、その回想の中で最も重要と思われる特徴は、親としての技術とかスキルとか世間一般が考えているものは何一つとしてあらわれてこない。たいていの場合、親が意図したことでない行為や、子供の発達のために良かれと思った事柄などは出てこなかった。むしろ、皆が覚えていた両親の行動というのは、自然発生的な、またその場で思いついた類のものや、全ての規則を破るようなものであった。こうした瞬間が記憶に残っているのは、子供が通常、両親から得ていたのとは異なったものだからである。これは、マネジメントの場合でも当てはまる。
 
・自然体こそ本来の道筋
 親の場合でもマネジメントの場合でも共に、われわれが「何かする」ではなくて、「どうである」かが肝心なのである。親が意図して行うことは、結果的には、ほとんど違いらしいものを生み出してはいない。すなわち、子供が大きくなって幸せになるか不幸せになるか、成功するか失敗するか、良くなるか悪くなるか、ということとはほとんど関係ない。本当に重要なのは親のあるがままのあり方なのである。例えば、子どもに対して心遣いをしたり心配をしたりするか、それとも冷淡で無関心でいるか、ということである。たいていの子供は親が望むと望まざるとにかかわらず、自分の親と同じような性格を身につけるものなのである。
 経営やリーダーシップにおいても、同じような動きが起こる。部下として働く人々は、マネジャーのあり方を学び、それに対応する。いったん立ち止まってこの点を考えてみるならば、こうした自然体でのあり方のほうがおそらく本来的な道筋だといえよう。われわれが、自分の真実のあり方ではなくて、何か特別なものを伝える技術などをもし持っているとしたら、これこそまさに空恐ろしい世界だといえる。
 
4◇ うまくいっている経営技法があったら、それはやめなさい
 
 たいていの技法なるものは、それが用いられる前後の流れの中から効果を生み出すも
のである。すなわち、これまでの姿と対照的であればあるほど効果的なのである。
 ひとつの気持ちを伝えるために意識的に行使される技法は、無意識のうちに同時に発信されるところの、より深く、またそれと反対の感情によってひっくり返されてしまう。その結果出てくるメッセージの混乱は、受け手の気持ちを困惑させ、当惑させる。確固不動たる決意や、親愛の情や、注目していることを伝えようとメッセージを出しても、それとは正反対の気持ちがより真実に近い時は、そうした努力は徒労に終わる。
 また、こちらが望む行動を生み出すテクニックは非常にリスクの高いアプローチであり、敬意の念や信頼感を、むしろ、失いやすい方法であるといえる。うまくいったとしても、それは相手側が愚かにも騙されたことになり、その結果、相手に対する敬意の念が失われることになる。しかも「操作すべき」と考えても、それが出来ないときには、事態はより悪化する。
 さまざまなテクニックで武装して状況に望むのではなく、自由で純粋な反応が流れ出てくるような開かれた気持ちで臨む能力が大事なのである。より秀でたマネジャーはテクニックを「超越する」。プロとして多くの技法は身につけたとしても、そうしたテクニックを超え、それを自分の背後にのこしておいてこそ、本当に成功するのである。
 
・本音は相手にも必ずわかる
 人間行動における「相互性の原則」というものがある。時間の経過につれて、人間はお互い同じ様な態度を共有するという原則である。すなわち、相手を低く評価していれば、しばらくの間は相手の方は自分を高く見ていてくれるだろうが、こうした高い評価がずっと長続きすることはありえない。最後には、こちらが相手に抱くのと同じ様な気持ちを相手が持つに至るからである。
 これが、人間関係の「テクノロジー」をめぐるもう一つの落とし穴なのである。自分は相手を尊敬していないのに、本当の感情を押し隠したまま、相手から尊敬されるような技法を手に入れられるなどと決して信じてはいけない。
 コミュニケーション技術をものにすれば、コミュニケーションしている相手をコントロールする方法が身につけられると考えられる人がいる。しかし、こうしたものはいずれも自己欺瞞と五十歩百歩である。最後には、相手はこちらの本音を発見する。純粋な尊敬の気持ちを持っていれば、その感情は手練手管や術策を弄しなくても伝わっていくし、また、このことは相手にとっても同じことなのである。
 
5◇ 有能な上司はコントロールなどしない
 
 コントロールと人間操縦のテクニックに基づくマネジメントでは、これまで述べてきたような不条理な事態にうまく対応することはできない。しかし、そうかといってマネジャーが全く行き場や出番がなくなるということではない。コントロールに頼りきっている者だけが行き場を失うのである。
 
・傷つきやすさこそ上司には必要
 結婚とか育児とか教育とかリーダーシップといったわれわれ人間の重要な営みは、ときとしてコントロールを「失う」ことがあるが、どうしたらいいかわからないような個人としての傷つきやすさや脆さが増したときの方が結果はうまくいくことが多い。この現象を説明するには、お互い向き合っているのは一人の生身の人間同士なのであるということに認識することある。ここで、テクニックなるものが不適切であるという問題が絡んでくる。
 例として誘惑とロマンスの違いを考えてみたい。誘惑するにはテクニックが必要だが、ロマンスにおいては手練手管は無用の長物である。傷つき、我を忘れ、運命に弄ばれ、嫉妬に身を焦がし、舞いあがらんばかりの恍惚感に浸ったかと思うと苦悩のどん底に突き落とされ、...というようなすべての体験がロマンスを生み出すものである。もしも、こうしたノウハウなどを知っているとすれば、それはロマンスではなくて誘惑にしかすぎない。どうしたらいいかわからないのがロマンスを生むものなのである。
 何か動きや働きがわかりはじめると、すぐそれを動かし得ると考えがちである。これは、物理的な世界においては正しいかもしれないが、人間関係においては、真理からはるかに遠ざかったものだといえる。例えば、人間がどう成長するかを知ったとしても、それが即子供を成長させるノウハウがわかったことにはならない。
 基本的な点からすれば、人間関係の進め方とかといった人間としてのあり方を学ぶことはできないと言える。人間が人間らしくあるための根本的条件は、未来の予測などできず、弱くて傷つきやすい心を持ち、いつもびっくりさせられ、また恋人や子供や同僚を管理したりコントロールすることができないというところにある。他人を意のままに動かす方法を知り得ないということが幸せであり、できるなどと考えることはむしろ恐ろしくさえある。
 多くの人々は、マネジャーとして、あたかも粘土をこねてこうあってほしいという形にはめ込むように、従業員を自分のスキルでもって思うがままに形作れると考えている。しかし、物事の本当の動き方は決してそういったものではない。従業員はむしろ大きな粘土の塊や山であって、その上にマネジャーが落下して、様々な人それぞれの人型を残すようなものであり、しかもそこにできる痕跡は、こちらが残したいと思った痕跡とは違ったものなのだ。
 
