ワーモトさんと新潟山岳会・雑缶                           

 家に帰ると「岩本さんが怪我をした」と書き置きが有り、トラさんにTELすると「亡くなった」と言われ、唖然となる。
自分で出来る事はと思い、翌朝、夜勤から帰り、ワーモトさんのザック回収へと向かう。
TELでメンバーを聞いたのだが、トラさんの言葉が耳を通り抜けるだけで、ネコちゃんと修ちゃんしか頭に入っていませんでした。
 
 オツルミズ沢出合に着くと、車だけで人の姿は見えない。
急ぎ支度をして追掛ける。
カグラ滝の岩に付いた血を見て、確かにここで事故が有ったのは理解できても、ワーモトさんが亡くなったと言う実感は湧いて来ませんでした。
ただ回収を終えて、出合に置かれた花を見た時には、無性に切なくなりました。
 
 通夜へ行き、花に囲まれた遺影と柩を見た時、初めて彼の死を実感しました。
そして深い悲しみと共に、どうしようもない怒りを禁じることが出来ませんでした。
 
 夜勤のせいも有りますが、睡眠時間3時間位の日が続き、どうしようもないほど疲れているのに眠れません。
それでいて、何もせず、ボーっとしていると落ち着きません。
そんな時、ワーモトさんの追悼集の原稿を依頼されましたが、「落ち着いたら書きたいけど、今はそんな気になれない」と断りました。
しかし落ち着いてからでは、どうしても、穏やかで、当たり障りの無い事しか書けない気がします。
そして、みんなの文章もそんなのが中心になると思います。
私一人位い、追悼集のスパイスに、この気持ちを、どうしようもない怒りも含めて、八つ当り的に書いてみようと思います。
そして、それは、私が書ける領域を大きくはみ出してしまうことも有ると思いますので、その点を前もってお詫びしておきます。
 
  いつかワーモトさんが「山もよう」に載せた「会・雑缶」。
私にはもともと文章をまとめる力など無いし、何が飛び出すか、書き始める今でもわかりません。
そうです、自分の思いつくまま、雑缶的に書いてみようと思っています。

                                                

   雑缶
遭難事故について ザック回収へ行った時、下記の事を感じました。
 ・ルートの取り方。
 ・ザイルを使用していなかった。
 ・事故後、岩本さんの体の固定と保温。
 ・荷物が多すぎて、ザックが重かった。
以上が事故の直接の原因と思いますが、根本的にはオツルミズ沢に対する認識の甘さが 有ったと思います。
その一つが荷物の多さに現われています。
 
  山の道具には“絶対に必要な物”と“有れば便利な物”に分けられます。
たしかに沢登りでも、焚火を囲み、イワナを焼いて、生活を楽しむ沢も有ります。
そんな時は、いろんな道具を持って行き、沢での生活を十分に楽しめば良いと思います。
 しかしオツルミズ沢は登攀的要素が強く、荷物は最小限にとどめ、軽量化する必要が有りました。
日帰りの沢や岩の経験は有っても、泊りの沢の経験は少なかったと思います。
そのため荷物も、泊りでの尾根歩き感覚で、道具の選択が不十分でした。
山形の実家の部屋に広げられたザックの中身を見て、なんでこんな物までと思うものが沢山出てきて、それを実感しました。
 
 “オツルミズ沢”そのものに対する甘さも有りました。
橋本、中村パーティは一日で小屋まで抜けている。
須藤、金子、阿部(信)、五十嵐パーティは、前夜の台風で出発が遅れたが、一泊二日で登っている。
そして私は新潟山岳会に入る前にも単独日帰りをやっていることが、オツルミズ沢の認識を甘くした原因だったかも知れません。
しかし私は、サナギ滝までの下見に登ったり、桑の木沢から郡界尾根を越えてオツルミズ沢上部も経験していました。
そして大チョウナ沢、滝ハナ沢、蛇子沢右俣左俣などを登り、単独での経験を積んでからオツルミズ沢へと向かったのです。
 岩本パーティは4級の沢の経験の少ないまま、5級の沢へいきなり入ったと言う感は拭えません。
そして前記のパーティとの実力差は、どうしても否めません。

 

