月 下 獨 迹

MONOLOGUE

五島高資

 

2005年8月14日(日曜日)

 「読売新聞」平成17年8月1日・朝刊の第1面に

  叩かれて昼の蚊を吐く木魚かな  夏目漱石

        UFJ銀行

とだけ記された小さな広告が載っていて、思わず笑ってしまった。そして、これこそ俳諧の極致だなと感じ入った。その証拠に一読しただけでもう憶えてしまって忘れることができなくなった。さすがは漱石だが、UFJ銀行も心憎い。  


2005年6月24日(金曜日)

 かなり以前に池田康氏から『星を狩る夜の道』という詩集を頂いた。正直言ってあまり現代詩には関心のない私だが、この詩集には圧倒されるものがあった。その証拠いつもかばんの中に入って私と移動を共にしている。特に「夏」という詩は良かった。たった四行の詩だが、私が俳句で目指している「言葉で以て言葉を超える」ということが見事に成就されているのだ。奇を衒うわけでもなく、また、人生を謳歌したり悲嘆したりするような深刻さもなく、ただ素直な表現の中に詩の深奥が開かれているのである。また、第三部の「星狩」は、七五調という音数律に詩的発条を託した長歌形式がうまく現代詩に活かされている。そこに展開される非日常的時空に迷い込むと時に空恐ろしい感覚に陥ることもしばしばだが、非意味的連想の深層にある幽かな共振が逆に七五調によって律せられることによって詩性の翼は風を得て游弋できるのである。芭蕉が喝破した「名人は危ふきところに遊ぶ」とはまさにこのことだと思う。  


2005年6月14日(火曜日)

 平成七年から二年間、私は長崎県対馬の病院に勤務していた。自宅から車で数分も行けば韓国が見える岬があった。もちろん、そういう国境の島だけに隣国である韓国との関係はとても深い。最近は、竹島や教科書問題題で日韓関係は良くないように見える。もっとも、それは今に始まったことではない。朝鮮と比較的良好な関係を保っていた江戸時代においてさえも、幕府関係者と朝鮮来聘使との間で互いのプライドによる紛擾が少なくなった。例えば、国書改竄事件や対馬藩通事による朝鮮通信使殺害事件などをはじめとして度々起こっている。もちろん、矜恃自体が悪いのではない。まず、互いのことをよく知ることが大事なのは、当時、朝鮮外交の窓口だった対馬藩の儒学者・雨森芳洲が説いた「誠心の交わり」という言葉に収斂されることは周知のことである。
 さて、今日の「朝日新聞」朝刊・「伝える言葉」で大江健三郎は次のように要約していた。

 日韓の未来を深く展望するためには、同じだけ深く、歴史に根ざす気持ちがなければならない」そして、「現在の具体的な問題点を解決するためには、(中略)いちいち人間の仕事の現場から出発することが、日韓ともにナショナリズムの水位を高める方向より、有効だということです。

 おそらく、大江の言う「ナショナリズム」とは国家主義的風潮を指すのであろう。しかし、周知のように「ナショナリズム」の第一義は、国民主義であり、ひいては民族解放主義あるいは民族自決主義といった、所謂「健康なナショナリズム」をも包摂する。つまり、大江が主張するように「ナショナリズム」の水位を低めるということは、まるでエントロピーが増大するように、国家のみならず民族、国民、個人のアイデンティティーの低下による画一化された没個性な世界へと繋がるのではないだろうか。むしろ、大江が前段で主張した「歴史に根ざす気持ち」こそがいま大事なのは当然のことである。私も韓国人の友人が幾人かいるけれども、彼らは実に歴史に詳しい。もっと、日本人も歴史を知らねばならないと痛切に思う。健康的にせよ、そうでないにせよ、結局、「ナショナリズム」を裏打ちしているのは歴史なのだから、大江が主張する、歴史を探求しながら「ナショナリズム」を抑圧することは自家撞着と言わざるを得ない。そして、このナショナリズムの形成には、それぞれの国や地域に根ざした言語が大きな影響を与えていることを充分に認識すべきである。