6◇ 問題のほとんどは問題ではない
 
 「問題(problem)」に直面するのと「苦境(pledicament)」に立っていることの二つを区別することは大切なことである。問題は解決しうるが、苦境という状態には、何とか耐えて事態を受け止め、曲がりなりに対処する以外手だてはない。人生の多くの事柄、特に身近にあって重要なことは複雑に絡み合って、逃れることのできないジレンマそのものであり、いくらほかに選択肢があるといっても、いずれも似たりよったりで、さほどましなものとは思えない、まさしく苦境や難局といえるような業のような閉塞状況である。
 問題というのは、失敗とかいやな経験によって、事柄が誤った方向にいくことにより作り出されるものであり、原因さえ見つかれば正すことが出来る。しかし、苦境などという状態は、逆説的に聞こえるが、高く評価し、大事に思う諸条件によって作られるものなのである。
 犯罪を例にとると、人々は犯罪を「問題」として考えそうした罪を犯す心を生み出す要因として、幼年時代の経験などの根本的な原因を追求する。因果関係は単純なものほど好まれるので、ポルノや暴力シーンを見るといった原因から生じることを立証しようとする。 ところが、不条理性を中心に据えた考え方としては、犯罪は主として我々が放棄したくないと思っている社会現象〜豊かさ、都市化、流動性、自由、物質主義、個人的自由、進歩等...によって存在している苦境として考える。
 苦境や難局に対しては、より創造的な発想法が必要である。苦境に対処するには、ひとつの状況をめぐるより大きな枠組みを持ち、数多くの文脈の中でそれを理解し、またより深いところまでその本質を見抜き、しばしばあい矛盾するような原因と結果までしっかりと掴み取る能力が要求される。残念ながら、こうした難局状況を手際よくスムースに処理するなどということはできない相談なのである。
 
7◇ 技術は意図した狙いとは正反対のものを生み出す
 
 テクノロジーは、数えきれないほどの多くの方法でわれわれを助けてはくれるが、他方、必ず逆効果をもたらす。技術が逆効果をもたらす問題は、科学のさまざまな分野において広く見られる。一つの技術を適用するたびに、必ずや意図したところとは正反対の、拮抗勢力が生まれてくる。ここで危険なことは、技術を使うことに夢中になるあまりに、それが招く結果を考えなかったり、その製法に惚れ込むあまりに、製品そのものに目がいかなくなることである。
 
8◇ われわれは技術を作り出したと思っているが、技術のほうもわれわれを作り出している
 
 自動車やコンピューターの発達など技術により人々は変化させられている。われわれはこれまでとは異なった存在となり、また将来も変化しつづけていくだろう。これまで技術はごく自然なもので、人間にとっても穏やかな存在であり、人間は技術をコントロール下に置くことができ、問題となるのはその利用法だけだと考えられてきた。しかし、それは誤りである。技術はそれ自身の生命を創り出す。それ自身の自律性をもつ。しかも、技術は今更捨てることはできない。ほんの少し考えれば、自動車をテレビをあるいはコンピューターをすべて放棄することなど到底不可能なことがわかるだろう。
 テクノロジーは、あたかも止めることの出来ない巨大な車のように、われわれを乗り越えていき、それに対して影響を与えられる可能性は非常に小さい。そのうえ、技術の応用から導き出される結果は、期待されたところと異なるどころか、意図したものの正反対になることの方が多い。このことをしっかり理解することによってのみ、マネージャーは技術を賢明な形で利用し、その影響を評価し、それがもたらす予期せざる結果に対して理性的に対処する準備ができるのである。
 
9◇ 伝えれば伝えるほど伝わらない
 
 すべては良く話しあえば事態はより良くなるという考え方は、人間関係の中で最も広く受け入れられていると思うが、正しくもあり、間違ってもいる。
 全てのコミュニケーションの流れがオープンになると、問題解決能力は著しく低下し、最終的には実質上麻痺してしまうことがある。コミュニケーションにはいつも最適なレベルがあり、それをある程度以上越えると、機能不全に陥るということである。コミュニケーションにも一定の限界があるのだ。
 また、完全なるコミュニケーションとは、まことに退屈きわまりないものとなりうる。これは正確なコミュニケーションを達成しようとすると話し合いをめぐる熱は冷め、お互いを完全に理解しうるようにはなるものの、人の息をつまらせるのである。
 多くのコミュニケーションの問題は実のところ権力の均衡化の問題である。力関係で大きな不均衡が存在する場に、完全にオープンなコミュニケーションを取り入れようとすることは賢明な策ではない。強者の力を一層増大させ、弱者の力を低下させる。忌憚のないコミュニケーションができ、それを行うべき時は、勢力の均衡が比較的良くとれていて、お互いに平等に近いときのみである。
 
