(上) 生活のすべてを描くようなストーリー、サスペンスな劇展開。これほどまでに微細な心理、会話、場面の雰囲気を、想像のみによって産み出すことが可能なのか? その多くは実体験に負うところが多いのだろうが、実体験だけでこれだけのものを描き出せるとは思えない・・・。(1977年11月8日)(1980年12月25日)(1983年3月13日)(1983年8月27日)
(下) 人間への愛と反感という二つの矛盾する感情を抱いていた主人公は、殺人によって自分と人間とのつながりを断ち切る。そんな主人公を救ったのは何か。人間からの愛であり、遂に捨て去ることのできなかった人間への愛である。彼は再び人間になるために、自らを法の手にゆだねる。彼をして自殺せしめなかった人間からの愛を彼が受け入れ、人間への愛をはっきりと自覚する段階でこの物語は終わりを告げる。(1981年2月15日)(1983年4月9日)(1983年8月31日)
(上)何人もの人間の心理をとことんまで追及する描写は驚異的といえる。(1983年5月2日)(下)(1983年5月18日)
1章のモノローグと2章冒頭に関しては素直に納得できる箇所が散在しているが、2章の主人公の他人との係わり合いにおける心情や行動は不可解でほとんど理解できない。(1983年7月20日)
貧しい、不幸な人々への同情は沸くが、ストーリーは単純で、もう少しで単なる甘ったるい小説に堕す危険性をはらんでいる。後の大作で追求される問題意識の萌芽は見られるが、突き詰められておらず、ごく軽いものだ。(1983年10月5日)
ストーリー自体は面白いと言えようが、後の「罪と罰」などの大作と比べて、女主人公の動作の描写の仕方や主人公の感情の動きなどの描き方が軽くて型にはまっている。結末のモノローグ部分はツルゲーネフの「初恋」「アーシャ」 のそれに類似し、美しい。(1983年11月5日)
比較的初期の作品だが、既にストーリーテラーとしての才能を存分に発揮している。ドストエフスキーもやはり私小説的な作家であると確認する。(1984年1月9日)
序章におけるいささか変人じみたアレクサンドル・ペトローヴィナと、本文の冷静で客観的な語り手とがイメージ的に隔たりがあるように感じたが、それは末端的なことである。「罪と罰」のように登場人物の内面まで立ち入らず、語り手の見たこと聞いたことを知的・客観的に描く。その視点は、「虐げられた人々」のように他の人々を肯定の目で眺めておらず、乾いて淡々としている。(1984年7月13日)
文章に繊細さを欠く。訳文のせいもあるかも知れないが、作者のこの作品への思いがたいしたものでなかったのだろうと思わざるを得ない。ポリーナと主人公の恋愛関係の設定が迫真性に乏しい。(1984年10月1日)
「罪と罰」に見られるようなどろどろした人間の存在感はなく(片鱗はある)、全編を滑稽な感じが貫いている。「永遠の夫」というタイトルのもとに作者が描きたかったものが伝わらない。(1985年7月23日)
(福武文庫)長編小説で見られるドストエフスキーの魅力はなく、短編としての面白みもあまりない。全編とも中年紳士臭い飄逸な感じに彩られ(訳文のせいか?)、文体ににじみ出てくるような奥深さを欠く。「ポルズンコフ」はそれでも一応はよくできた話として読むことができるが、「弱い心」は快活すぎる文章が浮いており、語られる友情もおそらく日本人には理解できない。「鰐」は、ドストエフスキーには書いてほしくなかった卑小な遊戯である。(1987年6月17日)
(福武文庫)語り手は驚いたり悲しんだり発見したりして感動的にそれを吐露するが、読み手にはそれが充分伝わらない。語り手が先走ることが多く、しらけさせられる。とくに「おとなしい女」、「おかしな人間の夢」はそうだ。「おとなしい女」、「ボボーク」などは、何が言いたいのか全くわからない。「キリストのヨルカに召されし少年」、「百姓マレイ」、「百歳の老婆」は感動的なものを含むが、小説のためのラフ・スケッチという感じだ。全体に習作といった趣のものが多く、短編小説としての完成度は低い。(1989年9月4日)
ポーの「ウィリアム・ウィルソン」に似たドッペルゲンガーものの小説だが、ストーリーテリングの魅力、かもしだされる奇怪な恐怖感、読者を引きずりこみ、ぞっとさせる力、といったものはこの小説にはない。主人公はいたずらに饒舌であり、行動の意味が不明確である。作者はこの小説を「ウィリアム・ウィルソン」のような心理的恐怖小説に仕立て上げようとしたのではないのだろうが、それでは何を狙っていたのか。笑い話ではないだろう。カフカ、カミュのような不条理小説か。そのへんがはっきりしない。読み終わるまで退屈させない文章の魅力はあるかも知れないが、それにしても異様に重複、繰り返し、言いかえが多く、焦点がぼけている。(1995年11月30日)