  ワーモトさんと新潟山岳会、そして新潟稜友会
 人は年令と共に、山の登り方も変わって行きます。
若い時にはバリバリとハードな山行をやっていた人も、年令と共にのんびりとした山行を好むようになります。
山岳会も、そのメンバーの年令と共に登り方の変わって行く会と、世代交代により、ハードな山行レベルを保ち、発展させて行く会が有ります。
自分達で設立した「栃尾山スキークラブ」や沢を始めた頃一緒に登っていた「ホワイトレーシング」は前者です。
ホワイトレーシングも毛猛沢へ積極的にチャレンジしていた頃が有りました。
メンバーの大部分が結婚すると、奥さんを連れての沢遊びと宴会が中心になりました。
今の夏合宿はファミリーキャンプそのものです。
 会の性格はメンバーで決まる訳ですから、それで良いと思いますが、新潟山岳会は新しい人を入れ育てているので後者にあたります。
 
 平成6年度末の総会で、役員会の決定を覆して、阿部さんが会長に立候補して当選しました。
阿部さんの会長再登板は世代交代に逆行することだと思い、私達は新しい会を作りました。
それが「新潟稜友会」です。
 
  稜友会のメンバーは、昨年まで新潟山岳会の副会長、事務局、企画、装備、渉外など会運営の中心となっていました。
当然、会山行や訓練山行の企画実行の中心となり、個人山行でも積極的に会員を引っ張って行った人達です。
 前置きだけがどんどんと長くなってしまいました。
このように新潟山岳会が分裂状態になるのを必死に食い止めようとしたのがワーモトさんでした。
両方の会の間を飛び回り、阿部さんと中村さん、橋本さんとの話し合いも彼がセツトしました。
「山模様」への投稿でも「雨降って地固まる」と新潟山岳会がこのことにより、より強く結びつくようにとのワーモトさんの願いが書かれていました。
会の現状を彼なりに分析し、私達稜友会メンバーを「現役中心主義派」、阿部さん達を「家庭的絆があくまでベース派」と呼んでいました。
私にとって、山岳会は山へ登りたい人が、山へ登るために作った会ですから、現役中心など当たり前です。
山登りを辞めた人のための山岳会など、まったく興味がありません。
 会規約についても、山岳保険加入など重要な部分をうやむやなままでの運営は出来ないと思います。
先輩たちが自分で決めた「現役は山岳保険に加入する」と言う規約を、自ら守らないのは、自ら現役では無いと言っていることと同じです。
OB論議を二年間も続け、そして「この間の役員議論を一掃してしまった超法規的な会長立候補」
“超法規的”とワーモトさん自身も言っていますが、「一時棚上げにしても会の融和が急務」とはとても納得がいきません。
正直彼の原稿を読み、怒りさえ感じました。
  しかし私とワーモトさんでは立場が違い、考え方も違って当たり前です。
そして彼が最も会の事を思い、分裂を避けたいと思っていることは十分わかっています。
私も出来れば分裂は避けたいと思います。しかしそのためにはどうすると言う点ではまったく異なっています。
立場の違いで怒りさえも感じましたが、今でもワーモトさんが、新潟山岳会では最も尊敬し信頼している一人です。
  私も彼の原稿に対する意見を書きたかったのですが、うまくまとめられませんでした。
しかしさすがに中村さん、理論的にまとめ、うまく表現していました。
稜友会の人達は、ワーモトさんとは立場も違えば、意見も違います。
しかし稜友会のメンバーの誰もが、新潟山岳会の中で最も信頼する人でした。
一人一人考え方の違うのは当たり前で、お互いに自分の意見を言い合い、お互いの立場を尊重し合ってこそ、信頼し合える良い関係と言えると思います。
 残念ながらもワーモトさんの努力も虚しく、今でも稜友会は存在し活発な山行を続けています。
 
 私達も新しい稜友会の活動が中心となり、新潟山岳会の会山行にはほとんど顔を出さなくなりました。
今では稜友会も新人がだいぶ増えましたが、あの頃はまだ大部分の人は新潟山岳会と掛け持ちですし、山岳保険は新潟山岳会で入っていることも有り、山行計画書や報告書は新潟山岳会へも出していました。
同じ新潟山岳会の会員同志なのに、私達と行くといろいろ言われて、今まで通り一緒に動く人はごく一部になってしまいました。
今まで会の中心となって活動してきた私達も、もう会山行を企画することはありません。(役員では有りませんから)
そしてこのことは会の活動の低下やレベルの低下は当然の結果と言えます。
こんな状況を、阿部さんは会長に立候補する時には十分予想していたことで、望んでもいたことと思います。
あまり山へ行かなくなった人達にとっては、山行レベルの低下など問題にもならないが、残された現役の人達は、数ヶ月の活動を通して、それを実感してきた訳です。
そのことに気付き、会の先行きを思い、斎藤奈美子さんが「山模様」に「新潟山岳会・雑感」を投稿しました。
その中で奈美子さんは「会への不満分子がいなくなつたと笑っていられるほど、甘い状況ではない」そして「昨年までの会の山行を積極的に行い、‘山模様’に様々な報告を綴ってくれた“先鋭たち”の大部分がいなくなった今、若手の技術低下は避けようのない事実です」と言っています。
そしてまた「今までに近いような形で活動を維持して行くには、“現役”を自負しておられる先輩の方々にもっと協力していただき、技術面等を若手に少しでも多く伝えて行く努力が急務」と会のレベル低下に強い危惧の念を表明していました。
  私も彼女の言っている意味をみんなで良く考えて欲しいと思いました。
そうすれば新潟山岳会の本当の姿や、その先にあるものが見えて来るはずです。
 