10◇ コミュニケーションにおいては中味よりも形式が大事だ
 
 中味が全く同一であっても、書かれたメッセージは話されたものよりも重みを持ち、またタイプで、さらには印刷したほうがより貫禄がある。表現形態が言葉そのものよりも重要に思えるくらいである。
 こうした現象を微妙な形で伝える例として、「メタ・メッセージ(黙示の隠れた超越的メッセージ)」と呼ぶものが挙げられる。はっきりと目に見えるものではないが、にも関わらずその存在を否定することはできない。学校で覚えた歴史や数学の勉強は忘れることはあっても、静かにして座っているとか手を挙げるとか順番にならぶとかは決して忘れない。それというのも、実際のカリキュラムの一部としてではなく、儀式とか教育形態として学んだからである。人間の全ての面においてこの「メタ・メッセージ」は、メッセージそのものよりも強力になりやすい。もう一つの例としては、会議や打ち合わせの席順や形式により、その参画性や議論の展開の仕方まで変わってくる。
 このことは、われわれは自分が言ったり書いたりすることの中味にのみ拘泥しがちなために、とかく形式を忘れやすいことを教えてくれる。感情とか儀式とか取り決めといった全てのことは、一つの経験を組織化し、伝え合う方法の中に込められているものだが、到底無視できない重要性を持っている。
 
11◇ 聴くことは話すことより難しい
 
 人の話を聴く時は、相手のいわんとすることだけに焦点を絞り、また相手がどう世の中をみているかに注意を集中させることになる。これは、自分の心のあり方が制限されていると感じやすい。通常、人間は円滑なコミュニケーションの流れの中で自由に行き来するには、心理的にも、より広いスペースが必要なのである。聴くことは、このような広がりをもった心理空間を否定してしまう。
 これは、ちょうど車を運転する場合と似ている。いつも道路にのみ焦点を当てて目を凝らしているわけではない。それではあまりにも狭すぎる。われわれが他人の話に耳を傾けないのは、聴き方が分からないのではなくて、聴くことが自分の心を制限すると感じているからである。
 また、聴くことはジレンマを生む。われわれは、世の中を一定の方法でみたいという強い要求を持っているので、真剣に人の話を聴くと、他人の見方を理解するようになるために、自分自身の見方の妥当性が問われて変えられてしまいそうだというリスクを冒す。同様に、自己防御機構を自覚し、他人を逆に変えたいという自分の衝動にも意識しなければならないことも意味する。時には、自己批判まで要求されるので長く続けるのは並大抵のことではない。聴くことは、信頼感や心を開くことや尊敬の念を強く要求するが、こうした特性は最も経験豊かな聞き手ですら維持することは難しい。
 
12◇ 人は褒めても、やる気を起こさない
 
 褒められたことが真に自分が勝ち取ったものでなかったり、それに値しないと思ったときは一般的に否定するが、この自己防衛的な反応は賞賛の中に脅迫の種子が混じっていることからである。褒めることにより、相手を動機づけ一定の方向に動かして変えようとしていることが多く、変革を強要されたり威嚇されたりすることにより不安にさせるのである。褒めることをめぐる根本的な問題は、いかにして信憑性を保つかである。これは、褒めることが、単に感謝や評価の念を素直に表すこと以外にも、あまりにも多くの目的のために乱用されてきたので、その価値がすり減ってきたからである。
<褒めることの特性>
・褒めることは相手の本当の価値を認めるよりも、相手の上に自分の地位を築きあげることにもなる。 
・賞賛は創造性を解放するよりも逆に制限する。
・賞賛は批判を伴うことが多い。
・褒めることは、個人間の橋渡しをするよりも、むしろ間に距離を置く。
・褒めることは接触を深める道を開く手段ではなく、むしろ閉じる手段である。
 (会話やインタビューを切り上げるサインとして実によく使われていることから分かる)
 
13◇行為はすべて力関係だ
 
 すべてのマネジメント上の行為は力関係を基にした「政治的な行為」である。部下が抱えている様々な問題を全て各人の個人的な問題と考えがちであるが、実際そうした問題の多くはその人が社会的な権力構造に占める地位に起因する場合が多い。現代社会は、各個人の資質など全くお構いなしに、実に多種多様な形態で人間を圧迫する。周りの環境は人々にさまざまな影響を与える。そうした生活環境を変えることがより効果を発揮する。
 さまざまな社会集団が自らの権利を獲得するために特定のグループを代表として登場することは、その社会がバラバラに分断されていることを意味している。あるグループの権利獲得は、共通の福利を犠牲する形で達成されていることが多い。各集団がそれぞれ権利を主張して競うと、各集団間での憎しみや反目が増幅される。コミュニティ全体の面倒をまとめてみることを考えずに、自分たちの集団の利害のみを追求するので、共通の福祉が犠牲になる。しかし、本当は、コミュニティ全体の保全と業績達成こそ最優先させるべきものなのである。さもないと、権利という概念そのものが意味を全く失ってしまう。コミュニティへのアクセスが絶たれていては、権利を論ずることなど到底できないのだ。
 全ての行為は政治的な行為であると認識することは、時には不条理きわまりなく、全てを麻痺させることのように思える。しかも、グループ・ポリティクスからの諸要求は、マネージャーが毎日直面する、ただでさえ複雑な現実をより一層こんがらがったものにしてしまう。にもかかわらず、こうしたものから、目を背けることはできない。組織全体の安定と成功を確実なものにするための適切な判断力を行使することによって、こうした問題に対する適応調整能力をバランスのとれたものにしなければならない。
 
