ソロが長い

神の軌跡 エリック・クラプトン(前編)

 

 エリック・パトリック・クラプトン。
彼の人生は間違いなく現代における”生けるロック史”そのものであると言えます。幅広い交友関係をもち、それは時としてライバルであったり、救いの手を差し伸べてくれる友人であったりしました。その中で自分を高めていきながらも、さまざまなスタイルを取り込んでいきました。99年にはベスト盤をリリースし、50代後半にさしかかった今でも彼の磨きぬかれたテクニックは他の追随を許しません。2001年になって引退宣言が出されたのがとても残念です。

 1945年3月30日、イギリスサーレイ州リプリーで私生児として生まれました。その当時16歳だった母親は後に別の男と結婚し、クラプトンは祖父母の元で育てられました。こうした家庭環境で育ち、内気な性格だった少年が出会い、惹かれていったのはブルースでした。ブルースを通じて自分の内にある気持ちを昇華させていったのではないでしょうか。

 少年時代にエルビス・プレスリーをはじめとしたR&Rや、ロバート・ジョンソンなどのブルースをコピーし練習していました。キングストン・アート・カレッジに通い、ステンドグラス設計士を目指しますが、ギターの方に熱が入り学校をやめることになります。63年1月、ルースターズというバンドに初めて加入し活動を開始します。その後ブライアン・ジョーンズともプレイしますが目立った活動はなく、3度目にしてキース・レルフ率いるヤードバーズにギタリストとして加入します。ヤードバーズの活動拠点はローリング・ストーンズが育ったところで、R&Bファンにも有名なリッチモンドにあるクロウダディ・クラブというところです。クラプトンの叙情的なギタープレイはヤードバーズの看板となり、クラブのマネージャーだったジョルジョ・ゴメルスキーは、その卓越したギタープレイから「スローハンド」というニックネームをつけました。テクニックを用いて速いフレーズを弾いているのに、手が動いているように見えないくらいにさらっとやってのけるのだというのです。ここに若くして、当時イギリスNo.1ギタリスト「エリック・”スローハンド”・クラプトン」が誕生します。

 64年9月にジョルジョ・ゴメルスキーの尽力により、EMIからデビューアルバム「ファイブ・ライブ・ヤードバーズ」をリリースします。しかし、もっとヒット曲を出して人気を得たいキース・レルフと、ただブルースにのみ没頭したいというクラプトンとの間に少しずつ溝ができていきます。65年には最大のヒットアルバム「フォー・ユア・ラブ」(全米6位、全英3位)をリリース。この作品はポップ色が強く、R&Bバンドを目指したいクラプトンとしてはプレイするのを嫌がりました。とうとう彼はアルバム発表と同じくして、65年3月ヤードバーズを脱退することになります。流行に迎合することなく、目先の欲望(金と女)にも目もくれず、頑なに自分のスタイルを追求するクラプトン。ブルースへの熱いこだわりが感じられます。

 ヤードバーズを離れたクラプトンは65年、ジョン・メイオールに自分のグループであるブルース・ブレイカーズに入ることを求められ加入します。アルバム「ジョン・メイオール&ブルース・ブレイカーズwithエリック・クラプトン」では、シカゴ・ブルース・スタイルを大きく取り入れたり、彼の渋い声がフィーチュアされていたりと注目すべき点が多いです。また渡英したブルースメンとレコーディングを行うなど、さらにテクニックを磨いていきます。66年7月、メイオールとのブルースに対するアプローチの違いからクラプトンは脱退することになりますが、このとき既に「ギターの神様」という称号が21歳の彼に与えられていました。同時に彼を象徴するかのようにブルース・ロック・ブームが盛り上がりをみせます。

 ロンドンの街中のあちこちで”CLAPTON IS GOD”のスプレー書きが見られる最中の66年、セッションバンドであるパワーハウスに参加することになります。そこにはスティーブ・ウィンウッドやジャック・ブルースが名を連ねていました。ロバート・ジョンソンの「ホワイト・ルーム」を自分のレパートリーに取り入れたのはこの頃です。