 やはり岩本さんもこの事は、いろいろ考えていたらしく、次号の「山模様」に「会・雑缶」を発表しました。
やはりその中で「ここ数年間刺激と影響を与え続け、仲間や会を牽引してきてくれた“先鋭たち”が今いなくなったという事の重大性を特に先輩たちから噛み締めてもらい今後の会の発展に力を貸して欲しい」と同じ内容の事を言っていました。
それに対し私も「“先鋭たち”を過去形にしないで一緒に登り、いろいろ学べば会のためになる」こととか「山岳会の理想」などを書きましたが、会の幹部に相談して発表を控えました。
もっとも稜友会の若い人に聞いたら、新潟山岳会の若い人にも是非読んでもらいたいと言われましたが、これ以上関係が悪化してはと、やはり発表しませんでした。
 
 奈美子さんが言っていた「“先鋭たち”のいなくなった危機感」
そして岩本さんの「“先鋭たち”のいなくなった意味(抜けた理由ではなくて)」と言っていたそのことを、“岩本さん自身が自分の身で示すこととなり、その結果はあまりにも無残でした。”
 レベル低下を沢だけで見ると、平成7年度の山行報告を見るかぎりでは、弥彦滝ノ沢、米子沢、御神楽岳湯沢、オツルミズ沢、白神山地笹内川で全部です。
そのうち湯沢では田沢さんが落石で怪我をし、オツルミズ沢では岩本さんが遭難です。
なんと四割という、とんでもなく高い事故率です。
そして滝ノ沢、米子沢、笹内川は初級と言うよりも、沢への入門ルートです。
毎週1〜3パーティ沢に入っていた稜友会は、私が単独でいった飯豊文覚沢でザックを流してしまった以外は、事故はなく、怪我人も出ていません。
もっとも大部分の山岳会が、事故もなく山行を続けていることと思います。
岩本さんの死を無駄にしないためにも、新潟山岳会で起きた二件の事故の意味を良く考える必要が有ります。
 
 役員複数の人が「会が分裂状態でなかったら、こんなことには成らなかったのでは」と言っていました。
新潟山岳会の沢登りが少なかったことも有りますが、今シーズン滝ノ沢しか行かずにオツルミズ沢へ向かったことじたい無理がありましたが、もし私達がいればオツルミズ沢の経験者も大勢いるので、もっとアドバイスできたと思います。
私も単独で登った時はサナギ滝〜大滝のゴルジュはほとんど巻き、金子さん達と行った時は、小雨の中の早朝とは言え、もっと大高巻きをしたので、まだ課題として残っている。
もし休日さえ合えば、私も一緒に行っていたと思います。
 
 岩本さんの事故は「多少無理の有った計画」との感は拭えませんが、御神楽岳湯沢の事故は“論外”と言うしか有りません。
田沢さんが夜勤明けなので、軽く登れる二王子岳を計画しました。
出発の朝、リーダーが「ハーネスを買ったんだって、岩登りの練習に御神楽岳へ行こう」と湯沢へと変更しました。
「練習だからヘルメットは要らない」と言われヘルメットも被っていなかった。
そして杉浦さんの落とした石に当り、頭部を四針も縫う怪我をしました。
田沢さんはハーネスを買ったばかりの初心者。
間方さんも沢へ行った事があるとは聞いたことも有りません。
御神楽岳の沢は、そんな二人を“練習”に連れて行ける所では有りません。
ましてや練習だからと言って“メット不要”と言うことは絶対に有りません。
私が初心者二人を湯沢へ連れて行くとしたなら、練習どころか本チャンで、さらにサポートしてくれる人も欲しい所です。
メンバーに正しい情報を教えず、騙して連れ出すような人にリーダーの資格はありません。
 事故報告書に「軽量化のためにヘルメットは置いて行く」と書いてあったが、冗談どころか、言訳にも成りません。
まして杉浦さんは、先月、前穂高にて落石で佐々木さんの手に怪我をさせている。
そんなことを岩本さんに指摘されたようですが、詳しいことは分かりません。
私の知る限りでは「山模様」での杉浦さんの<御神楽の件に対して岩本さんより指摘を受けて…>と阿部さんの事故報告で「オツルミズ沢に入る前に我が家に立ち寄り、御神楽岳での落石事故に対して非常に熱っぽく語り、今後、会においてその様な事故がなくなるようにと一生懸命努力していた姿がオーバーラップする」と有りました。
 
