筑紫・壱岐・対馬海の十字路 絹とクジラの辻

 

壱岐

2008年6月10日(火曜日)

 

はらほげ地蔵。島の東の八幡浦にある。海人さんたちが、海で犠牲になった仲間の供養に建てたものだ

     

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又渡一海千餘里、名曰瀚海、至一支國。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百餘里。多竹木叢林。有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。(『魏志 東夷伝倭人条』)

猿岩

島の南西、牧崎にいく。鬼の足跡という、海蝕奇岩がある。海岸に深い竪穴があり、海側の岩壁に穴があいている。鬼の名は、デイというそうだ。巨人伝説のデイタラボッチに話は似ている。【地図05 壱岐】

デイタラボッチの話なら、関東、三重・奈良・和歌山、四国にある。製鉄にまつわる踏鞴法師(たたらほうし→ダイダラボッチ)の話が、国引きの話と合体して、出雲から全国にひろまったといわれる。デイはデイタラボッチだろうか。どこからきたのだろうか。

 

鬼の足跡

それにしても、竪穴の底に、海からの漂流物が打ちあげられて汚らしい。

牧崎の北には、半城湾(はんせいわん)が、深く島をえぐっている。春、湾に浮かべた船から見る山桜がうつくしいという。

曲がりくねった道のかどで、山すその畑のなかにいる、コウライキジが見えた。わが家の近所で見かけるキジより大柄のようだ。特徴の白い首輪が、はっきり確認できた。

もう1つ北の黒崎半島にむかう。とちゅうのカラカミ遺跡は、弥生時代の高地性環濠集落遺跡。刀伊の古戦場は、1019年に女真族の刀伊が侵略、猛威をふるった場所だ。

岬のさきには猿岩がある。どこにでも、なにかに似ているというだけの、むりやり名物にされたつまらぬ岩がある。しかし、この岩は、孤独なボスザルの背中のさびしさがただよい、なかなかだ。スピーカーから流れる演歌がなければ、もっとよい。

孤独な猿の背中を見おろして、砲台跡がある。1933年(昭和8年)に完成した。射程距離35km。対馬と呼応して、70kmの対馬海峡を通る敵の艦船を、1艘たりとも逃すまいという狙いだった。しかし、東洋1とうたわれつつ、1発も発射せぬまま、戦争はおわった。

猿岩

堡塁の地下洞窟への入口に、砲台でつかわれた砲弾と、戦艦大和の砲弾が、ならべて展示してある。おなじく世界最高とうたわれつつ、1発も相手に命中させぬまま、戦艦大和は撃沈された。これは、どういう意図の比較展示なのだろうか。

殺傷に役立たずだったという意味では、ともに平和賞ものだ。これらの技術やシステムが戦後の復興に役立ったという意味では、ともに功労賞ものだ。イージス艦はすでに漁船を沈めてしまったが、予算と技術を集中したあらゆる最新兵器が、結果として役立たずであることを祈る。

黒崎砲台跡入口

うえから見た砲台跡

丘にのぼって砲台跡の巨大な穴をながめてもどってくると、背中で轟音など発するな、おれが見張ってるじゃないかと、猿岩が対馬海峡をにらんでいた。

前方後円墳

対馬にくらべれば、壱岐は山が少なく、田畑がやや多い。

島の中央の道路を走っていると、みぎてに双六古墳の表示が見えた。まもなく、ひだりてに鬼の岩屋が見えた。百合畑古墳群・掛木古墳など、壱岐中央部には古墳が集中している。壱岐の256基の古墳のうち、91基がここにあるという。

百合畑古墳群の20基のうち、前方後円墳は5基。全島では10基の前方後円墳がある。

あまり知られていないが、日本固有の前方後円墳が韓国にもある。対馬・壱岐を通じて大陸から渡ってきたものは多いが、じつは一方通交ではない。古墳時代のむかしにも、日本列島からわたっていったものは、意外に多い。縄文土器でさえ、釜山の東三洞貝塚から発掘されている。

 

鬼の岩屋

焼酎工場を見学して、おいしい麦焼酎をごちそうになる。壱岐は麦焼酎発祥の地だそうだ。

原の辻遺跡(はるのつじいせき)

島の東南にむかう。田畑がだんだん多くなり大きくなって、原の辻遺跡についた。東の内海湾(うちめわん)までは1kmちょっと。海は見えないが、海のうえの空が明るい。
ひろい田んぼ。赤米田の表示のある一画もある。あちこちに高床式の小さな建物がある。女の人たちが洗っているのは、発掘品のようだ。

原の辻遺跡

原の辻遺跡は、弥生時代の環濠集落跡だ。楕円形の集落をかこむ環濠は、東西350m、南北750m。長さ10mの2本の突堤をもった船着き場もあった。海を越えて内海湾についた船から、小船に乗りかえて海外の物資がはこばれてきたという。突堤自体が、大陸のすすんだ工法でつくられているそうだ。

