2006.6
洗礼名使徒聖ヨハネ 2006/6/30 (Fri) 19:03:27
ほんの一例
書きにくいなあ(何を今さらと言われそう)・・。例えば聖歌関係。典礼聖歌以外に独自の聖歌集のようなもの作成して使用したりなどです。典礼聖歌集でも絶え難いのにさらに訳の分からない曲を採用し、知らない内に曲目が増えている。他の教会でも同じ曲が採用されていたりすると組織的なものを感じてしまいます。
大体、グレゴリオ聖歌などを歌いたいとなれば大問題となるのに、同性愛者や麻薬に手を染めた者が作曲した曲(皆は知らないだけか?)はフリーパスのような状態はおかしくないだろうか。
マリア様にしても「跪き」や拝領後の「感謝の礼」にしても直接的には廃止にしない。「皆が動き易いように・」とか「未信者の気持ちを考慮して・」などと皆が反論しにくいような理由を持ってくる。どう見てもそのような心配がないのにである・・。それでいて他の多くの教会で同じように呼びかけれている・・・。不思議だ・・。
調子が出てきたのですがこれくらいにしておきます。本当はもっともっとたくさん指摘したいのですが冒頭でほんの一例と公約してしまっていたのでやめておきます。
焼け野原2006/6/29 (Thu) 01:10:42
洗礼名使徒聖ヨハネさん、こんばんは。(笑)最後の言葉はちょっとここに似つかわしくないと言うか。(汗・笑)
さすがにこちらではネオカテクナメートに目が光りすぎているので隙がありそうで隙が無いような・・・。さすがにマリア様を撤去するとか変なことをしたら大批判の合唱が起きそうです。
良し悪しは別にしてネオカテクナメートはそういったことはしません。日曜以外の典礼は逸脱以外のなにものでもないはずですが。
別に誘導尋問したいわけではないのですが変なことというのが一体どんなことなのか理解できないんです。それは御ミサに信徒が変なことを持ちこんでいるということなんでしょうか?マリア様の撤去もその方々が?で、司祭もそれを容認しているということでしょうか?答えなくていいですよ。
他の教区の問題はわからなくてYULOさんの書き込みにもたまげましたが。でも、私の教区の問題も深刻なんですよ。
今考えられるのはパスワード制の掲示板を作って手始めによく似た問題を持つYULOさん等と情報交換して見るとか。
余り答えになってません、ごめんなさい。
洗礼名使徒聖ヨハネ 2006/6/28 (Wed) 23:01:21
質問があります。
こんな私でも質問があります。どなたか教えて下さい。
実は私、教会の活動に頑張っています。皆が言うカチコチの信者なのですが、人柄が良いからなのか、やる気もないのに色々なことを頼まれてしまいます。
教会委員会などにも参加しています。なぜ参加しているかと言うと、変な典礼を勝手に持ち込んで始められないように水際で食い止めるためです。ミサに変なことを始めようとする奴には迎え撃ちます(マリア様をどかそうとする奴とかは特に・・)。これが意外と功を奏しています。(ただ、しっかりと予備知識を入れて理論武装しておかないとただのうるさい人になってしまうので気をつけてマネをして下さい。)
さて、こんなに番犬の役目を頑張っているのにどうしても理解できないことがあります。それは、変なことをいつの間にか勝手に始める闇の執行人(神父さんではない信者)がいるということです。(内容は具体的には書きません。)情報化が進むにつれて、どうやら同じ内容の事が様々な場所で始められている不思議さを感じるようになりました。
これについて誰か情報をキボンヌ。・・使ってしまった・・。
焼け野原 2006/6/27 (Tue) 00:04:22
ええ、そうです。名指しで指摘するのはこちらに迷惑が掛かってしまったらとおもうのでぼかしておきます。
わかっていただけたのであれば充分です。
本来の典礼を否定したいとは思っていません。そんなこと思っていたら今までのような書き込みしませんよー。むしろ、私はもっと勉強する必要は感じています。(笑)
洗礼名使徒聖ヨハネ 2006/6/26 (Mon) 23:23:24
すばらしい!
>恐らく「蛇の頭」と「女の踵」の事を指していると思われますが、この部分は男性でも女性でも良いです。
確かに同じバルバロ神父様が訳した聖書でも、ドン・ボスコ社から出していたデルコル神父様との共同訳では「かれ」と表現されていますね。けれども注釈でしっかりと補足されいます。これが大事です。
しかしながら新共同訳の、蛇が「かれ」の踵を「砕く」という表現には納得が行きませんね。キリストやマリア様に触れることもできないサタンが「踵を砕く」というのですから・・。ここまでくると反キリスト側の人間が訳したのではないかと勘ぐってしまいます。
講談社のバルバロ神父様の聖書では「踵を狙うだろう」となっており、そうでなくても「踵を噛むだろう」程度です。砕かれてはたまりません。
しかしながら「秋田のマリア様」が天使を通じてこの箇所を指摘しておられた点は特筆に価しますね。
焼け野原 2006/6/26 (Mon) 23:24:26
でも、読み比べは違いを深く知ることで面白い事かもしれませんね。(^_-)
早速、洗礼名聖ヨハネさんのスレッドにお願い書きこみがあったので笑ってしまいました。失敬。お許しを。
確認の上で申しますが私の惹かれた場所ははカトリックとして公に認められている場所ではありません。
マリア様を取り次ぎ者や、キリストの母(無原罪の御宿りの)として、そして、信仰の模範として尊敬をするのは素晴らしいです。私もそうであって欲しいと思っていますが、御父、子であるイエス、聖霊をないがしろにはしてはならないでしょう。
洗礼名使徒聖ヨハネ 2006/6/26 (Mon) 23:50:20
気持ちは分かります。
>古典的なことを勧める方に強い警戒心を持ちます。
おそらく広島のマリアンチャーチかリトルぺブルの類を指しているのでしょう。けれどもそれこそサタンの思うツボでしょう。カルト教団がしていたからと言って本来の典礼を疑ってしまうのは本末転倒ではないでしょうか?これは安田神父様や志村神父様も指摘していたことです(ご存知かな〜)。
大事なことはいくら典礼を守っているからと言っても、教会の外に救いはないということではないでしょうか?