14◇ 問題解決への最善のカギは、その問題を出してくる人やグループ自身が持っている
 
 問題を全面的に掌握出来るのは、それを経験した人のみである。問題を抱えた人こそ、
それをどう処理するかについて一番良い立場にいるのである。
 参加型経営は、当の従業員は経営者が考えているより優れた存在であり、賢明な選択をするにあたって充分頼りになりうるという考え方に基づいている。
 しかし、ここにもう一つのパラドックスが横たわっている。参加型アプローチが効果的なことは広く意見の一致をみているが、めったに実施されることはないという矛盾である。 その理由にマネージャーが自分自身の専門能力が形無しになるのを嫌うからというのも答えのひとつであるが、他にもある。参加型経営は、グループへの信頼に立脚している。また、グループが参加型経営を実践する力をつけるまでには途方もない時間と忍耐を要する。
 また、参加型方式の階層秩序方式との違いは、リスクの評価法と意思決定法が違うだけではなくて、人間の取扱いかたまで異なる点にある。高度の参加型システムを導入することは、集団内のより強いメンバーを攻撃する傾向を強める。その標的となるのはリーダーであることが多い。一方、ヒエラルキーを中心とする階層秩序型システムにおいては、逆により弱いメンバーを攻撃するようになる。
 これにより、「資源保全」という考え方が必要となる。グループに対して、自分たちが有する最も貴重な資源は何か確認する問いかけから始めることとなるが、答えはたいがい人的資源であり、普通の場合、それはグループリーダーとそのグループの中で最も創造的な人々のことである。これを行って、その資源を守り、高め、保存する方法を探求することにより、貴重な存在に対して自主的に感謝の念や、尊敬の気持ちを表す必要があることに気がつく。こうしたプロセスを踏まえることで、もっと根本的な問題点について討議を深めていく基盤が作りだされるのである。
 
15◇ 助力が最も必要な組織は、そうした助力から得ることが最も得ることが少ない
 
 本当に困っている会社は、普通は外部からの助力を求めようとはしない。たとえ、求めたとしてもそこからメリットはなかなか生まれてこない。こうした状況は、精神療法についてもいえる。精神療法は通常、重度の精神病に冒された人には役立たない。むしろ健康な人にこそ、より効果がある。心理的に健康であればあるほど、あるいは変わる必要があまりないほうが、変革の可能性は大きい。本来必要とされる人ほど、相当突っ込んだ自己の再検討をしなければならない。しかしそこまで陥ってしまった理由はそれに対する抵抗があまりに強く根深いことが多い。その心構えが出来ていないのにそういったことを求めても無駄というものである。
 
16◇ 個人はしたたかで崩しにくいが、組織は非常に脆弱だ
 
 個人は脆いという考え方が一般的に深く浸透しているがじつはしたたかで復元力がある。通常の機能レベルに回復しえないほどの損傷を受けることは少ない。それに対して組織は以外に脆い。組織の脆弱性をわれわれが認識できない理由の一つは、組織を動かしている人間関係が「生きている」という考え方を受け入れにくいからである。心理学者ですら、組織は単に個人の集合体にすぎないと考えることがある。しかし、人と人を結び付けている人間関係は、現実性のある生き物であって、それ自身の生命を持っているとすら言える。そして、その人間関係なるものが、かなりの程度まで組織行動と組織内における人々のあり方を決めるのである。
 また、われわれは、組織を手玉にとることなどできないと考えがちだが、新聞紙上にまずい記事が一つ出るだけで、たとえ官僚組織といえども痛烈な打撃を蒙ってしまう。巨大企業でも一つのまずい形での展開が深手を負い、場合によっては倒産もありうるのである。 人間に最も大きな打撃を与えるものは、人間関係がうまくいかないことである。親から見放されたり、結婚生活が破綻したり、上司とその齟齬をきたすなどの人間関係の失敗や、孤立、疎外、コミュニティの崩壊などという人間関係の欠落は、人生における大きな苦しみをもたらす。となると、個人に対処する最善の方法は、その人間関係を改善することだといえる。
 
17◇ 事態が良いときほど悪いと感じる
 
 人間に関する事柄を(満足をもたらすことを期待して)改善することは、満足ではなくむしろ不満足をもたらし、しかもその不満は、以前に存在したものよりもさらに高い次元のものになることが多い。革命の歴史がそうである。革命は最悪の条件下ではなくて、必ず諸条件が好転しはじめた後に起きる。すなわち、改革が行われ、指導層も育ち、一般大衆も将来に対する新しいヴィジョンが持てるようになってからである。人間は本当に惨めな時期を脱して初めて、事柄が改善されることを期待するがゆえに生まれるある種の不満を表に出すようになる。これは、歴史家が「期待向上理論」と呼ぶものである。それが、革命の炎を燃え上がらせるのだが、それは現実に手にしているものと、今や手に出来ると見てとってものとの間のギャップから生じてくる。このズレが不満の源泉となり、また変革へのエンジンともなるのである。
 苦情の有無に耳を傾けるのではなく、何に対して不満を訴えているのか、すなわち不満の質やレベルに関して耳を傾けなければならない。不健全な組織では、低い次元の愚痴(欠落要求)が出てくる。「給料が安すぎる」これに反してより健全な組織では、より高い次元の愚痴、すなわち自我を越えてより愛他的な心配事へと不満や苦情が広がり、高まっていく。「もっと厳しい安全基準がここでは必要だ」さらに高次元の愚痴においては、自己実現のニーズに関係のある苦情が現れてくる。「自分の才幹が生かされていないような気がする」考えてみれば不条理なことである。人々が充分に受け入れられ、その才能が充分に活用されている組織でなければ、こうした問題への不満は現れてこないからである。
 期待水準が高まることのパラドックスは、最高レベルの大学でこそ学内紛争や変革への要求が強いことを理解する一助となる。人種間の関係改善が最も進んだ都市でこそ人種間の緊張が高いことも、民主化が進んでいる国の方が国民から面倒極まる要求が出ることも説明がつく。 
 また、結婚においてもこれにより議論することが出来る。今や人々はこれまでにも増して、より大きな期待を抱いて結婚する。こうした期待事項は過去においては存在しなかった性質のものであるが、今や期待するどころか互いに要求さえする。このようにエスカレートした期待が満たされない時は、さらにより高い次元の不満が結果として現れてくる。時には実際に結婚生活がこうした最高の瞬間をもたらすこともあるが、それがさらにより大きな要求という重荷を二人の間に課してしまう。こういう考え方は、第二の結婚は最初の結婚よりもより良いと考えることの不条理さと、第二の結婚の方が短いという不条理とを説明する一助ともなる。
 
