難解な印象。(1982年3月23日)
冗長でやたらに形容詞のくっつく描写に最初はうんざりしたものの慣れるに従い苦にならなくなる。「死者の奢り」と「他人の足」は内容が面白くなく、とくに前者はテーマがつかめず退屈。「飼育」は後半から面白くなるが全体としてみると嫌悪感を覚える。「人間の羊」はテーマが理解でき共感できる。「不意の?」がストーリーが痛快で最も良い。「戦いの今日」は日本人と西洋人の断絶を描き興味深い。どの作品も50年代後半の時代を反映しているがそれゆえに古さも感じる。(1983年7月30日)
前半はストーリー性がなく単調で文体も読みづらいので退屈だが、「鎖につながれたる魂をして」で語られるエピソードには引きずり込まれる。また「新しい人よ眼ざめよ」の中の大胆な告白には驚く。大江の初期の作品に見られる緊迫感や冷徹さがない。私小説であるとはいっても強烈に自我を主張しない点に旧来のそれとの差異がある。(1984年2月19日)
(上)会話の中などに織り込まれるエピソードが重々しさと迫真性を持っている。ストーリーも面白い。主人公の強さ、それも単なる猛々しさではなく、根本的に全くの無力さを持つが故の、捨て鉢的な強さが快い。(1984年10月21日)
(下)喬木のような、冷静さの中にやさしさを持った魅力的なキャラクターは、この作者の初期にはおそらく見られなかったものだ。作品は難解で作者の意図には考えが及ばず、ストーリーを追って読んだが、その分、ラストはあっけない。(1984年11月13日)
「洪水はわが魂に及び」と同様のテーマとして読んだ場合、明らかに「洪水は・・・」の方が優れている。この作品は、作者が自分自身の苦悩を客観的に突っ放して描くことに成功していないし、それゆえに問題が個人的で現実にとらわれすぎており、狭い。犀吉の活発さはから元気にすぎない。結末において犀吉は作者によって否定的に描かれているが、それだけは小気味が良い。登場人物の実在感を欠く。文体が、「洪水は・・・」のハードな文体と比べて、軟弱で快くない。(1984年12月16日)
よくまとまっており面白い。ラストシーンもさわやかで良い。デルショフ氏のエピソードの位置付けがよくわからない。(1985年1月7日)
どの短編も、落ち着いた文体のため面白く読める。内容も興味深い。「スパルタ教育」は緊迫感があり面白い。「アトミック・エイジの守護神」はまるで言いたいことがわからない。「不満足」は後半、三人称の文体になってからが良い。「敬老週間」はややストーリー性を書くのでつまらない。「ブラジル風のポルトガル語」における森林や集落の描写は巧みである。(1985年1月22日)
発想は面白いが、冗長である。エピソードに恣意的なものが多いため、疲れる。が、思わず噴き出しそうな人物のネーミング、行動も多い。ラストシーンにはもっと衝撃的なものを期待した。題名と内容のつながりがわからない。(1985年5月7日)
構成は完璧で展開に緊迫感があり、やや冗長で読みづらいいくつかの箇所を除いては面白く読める。とくにラストシーンには迫力がある。この作者の他の作品には見られなかった素直な形でのヒューマニズムがこの作品にはある(全篇を貫いているわけではないが)。が、この閉鎖状況の設定の意図について考えるには、時間を要することだろう。(1985年5月15日)
作者の他の作品を読んだ者にとっては、この種の私小説的な作品には、他の作品の種明かしや作者の打ち明け話といった性質の興味深さがある。だが、これらの作品がもし実際の私体験を忠実に描いたものであるとするなら、自分の意思にかかわらず作品に登場させられたことになる人物を考えると、たとえ好意的に描かれているにしろ、気懸りが残る。また、それらの作品をエッセイではなく小説として発表することに関しても。(1985年6月3日)
登場人物たちのやり場のない絶望感が描写自体の中ににじみ出ている。しかし、「現代人の希望のなさ」を会話や文章の中で直接に表現してしまう箇所は、説得力を欠く。構成や文体はしっかりしており、ラストの独白も感動的である。(1985年6月17日)
重苦しくどん底の絶望に満ちた小説だが、それだけに迫真性を持っている。ストーリーもときには牧歌的、ときには政治小説的で、読者を引きずりこむ力がある。世相を鋭く突いており、とくにラストの一文ははっとするほど効果的である。(1985年10月1日)
