サバイバーその後 4
「あ……」
手にしていたトマトのバジルピザから赤い汁がポタリと落ちて、祥子のドレスの裾を汚した。
イルカ達の方に気を取られていたのも祥子自身の所為だったが、
何もかもが思い通りに行かない苛立ちも合わさって、頬がはっきりと引きつっていく。
今は駄目でも二次会でイルカの隣の席を狙うという方法もあると自分に言い聞かせてきたが、
洗濯しても落ちないだろうその汚れに、祥子の頭の中でプッツリと何かが切れた。
そしてもうこれ以上は待てないと、とうとう祥子はイルカに向かって歩き出す。
「イルカ、久しぶりね……」
タイミング良く会話の合間に声を掛ける事が出来、イルカとその周囲の注目を受けることに成功した祥子は、
さり気なく子供を押しのけるとイルカの横に立った。
「祥子か……本当に久しぶり」
イルカの顔に華やかに変貌した自分への感嘆を見て取り、祥子は心の中で満面の笑みを浮かべる。
しかしそのまま言葉を続ける事はせず、ただ当然のようにその場に留まり自分の立場を主張した。
周囲が眉をすがめたのも子供――ナルトがムッと顔を顰めたのも、祥子には見えていない。
このチャンスを逃すまいという強かな意気込みが、祥子の視界をすっかり狭くしていたと言えるだろう。
「私……別れたの……」
十分に効果的な間を取って、そう切り出したつもりだった。
けれど丁度ナルトに反対側から服の裾を引っ張られていたイルカには、
そんな小さな声など聞こえていなかった。
「ん? どうしたナルト」
「これあげるってば!」
「それで……」
「またか、皿に取るのは食べられる分だけにしとかないとダメだぞ」
「だってこのツブツブしょっぱいんだってばよ」
「イルカ……」
「はは、キャビアは子供にはまだ早いよな」
「――イルカ!」
突然の祥子の叫びに、驚き注目したのはイルカだけでは無かった。
一瞬会場はしんとなり、驚いた顔、責める顔、白けた顔が、息を荒くした祥子へと一斉に向けられる。
その視線に空回りしていた自分を自覚したというより、恥をかかされたと受け取って、
怒りのために祥子の顔ははっきりと赤くなった。
「酷いわ……私はちゃんと間違いを認めてるのに、どうして許してくれないの!?」
「?? 何? どうしたんだ」
勿論イルカは祥子が何を言っているのか分かっていなかった。
久しぶりに会ったかつての恋人の変貌振りに、ああ彼女は望んでいた生活を手に入れたんだな、
やはりあの時分かれたのは彼女にとって正解だったのだと、ほんの少しだけ物寂しく思いもしたが、
今のイルカにも大切で何よりも愛しいと思える生活がある。
お互いに幸せになった。祥子との事はそれですっかり決着がついていて、
イルカの中ではもう完全に過去の事として整理がついていた。
だから何故今祥子が目に涙を溜めているのか、彼女が何を怒り何を言っているのか、
全く理解出来ないでいた。けれど祥子が泣いて店から飛び出しでもすれば、
状況が分からずともイルカの性格では追って行くのは間違いなかったろう。
このままいけばほぼ祥子の思惑通りの展開に向かう……その筈だった。
だが、まるでそれを阻止しようと狙っていたかのように、見事なタイミングで彼らは現れた。
祥子が出て行く筈だったドアから、招かれもせぬのにやけに堂々と、
まるで真打ち登場と言わんばかりの注目を浴びて現れたその二人。
「……!」
「だ、誰なの!?」
「素敵……!」
このレストランは今日は貸切ですよ……などと、当然の文句を口にする者は一人もいなかった。
男性陣は男の方の美形ぶりにとにかく唖然とし、横に立つ少女を見て、今度は違う意味で息を呑む。
女性陣はとにかくうっとりと、想像も理想も超えた見たことも無いようなハンサムの登場にさざめき立ち、
中には息をするのすら忘れたようにただただ二人を凝視している者もいる。
普段は冷静なサスケまでもが、いつになく感情の動きを顔に表していた。
探しても見つからなかったあの少女。
