村上龍

半島を出よ

(上)村上龍と言うと凝りに凝った鼻につく文体というイメージが強いが、本作で意図的に用いられている事務的ともいえる文体にそれはない。むしろノンフィクションのような文体である。描かれている近未来の日本での出来事は、全く起こり得そうもないことではないだけに緊迫感がある。占領された人々の反応や、政府の弱腰の対応然り。登場人物が多く、立場や視点がよく変わる。時折一つの事象を複数の目から描く。『戦争と平和』のような手法だ。経済破綻したとはいえ今の日本と同じ、長い間の平和に慣れ危機という意識が欠落してしまった日本・日本人と、それと対極にある、拷問や死、家族との離散が常に身近にある北朝鮮の戦士たちとを対置。精密な下調べ・準備に基づく力作だ。(2005年6月6日)

(下)始まりにおいていかにも起こりがちであった物語は、後半にはおよそ起こりもうもない、荒唐無稽なものに変わる。世の中の日陰に生きる何の役にも立たない集団が、日本の危機においてそれを救うという逆説的な発想は面白いが。終始、淡々としたレポートのような文体。ストーリー自体は一文で要約できるほど単純なものだが、それに人物たちの様々なエピソードをふんだんに盛り込むことで大作に仕上げている。膨大な下調べと取材に基づく労作であるが、この作品の「言いたいこと」が、何事かに共同して取り組むことについての連帯感と充実感というようなことであると仮にするならば、やや教科書的だ。楽しめる小説ではあるが、何か純文学的な感動をもたらすものかどうかと言えば、それはない。(2005年8月22日)

トパーズ

体を売る女たちを描いた短編集だが、高級ホテルの一室、異常な性行為、イタリアン(フレンチ)レストラン、タクシーなど登場する事象がワンパターンで、くどい。もっとくどいのは作りこんだ長い文体で、通常の文体で書かれるのに比べてどれほどの効果を上げているのか疑念がある。といっても、物語の魅力のせいか、読ませる。一つの生の態様をうまく描き出しているとも言える。最も良かったのは「サムデイ」か。ただし結末は安易に思える。(2000年9月11日)

ラブ&ポップ

村上龍特有の技巧に走った癖のある文体がここにはなく、オーソドックスな文体で読みやすい。したがって、今まで読んだ村上龍の小説に抱いた反感(不快感)は感じられなかった。もっとも、直接筋に関係ない巷の会話のえんえんとした羅列、陳列された商品名のくどいほどの列挙はあり、この作家らしい。それらが小説の中で、ちょっと変わった小説であるという印象を読者に抱かせる以外に、何らかの適切な効果を上げているかどうかは疑わしい。それらがなければ何の変哲もない普通の小説になってしまうのかも知れないが。さて、やたらにペッとつばを吐く病気の男や、「キャプテンEO」の異常な行動の描き方は面白く、ストーリーも良い。扱っているテーマほどには重くなっておらず、あくまで純粋で普通に見える主人公の描き方も良かった。(1998年3月10日)

五分後の世界

主人公の過去の人生、幼い頃の母親の記憶、その他の個人的な問題。全世界に向けて日本人としてのプライドとオリジナルな文化を発信し続ける「アンダーグラウンド」の存在。「向現」と呼ばれる麻薬の力。人種差別。女性のセクシーさ。音楽。様々なテーマが提示されているが、それらすべてを掘り下げて追求するには、紙数が少なすぎた。印象に残ったのは、戦闘シーンの、改行が少なく主に読点でつながれた文章の読みづらさである。何よりも、前触れなくいきなり主人公を「五分後の世界」に現出させ、そのまま強引にストーリーを進めていくのには、置いてけぼりを食らわされた感がある。おかげで、小説の中での現実感が希薄に感じられる。(1994年7月7日)

ニューヨーク・シティ・マラソン

翻訳小説といってもわからないくらい、どの短編もくどさのないハードボイルド調になっている。博多を舞台にした「ハカタ・ムーン・ドッグ・ナイト」はその中でも演歌調で、連城三紀彦あたりの作品を思わせる。「ニューヨーク・シティ・マラソン」、「リオ・デ・ジャネイロ〜」は、この作者らしい、退廃した街、性、男女の”裏”を描いているが、後半3編あたりはさっぱりしていて、村上春樹の短編に通ずるものがある。(1988年2月9日)

69 sixty nine

軽薄でさらりとしたタッチの文体は、高校生である主人公たちの思考、会話と同一レベルのものとして選択され、彼らのキャラクターを反映している。格好よさとか見栄えをすべての行動の動機付けとする主人公は、「現代の若者」と呼ばれる者らのイメージと同一で、60年代にあったとされる「思想」というものを茶化している。(1988年1月14日)

限りなく透明に近いブルー

会話の運び方や描写法に独特のものがあり、どんな小説にも類似のものが見られないというオリジナリティを感じさせる。物自体はともかく人間の行動までをも物として描いているかのような。ラストシーン近くで「鳥」について描かれているが、映画”birdy”に見られるのと同様強烈な暗示となっている。ただこの種の透徹した冷たい文体は私の好みではない。ハードボイルドの冷たい文体とは濃密さという意味で異なったところの。(1986年9月19日)



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