静岡県の登呂遺跡、佐賀県の吉野ヶ里遺跡とならんで、弥生時代を研究するうえで欠かせない国の特別遺跡だ。稲がきた道の、「道の駅」といえるかもしれない。

田んぼをまえにして、原の辻展示館がある。発掘品やジオラマをまじえて、弥生の生活が再現されている。中国の古銭、ヤシの実でつくった笛、中国古代の秤。おそらく、稲とともに青銅器・鉄器・馬・梅・絹・漢字・仏教など、日本列島にはなかったものが、ここを通っていったにちがいない。対馬から壱岐への道は、日本列島をシルクロードにつなげた最後の欠かせないリンクだ。

クジラの道

原の辻展示館でとくに興味深いのは、弥生中期の土器に捕鯨の線刻があることだ。卜骨としてもつかわれたのか、獣骨とともに鯨骨もでている。

原の辻展示館

捕鯨の線刻がある弥生土器も出土

猿岩のちかくの湯ノ本湾のカラカミ遺跡からは、鯨骨製の銛やアワビおこしも出土した。このあたりは、むかし鯨伏郷(いさふしごう)といったそうだ。郷ノ浦の鬼屋窪古墳の壁には捕鯨の線刻がある。長崎県田平町のツグメノハナ遺跡という縄文時代の遺跡には、クジラの解体につかわれたと思われる石器がでているそうだ。

長崎県や熊本県の縄文中期の土器の底には、鯨骨の圧痕がついているものがある。土器をつくるときに、土台にクジラの脊椎をつかったからだという。さらに青森の三内丸山遺跡からも鯨骨がでている。

壱岐・対馬は、暖流の対馬海流と寒流のリマン海流が交差する潮目だ。クジラは、初冬、エサを求めてオホーツク海から寒流に乗って南下する。春先、暖流に乗って北上する。

3月に、沖縄の東シナ海で、ホエール・ウォッチングをたのしんだ。近世、五島列島から長崎の沿岸では、さかんに捕鯨がおこなわれたという。日本海では、山口県の青海島(おうみじま)の捕鯨が有名だ。五島列島では「祝えめでたの若松さまよ」、青海島でも「めでためでたの若松さまよ」。鯨歌もそっくりだ。

近世ばかりではなく、弥生時代はおろか縄文時代にすでに、どうやらクジラの道にそった海の民の道があった。対馬・壱岐をむすぶシルクロードとクジラの道は、十字に交差している。いわば、ここは「絹とクジラの辻」だったようだ。

岳の辻(たけのつじ)の狼煙台

原の辻遺跡の南西4km、岳の辻212.8mにのぼる。壱岐でいちばん高い山だ。展望台から郷ノ浦港が見える。視界のいい日には、北に対馬、南に佐賀の松浦半島が見えるそうだ。

展望台のわきに、狼煙台が再現されている。これも天智天皇が命じてつくらせた、外敵の侵入を知らせる緊急伝達システムだ。対馬から壱岐へ、壱岐から大宰府へ、大宰府から大和へ。無数の狼煙台がつづき、防人が守った。

まるい石組みが狼煙台

この狼煙の道こそ、日本列島と大陸をむすんだ幹線道路だ。絹の道シルクロードでもあるが、名のごとき優雅さだけの道ではない。マンモスやナウマンゾウがきた。日本人の祖先もきた。稲・青銅器・鉄器がきた。新羅や刀伊や蒙古が来襲した。この道は、縦にまっすぐ通ずるハードな道だ。文明や戦争などの直球が飛んできた。

打ちかえした、打球も鋭い。倭寇・秀吉の朝鮮侵略・朝鮮併合・満州建国。直球をカーブに変えた対馬藩などの存在がなければ、もっとデッドボールや打球の直撃などが多かったことだろう。

昼食に、生のムラサキウニをごはんにのせた、ウニめしを食べた。北海道のムラサキウニにくらべると、磯の香も味もやさしい。

はらほげ地蔵

午後は、内海湾の北にのびる八幡半島(やわたはんとう)のさき、左京鼻(さきょうばな)へ。左京は、江戸時代の旱魃のとき、島に雨を降らせた男の名だ。海鵜の糞で白くなった岩は、壱岐島誕生神話に登場する、8本の柱の1つ「折柱(おればしら)」だという。断崖の岩場に、青い背と赤い腹のイソヒヨドリの雄を見た。

 

左京鼻

半島の南がわに、八幡浦(やはたうら)がある。港に「はらほげ地蔵」がならんでいる。満潮時には沈む台座のうえに、6体の地蔵が陸をむいて立ち、赤い頭巾と衣を身につけている。海で命を失った仲間の供養に、海女さんたちが建てたものだという。

「はらほげ」とは、腹に穴があいているという意味だそうだ。ガイドさんが布をめくって、腹に穴があいているのを見せてくれた。穴には、供えものをいれる。寒さ・ひもじさ・陸への想い。海女さんたちの心のひだが見えるようだ。

海人には、2つの流れがあるという。「南国的な流れ」と「ヤマト的な流れ」。「南国的な流れ」は、沖縄のニライカナイにつながる、海を根の国(母の国)とする信仰をもつ。

「ヤマト的な流れ」は、大陸からつたえられた、漁神や船神を信仰する。この流れの海人たちは、応神天皇以後、壱岐・対馬から朝鮮半島への海上交通をうけもつようになったという。縦にまっすぐ通ずるハードな道を、文明や戦争をはこんだわけだ。