教会内にも正しい典礼をすすめている修道会は残っています。実名を挙げると規制がかかってしまう可能性があるのでいえませんが、そこの信者さん達も同じような苦労をされてます。
YULO 2006/6/26 (Mon) 22:40:03
洗礼名使徒聖ヨハネさん、こんばんは。あなたは恐らく僕よりも若い方かもしれません。
また洗礼を受けて、まだまもない方かもしれません。この予想が当たってるとしたら、今一番信仰に熱い時かもしれませんね。
是非、この熱さをいつまでも保ち続けて下さい。(あとで冷えないようにね!)
>しかしながら共同訳では男性に書き換えられており、
恐らく「蛇の頭」と「女の踵」の事を指していると思われますが、この部分は男性でも女性でも良いです。
共同訳聖書は、公会議の要求も十分満たしていないし、聖書でない物も収録されているし、誤訳もあるので本来なら司教団が使用禁止にすべきでしょう。(司教団が共同訳を使用禁止にした国はある) でも日本の教会、及び司教団の考え方から行けば、それはほぼあり得ないでしょうね。
昨日も少し触れました某大司教様は、新共同訳は確かに誤訳の部分もある。でもすぐには訂正出来ないし、上からの指令で変わる時代ではない。下から盛り上げて来ないと変わらないと言うお返事を頂きました。残念ですがこれが現実です。せめて個人的にバルバロ訳聖書を使用する以外信仰は守る方法はないでしょうね。
焼け野原 2006/6/26 (Mon) 23:14:38
こんばんは、洗礼名使徒聖ヨハネさん。 レスが下のほうになっていますのでここに書くことにします。
確かに聖書の中でイエズス様は「金持ちが天国に入ることはらくだが針の穴を通るより難しい。」とおっしゃられたりしています。しかし、その一方で山上の説教ではわかりますよね。弱い人に優しいんです。切実に何かを望んでいる人には優しいのです。これは新共同約も私の持っている古い文語体の聖書も翻訳の意味こそ微妙に違えど同じだと思います。私は新共同約と以前の聖書は新約ならもう一度読み比べることはできます。
舌で受ける御聖体の拝領は殆どの教会でなされていないのではないでしょうか?舌における御聖体の拝領や他の古典的なことを勧める団体に「カトリックだと信じて」惹かれたことがありました。実はそこは感の鋭い方ならお判りかと思いますが聖母信心を勧める某団体でした。(若さゆえの無知な出来事です。)そういった経験もありましたので私は非常に古典的なことを勧める方に強い警戒心を持ちます。そうではない方には悪気があると思って欲しくないのです。
洗礼名使徒聖ヨハネ 2006/6/26 (Mon) 19:16:26
聖書の共同訳などできるのでしょうか?
ここでまた火種を蒔いてしまいそうです。聖書の話が出ているようなので少し・・・。
共同訳は危険な香りがします。それもそのはず、マリア様を信仰の中心的存在に置いているカトリックと、さほど重要視していない教派とは共同に訳せるはずがないのです。
詳しくは書きませんが、聖書には旧・新約共にマリア様を暗示させる場所があり、カトリックの信仰の土台となった場所などがあります。しかしながら共同訳では男性に書き換えられており、現在それを指摘する神父様もおらず、公教要理などを通じて教わることもなくなってしまいました。しかも悪意を感じられる訳し方で・・。
また、占星術などを禁止している聖書の中で「占星術の学者達」がキリストの誕生を訪問したりと、とても信じられない内容の聖書となっています。これを主日のミサで採用しているのですから・・・。
共同訳といいながらカトリックを捨てた聖書となっているのです。
エキュメニカルという甘い言葉によって、カトリックでなくなり始めているのです。甘い言葉で共同を呼びかけてくる団体・人には注意しましょう。
洗礼名使徒聖ヨハネ 2006/6/27 (Tue) 00:09:19
私は待ちません。迎え撃ちます。・・・だから嫌われる?・・・おやすみなさい。
焼け野原 2006/6/26 (Mon) 23:51:19
論議して熱くなっている時、白ゆりの母さんの時候の挨拶は一瞬の爽快を与えてくださいました。どうもありがとう。お休みなさい。
しらゆりの母 2006/6/26 (Mon) 07:49:21
じとじと梅雨が続きますが、皆様おかわりございませんか?難しいことは、分かりませんが、長い雨はいつか必ずあがります。それまで心に太陽を持ち、がんばりましょう。
YULO 2006/6/26 (Mon) 22:03:35
ありがとうございます。あとでゆっくりと拝見させて頂きます。
YULO 2006/6/26 (Mon) 22:00:43
焼け野原さん、こんばんは。お仕事お疲れ様です。
お体の方もお疲れだと思うので、レスは良いですよー。
その代わりここの教会の信者の方々の為にお祈りをお願いします。
おそらくお互いに書き込み続けたら、終わりがないかもしれませんから・・・。(^^)
自分の望む事を端的に申し上げますと以下の2つです。
これを持ってこれについての僕の書き込みは最後とさせて頂きます。
1.昨日申し上げたように、神父様方にはミサ、秘跡、祈り、犠牲、信者及び未信者の霊魂の救いに重きを置いて欲しいのです。否、むしろそれ以外の事は無関心でも良いかもしれません。
信者達は、当然司祭を支え、彼らの為に祈り、また同時に聖人にならなければならないと思っています。聖人と言っても教会に列聖される聖人と言う意味ではありません。主の愛し、いつも喜びと感謝に満ちあふれ活き活きとした信仰を持った、主の御心の喜びとなれるような謙遜で思いやりのある小さな人の事です。
2.カトリックのプロテスタント化(ミサにしろ、聖書にしろそうですが)だけでなく、カトリックが汎宗教的になる事を恐れています。それは、霊魂の救いに於いて、洗礼も主の贖いも不必要である事を意味します。(事実、そうした異端に陥っている進歩的な神学者、聖職者がいます)ファティマでは、今、冒涜的な大聖堂の建設が進められています。それは至聖なる三位一体の神を礼拝する為の物ではありません。異教徒の為の異教徒の神々の為の冒涜的な聖堂を意味します。
ご存知かもしれませんが数年前、ファティマの聖堂でヒンズー教の儀式が執り行われ、踊りなども捧げられました。この上ない神への冒涜であり、汚聖です。(司教も司祭もこの儀式をゆるしています)
http://ar.geocities.com/buenagentear/fatima/ultraje.html