彼女との思わぬ場所での再会に思わずぽかんとマヌケに口を開けた後、
今度は気になるそのパートナーへと打って変わった鋭い視線を向ける……といった具合に。
会場の視線は完全に祥子から逸れ、イルカの意識もまた一直線に二人へと向かっていた。
しかしイルカの場合は彼らが何者かという疑問ではなく、
何故彼らがここにいるのかという疑問によってだったが。
勿論その目立つ二人はサクラとカカシだ。
それもカカシはスーツ(青山の廉価品だが、カカシが着るとそれなりのものに見える)、
サクラは代官山の小さな店で買ったお気に入りのワンピースドレスと、いつになく身なりにも気合が入っている。
ただでさえ目立つ二人なのだから、こんな風に意識して着飾られるともうどうしょうもない。
この場での主役は、この会合とは関係ないだろうこの二人に完全に奪い取られてしまっていた。
「カカシさん、サクラ、どうして……!?」
しばし漣のようなざわめきに支配されていた会場も、イルカが彼らの名を呼び、
彼らもまだ嬉しそうにイルカの元へ歩み寄った事で、静まるどころか更なるどよめきに包まれる。
美貌の闖入者達がイルカの知り合いだと理解した途端、
イルカを含めた三人は、早速皆の質問攻めにあう事となったのだ。
「初めまして、イルカ先生がいつもお世話になっています」
「私達? イルカ先生の同居人っていうか……つまりまあ家族みたいなものですね。
出会った切っ掛け? それは秘密です。私達だけの……ね? イルカ先生」
「イルカ先生が飲みすぎたりして羽目を外さないか心配で、迎えに来たんです」
質問に対し答えを返すのは少女の方ばかりだったが、そのハキハキした口調と強気な眼差しに、
彼女よりも年上のはずの誰もが、完全に圧倒される事となった。
それこそ馬鹿げた質問や興味本位の言葉など完全に黙殺され、相手にもされないといった具合に。
それにしっかりとイルカの横を陣取って、静かな威嚇の視線を放つカカシに、直接語りかける勇気のある者もいない。
「迎えに……ってもう、子供じゃないんですから」
「……ゴメン、でも心配だったから」
ボソボソと互いの耳元で囁くように会話を交わす二人に妙な親密さを感じて胸を騒がせ、
話しかけるどころでは無かったというのもあった。
「何かイルカ君とあのハンサムさん、随分親しげな感じ」
「三人で暮らしてるってのが妖しいわ〜〜、危険な香りがプンプンと……」
「でもあの真面目なイルカ君よ? ルームシェアって事でしょうね、やっぱり」
「でもそうなるまでの事情が気になる〜〜〜っ」
「イルカの奴……何だかすっかり遠い世界の住人に……」
「ってかあの美少女と同居だと!? 許されるのかっ、許していいのかそれって!」
「やばいよな〜〜でもイルカだしな〜〜」
様々な憶測と期待の飛び交う中で、一人サスケだけは全く別種の感情を抱え一人煩悶していた。
もう二度と会えないかと思っていた原石に、再び出会えた喜び。
そしてその少女と同居しているというイルカともう一人の男に対する、何とも言いがたい複雑な感情。
まさかイルカと少女との間に繋がりがあるなどとは思いもよらなかったサスケだが、
こうして立ち並んでみると妙に自然な様子なのがまた、サスケの自覚の無い苛立ちを煽る。
そう、サスケ自身はまだ、自分が三人の関係に嫉妬しているのだとは思っていなかった。
ただ、何故――と思わずにはいられなかったのだ。
少女の傍に立っているのが、何故自分ではないのかと。
自分が見い出した筈の宝石に、既に持ち主がいた事をどうしても認められず、酷い理不尽を覚えてしまう。
少女が自分に気付きもしない事も大いに不満だった。
だから自分から声を掛けるまでに、サスケの中ではかなりの葛藤があったと言っていい。
サスケは人材を見い出す事を仕事としていながら、どちらかといえばいつも追われる側で、
自分から誰かを必死になって追いかけたという経験など無かったから。
けれど結局、この機会を逃す事も出来ず。
「――君」
「あ……あなた、いつだかのスカウトの人」