 66年6月、16歳でドラムを習得し、ジャズバンドを転々としていたジンジャー・ベイカー(Ds.)、クラシックの勉強からリタイアしバンド活動をしていたジャック・ブルース(b.)、そして天才ギタリストであるクラプトン(g.)は、史上最強のロック・トリオ”CREAM”を結成します。その最低限の編成ながらも、アドリブの要素を取り入れたソロ・プレイで、ステージの大音響と共にバトルを繰り広げました。ブルースを基調としながらも、クラシックやジャズのスタイルを実験的に取り入れた先駆的なバンドでもあります。名残惜しいギターのフレーズ、ハーモニカが光る「スプーンフル」が入ったデビューアルバム「フレッシュ・クリーム」を発表後、67年にはアメリカ人プロデューサーであるフェリックス・パパラルディを迎え、ヒット曲「サンシャイン・ラブ」を収めた「カラフル・クリーム」をリリース。名盤と呼ばれ全米1位を獲得した「クリームの素晴らしき世界」ではCMにも使用された「ホワイト・ルーム」、アドリブが存分に楽しめるライブ録音の「クロスロード」などを収録。解散直後の69年に発表され全英1位となり、ジョージ・ハリスンの参加した「バッヂ」を聴くことができる「グッバイ・クリーム」。どれをとっても斬新さであふれていて、”シブい”のひとことに尽きます。ライブ盤も聴きどころが多いです。ジミ・ヘンドリックスが登場しサイケ全盛の時代に一際異彩を放っていたグループであり、わずか2年5ヶ月という短い活動期間でしたが、現在のハードロックシーンに残した影響は大きいです

 クリーム解散後、クラプトンは顔見知りだった元トラフィックのスティーブ・ウィンウッドと、ジンジャー・ベイカーとブラインド・フェイスを結成します。”スーパー・グループ”と呼ばれ、アルバムは69年にリリースされた「スーパー・ジャイアンツ」一作のみですが、英米で1位を獲得。クラプトンの「プレゼンス・オブ・ザ・ロード」ジャケットに少女のヌードを用いたことでアメリカで問題にもなりました。アメリカでのツアーを成功させグループは結成一年を待たずに解散しました。メンバー構成の割に成果の少ないバンドであったということは否めないです。

 69年も終わりかけた頃、クラプトンはブラインド・フェイスの全米ツアーのオープニング・アクトで出演していたデラニー&ボニー夫妻に強く惹かれるようになります。ここからクラプトンは自分への原点回帰、さらにはブルースの原点回帰を強く心に抱き、アメリカ南部のサザン・ロックを掘り下げて行くことになります。デラニー&ボニー&フレンズの中で歌うことに目覚めたクラプトンは、70年に入りフレンズのメンバーであったレオン・ラッセルなどと初のソロ・アルバム「エリック・クラプトン」をリリースします。

 その後カール・レイドル(b.)、ボビー・ホイットロック(key.Vo.)、ジム・ゴードン(ds.)と3人のフレンズのメンバーとデレク&ザ・ドミノスを結成します。ファースト・アルバムである名盤「いとしのレイラ」は、クラプトンが絶賛したスライド・ギターの名手であるデュアン・オールマンが参加し、二人の息の合ったプレイを聴くことができます。アルバム全体が南部志向に加え、レイド・バックを意識した作りになっているのが大きな特徴。タイトル曲「レイラ」は、クラプトンの親友であるジョージ・ハリスンの妻パティ・ボイドに贈ったラブソングであることはよく知られています。92年に発売された「アンプラグド」には違うスタイルで収録されていたのも記憶に新しい。70年に世界的なヒットとなったこのアルバムですが、次のセカンドアルバムの録音中に意見が対立しグループは分裂することになります。

ここからクラプトンは長期にわたり、ソロ活動や数々のセッションに参加することになります。これだけの功績がありながらも、この時点で彼はまだ25歳・・

(後編につづく)

next issue coming soon !!
◆ feature album ◆
461 ocean bouleverd
slowhand
money and cigarettes
august
Rush (tears in heaven)
unplugged
from the cradle
pilgrim
reptile