焼け野原さんの通われている教会でも色々問題があるかもしれません。もちろん自分の所にもあります。でも信者でも少しづつ良い方向に持って行く事は出来ると思います。と言うよりも僕らにも出来る事があると思います。100%変える事が出来なくても、5%でも10%でも主や僕らの救いの為にお互いに何かを変えていく事が出来たらいいですね。
前教皇様は、司祭から大司教になっても、ミサ、祈り、犠牲、ロザリオ、小教区の訪問、病人の訪問、若者との対話、子供達との遊びを欠かしませんでした。願わくは、このような司祭が全世界の小教区に与えられますように! アーメン。
焼け野原 2006/6/26 (Mon) 23:47:04
ありがとうYULOさん。
どんなことが起きても、私はできれば自分を見失いたくないのです。
そして、いつも自分の子どもの為に希望を持って前進したいと思っています。子どもは・・・私の過去の経験では母親や父親が厳しかったりして叱られたりしながらも、それでも前向きな姿に信仰から離れても、また戻ることができると確信しています。
事実、私は両親からではなく幼い頃、寂しく叩いた教会の扉で迎えてくださった信徒の方々の姿を見て、成人したある日再び神様のもとに帰りました。それまでは世の快楽、お金様々なことに溺れていたとしてもです。
希望は失いません。
桑 栄一 2006/6/26 (Mon) 06:40:48
YULO さんへ
教会が(指導者の方々も)リベラル化し、伝統を捨て去ろうとしている今のカトリック教会自体に魅力が無くなってるのではないでしょうか?
僕らが教会にそして司祭に求めるのは、神の救いであり、愛であり、赦しであり、癒しであり、神との語らいであり、神への感謝であり、神への賛美であり、そして霊的な事です。
でも僕が求めてる事は非常に簡単な事です。信者ももちろんそうですが、まずは司祭が霊的な事に熱心になって欲しいのです。そして信者の霊魂の救い、未信者の霊魂の救いも真剣に考えて欲しいのです。大変的確な問題意識をお持ちだと思います。
私のサイトの、6月25日の聖書の学びは、この問題意識に通じるものです。
ご覧いただければ幸いです。
焼け野原 2006/6/26 (Mon) 03:15:07
明日仕事ですが夫とF1を見ています。
YUROさんとポストのタイミングがずれてしまっていたのですね・・・。同時間帯にここにいたと思われます
ポストする時間が違ってYUROさんの最初のワンコメントの部分しか表示されていませんでした。
また日を改めて・・・。おやすみなさい。
洗礼名使徒聖ヨハネ 2006/6/26 (Mon) 09:42:51
オホーツク人さん、焼け野原さん
できれば私もエキュメニカルに寛容でいたいです。何も言わずに周りの信者さんと同じようにしていれば「頑なな人」などと言われないで済むし、他の教会ににもビクビクしないで行くこともできます。(教会によっては跪くだけでミサを中断して叱られるところもあります)
典礼のやり方に囚われなくてもイエズス様が喜んで下さると思っていれば地獄になんて行くはずありませんよね・・。何せ地獄に行くかどうかの裁きは神様の決めることですから、凡人の私達が考えたら私達が人を裁くことになってしまいますもの・・・なんて考えることができたら本当に楽な気持ちになれます。
でも実際にはそれほど神様は寛容ではないようです。凡人の私が神さまの意向について話しても埒があきませんが、直接神様が介入された出来事からそれらを読み取ることが出来ます。
「ファチマの聖母」について色々と調べて見て下さい。これはバチカン公認ですし出現を受けた3人の子供のうち2人は列聖もされています。つまり聖人であるとともに直接神様の意向を伝えられたということになります。・・・実に厳しいです・・・。
〜ファチマの聖母〜
「教会は流行(社会の流れ)を追ってはなりません」
「マリア様は教会の中でのおしゃべりを嫌われます」
「・・多くの魂が地獄へと落ちて行ってます・・」
〜マザー・テレサ〜
「・・私が最も悲しんでいるのは人々が手による聖体拝領をすること・・・」
「・・舌に聖体拝領をすることは我々の修道会と私の願いの習慣である・・」
できればピオ神父様(聖人)に関する書籍やHPなども見てみて下さい。ミサやお御堂の空間にエキュメニカルの入り込む余地がないことが理解していただけると思います。
私もとても辛いです。厳しさを自分に課していても霊的に自分を保つことは難しい世の中です。だからこそ妥協する度にさらに多くの大事なことを失ってしまうのです。
でもピオ神父様もそうですが、他のカチコチと言われる信者さんも、ミサや告解などの時以外は明るく陽気な人がほとんどなのですけど・・・。
オホーツク人さん
どうやらあなたは本当にオホーツクの人のようですね。実は私も以前はある島の端っこの小さな教会に所属しており、とても良い牧者に導かれていました。その頃からカトリックの危機は知っていたつもりではいたのですが・・が・・・・。
数年前に都心部に近い教会に移った時、私は本当の現実を知らされました。多くの教会がカトリックから大きく脱線していたのです。ネオがいる教会ではないのにですよ・・。これが大きなポイントです。
ギターに手拍子、演劇に歌謡曲・・・ネオがいないから私の教区は大丈夫ではないのです。既に多くのカトリック信者の感覚が麻痺しているのです。
私はネオに戦いを挑んでいるのではありません。感覚の麻痺したカトリック信者に戦いを挑んでいるです。正しい典礼と祈りを持ってです。
私は焼け野原さんやオホーツク人さんは敵とは思っていません。今の教会に対抗できる数少ない人だと思っています。ただ微妙なところで揺れているようには思いますけど・・。
妥協した先人達にではなく、信仰を守り抜いた先人や聖人達に倣いましょう。
焼け野原 2006/6/26 (Mon) 01:01:28
オホーツク人さん。お心遣いありがとうございます。もう休みます。
YULOさん、あなたが何歳でも構わない。ありがとう。私なりの誠意で答えたレスをしておきました。読んでください。
そして、洗礼名使徒聖ヨハネさん。こんなことも書きますが私はあなたの気持ちが全てわからないのではありません。私は意地を張りたいのでしょう。傲慢な人間なのでしょう。ごめんなさい。もっと楽しい話もしたいものです。
オホーツク人 2006/6/25 (Sun) 23:46:49
焼け野原様 ご自愛下さい。体を壊さないようにしましょう。
私は、今朝(25日8:30ごろ)の書きこみで気持ちがやられてます。
焼け野原 2006/6/25 (Sun) 22:35:04
神様は誰ですか?誰が裁きますか?誰が赦すのでしょう?