はらほげ地蔵

この縦糸にたいして、横糸となったのが、「南国的な流れ」だ。海に祈りつつサカナを獲り、魚醤などの味で食べる。ひいては、山に祈りつつトリやケモノを獲り、クリやドングリや山菜を採り、あらゆるものに神が宿るとする。いかにも縄文的な世界だ。八幡浦の海女さんたちは、こちらの流れだろう。そして、「鬼の足跡」のデイは、海女さんたちがはこんだ説話だろう。彼女たちは、文化と平和をはこんだといえるかもしれない。

対馬は、縦に長い。いわば直線輸送路だ。壱岐は、四方八方に岬がつきだして、まるでエアターミナルだ。役割としても、文明と文化の集配センターとして機能していたのだろう。弥生的なハードな縦糸と縄文的なソフトな横糸。直球とカーブの配球。日本がつくられ、日本人がうまれるには、この2つが必要だったのだろう。

男岳神社(おだけじんじゃ)

島の東北、赤瀬鼻の根もとにある男岳神社(おだけじんじゃ)にのぼった。祭神は、猿田彦神。この神はもともとは稲の神様だから、壱岐にふさわしい。しかし、いまは猿の石像の神社として有名になり、商売繁盛の神としてあがめられているという。

壱岐には、神社本庁が認めた神社が170社、それ以外の神社が150社もあるそうだ。この神社がどちらに属するのかは知らないが、神々もまた、縦糸と横糸を織りなしているようだ。

 

男岳神社

15:00、島の東の芦辺港からジェット・フォイルに乗った。港の北の岬に、壱岐神社の白い鳥居が見える。小弐資時(しょうにすけとき)がまつられている。

小弐資時は、蒙古襲来の1281年(弘安4年)、19歳の若さで一軍の将として戦って全滅、討ち死にした壱岐守護代だ。直球にあたってしまったといえる。

壱岐では、「根こそぎ」という意味で、「モクリコクリ」というそうだ。蒙古と高句麗の侵入で、根こそぎやられたことからくる表現だろう。ぼくのふるさとの北陸の海辺にも、おなじような表現がある。子どもをおどすときに、「モックリコックリがくるぞ」などという。これなども、横糸の海人の道をつたわったことばにちがいない。 

壱岐神社

博多総鎮守・櫛田神社(くしだじんじゃ)

6:05、博多港についた。あまりに順調に旅がすすんで、空港にむかうには早すぎる。博多の総鎮守・櫛田神社(くしだじんじゃ)をのぞいた。

毎年7月におこなわれる、祇園山笠で有名な神社だ。あの盛大な祭をだす神社だから、さぞかし広壮だろうと思ったら、あんがい小ぶりな構えだ。境内に飾り山笠が展示してあり、年中、見られるようになっている。

 

櫛田神社

この神社は、櫛稲田姫命(くしなだひめのみこと)・須佐之男命(すさのをのみこと)・日本武命(やまとたけるのみこと)をまつる、佐賀県神埼市の櫛田宮(くしだぐう)の分社だ。櫛田宮のそばに、あの吉野ヶ里遺跡がある。継体天皇に対抗して反乱をおこした、磐井の勢力圏だ。有明海ルートもまた、大陸と日本列島をむすぶ縦糸の1本だ。

そして、須佐之男命(素戔鳴尊)は出雲大社の祭神でもある。須佐之男命・櫛稲田姫命夫妻がつなぐ、有明海と日本海。あいだをむすぶ博多の櫛田神社。これもまたクジラの道、海人の道の横糸だ。

『魏志 東夷伝倭人条』では、対馬から壱岐へ、そのつぎには「又渡一海千餘里 至末盧國」、佐賀県松浦半島に上陸している。「好捕魚鰒、水無深浅、皆沈没取之」。海人がサカナ・アワビを獲っていたという。むかし佐賀の親戚からもらった、クジラの軟骨の粕漬けの珍味を思いだす。

華麗な山笠を見あげているうちに、ふるさとの北陸の祭の山車を思いうかべた。あの山車には、京都の影響もさることながら、博多の影響もありそうだ。海づたいに、博多は北前船の港々に、博多文化をつたえたのだろう。

博多の食いものはうまい。玄界灘の魚をつかった食文化が、日本海の食味を深めもしたことだろう。越前雲丹という、バフンウニをつかった、とびきり上等の塩ウニがある。おなじ製法が、博多か下関にはあると、むかし聞いた記憶がある。ウニも、海人・北前船文化の横糸味なのだろう。

大陸から日本列島への縦糸を確かめるつもりの旅だったが、海をつたって織りなす日本文化の横糸を再認識する旅となった。

祇園山笠

福岡空港で、鯛めしを食べた。おなじ旅に参加した、伊豆大島の夫婦と隣りあわせた。島唐辛子をもらって、酒がすすんだ。日本の旅はおもしろい。

     

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