事件の発端、ピーター・スティルマンの奇妙な独白が、狂気じみた怪事件の解明への予感を感じさせる。ピーターの父親の著作の内容はそれに拍車をかける。ところが、ピーターの父親が出現したあたりから、この物語にはおそらく謎解きも事件もないのではないかという疑惑がもたげてくる。そして、主人公クインの動機不明の突然の没落。ほとんど肩すかしをくらわされるような結末。良い言い方をすれば奇想天外であるが、話の脈絡のなさには違和感が残る。(1998年11月24日)
正体不明の依頼人から奇妙な調査以来を探偵が受けるという導入部から、ついつい、意外な展開、事件の解明を期待しながら読み進めてしまう。やがてこの小説も「シティ・オブ・グラス」同様、何一つ事件は起こらないだろう、そのようなものを主眼に書かれたものではないと思い当たる。だが、気がつくのが遅すぎた。はじめからそのつもりであれば、また異なった小説の楽しみ方ができたかもしれない。といっても、主人公は自分の置かれた状況を打開するために行動する。ブラックの部屋から持ち帰った紙束が自らの報告書であったところは衝撃的である。実話か創作かはわからないが、作中にいくつか織り込まれているエピソードはそれぞれ印象が深い。現在形で書かれた文体は安部公房を思わせる。ただし、現在形が必ずしも最上の効果を上げているとは思えない部分もある。(1998年12月9日)
ストーリー性に主眼を置いており、予想外の展開に意表をつかれるところもあり楽しめる。この作家は、小説中の地の文よりも、作中で語られるエピソードが得意のようである。この作品はいわばエピソードの集積であって、それぞれが人をひきつけ、ときには深く感動させる力を持っている。ただ、徹底した誇張、マルケスの「百年の孤独」ばりの超現実的な展開を意図した部分には、不自然さ、やりすぎの感を受けることもある。例えば、主人公の初めて会った父親が巨漢であることなど、確かに強いインパクトを受けるものの、祖父や主人公の体型と照らせば、ありえないことではある。叔父、母親やキティを語るときに語りががリリカルになるのは面白い。(1999年1月22日)
(新潮文庫)収録された2作は、第1部、第2部として位置付けられているようだが、まず前者の「見えない人間の肖像」は、作者の父について書かれた私小説的なものだ。扱われたテーマが個人的で感傷を帯びており、「小説」として構築された作品というより随筆的な面もある。唯一、祖父の死をめぐる事件の描写がスリリングな盛り上がりを見せているが・・・。後者の「記憶の書」は、作者自身を思わせる「A」の過去の大小のエピソードと、詩、物語その他特定のテーマをめぐる考察が入り混じったもので、こちらも一つのストーリーが展開される「小説」とは異なっている。いくつかのエピソードは印象が深く、生の半ばに立つ作者の精神的な高揚が伝わり胸を打つ。(2001年2月27日)
現実にはあり得ないような架空の国の物語だが、すべて現実の世界のどこかであり得ている(または、現にある)事柄のようにも思える。荒涼とした救いようのない物語だ。最後まで正体の明かされない(暗示されるにとどまる)「あなた」に向けて書かれた文体が特徴的である。(2001年7月3日)
抑え難い内からの衝動に突き動かされて主人公が条理では説明不能な極端な行動に走り、かつそこから抜け出せないという構図は「ムーン・パレス」と共通のものだ。偶然の連続により奇怪な出来事に巻き込まれる展開。ストーリーテリングの本領を発揮している。荒唐無稽にも思える展開だが、常に喪失感、虚無感を底流に漂わせている。ボッツィの存在感と、ナッシュとボッツィの間の軽妙な会話がコミカルな色合いを添えているが、ボッツィがいなくなってからは暗く重いものに小説が変化する。そしてハッピーエンドとは対極にある最後のシーンになだれ込んでいく。フラワーとストーンという現実離れした二人の存在は、正体が謎のまま終わる。(2002年3月7日)