18◇ 誰もが創造性や変化を求めているというが、本当のところは求めてなどいない
 
 心理療法を行うサイコセラピストとして、次のような根本的なパラドックスにぶち当たる。それは、患者が治療にやってくるのは、一見、変化したいからのように見えるが、実はその時間の大半を変化に抵抗することに費やしているという矛盾である。その原因の一部は、患者自身が、一生通じて形作ってきた「自画像」を放棄したくないと考えているためだ。こうした自己のイメージや自己の概念は、その全てが自分を見いだし、自分を打ちだすためのものである。従って、それを放棄することが、いかに深いところから人間を脅かすことになるかは、充分理解出来る。
 たいていの人はそう考えないのだが、創造的なアイデアは実は割合簡単に導き出せるものである。アイデアを実行する方が最も面倒な仕事である。創造性に関する根本的な問題は、真に新しいアイデアはどんなものであれ、マネジャーや働く人々に対して抜本的な変革を要求する点にある。さらに、創造力を窒息させるもう一つの理由は、それが感情という無意識の世界を明るみに出すことを意味するからである。情感とか傷つきやすさなどを、われわれは恐れる。感情は敵だとしばしば考える。より深い感情を解き放つことは火遊びをするも同然だと心配するのである。
 社会全体に大きな変化をもたらすような真の創造性は、いつも規則を破るものであると言っていい。だからこそ、本当の想像力は非常に管理しづらく、また、たいていの組織においては創造性が望ましいなどと口では言っても、本音で言えば望ましいのは「管理できる創造性」だけなのである。われわれに変革を強いるような、むき出しで荒削りの、ドラマティックで過激ともいえる創造性のことを指しているのではない。小学校の教師が児童に求める創造性とは、児童がクレヨンを使って画用紙に絵を描き、その絵が参観日に、教室の壁にきちんと並べて貼り出せるようにする程度のことなのである。教師は、生徒の絵が画用紙の外にまではみ出したり、机の足の方にまではみ出されては困るのである。創造性の場と考えやすい大学においてすら、「管理できる創造性」が幅をきかせている。企業を含むあらゆる組織の中でも同じである。一定の規模を持ち、永続する会社として考える場合には、創造的な行為を奨励することはできない。会社が創造力を刺激したいと考えるならば、規模が創造性の敵であることを認識し、もっと弾力的な組織単位に会社を分ける方法を模索する必要がある。
 
19◇ 本当にほしいのは、今持っていないものではない。すでに持っているものをもっと
ほしいのだ。
 
 人間は自分に欠けているもの、すなわち他の人からみれば備えていることが重要だと思うものを望むのではなくて、すでに特別な資質や能力として保有しているものを、一層より欲しがる。うまくできることにあまり夢中になってのめり込むことによって、本来ならもっとうまくやれるはずの別のことには目に届かなくなることがある。「本当にしなければならないこと」が見えなくなると、自ら墓穴を掘ることになることを、絶えず心したいところである。
 
20◇ 大きな変化は小さな変化より起こしやすい
 
 大きな変化は小さな変化より起こしやすい。それは、大きな変化から生まれる利益の方が、より劇的なものであり、しかもずっと早く生まれるからである。しかし、大規模な変革が一般的戦略として常に適切なものだというわけではない。大小問わず辛抱強く綿密な分析が必要なのである。しかし、人間は大胆は行為をむしろ尊び、大きな変化がそれに反対する試みに対しても抵抗力があるならば、その方を歓迎するという事実は、依然として真実であるといえる。
 
21◇ 人間は自分の失敗からではなくて、自分の成功と、さらに他人の失敗から学ぶ
 
 われわれが本当に学ぶことができるのは、「われわれ自身の成功」以外にはない。一つの目標を達成することに成功すると、そうした目標に導いてくれた行動が定着し強化される、いわばそこで学習が成り立つのである。したがって、次々と成功が続いている時は、その学習効率もさらに向上する。
 しかし、立ち止まって人生のほとんどは失敗から成り立っているのではないか、ということを考えれば、そのとおりである。しかしその失敗からはなかなか学ぶことはできない。
 にもかかわらず、失敗することは大事なことである。なるべく多く失敗することが大事である。失敗しないということは、自分の限界にチャレンジしていないということであり、それは、行動を改善するためにリスクを冒さないことを意味する。
 成功からの学習は、スポーツの場合と同じようにゲームの流れを掌握し、全ての事柄が自分のためにうまく運び、何でも可能だという気持ちになった時に起きる。一連の事柄が思い通りにきちんと運ぶ時、力も身に付き、また続けることへの励みも生まれ、それが最も偉大な成功へと導いてくれるのである。しかし、その反対の失敗の連続は、われわれを意気阻喪させ、がっくりさせてしまう。 
 われわれは他人が成功している時よりもむしろ失敗した時の方が、勇気づけ、活性化される。その人への親近感が生まれ、他人と付き合いやすく心が通いやすくなるという能力に係わり合いがある。しかも、他人が失敗するプロセスの方がより学習できるからである。 他人の失敗に対応する時には、われわれの中の良い部分が表面に出てくる。これは、われわれが、他人を苦しむのを願っているからではなくて、成功している人に対処する時よりも、苦しんでいる人に対する方が、同情や共感の仕方がより分かっているからなのである。だからこそゴシップが人間を結びつける一つの力になる。われわれを結束させるのは、他人のトラブル話を分かち合うことなのである。
 