幸い少女の方もサスケの事を覚えていた。
それまで鉄壁の笑みを浮かべていた顔が、一瞬だけ素の、驚いたような顔になる。
「何だサクラ? サスケの事知ってるのか?」
こちらもまた驚いたように問うイルカに、少女――サクラは別に大したことではないといった口調で答えた。
「知ってるっていうか、渋谷で一度声掛けられたの」
「声って、ま、まさか、ナ、ナン……」
何故か酷く動揺しているイルカを支えるように立った男が、背筋の凍りそうな冷たい目をサスケに向けてきた。
その目は『このロリコンが……』と、明らかに侮蔑の色を浮かべている。
それには流石にサスケも鼻じろんだ。
(せいぜい五つか六つ歳が離れてるだけだろうが、そんな目で見られる謂れはないぞ……っ)
一緒に住んでいる方がよっぽど危険だろうがと叫び返す前に、サクラが笑って二人の勘違いを訂正した。
「ナンパじゃなくってスカウトだってば、
もうイルカ先生ったらそんなどもるほど驚かなくてもいいじゃない」
「スカウト……そうか、サスケは芸能関係の会社にいるんだもんな。いや何か焦ったよ、
二人が……何て思ってもみなかったから」
その様子を見る限りでは、イルカとサクラの関係は、仲のいい兄妹か、
年齢的には有り得ないが過保護な父と娘といった感じである。
この二人だけならば、サスケも或いはこれほど動揺しなかったかもしれない。
どう判断していいのか分からないのは、やはりもう一人の存在だった。
先ほどから何を話しかけられても、イルカと以外は一切口をきかぬ謎の男。
ハンサムと厭きるほどに言われ続けたサスケから見ても、恐いほどに整った顔立ち。
その珍しい銀の髪も染めているにしてはやけに自然に見えた。
何よりその不可思議な色違いの瞳。
今はカラーコンタクトという物も普及しているが、そんな人工の色合いとは明らかに違う。
何もかも特別な――平凡とは対極の位置にいるような存在。
ここにもしボクシングファン、それもマニアの域にある者がいたら、
北の地でかつて敵なしと謳われていた天才プロボクサーの事に思い至ったかもしれない。
しかしカカシの活躍が極めて局地的なものだったのと徹底したその取材嫌いの為に、
カカシは関東では全く無名の存在だった。
おかげで近所のスーパーでも、人に囲まれるような事もなくのんびりと買い物が出来るのだが。
しかしその事実を知ったなら、この男は容貌だけでなく強さにまで恵まれているのかと、
女性陣はますます色めき立ち、男達は不公平な現実に不満の声を上げることになったろう。
勿論プロボクサーという過去を知らずとも、イルカを守るように威嚇して立つその姿は、
どう見ても只者ではなかったが……。
一通りの質問に答えると、サクラは笑顔のまま言った。
「それでは私達、そろそろ失礼しますね。突然お邪魔してすいませんでした」
その私達の中には当然のようにイルカも入れられていたが、
残されて質問攻めに会うのも御免だったイルカは、
腰にさり気なく置かれたカカシの手の促すまま、共にレストランを後にしようとした。
慌てて引き止めようとする者もいたが、「家、門限は九時なんです」とサクラに問答無用で微笑えまれれば、
それ以上引き止める術は無い。
だが三人の姿が扉の向こうに消えたその瞬間、それを追いかけて走り出した者がいた。
「――待ってくれ!」
追いかけそう声を掛けてきたサスケに、三人はすぐに足を止めて振り返った。
「サスケ、どうしたんだ?」
そんな必死なお前を見るのは初めてだと、イルカが純粋な驚きを見せるのに、
サスケ自身も確かにここまで他人に拘るのは初めてだと、少し我に返って自嘲めいた笑みになる。
だがこのままあっさりと別れ諦める事などサスケには出来なかった。
彼女なら、サクラならば絶対に綱手姫をも超える存在になると、
自分がついていれば必ず成功させられるという、強い確信があったから……。
「どうしても諦めきれないんだ。君なら一流を目指せる……いや、俺が絶対にしてみせる!
