ヘミングウェイのようなハードボイルドな文体。盛夏から秋への季節の移り変わりの中に、登場人物たちの虚無感を描く。へんに濃密にならず、さらりと押さえているところが良い。構成はしっかりしていて新鮮である。(1983年7月25日)
「風の歌を聴け」同様、自己の存在の確かさを失った人間の孤独、まわりの世界に溶け込むことのできない虚無感などがテーマとして扱われているが、新鮮さを失っておらず、面白い。(1983年10月13日)
短編集。「風の歌を聴け」や「1973年のピンボール」と同様の作風で、テーマも同一だろうが、長編に見られるストーリー的・文体的な面白さはあまりない。「シドニーのグリーン・ストリート」は7編の中でも一風変わっていて、コミカルな感じで面白い。(1985年10月16日)
(上)「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」に漂う虚無感がこの作品にはそれほど色濃くなく、コミカルでユーモラスな感じがあるが、それが良い。生の無意味さを前提に「たとえ無駄に終わったとしても羊を探しまわ」るという、現代における行動の意義とでもいったすべての人に切迫した問題を扱っている。羊に関する謎ときめいたストーリー展開は充分に読ませるものがある。(1985年10月24日)
(下)小説のラストで主人公が驚くほど感情的になり、文体もそれに伴って動的なものとなるが、この作者のいつもの文章を読みなれている者にとってそれは強いインパクトを持っている。謎解きがすべて終わってもまだすべてが割り切れているように感じないのは、理解力不足によるものかもしれないが、いずれにせよわくわくした余韻を残す。小説後半の場面展開は絶妙で、エピローグも効果的だ。(1985年10月29日)
短編集。話の筋がほかのどんな小説にも見られない面白さを持ち、会話にもセンスがあり、楽しめる。ストーリーや会話の面白さという点では「ファミリー・アフェア」が6編の中で最も良い。ワンパターンさは多少あるが鼻につかない。「ねじまき鳥と火曜日の女たち」等では必然性のわからない描写に多少退屈を感じることもあるが・・・。大江と共通の、”日常生活の冒険”というテーマに思いが至る。(1986年6月5日)
短編集。「はじめに・回転木馬のデッド・ヒート」の中で、以下に続く8編がすべて事実を描いたものであることが語られるが、それぞれの短編の奇抜なストーリーは、やはりそれがフィクションであろうと思わせる。逆にストーリーが事実であると考えると、「レーダーホーゼン」などは冷めてしまう。”何だ、事実か”という具合に。「嘔吐1979」は、不気味な余韻を残す最も面白い作品だ。「ハンティング・ナイフ」のような純然たる小説形態のものはやや退屈する。(1986年6月20日)
「世界の終り」と「ハードボイルド・ワンダーランド」という二つのストーリーが同時に進行し、最後にそれが融合される。ストーリーは先を期待させる巧みな出来で、面白さを満喫できるが、展開が遅く状況描写が長いので退屈を感じることもある。とくに導入部や、「世界の終り」においては。それはこの作者にしては珍しい。ハッピーエンドを期待していたが、そのようにうまくいかないのは残念でもあるし、悲しい余韻を残して心にくいとも言える。作品のテーマとしてなんら新しいものはないが、それを描き出す手法において卓越していると言えるだろう。(1986年9月3日)
この作者の中ではあまり優れた短編集とは言えないだろう。軽く書いた雑文・エッセイという感がある。悪く言えば村上春樹と全く同じ文章の書けるゴーストライターが書いたという印象だ。「蛍」は、題名は平凡だが、この短編集の中では最も優れている。出だしの部分の単調さを除けば、味わい深いストーリーである。「納屋を焼く」も作者の本領が出ていて面白いが、「踊る小人」「めくらやなぎと眠る女」はちょっと物足りない。最後まで読ませてしまう力は持っているが・・・。(1986年9月30日)
短編集。「鏡」は、間の取り方が効果的で、「嘔吐1979」に通ずる面白さを持っている。「図書館奇譚」は、何がなんだかわからないままに読まされ、他の作品にない冷酷さの印象を残す。「5月の海岸線」はこの作者には珍しくテーマの凡庸さを感じさせる。どの作品も独特の気軽さ、不思議さがあり、日本の他の作家にないオリジナリティを確立している。(1986年10月23日)