この作者がエッセイなどに用いる文体は慣れるまで随分読みづらいが、慣れれば独特のリズムを感じ、興味深い。作者の生がそのまま文章ににじみ出ている。彼は生活人としては死んでおり、単に小説家としてのみ生きている。現代においてはまれな、小説家らしい小説家と言えるだろう。核に対し作者が描いている切実なものが、実感としてわかない。(1985年10月5日)
表題作には、この作者としては異例の伝統的な小説のスタイルが見られ、リリカルで面白い。作家として駆け出しの頃の作品でありながら、独特な濃密な文体がすでに完成されている。どろどろとした性と現実世界というモチーフがすでに作品の中心となっている。「上機嫌」はやや文章を作りすぎている嫌いがあり、読みづらい。(1986年1月15日)
始まりも終りもないような、生活の一端を淡々と描いたような作品群である。むろん小説のストーリーは多くの部分が架空であるには違いないが。このように私小説を装い身辺の現実から創作を展開していくやり方は、太宰治と共通のものであるが、登場させられた人物に関して、それでいいのかという疑念は残る。「死に先だつ苦痛について」が最も面白い。(1986年2月4日)
同じ系列の作品ではあれ、「河馬に噛まれる」などと比べると、文体はすっきりしていて読みやすい。しかしエッセイ風の語り口調であるためストーリーの総体がつかみづらく、細部についての印象が混沌としたものとならざるを得ない。が、「泳ぐ男」は、きちんとした小説としての構成を踏まえ、ストーリーが構築されている。フィクショナルなものとアクショナルなものが作者のうちで渾然となっているという指摘は同感。(1986年3月16日)
鷹四の告白から自殺に至るシーンの描写は、濃密でどろどろしていて、印象的である。ストーリーが巧みに構成されており、この作者の持つモチーフのすべてがこの作品の中に凝縮されているという感を受ける。エピローグともいうべき「13 再審」は退屈で、結末が弛緩している。(1986年4月23日)
第1部において挙げられた稚拙きわまりない詩(作者のいう「詩のごときもの」)が、ひとたび小説の中に用いられると、同じ文とは思えないほどのリアリティ、迫真性をもって輝くのには驚く。作者の小説家としての才能を感じさせられる。あくまでストーリーを前面に出し、ストーリーの魅力により読者をひきつけていく手法は実に「小説」である。「父よ、あなたはどこへ行くのか?」に関しては、エッセイ調であり、ストーリー性を欠くので退屈。(1986年7月29日)
呉鷹男を犯罪に至らしめる彼の不安(不在感)はよくわかる。登場する3人の青年たちもそれぞれに同様の不在感を負っている。ヨットによる旅行という暗喩としての設定は最初平凡なものに思われたが、3人が崩壊していくストーリー運びには、緊迫感が満ちており、読者を引きずりこむ。エピローグめいた静的な「第5章 真夜中」に漂う空虚感もリアリティがある。(1986年8月18日)
作者自ら言っているように、現実とそれから生起するイメージとを何の規範もなくないまぜにした、イメージの自由な拡大に身をゆだねて生まれたストーリーである。語り手にとっての現実と空想とが、幻覚剤によるトリップのように融合されているという点で、空想を現実と言いくるめるSFとは異なっている。話の展開としては突飛かつドラマチックに構成されていてかなり読み応えがあるが、特異な文体はやや読みづらい。ラストシーンは、それまでの大きな展開に比べて物足りない。(1986年11月24日)
文章は例によって癖がありすぎて読みづらいが、ある一定の地平に達した作家の落ち着きと風格を感じさせる文体である。そこからにじみ出る感傷――ほとんど作者自身のいう「悲嘆(グリーフ)」の感情と同一の感傷は、ものがなしい読後感を残す。物語としての面白さもあり、多少弛緩した部分もあるが好印象を抱かせる小説だ。ラストで作者自身の決意、というか展望のようなものが呈示されているようだ。(1987年12月24日)
最初は例によって文章に癖があり読みづらいが、常に同一のペースを保ちながら、作者自身が先走ることなく、物語の起承転結が展開されていく。じわじわと、しかし確実に読者の心中に波紋を広げていく手法はさすがである。主人公が高校生という設定で、文体等、高校生の告白という印象を出させるための工夫が見られるが、とても高校生のものとは思えないものの言い回し、発想が多用されるので、最初のうちは不自然に感じる。読者層も高校生あたりを意識しているようだ。ラスト、忠叔父さんとのその後についての突込みが少なく物足りない。(1988年10月30日)