・運と不運は裏表
 われわれの社会では、成功と失敗を個人の行動に帰することが多い。様々な出来事も個人に結びつけて考えるのを好むし、報奨制度も同じく、個人を中心にして作りあげている。しかし、われわれの成功や失敗の大半は、自分達の所為をはるかに越え、コントロールできないさまざまな力によってもたらされるものなのである。このことは、アメリカより日本のほうがずっとよく認識している。
 成功と失敗は深いところで密接に絡み合っている。山高ければ谷深しと同じような関係が両者にはある。失敗があってこそ成功がはっきりし、また成功によって失敗も明らかになる。片方だけが独立して存在することはありえない。また時として自分が成功だと思っても、実際のところは失敗だったりする。またその逆もありえる。そのうえ、失敗が成功を成功が失敗をもたらすこともある。たとえ成功したとしても、すくなくともその一部は幸運によるものであり、逆に失敗も不運の結果であるともいえる。それゆえ、成功するか失敗するかということは、唯一の尺度であるということは決して言えない。 
 
・経験から学ぶ人は滅多にいない
 失敗から学ぶという考え方は、人間は経験から学ぶという発想や経験こそ最善の教師であるといって見解に根ざしている。見方によっては確かに真理であるが、経験から学ぶということは、その経験がわれわれの手に入って使えるような形に処理できることを意味する。その場合、まずその経験を分析をしなければならないのに、大半の人はなんだかんだ理由をつけて分析を怠る。時間やエネルギーなど労力を必要とし、また、経験の中での不愉快な側面に再び向かい合い、時には深くのぞき込むことを要し、精神的にも負担を強いられる。そういったことを出来る人というのは滅多にいないということである。
 
22◇ 努力することは何も実らない
 
 これは心穏やかでなくなる一つの事実である。変化はいずれもすぐに色あせて消え去り、痕跡すらほぼ跡形もなく消滅する。努力して試みる全ては、一見効き目があるようだが、結局いずれもうまくはいかない。これは、これぞという正しい道というのは、存在しないように思えるジレンマをもたらす。
 人間が自分自身の中に永続するような変化を生み出しうるのは、一つの規律を持続的に守ることに本腰を入れる時である。たとえば、即席ダイエットはうまくいかないが、食事習慣を恒常的に修正していく方法はうまくいく。永続する変化は、健全な原則を採り入れてこれを持続させるという基盤のうえで、実践することからしか生まれてこない。速効薬などという手っ取り早い解決策はない。
 
23◇ 計画化は、変化をもたらすには効果のない方法である。
 
 計画をたてることは、未来予測が可能だという誤った考え方に基づいている。だが、未来はいつも意表を衝いてやってくる。将来の出来事を予測するのに優れた方法がない以上そのための計画を立てるのに確実な方法もまたない。その他の理由としては、
・組織の成員には、組織のどんな側面が変革を求めているのかが見えにくい。
・計画化のプロセスは、比較的地位の低い部署で行われることが多いので、計画策定担当者には経営レベルの狙いや関心事がよくわからない。
・プランニングが、通常一つの部門に担当されるという事実そのものが制約要因となる。・計画化のプロセスは通常、その計画を実行する際にマネジャーが蒙る数多くの政治的な圧力を効果的に調整する方法をあらかじめ、計画の中に織り込んでおくことができない。・計画を文字通りに忠実に遂行するには独裁的といえるほどの統制力を必要とするので、人間の自由な精神が窒息させられる。
・計画化も他の経営活動と同じように流行の犠牲になりやすい。
・自己の利益の追求が効果的な計画化への障害となる。
 外部からの反抗や侵入が計画化よりもずっと組織を変革させる力がある。労働運動やコンピューターの侵入、企業買収はその好例である。
といったものが挙げられる。
 それでもプランニングを行うわけは、重要視されるわけは、将来を見抜くには効果的ではないかもしれないが、現在を評価するにはそれなりに優れた方法なのである。さらに、計画を立てることは、やがて必要となるトレードオフ(取捨選択)が何かを教えてくれ、さまざまな可能性を綿密に評価するための境界線をも定めてくれる。また、ありうるべきシナリオづくりを刺激し、アイデアをまとめ上げ、種々の事柄の成りゆきについても否が応でも考えるように仕向けてくれる。「事柄を予期するための警戒心」を経営側に惹き起こし、それによって予期せざることに対しても、より良く準備させてくれる。
 プランニングで重要なのは、こうした過程であり、その結果ではない。プランニングが最もうまくいった場合、組織としての柔軟性と即応力の基礎となる事前予期型の戦略的思考法である。
 
24◇ 組織は破局を乗り切ることによって変わっていく
 
 われわれは、人間が成長し、成功していくのは、身に起こる良いことのためばかりではなくて、むしろ大災厄とか危機といった悪い事態によるほうが多いことは周知のとおりである。危機的な体験をすることによって、人間は自分自身の人生や生活をしっかりと再評価し、自身の能力や価値観や目標をより深く理解し、それを反映するようなやり方で生き方を変えていくようになるからである。
 組織も厳しい逆境に対して似た反応をする傾向がある。危機的状況を生き抜いた結果、組織も変わっていく。カリスマ的指導者の死など組織を襲うとてつもない大災厄ですら時には恵みになることがある。組織はそれまで気づかなかった制約や拘束から解放されることになる。しかし、経営においては、組織に最も恩恵を与えうる危機自体を避けようと試みる以外には、他に選択肢はない。経営においては、危機を管理するということが成功の条件であり、災禍は困惑そのものでしか受け止められないというパラドックスが存在する。
 