(上)村上春樹の従来の小説に見られる作為的な文章―それ自体から”虚無”といったようなテーマを描き出す文章―を創作しようという作為がなく、どちらかといえばエッセイに近い文体である。そのため冒頭では、作文のように感じられ物足りなさを感じなくもなかった。が、蛍のエピソードのあたりの描き込みは巧みである。小林緑の登場から物語が明るくなるが、阿美寮に行ってからは打ち沈んで、いまひとつ読んでいて退屈である。(1987年10月17日)
(下)現実世界から遊離した感覚を抱きながら生きる多くの人物が登場する。大江健三郎の追っているテーマと同一だ。ラストでレイコと寝るシーンは突飛で、いささか意図を測りかねた。ストーリーとしては申し分なく面白く、読ませるが、欲をいえばもう一歩突っ込んで主人公たちの奥深くの闇を露呈させてほしかった。直子は、この作者の小説では初めて登場するタイプの女性である。(1987年10月21日)
(上)冒頭で受けた印象は、いつもより暗く、深刻だということだった。読み進めるうちに、この作者の作品には珍しい、怒り、それも社会への怒りが語られているのに驚く。それは「高度資本主義社会」とか、「経費で落ちる」といった皮肉っぽく使われる言葉に現れるし、直接に語られもする。ただそれらのもので作品全体が満ちているというわけではなく、物語は物語として、期待を抱かせながら展開されていく。もっとも展開は遅々としていて、その間主人公の独白が多く、退屈な面がないわけでもない。(1988年11月17日)
(下)様々なことが起こり、少しずつ謎が解明されていくように思われるが、全体としては緩慢な展開で読者をやきもきさせながら、結局ほとんどのものは解決されないままに終わる。ラストでユミヨシさんと寝るシーンは、「ノルウェイの森」のラストで主人公がレイコと寝るのと同様、いささか唐突、というか説明不足の感がないでもない。作中最も迫真するのは、五反田君の最後の告白の部分で、大江の「叫び声」を連想させた。ユキの存在が作中で大きな位置を占めており、読後も強い印象をとどめている。(1988年11月27日)
コメントすべきことはない。(1989年10月1日)
短編集。「TVピープル」は、ズレ、をテーマにしている。家庭画報がアンアンの上になくてはならないという様々な規範にとらわれた日常の中にふと入り込む異質なものと、それがもたらす波紋。「我らの時代のフォークロア」は、60年代に青年期を過ごした人が書きそうな多少センチメンタルな寓話だが、素人の語る体験談とは異なり、読む者を引っ張り込む強い力を持っている。構成力の差か。「眠り」は、”存在することの不安”、を扱っていると言えよう。何一つ不満のない日常に潜む、不安、恐怖、さらに言えば、叫び。(1990年1月31日)
「ノルウェイの森」を思わせる長編で、小細工のない素直な文体、寄り道や仕掛けもあまりないストレートな語り口で読みやすい。ただその分奥深さが欠けているような気がする。先を期待して一気に読み進んだものの、読後には物足りない思いが残っている。唯一の仕掛けと思われるのは、見知らぬ男に渡された10万円の紙袋のエピソードである。このエピソードが仮に最後の部分にあったら読後の印象も変わっていただろう。また義父の存在が示唆する、バブル経済に具現される現実世界、実利社会(「ダンス・ダンス・ダンス」で描かれていたもの)について、もう少し掘り下げた展開があるのかと思った。内容的にはピュアな恋愛小説であり、村上春樹の小説の中で繰り返し語られてきたものが、ここでも繰り返し語られている。(1992年10月14日)
第1部 泥棒かささぎ編