 おおよそ人間の脳神経は思春期頃までに完成する。つまり、それまでに頭に滲透した情報と感情とがその後の志向性に大きな影響を与えることになる。「情報」は母国語という言葉で伝達されることによって複雑な情動のネットワークとしての「心」が出来上がっていくわけである。だから、文化的遺伝子として過去から自然淘汰され連緜と続いてきた「言葉」に依拠する観念のネットワーク自体が、それを用いる民族の「心」と言うこともできるだろう。しかし、それらは常識的に日常生活で使われている一次的な指示作用(記号)としての言葉だけに収まるものではない。当然、理性、感情、記憶などが大きく影響する。そうした脳神経の可塑性もまた「言葉」における多様な意味性に裏打ちされているのである。そして、このことは個人や国家の意思の多様性へと敷衍される。次に示す大江の小泉首相批判もまた「思い込み」に過ぎないのだから聞き流すほかはない。ただ、これも私の「思い込み」だが、自らの信条にかけがえのない生命をかけること自体は一国の宰相として「まともなかたちの公的な論理」と言ってよいのではないだろうか。もちろん、このことは我々一般にも言えることであり、正しい言語観と歴史認識を持って初めて他者と向き合うことができるのである。それにしても、まだ、大江の首相批判は続く。

 首相のここのところの言動に浮かび上がっているのは、まともなかたちの「公的」な論理より、「私的」な信条に殉じようとする、閉鎖的な思い込みだ。

 つまり、大江が首相を糾弾する根拠はまさに「論理的な意味」の次元にあることがわかる。しかし、残念ながら国や民族の数だけ多くの言語があり、まして話し言葉から受け取られる付加的情報なども加えれば、決して万国共通な言語観はもとより、それらに基づく国民感情や民族意識を統括する「公的な論理」によって意味を求めることは、真にその国民性や民族性を理解した者同士だけにしか納得いかないのではないかと思う。仮に「公的な論理」を恣意的に措定して散文化したとしても、ほんとうに互いが理解し合えるのだろうか。逆に私はあえて「私的」な信条や思い込みに突き動かされた議論において本心と本心のぶつかり合いこそが大事なのではないかと思う。もちろん、論争となって感情的に言葉の齟齬を呈したり、あるいは、相手の言うことにじっと耳を傾けて辛抱しなければならないこともあるだろう。要は、互いに言いたいことをまず率直に言い合うことなのではないだろうか。

 さて、「まともなかたち」という形容までして、まるでグローバルスタンダードのような、正義(?)の「公的な論理」が自明に存するかのような前提の上で(ほんとうは次元の違う問題だと思うが)、大江はまたもや次のように首相批判に追い打ちをかけていた。

 あれだけ人気役者の演出に優れた人が、しばしば沈默する(あるいは意味不明のことをいう)のは、退場する際の自分を惜しむ「声なき声」のナショナリズムをすでに思い描いているのだろう。

 さすがはノーベル文学賞受賞者だけあって何と勇ましい想像力なのだろう。それにしても、「あいまい」「沈默」「意味不明」のような類の言葉を大江はよほど嫌いなのだろう。もっとも、大江個人の好悪は「公的な論理」とは違う次元の感情であり、実はそこにこそ本音が窺えるのである。本音で議論しないから、つまり、いつまでたっても「公的な論理」による謝罪ばかりだから良くないのである。

 因みに、芳洲の『交隣提醒』には、外交の要諦はまず人情を知ることとある。彼が説いた「誠心の交わり」とは、言葉面だけの外交辞令ではなく、真実を以て交わることである。そのためには、日韓両国が過去の歴史をしっかりと検証し議論すべきである。それが真の意味での「健康なナショナリズム」なのではないだろうか。晩年、芳洲は和歌を志し『古今和歌集』を一千遍詠誦したり、一万首の詠歌を達成したと云う。「公的な論理」や「私的な信条」をも超克する次元が詩歌の世界に広がっていたのかもしれない。ここで思い出したが、韓国にいる友人の手紙にはよく自作の古詩を同封されている。意味は判然としないが、漢字で書かれていることと、その詩的情趣によって何となくその真意は伝わってくる。柄谷行人は近代(散文)文学(もちろん、近代小説も)の終焉を宣言したが、今回の大江の文章を読んで、今まさに韻文文学の力が試される時代になってきていることを再確認させられた。


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