25◇ 変化してもらいたいと思う人は今のままのやり方でも結構うまくやっていく
 
 企業や産業界では、毎年何十億ドルのお金を費やして、従業員を訓練したり、励ましたり、報奨を与えたり、あるいは警備システムを備え付けたりして問題のある人間に対処しようとしている。だが、うまくいかず、逆効果すら招きかねない。事態を混乱させているのは人間の側にあるように思えるが、実はそうした困難を引き起こしているのは、個人個人ではなくて、それぞれの状況なのである。
 有能なマネージャーは、人間を正すのではなくて、組織の中に構造的変化を起こすことによって状況を正そうとする。各個人を変革することを企図するよりも、報告関係を変えたり、相手に期待する職責を拡大あるいは縮小したり、フレックスタイム制を導入したりする。
 状況をアレンジすることによって人間を良くも悪くも見せることができるのは、一つの厳然たる事実である。実験的に、ほとんどの人間が互いに騙し合うような状況を作ることもできるし、正反対に、監督官がいなくても誰も不正を働かないような試験方式を実行することもできる。周囲の事情こそ、人間行動に対する強力な決定要因なのである。教会の中で煙草をすう奴などいない。
 アメリカの開拓時代の実例に基づいた「納屋づくり」と称するアプローチがある。新しい納屋を必要とする人は、友人や近所の人々の手を借りないと建てられないという発想法である。お互いのアイデアを批判するのではなくて、それをさらに推し進めなければならない。グループは誰かの考えを取り上げて、きちんと建築物を本当に建てられるかどうか、あれこれ試みる。このアプローチはひとたび基本的な約束事が定められれば、驚くほどたやすく、その結果生まれてくる討議内容は必ず生産的なものとなってくる。
 われわれは過去の人生でやってきたことを後悔し、あの時もっと別な対処のしかたができていたらなどと考えながらも、とどのつまりは同じ状況を蒸し返している。しかし、たいていの場合、われわれは過去を振り返った時でも、それほど切実に過去を変えたいとおもっていない。というのも、一人の人生は、あらゆる範囲に及ぶ経験から成り立っていて、良きことが悪しきことの結果として生まれたり、その逆もまた真だからである。
 同じようなことは、組織についても当てはまる。さまざまな人間を集めてチームを作った当初には、その構成メンバーがもっと別の組み合わせだったらなどと願う。しかし、一旦チームが形成されて一緒に働き始めると予期しなかったような楽しいことも起こったりする。これらの人間を何とか変えようとしつづけることはやめるべきであり、当初は心配だった諸特性も、そのあるがままの姿を正しく評価して活かすべき優れた資質だということが分かってくる。不条理のようだが、人間は実際には、現状とは別のあり方を望んではいないのである。
 
26◇ 大きな強味は、そのまま全て大きな弱味である
 
 強味といえども、それにあまり依存したり、極端なところまで押し広げたり、本来適用すべきではないところにまで及ぼしたりすると、弱味に逆転してしまう。長所たるべきものが余りにも強すぎると、それだけ弱点になってしまう。またその逆もありえる。恐怖心が強いことも、うまく活かされれば、時によっては良い意味での注意深い人となる。強味と弱味、長所と短所は、実は同じ一つの衣をまとって現れてくる。
 
27◇ モラールは生産性と無関係である。
 
 モラール(勤労意欲・士気)こそ一生懸命働く要素と考えがちであるが、実は必ずしもそうとはいえない。人間を懸命に働かせるものと、生産性の内容とを区別しなければならない。ハードワークは生産性のごく小さな一部でしかない。
 生産性はアメリカにおいてすら組織の主目標とはなっていない。生産性とそのほかの数多くの価値や行動(例えば現状維持や自分の固定観念にしがみつくこと)とのどちらかを選択せよと迫られた場合に、生産性を選ぶ人はほとんどいない。生産性が最高のゴールとはならないことは明らかである。生産性の向上が望ましいのは、自分たちの考えを変えてもコストがかからない時とか、それで生活がしやすくなる時のみである。われわれは普通ほどほどにやる気や生産性などを持っていれば充分と思っている。むしろ、マネジャー自身のモラールを高める方が、より創造的で、熱意のある労働力を生み出す可能性が高い。
 
28◇ リーダーなどいない。あるのはリーダーシップのみ
 
 われわれがリーダーに関して抱く固定観念的なイメージは組織効率性に悪い影響を及ぼす。結局は、期待されるリーダーシップがリーダー個人の能力をはるかに越えてしまい、結局は機能不全に陥るようなこともある。リーダーの本当に力は実はグループの力を引き出すことにある。また、別の言い方で表現するなら、リーダーシップは個人の持ち物というよりも、グループの持ち物である。集団の成員の間に分散されており、各成員がそれぞれ重要な役割を代わる代わるに果たす。ある状況のリーダーも、他の状況ではフォロワーである。真のリーダーはその使えるグループによって決まるものであり、その職務はグループと相互依存関係にある。ある企業から別の企業に移り、事情に不案内であるにも関わらず成功しているリーダーも多いが、これは組織の中にいる人々の知識や技能や創造性を触発させるのがリーダーの課題だと自らの役割を明確に認識しているからである。
 リーダーは支配者ではない。最高のリーダーはその率いる人々に奉仕する人であり、ごく自然に謙虚さを身につけている。自分で功を誇ることはなく、ともに働いたグループの功績に帰する。また、従業員の生き方やあり方をより楽にしようとする特性を持っている。絶えず状況を整備し、職務を巧みにしつらえ、処理し、仕事の処理過程をスムーズにし、障壁を取り除く。
 しかし、リーダーの行為の大半はうまくいっていない。さらに、種類やスタイルが千差万別であるので、それだけ求められる行動は複雑なものとなるうえ、見習うべき唯一確実なモデルがない。しかし、このリーダーシップなるものは、この地球上で最もパワフルは力を持っている。
 