それがわかるのは、私達が天に召された時で、今はこの厳しい世界で互いを傷つけたり、赦しあったりして御旨に従って懸命に生きていくだけです。
あなたがもしお若いのであれば司祭を志し、ご自分をお捧げになってもよいのではと感じます。
過去ログを読んでいただければわかると思いますが、私はネオカテクナメートを擁護しているわけではありませんよ。
洗礼名使徒聖ヨハネ 2006/6/25 (Sun) 21:04:08
> YULOさんは、神中心の教会から人中心の教会に変化したということに失望されておられながらも、霊的模範になるような父である司祭を渇望なさっているようです。そこに矛盾を感じます。
私はYULOさんの言葉に矛盾は感じませんよ。司祭においても「神を中心」にしてミサを行い、信徒を司牧して欲しいとおっしゃっているのではないでしょうか。
キリストの教えは現代社会に生きる私達にとって、時には心を切り裂くような内容もあります。人によっては耳を塞ぎたくなるような内容もあるでしょう。けれども、司祭が現代人の反応ばかりに気をとらわれて内容を歪曲して司牧してしまったら「世間」からの評判は良くなるかもしれませんが、代わりに多くの人の魂を地獄に送るばかりか、司祭自らも責任を問われる事でしょう。これはミサにおいても同様です。
人間の価値観は時代によって変わるものですが、神様は変わらないのです。神様を中心にしなければいつまでもこの論議は終わらないのです。
焼け野原 2006/6/26 (Mon) 00:43:56
YULOさん、レスをありがとうございます。きちんとしたレスをいただいて嬉しかったです。
私は、理論を振りかざすのではなく素直な言葉で語り合うのが好きです。理論は他人や書物の受け売りでしかないのです。
YULOさんがどちらの教区に属しているのかは存じませんし明かしてくださいとも言いません。でも、同じカトリックの信仰の土壌で生きているのは確かでしょう。
YULOさんの鎧を脱ぎ捨てた素直な姿は私に似ています。私自身苦しんだ経験と、色々な人々を見てきた経験で私は外国だけではなく、日本自体に大きな問題が存在することを気付いて、司祭に対外的な活動だけではなく日本の中の苦しみにも目を向けて欲しいと言ったことがありました。その時、「司祭だけじゃなくて民間のNGOの人たちもたくさん働いているよ。」とだけ聞かされました。恥ずかしいことに確かにそうでした。
はっきりお答えしますが私の教区は崖っぷちです。他の教区の方々やまじめに取り組んでいる方からお叱りを受けてもおかしくない状態です。だからYULOさんがこちらに司祭に司祭本来の職務をして下さいと書きこみなされるのも仕方の無いことなのかもしれません。
教会には当然、愛や癒し、祈りそして神との語らいが本来はあるべきことです。でも、そればかりではないことは聖書(私は聖書は新共同約と新共同約以前の新約のみ持っていますが)のパウロの手紙などには度々著述されています。ヨハネも互いに愛し合うようにと書いていますよね。
古来から始まり今に至っても、教会の歴史は分裂や争いが多いでしょう。その中で(教会が認めているだけで他にもたくさんいるであろう一握りの聖人の方、そして、その時代の人々全てがその時代を担ったのです。神様がそれをどう評価されたかは私達には知ることも出来ません。)
ちょっと苦言になってしまいますが、教会の中以外にも祈り、癒し、神の語らいの場はあります。私はたまに子どもの寝顔を見ながら祈ります。辛い時代に産み落としてしまったことに対し先に光があるように。働きながら自分に力を下さいと。苦しい時は叫びとして。そして嬉しい時はマグニフィカトとして。こうやって神と一人で繋がれる時もあるということです。(ちょっとこんな風に書いてると逝ってしまった酔った人間に見えますが。これはジョークですよ。笑)
私も立ちあがってよろよろ歩き始めてます。これは自立だと思っています。
全てが司祭でなければと言うことはありません。病床洗礼でお顔を合わすことの無い信徒さんなんて洗礼のお祝いに行ってあげたりしたらとても喜ばれます。そんなの自分の空白の時間にちらりと行けばいいだけ・・・簡単なことなんです。
YULO 2006/6/25 (Sun) 23:33:49
焼け野原さん、こんばんは!