 私も最近はほとんど例会に出ていないので分かりませんが、山行計画のアドバイス(中止も含めて)はされているのでしょうか?
経験豊富な先輩方の知識が役立つ所なのですが。
 6年度の劒岳夏合宿の下山に、大部分が初心者のギャルパーティが仙人池〜阿曾原を計画しました。
その時も杉浦さんが、劒岳〜三ノ窓〜仙人池へと連れて行こうとして、中村さんに止められて、中止しました。
時にはこんなことも必要です。
 
 山行計画を立てるとき、その山行には、どのような装備と技術、そしてメンバーが必要か見極めなければ成りません。
一緒に行くメンバー(サブリーダーやサポーター)によって連れて行ける人も変わってきます。
少なくともリーダーは、この位のことは考慮して計画を立てなければ、いつ事故を起こしてもおかしくありません。
 
 私は新潟山岳会の他に「栃尾山スキークラブ」と「駒の会」に入っていました。
山友会や悠峰の人達とも一緒に登ったりもしました。
栃尾山スキークラブは人数の少ないことも有りますが、他の会の人との交流を大切にしていて、守門岳や浅草岳での交流山行を企画し、県外からのグループからも参加してもらっています。
しかし新潟山岳会では、同じ会員同志である私達と一緒に動いただけで、嫌味を言われたと聞きました。
沢をやりたいと言っていた新人を、私が、金子さんリーダー(退会)の米子沢へ誘ったことが、総会で取り上げられる程の問題になりました。
会自体がどんどん排他的になり、ワーモトさんの言っていた“家庭的”とはだんだんとかけ離れて、閉鎖的になってきていると思います。
 
 新潟山岳会そのものが、杉浦さんの山行で示すように、安全無視の無責任な山行が多くなりました。
それに対して、適切なアドバイスをするべき先輩たちも、山行への無関心のためか、やるべきアドバイスを怠っている。
そして今まで岩本さんが一番多く一緒に沢を登った、私達との交流は断たれてしまっていました。
こんな新潟山岳会の雰囲気が岩本さんの事故の背景にあり、事故の遠因となったのではないかと、私は思います。

    

  新潟山岳会とワーモトさん
 山行の想出で「どんなに苦しい時でもY談と冗談を忘れないワーモトさん」と書きました。
しかし彼の本質はとても真面目でした。
そして、どんな仕事でも一生懸命にやり遂げました。
ワーモトさんは編集委員長として、新潟山岳会の文集「くちなし100号記念」と「くちなし104号」を事務局長だった金子さんと二人三脚で作り上げました。
もちろん編集委員の佐藤美加子さんと五十嵐順子さんの協力を忘れる訳には行きません。
文字通り「寝る間を惜しんでのワープロ打ち」だったと聞きました。
彼女達がそこまで頑張れたのも、彼の人徳の成せる技です。
しかし残念ながら「くちなし105号」はワーモトさんの急逝のため、いまだに完成していません。(1月現在)
しかし春には発行できるようにと、美加子さんと田沢さんが奮戦中です。 やはり「くちなし」はワーモトさん無しで語ることはできません。(結局は幻で終わりました…)
 
 「雑缶」で書いたように、ワーモトさんは最も新潟山岳会のことを考えていた一人だったと思います。
山岳会の節目ごとに「山模様」に彼の思いを綴り、問題提起や会の方向を示して来ていました。
それが「雨降って地固めよう!」や「会・雑缶」です。
それは本当に真剣で生真面目そのものでした。
 
 新潟山岳会もかつて森田さん達から阿部さん達へと世代交代したように、またいつか世代交代して行かなければ成りません。
岩本さんは新潟山岳会の次世代を担う第一候補だったと思います。
私達も岩本さん達の世代になれば、なんの軋轢も無く、一緒に山へ行けることと思っていました。
もともと私にしてみれば新潟山岳会の仲間とは、昔も今も、そしてこれからも一緒に登りたいと言う気持ちは変わりません。
ですから岩本さんが、これからの新潟山岳会を守り立てて行き、その中心と成ってくれることを期待していたのですが、もう叶わぬ夢となりました。
それと共に、私自身の中にある新潟山岳会への思いもどんどんと遠ざかって行くのを禁じることは出来ません。
やはり他の人もそう思ったのか「山行報告を出す気もしなくなった」と言っていました。
それだけ岩本さんの影響力は大きく、偉大な人だったと言うことでした。
 新潟山岳会にとっても、本当に大切な人を失ってしまいました。
 