12・13章の「間宮中尉の長い話1、2」が圧巻である。小高い砂丘から地平線に訪れる夜明けの情景、ソ連軍将校とのやりとり、皮はぎ、そして井戸の底の出来事、特に井戸に差し込んでくる一条の光のシーンと間宮中尉の心象。どれも映画や演劇でなく、小説でしか表現しえない鬼気迫る描写となっており、そのリアリティはドストエフスキーを思わせる。8章「加納クレタの長い話」で語られる、”純粋に肉体的な痛み”―それが生への意志をなくさせる―と、苦痛の消失へ至るくだりも、それに劣らない。それ以外の部分は、いつもの村上春樹タッチ―平穏な日常生活と、そこにすべりこんでくるかすかなズレ、不可解なもの、を描いており、多少食傷気味に感じる箇所もある。(1994年6月14日)
第2部 予言する鳥編
不可解な出来事、不可解な人物が次々に登場し、主人公がわけのわからないままにそれらに絡め取られて行く―カフカのような手法だ。全篇が不可思議で意味ありげなメタファーで満たされている。しかし、例えば「マークスの山」において、次々に現れる謎がいずれは”種明かし”という終局に向かっていく、読み進めれば進めるほど謎解きが近づく、その期待が小説を面白くしているのに対し、この小説では、はじめから種明かしなどないことが予想されている。それなにに、やたらに情景を引き伸ばすような迂遠な描写が多く、文章自体もそれほど練られていないように感じられる。第1部の二つの「長い話」を除いては、退屈な部分が多い。いくつかの謎がもっとうまく連関し、何かを暗示するようであれば、心震えるようなパワーを産み出していたであろうのに。(1994年6月23日)
第3部 鳥刺し男編
第1部、第2部は、小説自体を「村上春樹らしく」感じさせるための無意味なレトリックが横溢し、初めての読者には新鮮な衝撃を与えるかもしれないが、いい加減あきあきしている者にとっては、不快感を感じさせた。この第3部では、一部を除きわりとオーソドックスな表現技法が用いられ、そのような不快感はない。第3部のみが独立した長編として組み立てられ、内容は手紙、雑誌記事、「僕」の行動、戦争のエピソードなど変化に富んであきさせない。特に戦争にまつわるいくつかの話には引き込まれ、感動する。現れる謎の数々に重要な関連性が暗示され、サスペンスドラマのように緊迫したストーリーが進行する。だが、明らかにされるものの少なすぎる牧歌的なラストには不満が残る。(1995年12月14日)
短編集。「沈黙」「七番目の男」に見られる告白体の物語はこの作者のお得意な分野の一つであり、読者としても最も好きな一面である。状況設定や語り口調で一種異様な雰囲気を作り上げ、読む者を魅了する。クライマックスでは戦慄が与えられ、余韻として残る。それに対して「緑色の獣」「氷男」のように、ちょっぴり奇妙な、しかも意味ありげな寓話は、それもこの作者の得意な手法の一つであるが、あまり惹かれるものがない。もともと中身がないのに、いかにも深遠な意味が隠されているようにほのめかすこけおどしに思える。「レキシントンの幽霊」のように、いわば”ちょっぴり”怖い階段も同様な感を抱かされる。(1996年12月18日)
オウム真理教による地下鉄サリン事件の被害者たちに取材したノンフィクション。
証言集というよりは、村上春樹の一つの作品と言える。しかも、村上春樹の作品の中で、最も重要な意義を持ったものであろうし、作家としての転機をもたらすものでもあろう。ここに書かれた証言は、日頃通勤電車の中で我々が目にするモノでしかない他人を、具体的な個々のストーリーを持つ人間たちへと変える力を持っている。また、地下鉄サリン事件で多くの人たちが受けた痛みや悲劇を、抽象的なものではなく、ごく身近な人間たちの身近なものとして感じされる力を持っている。読者一人一人がそのように感じることによって、この作品は、多くの日本人の意識全体を変えるものともなりえよう。また、この仕事に真摯に取り組む作者の姿勢と、この仕事によって変わっていく作者の姿も感じられ、今後作者がどのような展開をしていくのかが楽しみでもある。(1997年5月27日)
タイトルの持つ意味は小説の途中で明らかにされるが、これは絶妙である。小説の構成はいつになくすっきりしている。意味ありげな、しかも意味などない不可解な現象も多くは描かれない。適当なときに事件が起き、先を読ませる。サスペンス調ともいえる展開である。いつも同じなのは、恋愛や生に対する冷めた態度で、熱情のない、受身でクールで気取った主人公(男)と、どこか常識を超越したところのある、周囲を翻弄する女、というキャラクターの登場である。「すみれ」と「ミュウ」のそれぞれのストーリーが、「世界の終りと・・・」のように、どことなく近似した、しかも全く別といえば別のものともいえるものとして描かれ、二つの相関性について解釈の余地を与えている。(1999年6月28日)