「僕」という、中立的な一人称、とくに癖のあるわけでなく、常に冷静で、客観的な一人称を語り手にすえて、その見聞した物語を外面的に、感情をできるだけまじえずに描く手法。その「僕」は多くの場合、作家自身とされ、特別の人格設定をされていない。そのため読者は、物語が作家自身の体験したノンフィクションであるかのように誤解させられてしまう、といった手法は、近年この作者が取り続けてきている。描写が客観的で抑制されているため、じわじわと文体から感動を沸きあがらせる。(1989年6月20日)
「同時代ゲーム」の焼き直しとも言える作品。しかし、「同時代ゲーム」が、実験的な手法をふんだんに用い、文体もこっていて読みにくく、テーマもぼけていたのに対し、この作品はすっきりしていて、(ある意味では)子供向けともいえる文体。「キルプの軍団」がそう意図されていたらしいのと同様に。そのぶん読みやすく、素直に物語に入り込むことができる。スケールの違いこそあれ、マルケス『百年の孤独』を彷彿とさせる世界が展開されている。河口をさかのぼっての村の創建、死んだはずの「壊す人」の再生、創建者たちの同一の夢と消失等、深みのあるイメージの連続。さらに、それらの歴史につらなるものとしての、現在の「僕」のいる場所が描かれる。メタファーとなっている「森」の印象は力強い。(1990年7月31日)
形式はSFではあるが、現代小説と同じ手法が用いられている。イェーツの詩から得たイメージを膨らませた、散文詩的な小説だ。後半に語られる「治療塔」のエピソードは、十分に伏線を張られた後でもあり、鮮烈な印象。全体に静かな小説だが、ラストに格闘のシーンをもってきて盛り上げ、再び静かに主人公の独白で終わる。生と死のテーマに、環境の問題もさりげなく織り込まれている。(1990年9月27日)
小説という形で各作品に表現されていたものが、作者の生の声として語られており興味深い。今までに読んだ大江の作品の舞台裏をのぞく印象。今の作者が、書く小説においても内向的な印象を与えるのに対し、このエッセイの頃の作者は積極的・外向的であり、社会や政治について多くを語っている。サルトルのように。ときとして攻撃的ですらある。「危険の感覚」についての記述は身につまされる。「属シテイナイ」は、現代人、また現代の作家たちすべてにとってのテーマだ。(1992年1月9日)
冒頭の数行でこれが手紙であり、誰かに向けて書かれているものであることが呈示されるが、すぐに普通の小説の文体に戻り、女主人公の淡々たる告白という形で話が進められていく。ストーリーはあるように見えるが、実は全く存在しない。これは詩である。主人公の心境を綴った詩であり、一般のSF活劇のように、展開の面白さで読ませよう、楽しませようという意図はさらさらない。詩としてこれを読まない限り、退屈で耐えられないだろう。結末において、この文章全体が誰にあてられたものであり、どのような目的で書かれたものであるかが明らかになるが、かろうじてその部分は劇的である。(1992年6月8日)
一般の用法とは微妙に異なる特有な意味を持ったことばの使い方や、独特な構文による読みにくさはいつものことではあるが、それに加え、本作で扱われている「転換」、「いやし」、伝承などのもつ意味と関連性が理解できず、ほとんど共感を覚えられない。読者にそのような意味や関連性を伝えようという意思がないように感じられ、突き放された気分と苛立ちさえ覚える。作者は遠い自分だけの世界に去ってしまったようだ。この先、第二部、第三部において解明されるテーマの提示があるのかもしれないが、今のところ続きを読む気にはなれない。(1998年5月7日)
まず、文体が以前の作りこまれた極度に読みづらいそれを捨て去り、飾り気のないシンプルなものになったことが注目される。淡々としたそれは、ときとして小学生の作文のようである。小説には、障害児の長男、森の谷間の伝説といったおきまりの題材が登場する。初めて大江の小説を読んだ者にとってその題材はインパクトがあるかもしれないが、数多く接していると食傷気味。登場人物は、どの程度の虚構が施されているかわからないが、作者とその家族――年齢や境遇も同じと思われる――であり、私「家族」小説のよう。そのような手法は妥当なのか? 当人たちにとって迷惑ではないのか。そのような手法を用いず、虚構を構築するパワーがもう作者にはないということか。(2004年2月12日)
作中で引用を多用することについて持論を展開しているが、十分に納得できるものとは思えない。(2004年3月22日)