 金子さんが、稜友会の会報に、事故の経過や対応、そしてそれらに対する彼の考えを7ページにわたって書き綴った「オツルミズ沢・事故報告」を載せました。
岩本さんと同じく、沢登りをする一人の登山者として、鋭い指摘や批判も有りました。
新潟山岳会では「山模様」に成田さんが事故当日の行動記録と、会長が半ページの事故報告を載せて有りました。
そして今現在は委員を選任して、事故報告書を作成中と聞いています。
 稜友会の会報には、浦和浪漫山岳会の高桑さんからのファックスと、雪崩講習会講師の中山さんから「事故と会員教育」についての意見が記載してありました。
 
 私自身もいつ事故を起こすか分かりません。
絶対に山では死にたくない。
どうせ死ぬのなら畳の上で、それよりギャルの上(腹上死)が良い……
とどんどん話が外れて行くヒロタンです。スイマセン…
 
 事故を起こさないためにも、もし起こしてしまった時のためにも、その参考となるように詳しい報告書を期待しています。
私がザックの回収へ行ったことも批判されたと聞きました。
たしかに私も気が動転していて、早朝の事もあり、会長に無届けで行き、反省しています。
感情的な批判は軋轢しか産みませんが、理性的な批判は反省を産み、対策へと生かされて行きます。
その積み重ねが安全登山のノウハウとなります。
阿部さんも事故報告で「全てに全力を尽くし、全てを完璧にこなした岩本君の期待に応える為にも、君の身をもっての教えを会員全員真摯に対峙しなくてはならない」と書いていました。
是非、批判するべき点は批判し、問題点を深く掘り下げてもらいたいと思います。
岩本さんの命を賭けた教訓です。
無駄にする事無く、生かしてください。
そうする事が岩本さんへの一番の供養になると思います。

 

 私もここまでの自分の書いた文章を読み返してみると、つい批判めいた事をたくさん書いてしまいました。
ワーモトさんや事故のことを思うと、心の奥で、悲しみと怒りの入り混じった思いが渦巻くのを止めることが出来ませんでした。
きっと金子さんも同じ気持ちで、稜友会の会報に書き綴ったのだと思います。
彼もいろいろと批判めいた事を書きながらも、最後には「岩本がこれを読んだら“まあまあ、ネコちゃんそう言わないでさー”と言われそうだ。 …中略…時が経てばまた気兼ねなく飲めると信じていたのに」と書いていました。
そして「またビールをぶら下げ、いつもの様に“どうもデース”と玄関が開くような気がしてならない」と有りました。
このことからも分かるように、多くの批判も岩本さんに対する友情からで、きっといろんなことを書かずにはいられなかったのだと思います。
 私も書き出したら、いろんな思いが頭を過ぎり、それを書き続けたらどんどんと拙い文が長くなってしまいました。
まったくまとまりのない文章で「雑缶」そのものです。

 

 荒沢岳〜中ノ岳を縦走した時。兎岳の笹薮で道を見失いました。
標柱が立ち、笹が刈り払われた所を見付けて安心したのですが、そこには「春木○○子ここに眠る」と有りました。
そろそろビバーグと思っていた頃だったが、そこへ引き寄せられた気がして、慌てて中ノ岳へと登りました。
 再び荒沢岳〜中ノ岳を縦走した時。
荒沢岳山頂で遭難の詳しい話を聞きました。
別に私から聞いた訳でもなく、なにか不思議な結付き、因縁を感じました。
 標柱の所にチョコレートとワインを供え、景色を眺めてゆっくりと休む。
帰りぎわ墓標に手を合わせた時、もしあの世が有るとしたらきっと逢える気がしました。
顔も知らないが、その時は仲良く山の話が出来る気がしました。
 
 岩本さんの通夜で焼香しながら、自分もいつか死、ワーモトさんの元へ行った時には山の話でもしたいと思いました。
それは明日かも知れないし、数十年先かも知れません。
いつになるかは分かりませんが、その日は必ず来ます。
せいぜい死ぬまで生きて、その日が来たら、ワーモトさんにたくさん山の話が出来るように、一杯山へ登り、一杯想出を作っておきたいと思います。
 ワーモトさん、まぁそれを楽しみに見守っていて下さい。
 
んじゃぁワーモトさん天国でまた逢いましょう。

 

 オツルミズ沢 

 