29◇ 経験豊かなマネジャーほど単純な直感に信頼を置く
 
 われわれは子どもが何ものにも束縛されずに瞬間的に判断するのをうらやましく思う。実際には子どもの直感的判断が大人よりも優れているというわけではない。にもからかわらず、子どもは知的なプロセスの足枷をはめられずに、澄んだ眼をもって人や事柄に対して自由に反応するものだと信ずるからである。動物についても同じである。
 人間は年老いて経験を積むにつれ、こうした原始的ともいえる知恵に触れることが少なくなっていく。それというのも、大人は子どもにはまだ起きていないたくさんのことを体験してきたので、直感的な判断が損なわれたからだろう。時として経験は、われわれの眼を塞いでしまう。経験は必ずしも最善の教師ではないということである。事態を見えなくして判断ミスを冒させるような事柄を数多く学んでしまう。優れた判断を妨げるものとして、
・学校でも家庭でも、権威や他人の意見に頼るようにと教えられる。
・大人ほど、しばしば表面的なイメージの犠牲となる。
・自分たちの信念体系を守るために、それに都合の良いことだけを選び取って見る「選別的知覚」活動を行う
・以前うまくいったことに影響される
・最初の反応を疑ってかかるように教えられてきた
・不安だったりリスクを冒すのが恐い時ほど、われわれは直感を信用しなくなる。こうした時には、なるべく合理的で、後から自己弁護や正当化ができるような判断をしなければならないという気持ちになる。
・他人の判断に頼りすぎることがある(「グループシンク(集団順応・同調思考)」と呼ぶ、グループとともに進みたいという欲求を示すことによる。知覚が集団行動によって形成され、集団としてのコンセンサスづくりに圧力を加えると、実際に事柄を違った見方で見るようになる。)
といったものが挙げられる。
 直感的反応の価値と必要な客観的かつ合理的要因にはジレンマを伴うが、矛盾する二つの視点を的確に判断することが必要であり、難しいところである。
 
30◇ リーダーの訓練はできないが、教育はできる
 
 リーダーシップは専門能力に関わることではなく、また人間関係のマネジメントもお技能や技法に関わることでないので、訓練では改善しえない。改善し、磨かせるのは教育である。
・訓練と教育の違い
 訓練は技能と技法の開発につながるものである。そして新しい技能や技法はコントロールできる領域が広がり、新しい責任をもたらす。しかし、適切に遂行できずに終わり、手の施しようのない状況を処理するくらいの責任を感じると感情面での危険な形での結びつきが発生する。すなわち、責任感に無力感が加わって、それが職権濫用や虐待となって表れる。
 教育は、人間を技法ではなく、情報や知識のほうへと導く。それが正しい人間に対して行われれば、正しい理解を身につけ、やがては叡知へと導かれる。この叡知が謙譲の心や慈悲心や尊敬心と連なり、効果的なリーダーシップの基本を成す。
 訓練は、皆同じスキルを学ぶので、人間を似たりよったりのものにさせるが、教育は、各個人の体験を、偉大なる思想との遭遇という光をあてて吟味させることをその一部としているので、人々をそれぞれ異なったものにする傾向が強い。
 
31◇ マネジメントにおけるプロになるには、アマチュアであれ
 「アマチュア」という言葉は、ラテン語の「アマトール」から由来しているが、その意味は「愛する人」である。アマチュアが事を成すのは、その愛情からである。リーダーシップとは、そもそも思いやりや気遣いがその全てである以上、愛情は優れたリーダーシップにとって根源的なものである。
 それだけではなく、思いやりはコミュニティの基礎でもあり、リーダーがなすべき最初の仕事とは、深い共同感と連帯感に基づくコミュニティづくりなのである。組織を構築するにあたって、コミュニティは最も強力でありながら、しかし最も脆弱なコンセプトの一つである。作るのは困難だが、破壊するのは極めて簡単である。
 コミュニティの崩壊は、必ずといっていいほど、いつも進歩の名のもとに起きている。将来の組織は、小さな単位に再び回帰するようになるだろうと感じている人もいるが、その理由の一つは、人間が単に機能的に結びついて動くだけではなくて、好意や愛情をお互い持ちながら動く絆が存在するのはより小さな単位の中においてのみだからである。そしてその中でのお互いの好意こそコミュニティの基盤である。
 
32◇ 見込みのなさそうな大儀のみが戦うに値する
 
 自分なら人間を変化させられるという傲慢さを抱いている時には、何をやっても状況は進展しない。しかし、そんなことは無理だろうと基本的に認識しているときには、もっと謙虚な姿勢で前進できる可能性があるので、逆説的ではあるが、状況が変わりうるチャンスが生じる。ここでのパラドックスは、とても見込みのない大目的であることを認識して、とにかくそれ向かって働きかけることが肝心だということである。
 「どんなに不合理だと思えることも実行する」ことは、@全く不合理だらけの環境の持つ恐ろしいほどの力が自分を押し流すのを許し、Aその内容が充分には把握できないにしても、その不条理さを我が身に抱きとめ、B我が身を圧倒するほどの複雑さの前にはひれ伏し、ことを始める前にすでに諦め、Cしかし、その後で、自らの内に潜む意志や、自己規律や、知識や、経験や、創造性や、さらには遊び心まで含めた自分の宝庫内の蓄えを総動員して、自ら再び立ち上がり、心の片隅で最初に認識した根本的な不条理性を決して無視することはなく、再出発していく、という不条理に対処する際のエッセンスが凝縮されている。
 
33◇ 私のアドヴァイスは、私のアドヴァイスなど受け入れないほうがいいということである
 
 本書の中で教訓じみたフレーズを額面どおりうけとめるのは好ましくない。例えば「人を褒めたからといって動機づけすることにはならない」と書いたことも、それを「人々を褒めるな」というアドヴァイスと受け止める人もいるだろうが、言わんとしたところではないし、到底不可能である。
 また、この逆説的な教訓は、その逆もまた真なりという性格を持っているがために、表と裏のどちらを実行すべきか知ることが難しい。教訓の表裏を同時によく考慮して、われわれが潜在的にとりうる行動がもたらす結末についての充分な理解に到達してほしいという意味なのである。