阪神大震災が何らかの形で関わる短編集。
いちばん魅力的なストーリーは巻頭の「UFOが釧路に降りる」だろう。謎めいた展開が先を期待させる。予想通り、謎は何も解明されずに終わるが。「アイロンのある風景」は、対して静的である。表題作「神の子どもたちはみな踊る」は、暗く、重いが、文体が感傷的であるほどには、読者の心に感傷は呼び起こさない。「タイランド」は、”あの男”についての暗示が生きている。最後でその全貌が明らかにされそうになり、結局されないが、暗示で充分である。「かえるくん、東京を救う」は、ナンセンスな話を装って、実は重要なメッセージを隠し持っているかのようにほのめかす。しかし、結局重要なメッセージなどないことはわかっている。「蜂蜜パイ」は3人の男女の人生を描き奥は深いものの、やはり結末の感傷には疑問符がつく。トータルな感想としては、面白くない作品は一つもないが、すべてぱっとしない。(2000年8月16日)
(上)二つの物語が互いにかすかな関連性の暗示を持ちながら同時進行していくのは、「世界の終りと・・・」と同じ構成だ。「カフカと呼ばれる少年」という謎の存在とゴシック体によるその台詞、何十年も前の事件とそれをめぐる関係者らの供述など、いずれも物語の始まりとしては充分魅力的なものとなっている。「ジョニー・ウォーカー」の出現から、ナカタさんの方の物語は突如として非現実的なファンタジーともいえる方向に進み始める。「僕」の方の物語は、高知の山荘に行ったところから、テンポのよかった展開が停滞し、やや退屈なものとなる。殺人、空から降る魚、ヒル、とまで行ったところで、一体この物語の”おとしどころ”がどうなるのか、それが可能なのか、という疑いにとらわれる。(2003年1月25日)
(下)導入部において明かされた、何十年も前の事件と現在進行中の物語の連関が解明されていくことについての期待が、徐々に薄れていく。結局、最後までそれは明らかにされない。読者にゆだねられている。というより、解明へのヒントもないので、鳴り物入りで始まったストーリーが結局はぐらかされて終わったようだ。ナカタさんと星野青年の物語が、「僕」の方の物語へと接近していき、遂に高松の図書館へとたどりつく展開にスリリングなものはあるが、それ以降の双方の物語の、意味ありげだが所詮はナンセンスな進み行きには落胆する。特に「僕」が森の中の不思議な国に入っていくところと、そこにおける無意味な会話には、いらだちさえ覚える。(2003年2月3日)
現在形、一人称複数の文体はどこやらポール・オースターを思わせる。この作者には珍しく、冒頭からいきなり読者を物語の世界に引きずりこむ吸引力を、作品が持っていない。マリの物語とは交互に挿入される、エリの部屋の動きのない描写がそれを特に際立たせている。一方で、かつての作品で頻出していた、謎の、かつ意味不明の(意味ありげな)こけおどしの事象は、この作品にはほとんど出てこない。それが作品をいやみのない、すっきりとしたものにしている。都会の夜に垣間見る若者たちの生に、心の闇、社会の暗部をさりげなくからめたもので、新人作家が書きそうなあっさりとした小説になっている。(2005年1月31日)
どうということもないコラムだが、作者の制作態度(生活態、とでもいうべきもの。生き方、とか大げさなものでなく、もっと小説のベースとなるもの、文体そのもの)がにじみ出ていて面白い。(1987年6月18日)
ナンセンスストーリーで適度に笑え、適度に不思議な感覚を味わえる。どうということもない話だが、それぞれの発想は通常人には思いつくことのできないユニークなものだ。(1998年3月30日)
糸井の文章は素人臭く香気を欠き面白くない。村上のそれも同様なものはあるが、概して小説風のショートストーリーとして組み立てられているものは、彼の長編に見られる文章の面白さ、エッセンスが見られる。(1986年9月24日)