「こころ」などの深刻で重い文体に比べると、さわやかで牧歌的な印象がある。簡潔で的確な文章から構成される情景描写(心象風景)は、俳句のように凝縮され、鮮明な印象を持っている。与次郎という特徴的な存在、街の風景などが当時の大学や東京の雰囲気を生き生きとかもし出している。美禰子とよし子という二人の女性の性格設定の仕分けもうまく行っている。三四郎の恋愛は、最初、主観的な説明は一切抜きに語られている。客観的な出来事、会話、風景描写等により。そこまでは120点。ところが、作者(三四郎)が、三四郎の恋愛状態にあることを認め、語り出して以降は、やや小説がぎこちなくなるように思われる。ラストも、さわやかな青春小説の終わりといえば言えるが、突込みが足りないまま流されて終わったと、悪く言えば言える。しかし、相当に上質な名作であることは間違いない。(1982年11月13日)(1999年11月15日)
三千代への告白から終末へ至る最後の数十ページを除いては、物語に大きな展開がないためか、文章に精彩を欠くように感じられる。「三四郎」のような気楽さがなく、どちらかといえば暗い、重々しい雰囲気である。が、その雰囲気が小説の魅力になり得ているとは思えない。ヒロインである三千代の性格設定がほとんどなされず、生き生きと描かれていない。むしろ、兄嫁の性格の方がよく浮かび上がっている。(1999年12月14日)
全体として見ると、夫婦の身辺雑記を季節の移り変わりとともに描いた小説という印象で、物語が展開するのかしないのか、何が重要なことで何が瑣末な問題なのか、長らくはっきりとしない。暗示されていた夫婦の過去が突如として全面的に開示されたあと、安井が二人の前に再び姿を現わすこととなるといいうのはストーリー展開として無理があると思われる。また、「全面的に開示」といっても肝心の部分はいまだにぼかされており、事件が宗助の上に落とす暗い影がどれほどに深刻なものなのか、判然としない。ただし、「三四郎」の美禰子、「それから」の兄嫁とは対極的な存在として描かれる御米の人物設定は、「それから」の三千代と比べればはるかにうまく行っている。(2000年1月15日)
いくつかの短編による連作小説を目指したと著者がはしがきで述べているが、「須永の話」より前とそれ以降では、小説の趣が異なっているのが興味深い。「風呂の後」「停留所」「報告」「雨の降る日」は何ということもない日常の出来事とそれに伴う主人公のかすかな心の動きを写生した短編である。「須永の話」は一転して一人称となり、「こころ」に通ずる心理小説となる。千代子とのやりとりについての須永の心情を異常なまでに仔細に描き読み応えがある。とくに結末の二人の対決部分には息詰まるほどの迫力がある。「松本の話」も一人称だが、須永からの手紙に描かれる海の描写が味わい深い。「結末」は著者の注釈めいた内容で、付け足しのようだ。(2001年8月24日)
「兄」を「先生」、「自分」を「私」とすれば、構成、テーマとも「こころ」と似通っている。あるいは「行人」を焼き直したものが「こころ」か。「兄」のキャラクターが今ひとつはっきりせず、「兄」の苦悩への興味を読者に十分に起こさせないままに結末へ行く。そこで明かされる「兄」の内面もあまりにも哲学的なもので、共感を感じ得ない。「こころ」に比べれば失敗作という感じもする。しかし、ストーリー展開は練られており、文体も魅力的である。小説の中で最も良いと思えたのは、「自分」と「嫂」(あによめ)のやりとりである。「嫂」の不可解でやや高飛車な性格がうまく描かれ、「自分」との微妙なかけひきのある会話には、高貴なエロティシズムがある。(1995年10月17日)
新聞にある程度の期間連載することを義務付けられた小説であるせいか、視点・テーマがいくたびか移って全体の統一を欠くように思われる。「彼岸過迄」と同じく連作短編を想定したとしても。兄の苦悩の解明が大きなテーマとなっていることは間違いないが、「自分」と「三沢」らのやりとりが描かれた冒頭部、「自分」と兄嫁との微妙な心理的な駆け引きを描く部分、家族小説めいた中盤と、回り道が多い。兄の苦悩に肉薄する「Hさん」の手紙により小説は締め括られるが、兄の哲学的な言辞は理解しづらく読みにくい。純粋に形し上学的な悩みのようで、夫婦間の溝というテーマは置き去りにされている。この小説で最も魅力的なのは、「自分」と兄嫁の間の微妙な距離を高尚かつ精神的なエロティシズムをもって描く部分だろう。(2001年9月11日)