だから頼む、もう一度考えてみてくれないか?」
年下の少女に対し、対等の目線で真摯に願う。
しかしサスケのその生まれて初めての熱意に返って来たのは、以前と全く変わらぬ言葉だった。
「ごめんなさい、本当に興味ないの芸能界とかって」
サクラは考える素振りすら見せなかった。
どうしても納得がいかないと、更に説得を続けようとしたサスケに、今度はイルカが口を開く。
「サスケ、悪いけどサクラは今学生だし、そういった世界に関わってる時間はないんだ」
「時間ならっ、学業に影響が出ないように俺がうまくスケジュールを組む! 決して後悔はさせない!」
「いや、絶対に無理だって。サクラが通ってるのは国立の医大なんだよ」
その後にイルカが口にした大学名は、サスケでも耳にした事のあるものだった。
都内にある有名な国立女子医科大学。
勿論知名度だけでなく受験の倍率も、一般の大学に比べて遥かに高い。
国立なので私大医学部ほど学費が高いという事もないだろうが、決して安くもないだろう。
またその名の通りに医者や看護婦を目指す者の為の学校であるならば、
二足のわらじで卒業出来るような甘い場所ではないというのも簡単に想像がついた。
いや卒業云々よりもまず問題なのは、医大に通っているという事はつまり、
サクラも医者を目指しているという事で……。
「――そういう事なんでどう考えても無理なんです。勉強しなきゃいけない事は山ほどあるし、
卒業したら今度は研修医生活だもの。絶対医者になって、借金してでも開業して稼ぎまくって、
イルカ先生達を養ってあげるのが私の夢だから」
明るくそう語るサクラ。
けれどサクラが医者になる道を選んだ理由はそれだけではない事を、イルカとカカシだけは知っている。
突然自分達に降り掛かった、あの理不尽で残酷なサバイバルゲーム。
あの死と隣り合わせの状況の中、何とか三人で生き残った。
それこそ必死に、他人の命を奪う覚悟すら持って。
結果的には自分達の手で誰かの命を奪う事こそなかったが、
七人の死の犠牲の上に自分達の今があるも同然だとイルカ達は思っている。
忘れることなど不可能だったし、忘れていい事ではない。
あれからカカシは再び身体を鍛え始め、
イルカは教師の仕事と平行して生きるための知識を学び始めた。
そしてサクラは大検を取り無事医大に合格。命を救う道へと向けて、歩み始めている。
それは死んでいった者達への追悼の意味だけではない。
いつか再び同じ理不尽な立場へ追い込まれたとき、大切な人達と共に生き残る為の努力。
勿論あんな目になど、二度とあいたくはないと思っていたが……。
「人生何が起きるか分からないし、大切な人は自分の手で助けたいから……」
医者は普通身内や知人の執刀は許されていないという事を知らないサスケは、
サクラの言葉の深さ知らず、そのままの意味として理解した。
それでも納得するには十分だった。
「カカシ先生はいざとなった時しか頼りにならないし、イルカ先生はちょっと天然だし。
やっぱり私がしっかりしないとね」
そう耳打ちしてくるサクラにサスケは苦笑する。
カカシという男の方は知らないが、確かにイルカは天然だとサスケも常々思っていたのだ。
サクラを第二の綱手姫にするのは諦めるしかない。
そう理解しつつも、サスケはようやく見つけた彼女との繋がりだけは無くしたくないと思った。
彼女の事を知るほどに、余計に強くそう思う。
「じゃあ……」
芸能界入りは諦めるが、これからも友人として……
そんな未熟な口説き文句としか思えぬ台詞をサスケが口にしようとしたその時。
ドンッ!
「きゃっ」
「な――」
手が触れそうな距離まで近づいた二人を引き離そうと、凄い勢いで小さな弾丸がその場に飛び込んできた。
何事かと目を丸くする四人の真ん中で、突然飛び込んできたその子供――ナルトは、
大人四人を順々に見回してから鼻の下を誇らしげに擦る。
そして最後にサクラへと向き直り、大声でこう宣言した。
「オレ、滝ナルト五才! 将来大物になる男だってばよ! だからサクラちゃんは、オレと結婚するってば!」
ビシッとサクラを指を差し、「にしし」とまた鼻の下をかく。
五歳児からのその突然のプロポーズには、流石のサクラも驚いた。
「か、考えとく……」
思わずそんな風に答えてしまった程。
結局自分の告白の方は有耶無耶になったまま、サスケはその後イルカ達三人と別れ、
邪魔をしてくれたナルトを引き摺ってまたレストランへと戻る事になる。
ただ五歳児に遅れを取ったサスケも、サクラの携帯番号を聞くのだけは流石に忘れなかった。