>そこに矛盾を感じます。
自分としては、矛盾した事を書いたつもりはありません。
神様中心の教会になればなる程、僕の、あるいは私達が求める霊的な、そして慈父のような司祭は自ずと増えてくると思います。
僕らが教会にそして司祭に求めるのは、神の救いであり、愛であり、赦しであり、癒しであり、神との語らいであり神への感謝であり、神への賛美であり、そして霊的な事です。決して僕らが教会に求めるのは社会的な活動でもないし、バザーのような活動でもないし、人権や外国人の問題でも戦争反対でもありません。
(それらのことは個々が教会の外でやれば良いだけのことです。否、むしろすべきでしょう)
僕らがが司祭に求めることは、ミサや秘跡、病気の信者の見舞いなど、霊的な事や信者の霊魂の救いにもっと関心を持って欲しいのです。当然、聖人のような神父様もたくさん居ますし、素晴らしい神父様も今まで沢山出会ってきました。他方、まったく逆の神父様も誠に残念ですが多々います。
>冷血で非道な司祭が行ったものでもイエズスの御血であり御身体となると聞かされました。
これは焼け野原さんのおっしゃる通りです。
例え堕落した司祭や大罪状態の司祭であっても、彼らのミサや秘跡が無効になることはないですし、価値が無いとか価値が下がると言うこともありません。
>教会に愛を溢れさせるのは信徒の力も必要だということです。
これも焼け野原さんのおっしゃる通りです。
ただ司祭の存在はとても重要です。司祭は牧者であり神に多くの信者を委ねられています。また神に多くの恵みを受けている分多くの責任があります。またミサや秘跡を授けることが出来るのは彼らだけであり、また彼らの特権でもあります。ですから司祭はどんなことにもましてこれらのことを優先すべきだと僕は考えます。繰り返しますが彼らしか授ける事が出来ないのですから。
あるカトリックの友人は病気で教会に行けないから、神父様に御聖体を持ってきて欲しいと頼んでもそれは拒否されました。どうして司祭としてすべき事をしてくれないのでしょうか? その他のある大事も拒否されました。僕は大きな驚きを隠せませんでした。自分が病気の時は、自分の所属教会の神父様はたびたび御聖体を持ってきてくれたり、罪の告白を聞いてくれました。大変素晴らしい司祭で今の若い司祭達についてはよく嘆いておられました。残念ながらその司祭はもう引退されてしまいましたが。
こうした哀しい話は、数ある中の(例えば赦しの秘跡の拒否など・・・)ほんの1つに過ぎませんが、世界でそして日本で沢山起きています。これは人間中心の教会の姿を如実に現していると思います。典礼の改革や教会のプロテスタント化で秘跡などがあまり重要視されてないのでしょう。酷い司祭ともなれば御聖体はキリストの体でもないし血でもない、ただの象徴に過ぎないという異端に陥ってる方もいます。
ここの教会の方々が御聖体拝領を禁止されているというのも分かりません。もうすでに故人ですが、ある大司教様が「今の教会は、上からの鶴の一声で変わる時代ではないのです」と僕に言いました。つまり権威主義の時代は終わったと言いたかったのでしょうが、誤った事に関しては、いとも簡単に鶴の一声で御聖体拝領も禁止出来るんだなぁーと別な意味で感心しました。
言いたい事は山程あります。それこそ本が出来るくらい。でもここにはそんなスペースはないし、僕自身も書いてる時間もありません。
でも僕が求めてる事は非常に簡単な事です。信者ももちろんそうですが、まずは司祭が霊的な事に熱心になって欲しいのです。そして信者の霊魂の救い、未信者の霊魂の救いも真剣に考えて欲しいのです。
人間中心の教会・・・別な言い方をすれば神や霊的な事に無関心な教会、伝統も信心もおろそかにする教会から、神中心の教会の教会になって欲しいのです。(そうならない限り、教会に明るい未来は絶対にありません) 今は本当に異端や誤った考えがまかり通り、司祭も信者も霊的な事や霊魂の救いに無関心になっています。また昨日書いたように、多くの誤った改革や教会のプロテスタント化で魅力無い教会にもなりつつあります。50年後100年後日本の教会はあるんでしょうか? あったとしてもまるで別物になってるかもしれません。最後にお願いします。神父様方ここの苦しむ信者の方々を始め、他の苦しむ信者達を救って下さい。彼らは霊的に飢えているし、苦しんでもいます。(明日から仕事が忙しくなるので、とりあえずこれにて失礼致します)
焼け野原 2006/6/25 (Sun) 19:52:32
ゆるやかに話していきましょう。
YULOさんの書きこみをきちんと読ませていただいた上で書き込みます。もし意義があればおっしゃってください。書き言葉も口頭の言葉もその人の真実の思いを正確にあらわしているとは思いませんので。(私の書き込みにもYULOさんの書き込みにもです。)
対話によってどこまで真実に近づけるかというゲームのようなものです。
YULOさんは、神中心の教会から人中心の教会に変化したということに失望されておられながらも、霊的模範になるような父である司祭を渇望なさっているようです。そこに矛盾を感じます。
典礼についてはおばかさんなぐらい無知ですが、司祭が正式な式辞よって聖変化を行った場合の御聖体と言うものはどんなに冷血で非道な司祭が行ったものでもイエズスの御血であり御身体となると聞かされました。これから先は私の考えですがその御聖体を私たちがどのような気持ちで受けるかで私たちの御聖体への受け方は変わってくると思います。
ここまで行けば聖人になれるかもしれませんが、その中にまさにイエズスそのものを見て聖霊の賜物を得られるのか。それとも単なるホスチアを口に運ぶ行為だけで終わってしまうだけという落差です。
私はそれを自分に課するために今の教会に籍を置き、移動は考えておりません。残念ながら、聖人のような境地には至っておりません。
そして、霊的模範となるような父である司祭。
これを求めることも至難の業です。
人間は話さないと相手のことを理解する事は出来ないのです。話しても奥深く、また謎があります。また誤解が生じます。
医療に従事していました。もう余命間も無い患者さんに言われました。「私の痛みや、死の恐怖はあなたにはわからない!!人の心なんてわかるわかると言われてもあなたが私にならないと絶対わからないのだ!」と言いきられました。「仰せのとおりです。」としか申し上げられませんでした。ただ、痛みに寄り添い疼痛を緩和し、身体をさするだけ。短い時間分かち合えるのはこれだけでした。
でも、健康で生きている時間のある私たちには寿命に至らない限りいつまでも時間があります。その時間を、司祭にしても身近な人物にしても色眼鏡で見てそれで片付けることは簡単です。それで、その人との関係は完結したのです。
無駄なこともありますが人とは全てが捨てたものではありません。叩くのです。そうすれば開かれ。求めるのです。そうすれば与えられます。私の妄想だとYULOさんが片付けてしまうのであればそれでもよろしいです。
私は色々な経験を経て、それでも得ました。そう思っても棄てたものでもないという人や司祭を。血みどろの努力が必要でした。皆さんが司祭にどのような告解をなさるのかはその方の自由意思ですが、私は自分が墓場に持っていきたいと思っていたことを告悔することができました。今の司祭にも同じような過ちを犯した時、告悔する覚悟でいます。それが、たぶん信頼を築き上げるということです。
そして、教会に愛を溢れさせるのは信徒の力も必要だということです。得られることが出来たならいつまでも司祭にばかり依存せず、自分が微力でも誰かの力になれるように自分の道を見つけることです。それが成長です。柔らかいものではなく硬いものが噛めるようになった状態とでも表現すれば適切かと思います。
また、書き込みお待ちしています。こんな説教のような硬い文章は書きたくないです。
YULO 2006/6/25 (Sun) 02:54:02
>今、自分たちの世代のことばかりのを考え、次の世代に引き継ぐ事を考えていない、
>しかも次の世代を担う子ども達や若者がどういう世代なのかを知ろうともしない。
一応、自分はまだ若者の部類に入るとは思いますが・・・・まぁ、それはいいとして。
自分は自分の世代と言うよりか、(今現在ももちろんですが)むしろ次の世代、つまり未来の教会に対して、大きな危惧を抱いています。自分は当然、公会議前の教会を知らないし体験してる訳でもありません。しかしながら教会が(指導者の方々も)リベラル化し、伝統を捨て去ろうとしている今のカトリック教会自体に魅力が無くなってるのではないでしょうか?