鎌倉の青い海で始まる冒頭の明るい広々としたイメージから、主人公である「私」が、精神的な遍歴を経て、「私は人間をはかないものに感じた」に至る「上」の展開は見事である。「上」「中」全体にわたって”死”の香りが漂っており、読むものを切実な気分に引きずりこむ。生の入口にいる「私」と、生を終えようとしている「私」の父、そして自らの手で生を絶とうとしている「先生」の対比等、正統的な小説の技法が成功している。天皇の死や乃木将軍の自殺と言う時代の風潮を絡めたことが、死のイメージに奥行きを加えている。「下」は心理小説の趣が強くなるが、そこに繰り広げられている心理描写が、現代においても通用する意義をもっているか、疑問もある。(1980年7月26日)(1990年7月5日)
「彼岸過迄」「行人」の読点の少ない一文を一気に読ませる文体に比べるとやや読点も多く、読みやすい。「彼岸過迄」「行人」で描こうとして曖昧なままに終わっていた要素が凝縮して呈示され、小説としての完成度、まとまりはきわめて高い。謎解きの要素もある。ただし、「先生」の苦悩が、具体的な事件に発するものと意味付けられていることからくる通俗性はある。「先生」を人間不信へと至らしめたとされる親族に欺かれた強烈な体験は、蓋を開けてみればよくある話で、それほどインパクトを持つものとも思えない。さして重みのない付け足し的な部分のように認識していた「中 両親と私」が、「下」よりもむしろ暗く重い存在感をもっていると気付く。(2001年10月29日)
冒頭と中盤以降では文体が微妙に変化しているように感じられるが、とくに冒頭において顕著な、七五調を絡めたような半文語調の文体には閉口させられる。どのような趣旨でこの文体を採用したのかはわからないが、決して美文などとは感じられず、おどけた、滑稽な印象を受け不快である。冒頭の男二人の内容のない会話、小説全体を貫く、誰が誰と結婚するといった微小な問題を登場人物があれこれと論評する様子、ショックを受けた女主人公が死亡するという現実感のない結末と、現代人には感情移入が困難な素材を扱っている。現在形の多用、作者が登場人物を「君」付けするのも異様。ただ、藤尾という超然とした気の強い女性の性格設定はうまく行っている。(2001年11月20日)
一応、一つの大まかなストーリーで構成されているので、整った感じはある。といっても、ストーリーというほどのストーリーではない。むしろ、身辺雑記を綴ったような、私小説的で静的な作品である。小説の進行がきわめて緩慢で、一体何を描こうとしているのか見失うことがある。「行人」の兄が哲学的な苦悩を抱え、「こころ」の先生が具体的経験に基づく苦悩を抱え、そのことが彼らを世間から遠ざけているのに対し、この小説の健三は「親しみがたい無愛想な変人」であって、苦悩という高貴な裏付けのない偏屈な人間に見える。幼少時誰からも愛されずに育ったことが描かれているが、そのせいか、身近な者への情愛が乏しく、妻に対しては時折は愛情を見せるものの、子供に関してはまるで無関心である。(2002年1月19日)
冒頭からとりたてて事件というほどのこともない日常を描きながら、何か尋常でない重い雰囲気がたちこめている。芥川の晩年のような文体。日常の中に暗く横たわる何ものかを予感させ、作者自身の思索の深みを思わせる。ねっとりとした這うような描写、登場人物の微細な心理の動きについての執拗な追求。遅々として進まぬ展開は、怪物がなかなか姿を現わさない恐怖映画のように読者の不安感をあおる。場面が温泉宿に移ってからはこれに拍車がかかる。迷路のような旅館のつくり、鏡に写った自分の姿。秀子の登場のシーンは劇的・効果的。ドストエフスキー、さらにはカフカをも思わせる。手法も、語られていることも非常に現代的なことに思える。(1995年9月20日)
読んだのが前過ぎてコメント不能。(1980年7月11日)
同上。(1983年9月28日)
同上。(1983年10月3日)
同上。(1984年5月3日)
同上。(1984年5月14日)