(上)人間観察眼の鋭さには改めて感嘆する。生き生きした人物像、リアリティあふれる筋運びは、いまだにこれを超える作家は出現していないのではないかとまで思わせる。上巻の前半では、主人公であるべきスタヴローギンが間接的話法においてしか登場せず、ワルワーラ夫人とステパン氏の物語となっている。後半からいよいよスタヴローギンが表舞台に現れるが、なにやら実体の不明な秘密結社の動きがなぞめいて描かれ、サスペンスめいている。まっとうな精神状態とは思われない異色の、しかし重要な人物であるレビャートキンと妹マリアの描かれ方は、むしろ正常な人物を描くときよりも鬼気迫る切迫感がある。「罪と罰」のソーニャの父親の描写がそうであったように。後半、一行が訪れる自殺した若者のエピソードが、物語の先行きに暗い影をなげかけることに成功している。(2002年5月11日)
(下)通常本編中に収められることになっているという「スタヴローギンの告白」の章が、初版本には収録されなかったこと等の理由で巻末に補章として掲載されているが、この章があるとないでは小説全体の印象がかなり異なるものとなる。この章がなければ、小説はステパン氏とワルワーラ夫人、ピョートルが中心となる。奇妙な恋愛関係と、地下活動の顛末を柱とした長編となるが、裏の主人公めいたスタヴローギンの存在は曖昧なものに終わる。この章が収められるとすれば、狂人・犯罪者・異端者としての特異なスタヴローギンの存在が際立つことになり、暗い影のうずまく猟奇的な色彩を帯びる。家庭向きの雑誌ということで掲載を断られたことはうなずける。当時としてはかなり背徳的な内容と受け止められたのではないか。(2002年7月10日)
(上)登場人物の多くが病的な興奮にかられ、異常な冗舌で何十ページにもわたって話し続けるというのは、世界の他の作家の小説には見られない際立った特色である。例によって、健全な人間・常識的な人間よりも、異常な・病的な・あるいは悲惨な境遇にある人間を描くときの方が、どす黒い強烈な現実感を帯びて読者をひきつける。本書においては、フョードルやドミートリーの破綻して錯乱した姿がそうだが、それにまして強い印象を与えるのは、スネギリョフとその家族の悲惨なあり様である。上巻巻末の「大審問官」を含むイワンの恐ろしく長い言説はキリスト教へのアンチテーゼとして迫真の力を持っており、これに反ぱくするのは困難に思われる。とくに子供をめぐるエピソードなど、現代社会にもそのまま当てはめられそうである。(2002年10月29日)>
(中)ゾシマ長老の説話として挿入されているいくつかのエピソード、とくに「神秘的な客」が印象深い。一つの独立した小説としても読むに足るものである。「法話と説教」はそのまま宗教書のようだが。「第7編 アリョーシャ」「第8編 ミーチャ」と対置されているが、やはりまっとうな人間のアリョーシャを描く章よりも、破綻したミーチャの言動を描く章の方が生き生きとしている。具体的な事件が発生するせいかもしれないが。主人公たちの行動、会話を、ほとんど省略せずに緻密に描いていく手法は、驚嘆すべき想像力の賜物と思われる。心境の変化はほとんど分刻みで描かれる。現実の時間よりもはるかに濃密なそれが小説を支配している。逆にそれが冗長さ、回りくどさという欠点としても指摘されえよう。文章も、志賀直哉のような簡潔さとは対極にある。(2002年11月27日)
(下)「第12編 誤審」はそれまでの登場人物が一堂に会する。検事と弁護士の長大な演説も対置され、緊迫した法廷劇となっている。読んだ限りでは、先に行われた検事の論告の方が、弁護士の、陪審員の情に訴えかけるような演説よりも説得力が高いように思われるが、作中では弁護士のそれが陪審員の胸を強く打ったように描かれ、有罪の評決が誰しもが予想しなかった結末として描かれている。「第10編 少年たち」は本編とは直接関係のない、異色の、やや退屈な章だが、エピローグでそれを受け、物語が終わる。人類への愛、人間への愛が最後に熱く語られ、様々なことが描かれた本作のテーマがそこに尽きることが明らかにされる。(2003年1月16日)