少なくとも僕が求めてる物は、今の教会には殆どありません。
また神中心の教会から人間中心の教会に変貌しつつある教会には、あまり良い未来があるとは思えないのです。
今の教会に大きな不満を抱いている信者は、僕ら若い世代にも、そして信者の大先輩の方々の中にもたくさん居るはずです。信者が増えない、あるいはミサの出席率の低下もそうした事が大きく関係していると思います。またそうした人々の心の隙間に、ネオ(だけではないですが)のような運動が入り込み、よりいっそう大きな混乱や対立も教会内に生まれて居るのもまた事実です。まずは要理教育の徹底(大人も子供も)。そしてカトリックのリベラル化、プロテスタント化、そしてまた秘跡の軽視も改め無い限り、カトリック教会に明るい未来はないでしょう。
また大きな問題として司祭との間に信頼関係を構築出来ないで居る信者がたくさんいます。ミサの神聖さや司祭の説教において神の愛や御言葉が失われつつあります。秘跡を通じての神の愛や憐れみ、赦しと出会う機会も失われつつあります。それは全て伝統を捨て去った結果です。それは教会にとっても信者にとっても良いことではありません。
規則や伝統でガチガチの愛のカケラもない教会作りをしよう!と言ってるのではありません。神様中心の・・・神聖さと愛に満ちあふれた魅力ある教会作りを強く希望します。ミサ、説教、秘跡を通じて神の愛や赦し、そして憐れみを僕らにもたらして欲しい。キリストの代理者として、そして霊的な父として、心の底から信頼出来る司祭が僕らに与えられますように・・・。
神様中心の教会、またこうした司祭達によって、教会は魅力的なものとなるだろうし、神の恩寵も増すだろうし、当然教会の未来も明るいものになるだろうし、信者達も自ずと教会に足が向かうでしょう。
神を愛するのも、主日にミサに行くのも、秘跡を受けるのも義務ではなく全ては神への愛ゆえなのです。神への愛の喪失。今の教会に一番当てはまる言葉かもしれません。
焼け野原 2006/6/25 (Sun) 01:39:35
同じくです。
私は30代で子どもがいますがやっぱり自分と子どものことを考えてしまいます。
子どもが成人して離れて行くのは本人の自由かもしれないです。でも、今の私から子どもにどんな信仰をバトンタッチするしようかとよく考えます。
それには、子どもが希望を見出せる何かを親の姿を通して見せてやりたいと思っているのです。とてもいい親とは言えませんが私なりにやっています。
私の子どもだった頃とは違ってまた世代の特色があります。彼らを伝統浸けにすることで果たしてその効果はと考えます。学校での教育。社会での受けとめられ方は全く違います。
今は幼いので難しいことは抜きにして、御聖体への敬い、秘蹟についての説明はきちんと繰り返しおさえているところです。何の為の敬いや秘蹟なのか?それは義務や惰性ではなく、社会でキリスト者として人と接し人間的な心の豊かさを持ち、自分の人生をあの子なりにまっ至する為のものだと思っています。
オホーツク人2006/6/25 (Sun) 01:05:02
深いです。最近の教会の悩みはそれも深いようです。
オホーツク海岸の5教会も少子高齢化の影響を受けています。ミサ後のお茶会でもその話がよく出ています。
人それぞれ「がんばらなきゃいけない」ことはわかっているのですが・・・・・・
私が通う教会は、ご子息の方が遠方に出ている人が多いので、30代の私は貴重な戦力になってます。
焼け野原 2006/6/24 (Sat) 23:41:33
理論の並べたてばかりじゃなくて、自分の言葉はないのか不思議。今、自分たちの世代のことばかりのを考え、次の世代に引き継ぐ事を考えていない、しかも次の世代を担う子ども達や若者がどういう世代なのかを知ろうともしない。
論じ合って自己満足に終わっているだけ。
洗礼名使徒聖ヨハネ 2006/6/25 (Sun) 08:38:17
オホーツク人さん
聖母信心などを排斥しようとする動きはいくらでも見つけることができます。大胆に行われている教会もあれば、巧妙に少しずつ行っている教会もあります。あなたは本当に現実に目を向けているのでしょうか。
「共同で出来る事は行動する運動」ですって?それは集会などですればよいのであって、ミサに持ち込んで良いことではありません。
「頭がカチコチにならないように・・」ですって?ミサの基本部分を大事にしたいという旨を述べただけで頭がカチコチですか?私は「本来の典礼さえも行えないように煽動や強制をしておきながら」と表現しましたね。まさにあなたのような発言が煽動にあたるのです。
桑 栄一 2006/6/24 (Sat) 19:17:32
http://www.geocities.jp/kuwaei2000/Essay.html
所収の ★ 聖書入門 ★ が、多少のお役に立てれば幸いです。
YULO 2006/6/24 (Sat) 15:49:08
>私が読んだ「旧約聖書続編」は何ですか?
