国際俳句(俳句の英訳あるいは英語俳句)において最も大事な要素としての「切れ」

 

五島高資  

 

 日本の俳句においては、季語と定型(五七五)が必要条件と言われる。しかし、これは、近代になって高浜虚子が主導した俳句の要件である。松尾芭蕉は、無季や破調の句も容認していたのである。近年、私たちは、国際俳句にとって「切れ」こそが最も大事な要素であると提案している。というのも、世界には季節のない国々があり、また、それぞれの言語はそれぞれ固有の韻律を持つからである。

 基本的に「切れ」の構造は、物事A+物事Bで示され、たいてい私たちは、それらを英語で表記する際、二行に分けます。例えば、

 

古池や

蛙飛び込む水の音  松尾芭蕉

 

 一般的に、この句は、古池の「静」、蛙による水音の「動」、そして、余情としての「静」という詩的構造が指摘される。

 一方、Aとしての「古池」は、実際の古い池のみならず古い俳壇も示唆する。また、「蛙」は、Bにおける実際のカエルのみならず芭蕉自身も示唆する。それゆえ私たちは掲句からパースペクティヴで深い感動を得ることができる。芭蕉が「古池に蛙飛び込む水の音」と詠まなかった所以でもある。私たちは、「切れ」によって多様で深い詩的創造性を認めるのである。

 ここで私たちは物事A+物事Bが相乗効果を生み出し、それが俳句の詩的創造であることが分かるだろう。もちろん、季語や季節感もまた俳句にとって必要不可欠ではないが往々にして俳句の詩情を深くする。

 次にその詩的創造性を模式図に示す。

 横軸は「観念の世界(言語的世界)」と「物自体の世界(非言語的世界)」を対極とし、縦軸は詩的昇華の度合いを示している。まず、「実景」に触発された詩想から観念的世界に存する言葉が選択される。ここで単に観念的な言葉の意味合いだけで「実景」を捉えたに止まる句が頂末写生句である。一方、「実景」に触発された詩想が固定観念から離れることによって見えてくるのが「光景」である。ここにおいて言葉を詩的昇華させる重要な役割を担うのが定型(音律)であり、固定観念から言葉を解放するのである。

実はそこに見えてくるのが芭蕉の云う「物の見えたる光」なのであり、「切れ」の核心もまたそのあたりに存するのだと思う。しかし、あまりにも詩想が言葉の観念性を離れすぎれば妄想となってしまう。そこで、再び詩想は「観念的世界」へと逆戻りしなければならない。そうすることによって詩想が他者の深い無意識的共感を獲得して見えてくるのが「情景」ということになる。しかし、共感がより浅いレベルに止まればもちろん充分な詩的普遍性は得られないことになる。そこで、さらに理性による詩想の観照が必要になる。つまり、自らの詩想がほんとうに新しいものであるかを反省的に検証しなければならないのである。そのために伝統的連想性や知識といった文化的記憶との照合が必要になることは言うまでもなく、そこにおいて類想的あるいは陳腐な表現が淘汰される。ここまで来て初めて詩想はその真価を認められると同時にそれは新たな文化的記憶や伝統的連想として定着することになる。