  ワーモトさんとの山行の想出

八海山 屏風道 平成4年6月26日 (くちなし100号 岩本)
 私は夜勤のため、平日山行に付き合わせていただきました。
この時が、ワーモトさんとの最初の出合いでした。
小柄な体に、ビールのロング缶2ダースを担がされて、屏風道の急登を登って行く。
登る時に取った竹の子のように、すじが有っても、噛めば噛むほど味のでる、おいしい人だと思いました。
千本桧小屋での宴会の他に、下山後にも八海酒造での宴会も有ったのですが、私は夜勤のために、下山の途中から先に駆け下り、夜の宴会に出席できなかったのが残念でした。

 

1日2山 妙高〜火打 7月26日 (くちなし100号 岩本 五十嵐
 私は22:00迄仕事のため後発しましたが、責任感の強いサブリーダーのワーモトさんは燕温泉駐車場にて宴会をやっていてくれる。
当然リーダーの到着と共に前夜祭も2山目へと盛り上がって行きました。
 
 1日2山を目指し、1ピッチを長くとる。何度も休もうと言われながらも、鬼のヒロタンは「ダメ」を連発する。
若いギャルを虐めるのは快感!!・・・・・・
りえちゃんは腹痛になり、高野さんが付き添って、ゆっくりと登る。
妙高頂上で竹の子を肴に宴会をしていると、「リーダーが居なくなったら腹痛が治った」と無線が入る。
 咲き競う花々を見ながら火打へと向かう。
火打頂上では、森田さん達と合流して、今日2度目の宴会となりました。
1日2山登り、2回頂上に立てば、当然2回の宴会ができる。
ワーモトさん好みの、いやヒロタン好みの楽しい山行でした。
 
上越インター入り口でラーメンを煮たり、高速道を走りながらの花火見物と、想出深い山行でした。

   

毛猛山 大熊沢 8月14〜16日 (くちなし100号 岩本 金子)
 早出川に入る計画だったが、13日が雨のため変更する。
奥只見ダムに車を停め、大鳥ダム、田子倉ダムと下って行き、1日がかりで大熊沢へと入る。
大熊沢自体はたいした所では無かったが、毛猛沢下降は圧巻でした。
連瀑帯を懸垂中に暗くなってしまい、自己確保をとり、ツェルトを被ってビバークする。
 3日目も数えきれないほどの懸垂や、雪渓の下を潜ったり、釜を泳いだりする。
最後の川原歩きも、メジロの大群の歓迎を受け、沢の醍醐味をたっぷりと味わいました。

 

飯豊 北股岳 9月13日 (くちなし100号 岩本 りえ)
 石コロビ雪渓を登り、丸森尾根を下る。
風に揺れるトリカブトの花と、朝の冷込みに、秋の気配を感じさせられた山行でした。

                                               

八海山 山スキー 12月27日 (くちなし104号  五十嵐)
 雪が降れば山スキー。
しかしまだ積雪は少なくヤブスキーになってしまう。
八海山ならゴンドラで高度を稼ぎ、ヤブから開放してくれる。
千本桧小屋で宴会をやり、新雪をたっぷり転げ回って楽しみ、スキー場に着く頃には、 すっかりヘッデンの世界になっていました。
八海山プライベートゲレンデでのナイターは圧雪車の通った後を快適に滑ってきました。
 
 3月26日の浅草岳山スキーも、荒天のおかげで、サラサラの新雪を滑ることができまた。

            

角田山 お花見山行   平成5年4月15日
 前夜のやすらぎ堤でのお花見の後、角田へ雪割草を見に行く。
美しく咲く雪割草やカタクリの花とカワイイ貴子さんに、ワーモトさんの鼻の下も伸びっぽなしでした。(ヒロタンも)
しかし昨夜の飲み過ぎで、頂上ビールが飲めないなど、まだまだ修業が足りないワーモトさんでしたが、彼のビールを飲んでやるあたりは本当に優しいヒロタンです。
 
 午後から仕事の私は、すぐに下山しなければならなかったのが残念でした。

            

   

富士山 山スキー   5月23日
 恒例となった「富士山夜行日帰り山スキー」をワーモトさんリーダーで行きました。
明るくなりかけた頃、5合目駐車場に着き、テントを張り軽く宴会をする。
9合目からは高度障害のためか、アルコール障害のためか、苦しくてなかなか進まない。
 それでも富士山頂上、日本一高い所からのスキーは最高に快感でした。
 
 帰りの車中で、「新潟から行ける、夜行日帰りの山」と言う本を出そうと、話題になったのですが、まだ実現していません。

                

