山背の筒城は雷山神籠石 日出島哲雄
雷山神籠石の北の水門の西に筒城神社跡がある。そこは前原市の大字飯原字次久である次久の西隣の字が山ノ後である。北の水門の字は大字雷山字筒原である。筒原の東隣の字は後山である。
筒城は日本書紀に出てくる。





日本書紀 卷第十七
男大迹天皇 繼體天皇
・
五年冬十月、
都山背筒城。
近畿の山背国を日本歴史大辞典(河出書房新社)で調べてみた。
「山城は古くは山代または山背と書かれた。古代政治の中心地であった大和に対し、那羅山の背後にあたるが故である。」と書かれている。
山ノ後と山背とは同意義なのである。
力石巖氏は、筒城は神籠石系を含む古代の城を示す言葉であると主張されている。ならば、日本書紀の山背筒城は城であると考えるのが妥当である。山背筒城の定説の地である近畿の山城国綴喜郡綴喜郷に城があったという話は、聞いたことがない。
しかし、雷山神籠石の字は、筒原、後山、次久であり、山ノ後は次久の西隣の字である。山背筒城はズバリ山ノ後の筒城であるとはいいきれない。
山背筒城は、仁徳天皇の話にも出てくるので、これを調べれば、山ノ後の筒城かどうかを知ることができる。
日本書紀 卷第十一
大鷦鷯天皇 仁
天皇
卅年秋九月
・
藝泥赴、揶
呂餓波
・
更
山背、興宮室於筒城丘南而居之。
冬十月・・・・・
揶
辭呂能、
々紀能瀰揶
・
藝泥赴、揶
呂謎
「揶
呂餓波」と「揶
呂謎」の枕詞になっている「
藝泥赴」は、「やましろ」の枕詞である。
岩波文庫版の日本書紀によると、
藝泥赴とは、次々と嶺が見えてくることだという。雷山神籠石がある後山、筒原、次久から山ノ後にかけては嶺が連なっている。「
藝泥赴、揶
呂」という表現にぴったりの地域である。
雷山の地には、「
藝泥赴、揶
呂」と呼ばれる他にも納得できる根拠がある。前原市とその近くには、他にも山ノ後という字がいくつかあり、これらと区別するために、「
藝泥赴、揶
呂」と呼んでいると思われるのである。
山背筒城とは、山城である雷山神籠石の地である。
筒城神社跡は、山ノ後の筒城の跡なのである。即ち、日本書紀の仁徳紀と継体紀に出てくる山背筒城は、雷山神籠石の城である。日本書紀は、継体の時期、更に早く、仁徳の時期に神籠石があったと、証言しているのである。
雷山神籠石の防人と不破乃世伎、このサイトの頁構成図、大友皇子と鞠智城(壬申の乱は九州)、
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