カトリック教会が言う「第二聖典書」とは、聖書の「続編」でもないし、聖書の「おまけ」でもありません。
先日カトリックの友人にある聖歌について質問を受けました。
その聖歌は、ダニエル書の一部分を歌詞にした物でした。
その友人が言うには、その部分(ダニエル書3章52節以降)が載ってないのと言うのです。
本来のカトリックの聖書を見れば載っていますが、友人が普段使っている新共同訳には、確かに載っていません。
(ネット上にいくつかある新共同訳聖書の検索でも当然「存在しない章です」と出てきます)
聖書のあるべき所に、有るべき文章がないとう事自体大きな問題だとお思いになりませんか?
また共同訳聖書の用語解説は、とても公会議の要求を満たすものではありません。
実際、誤った解釈などに陥ってる信者の方々も多々います。
「信者が安全かつ効果的な方法で聖書に親しみ、その精神にみたされるようにしなければならない。
すなわち、『必要かつじゅうぶんな』注釈付きの聖書の訳によって、教会の信者たちに、聖書、特に新約聖書、その中でも福音書の正しい使用法を教えるのは、「使徒的教えの受託者」である司教たちの務めである
」(第二バチカン公会議・啓示憲章)
また共同訳聖書の大きな誤りとして、カトリック教会が聖書と認めていない、「マナセの祈り」などの外典書が収録されています。
なぜ聖書ではない外典書を収録する必要があるのでしょうか?(それもカトリック版だけ)新共同訳聖書は、「イエス」とするか「イエズス」にするのかと、カトリック側とプロテスタント側がかなり揉めたようで、もしカトリック側が妥協しなかったら、新共同訳聖書の誕生は実現しなかったかそうです。
最近の教会内での大きな混乱を見ればむしろ誕生しなかった方が良かったと強く思います。
焼け野原 2006/6/24 (Sat) 08:45:53
こうじゃなきゃあならないということばかりにとらわれ始めるとパリザイ的になりますよね。
私達の向かいたい所って最終はどこなんでしょう?
さもないと信仰を深めているのか、学問としての宗教を深めているのかが解らなくなります。
バルバロ訳読んでいません。 2006/6/24 (Sat) 08:33:25
YULOさん、私が読んだ「旧約聖書続編」は何ですか?
日本の共同訳聖書には用語解説とか当時の度量衡なども載ってますし、出版元でも別に解説書を出しています。
まあ、正しい訳で読みたい気持ちはわかります。
「聖書」って元は1つだけど日本語に訳すると人によって言葉づかいが変ってくるようですね。
「素直な心でこの書物を精読してほしい。我々は、懸命に努力したのであるが、上手に翻訳されていない語句もあると思われるので、そのような個所についてはどうかお許し願いたい。」(共同訳のシラ書より)
ヘブライ語からギリシャ語などに訳するときも苦労はあったようです。
YULO 2006/6/24 (Sat) 03:29:49
エキュメニズムは、明らかにおかしな方向に行ってますね。エキュメニズムの名の下に冒涜も増えています。
共同訳聖書一つとっても、公会議が要求している注や注釈も付いていなし、第二聖典も省かれています。
それはもう聖書とは呼べないでしょう。そもそもエキュメニカル運動って必要なんでしょうか?
もちろん利もあるでしょうが害の方が多いと思います。少なくとも誤ったエキュメニカル運動は必要ないですね。
焼け野原 2006/6/23 (Fri) 15:08:18
ブェールについては被る女性の側から言わせてもらうと、私は被りたいです。御聖体をいただく時に司祭が渡す時に戸惑うことが無いようにする為にも、未信者と信徒を区別し、お御堂で御聖体への謙虚を示す為にも・・・。
でも、余りに度が過ぎるとかえって未信者さんとの溝を作ったりして心がお互い遠ざかる事も考えてしまいます。
ここの所は諸先輩方にお伺いしたいです。
洗礼名使徒聖ヨハネ 2006/6/22 (Thu) 10:18:25
本来なら典礼で禁止されていることを「開かれた教会」という名の下に平気で推進してきた結果が今のカトリック教会です。
聖母信心やロザリオを大切にする信徒を排斥し、カトリックの様々な教理を受け入れないプロテスタントや他宗教には一致を呼び掛けているのが現状です。こんな矛盾したおかしな「一致」がありますか?
自分達で好きなようにミサの形態を変え妥協してきた結果、こうなるのは当然のことではないですか。
もし今のこの現状を本当に何とかしたいのなら、先ずは正しくミサを行うことです。個人で大きな流れを変えることはできなくても、少しずつ変えていくことはできます。
女性はヴェールを被りなさい。聖変化の時には跪きなさい。聖体拝領は舌で受けなさい。出来る限り「イエズス」を使いなさい。告解を増やしなさい。これだけでも変わっていくはずです。大体、このような本来の典礼さえも信徒に行えないように煽動や強制をしておきながら、何が「開かれた教会」ですか?
異端は突然入ってきたのではありません。少しずつネオのようなものが入ってくる土壌を整えたのは自分達なのです。
オホーツク人 2006/6/23 (Fri) 10:57:37
「聖母信心やロザリオを大切にする信徒を排斥し・・・・・・」
女子パウロ会HP(ラウダーテ)とかサンパウロHPのショッピングのページを見たらそう考える事はできないはずです。(ヴェール、ロザリオ・・・・・いろいろ売ってます。)
エキュメニズムは他教派に安易に妥協するのではなく、共同訳聖書の編集とか、同じ目的のための集会・・・など共同で行動できる事は行動する運動ではないのですか?