劒岳 7月17〜18日 (くちなし 104号 岩本、五十嵐
 「ヒロタン、ワーモトのギャルを騙して山へ行こうパートT」は引っ掛かるギャルがいなくて失敗でした。
剣沢にテントを張り、劒岳をピストンして帰ると、テントのポールは折れ、夜も宴会どころか、大荒れのため床上浸水で眠れない夜となりました。
現次郎尾根を登る予定で、ワーモトさんが担いだザイルも、ボッカ訓練として彼の役に立っただけでした。

                 

鳥甲山 白くら沢第2ルンゼ 7月25日 (くちなし104号 岩本)
 川原を歩き、2〜300m雪渓を登ると、2ルンゼは一気に白くらノ頭へと突き上げる壁と なって立ちはだかっている。
下部の岩は雪でツルツルに研かれていて、なかなか登れな く苦労する。
中部は細かいがホールドも多くしっかりしているが、上部からの落石がホールドの上に乗っていて、とても気を使う。
上部はボロボロの壁で、砕石を登るようでした。
 
 下山後は温泉で尾根パーティと合流する。
帰りの車は3台だったが、ワーモト、ヒロタン、美加子とY談トリオが揃えば、無線でY変調の波を垂れ流し的に飛ばして帰る。

         

武能岳 桧又沢 8月29日      
巻機山 三くら沢(沢登り訓練) 9月5日 (くちなし104号 岩本、塩練)
未丈ケ岳 滝の沢 10月3日 (くちなし104号 須藤)
 ワーモトさんリーダーの滝の沢は、適当な滝が続き、最後は草原に出る、なかなか良い沢でした。

                                                      

飯豊 北股岳 10月16〜17日 (くちなし104号 岩本、五十嵐)
 「ヒロタン、ワーモトのギャルを騙して山へ行こうパートU」は真美ちゃん、田山さん、順子さんと紅葉の飯豊を満喫して、大成功でした。
 
 湯ノ平にテントを張り、北股岳ピストン後、温泉に入る。
宴会には阿部さん、井村さんが肴とビール、ワインそしてアイスクリーム持参で駆け付けてくれる。
北股岳からの交信で二人が来てくれて、本当に無線機が役立ちました。
 
田山さんにアイスクリームをアーンしてもらっている、ワーモトさんの幸福そうな笑顔が忘れられません。
本当に鼻の下が伸びきっていました。

            

中ノ岳 10月23〜24日 (くちなし104号 岩本、五十嵐)
 「ギャルを騙してパートV」パートUで大成功した二人は、さっそく中ノ岳でパートVを計画し、美加子さん、順子さんの四人で十字峡から登りました。
 
  小春日和の中、紅葉を眺めながら、のんびりと登っていたのですが、小天上あたりで雷鳴が轟き、大粒の霰が叩きつけるように降りだし、急ぎ中ノ小屋へ逃げ込みました。
シルバーストーンのすき焼鍋を担ぎ上げ、途中で採ったきのこを入れたすき焼きは格別でした。
Y談四人組が揃えばそのY談はすさまじく、隣のムッツリおじさんもニヤニヤ…
  翌朝、頂上付近は冬景色、雪も10p位積もっていました。
尻セードで下りて行く順子さんに、「ブルトーザー順子」略して「ブル順」の名付親はワーモトさんでした。

          

白山   平成6年1月3〜4日
 私は12/30〜1/2に、西俣尾根〜頼母木山〜北股岳へ登り、下山後ワーモトさんリーダーの白山に参加させていただきました。
確かに正月の飯豊も素晴らしかったけど、白山の小屋での飲み正月も、なかなか楽しいものでした。

            

八海山 冬山訓練   1月23日
地図の見方とルートファインデング。
山スキーとワカンでのラッセル等をやる。
 
 リーダーがヒロタン、サブリーダーがワーモトさんとくれば、当然、女人堂での宴会訓練は最高潮でした。

              

大蔵山 山スキー    2月2日
 ワーモトさんリーダーの平日山行。
私は午後から仕事のため、五合目で引き返したが、頂上まで行ったみんなはヤブスキーで苦労したと聞きました。

             

白山 ヘッデン山行   6月21日
 平日山行組が夜に白山へ登る、宴会山行を計画しました。
 
 私は13:30〜22:00の勤務、22:00に仕事を終えて追掛けて、登山口で合流する。
三合目で有香さんが具合悪くなり、ワーモトさんと交替で背負い、頂上の小屋まで登りました。
「ギャルを背負えるなんてラッキー」と言いながらも、有香さんの体重が肩に食い込み、10分交替で背負って夜道を登り、小屋に着いた時はさすがにホッとしました。
 