お互いに頭がカチコチにならないようにがんばりましょう。
焼け野原 2006/6/2 (Fri) 22:55:32
補ってくださってありがとうございます。
書いていただいたことは私の俗っぽく書いた考えと何ら変わりません。私は自分が授かっているミサに関しては常日頃の霊的読書や勉強会、日々の体験を通して信仰生活で私なりに積み上げているつもりです。
信仰生活というのはミサ典礼のみに重視されるものではなく、日常の近所の人との生活、見ず知らずの人とのふれあい、自分を取り巻く全てに集約されると思います。
それでも人は躓くこともあると言うものでそこで告解の秘跡があり回心があるおこれば素晴らしいのではないでしょうか。
その為には日常の気付きです。それが一番大切です。
桑 栄一 2006/6/2 (Fri) 19:36:06
2004年に発行された新「総則」の暫定版には、は次のような日本カトリック司教協議会の注意書きが出されています。★新「総則」で追加・修正された新しい規則に関しては、「ミサ典礼書」改訂委員会が検討中である。そのため、司教協議会による新しい決定が発表されるまでは現行「総則」の指示に従ってミサが行われること。★
典礼憲章がカトリックのすべての信者に求めていることは、現行の自分たちのミサを よく理解し、聖なる行為に意識的に、敬虔に、また行動的に参加 することなのです(48)。
焼け野原 2006/6/2 (Fri) 17:43:31
2002年3月に教皇庁から発行された『ローマ・ミサ典礼書』の規範版第3版の冒頭には、規範版の変更に合わせて増補・修正された新しい「ローマ・ミサ典礼書の総則」が掲載されています。現在、この規範版に基づいて、日本語の「ミサ典礼書」の改訂作業が行われているようです。
では、私達一信徒もそうであるべきだとおっしゃりたいのですね?
すいません、あくまでも文字の世界で実際相対していない上に自分の無知がもどかしいですが。
桑 栄一 2006/6/2 (Fri) 16:14:13
「あまりにも異なった儀式を作ってはならない」「相違が極端にならないようにするために」というカトリック教会のミサの基本線に照らして、典礼憲章やローマ・ミサ典礼書の総則と、私たちのミサとの間についても、また新求道共同体のミサとの間についても、再検討してみる姿勢が大切だと・・・、私はそう言いたかったのです。
焼け野原 2006/6/1 (Thu) 21:58:37
レスをありがとうございます。
>「・・・したがって、年齢に応じて必要とされる適応のほかは、会衆とともにささげるミサの式次第とあまりにも異なった儀式を作ってはならない」(21)
それは当然会衆と共に捧げるミサに添ったものでならなくてはならないでしょう。恥ずかしながら、経験数が少ないせいなのか私はそこから大いに逸脱した子どものミサを目にしたことはありません。
>「子どもとともにささげるミサと成人とともにささげるミサの相違が極端にならないようにするために、儀式や典礼文の中には、・・・(変更してはならないものがある)」(39)
当然のことだと思っています。教育キャンプなどの場合では子どもの発達の過程でその年齢層の子ども達にわかり易いように多少言葉の要約の必要性はあるとは思いますが、主催者が考慮する問題で子どもの親である人間が口を出す問題ではないと思います。しかし、疑問に感じる部分は口にしてもいいのではないでしょうか。
>ミサを理解する基本線のようなものが、明確に読みとれると思いませんか。新求道共同体への反論にせよ弁護にせよ、このカトリック教会の基本線を土台として考えたいものです。
その理論から言えば本当にその通りなので、正直に言えば、私個人は一言で片付けてしまうとネオカテクナメートへの反論になってしまいます。
私は逆に弁護している方の意見が聞きたいですが、刃で切りつけ合うような不必要な言葉の応酬返は避けたいです。そう言ったことは歩み寄ること、理解し合おうとすること、そして、神様の御旨に叶っていないことだと思うからです。
桑 栄一 2006/6/1 (Thu) 17:42:36
2003年3月発行のカトリック教会儀式書「子どもとともにささげるミサ」の中で、その指針の部分で、たいへん大切なことが述べられています。
「・・・したがって、年齢に応じて必要とされる適応のほかは、会衆とともにささげるミサの式次第とあまりにも異なった儀式を作ってはならない」(21)
「子どもとともにささげるミサと成人とともにささげるミサの相違が極端にならないようにするために、儀式や典礼文の中には、・・・(変更してはならないものがある)」(39)
ミサを理解する基本線のようなものが、明確に読みとれると思いませんか。新求道共同体への反論にせよ弁護にせよ、このカトリック教会の基本線を土台として考えたいものです。
焼け野原 2006/6/1 (Thu) 08:35:42
きちんとサイトを読ませていただき、典礼についての桑さんのご意見がわかりました。ありがとうございます。
オリエンスと言えば「こじか」という子供向けの冊子でも有名です。その中で前年度まで「子どもと捧げるミサ」というテーマがありました。
今年のこちらの教区の子どもキャンプのテーマが「皆で考えよう。僕達、私達のミサ」というものです。どのようなものになるのか楽しみに思っています。
確かに多くの人が典礼の多少の変化には敏感な割に、ネオカテクナメートには激しく反応します。逆にあんまり関心がない方もいらっしゃるでしょう。
手話ミサに横でされると邪魔だとか、子どもミサについては嫌だという方もおられるようです。手話ミサや子どもミサについては私は考える必要があると思っています。でも、反対があったりするなら私の教区の今年のキャンプや聴覚の障害のある人の為のミサを捧げて別枠で最初からはじめて理解してもらうという方法をとらないと無理だと思いました。
ネオカテクナメートのミサに偶然に一度だけ参加した私がこのような形で主日ミサを捧げられると困ると思ったからです。時間は3時間ほどに及び、本当に「ネオカテクナメートの道」とやらを歩むならば週3回はそういった独特のミサに出なければならなくなります。
私に授洗を施してくださった神父様は、「教会の仕事をするのもいい。しかし、自分がどこに召し出されているのかを知りなさい。あなたの召し出しの場は家庭で、家族がいてあなたの世話を必要としている。その場所でも仕え、祈り、キリスト教者として生きてください。」とおっしゃいました。
話がまとまっていませんがすいません。
だから、何が言いたいのかということをきちんと書けば、ネオカテクナメート式の司式でのミサは公的な場所とは別のところでやるべきだということです。
ネオカテクナメートの召し出しを受けているならばそれもいいでしょうが、そうではない人には戸惑いや、反感を与えてしまいます。
一致というのは皆が同じミサに預かりこうでなければならないというものではなくて、それぞれの召し出しによってその場所で生きることだと思います。そうすれば互いの違いや個性を大切にした人間尊重ができるのではないでしょうか。
自分の召し出しを他人には強要するのは強引です。