 小屋での宴会は、刺身など御馳走がたっぷりだったのですが、じきに明るくなった気がします。
ただアイスクリームが解けてしまったのは残念でした。
ワーモトさんは仕事のため、あまり眠らないで下りて行ったし、私も午後から仕事のため10:00頃には下り始めました。

             

谷川岳 マチガ沢東南稜   8月7日
 劒岳合宿前の訓練で、新人とザイルを組み、私が3パーティ目でワーモトさんが4パーティ目と前後して登りました。
合宿に参加できないワーモトさんも、とりあえず岩の感触を楽しむことができたと思います。

        

五頭山 西小倉沢   8月9日
 平日山行、私は夜勤のパターンでした。
暑い夏の一日をたっぷりとシャワークライムして楽しみました。
 
 
 
 

  

平ケ岳沢    9月中旬
 また平日山行、私は夜勤パターン。
みんなからヒロタン邸に泊まってもらい、私が朝帰り後に出発する。
私がスラブでウォータースライムをして楽しむのに、誰も付き合ってくれず、淋しい思いをしましたが、その後の寒さで、ワーモトリーダーの判断が正しかったと思いました。
もっとも、それも時間の問題で、大滝の取付きではみんなもビッショリと濡れました。
時間切れで頂上へは行けませんでしたが、池の岳の草原で、寒さに震えての暖かいラーメンは美味しかった。
 
 私は夜勤に30分遅刻してしまいました

               

守門岳 山スキー   平成7年3月21日
  ワーモトさんリーダーの会山行で、大人数のパーティとなりました。
私は祝日は当然平日で休日では有りませんが、夜勤期間中だったので、三日連続の守門岳山スキーとなりました。  
 
  夜勤から帰り、二分の除雪終点まで行くと、ワーモトさんがテントから顔をだし、中に入ると、鈴木さんが朝のウイスキーをカップに入れてくれる。
当然山スキーよりウイスキーの好きなヒロタンです。
そして大岳まで、休むたびにウイスキーの飲めた山行でした。
  晴天に恵まれて、風も弱く暖かかったのですが、先に着いた私達はブロックを積み、宴会場を作る。
そして私は五人を連れて袴岳へ向かう。
二日前の袴岳は荒れていてツエルト宴会だったのですが、今日は暖かい。
大岳へ帰り、全員で写真を撮って下山する。
 
  そして私は少し眠り、夜勤に出る。

        

弥彦 滝ノ沢   8月1日
 いつもの平日山行、私は夜勤パターン。
 
  森田さんから「この滝は右から、左から」とかのアドバイスを受けながらも、夏の沢はシャワークライムに限ると言いながら、ワーモトさんとトップ交替で、流れの中をどんどんと登って行きました。
「頂上にビールの自動販売機の有る山はいいね」と言いながら食べたメロンはおいしかった。
 下山後、温泉へ行くみんなと別れ、私は夜勤のため先に帰宅する。
 
これがワーモトさんとの最後の山行となってしまいました。

          

 こうして振り返ってみるとワーモトさんは日曜日の休みが少なかったため、私が夜勤の時の平日山行が多かったと思いました。
そんな中でも、劒岳、飯豊北股岳、中ノ岳と続いた「ギャルを騙して山へ行こうシリーズ」が特に印象深く残っています。
どんなに苦しい時でもY(猥)談と冗談を忘れないワーモトさん。
どの山行も楽しい想出でした。
ワーモトさん、たくさんの楽しい想出をありがとうございました。
(“蟻が十匹”ワーモトさんの文章より)
 
岩本さんの御冥福を祈りペンを置きます。
平成8年1月26日

                

 ヒロタンの山行記録 

    

 お盆休みだと言うのに、風邪気味だった事と、天気が不安定で夕立が有りそうだったので、山へも行かずにHPを作っていました。
お盆だからワーモトさんというわけでもなく、≪死者は還らず≫をアップしたら、ついつい気になって載せました。
 
 今の稜友会を見ると、当時の新潟山岳会の雰囲気に酷似している気がしてならない。
ある人に現状を相談したら『会を私物化しようとしている』との答えでした。
新潟山岳会分裂当時も、先輩達の会の私物化を感じていたのですが、今の稜友会にも同じ事を感じます。
 会の私物化を進める人には正論は通じない。
自分の意志に反する意見(人)は排除され、屁理屈がまかり通っている。
たとえ問題が有っても口にできない閉鎖的な雰囲気は、やがて新潟山岳会の二の舞になる気がしてなら無い。
そして犠牲になるのは、いつも初心者や中間の人達です。
 
そんな日が来ない事を祈りつつ…
平成14年8月14日

 

 新潟稜友会