|
||||
壱岐
|
|
はらほげ地蔵。島の東の八幡浦にある。海人さんたちが、海で犠牲になった仲間の供養に建てたものだ |
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
猿岩
それにしても、竪穴の底に、海からの漂流物が打ちあげられて汚らしい。 牧崎の北には、半城湾(はんせいわん)が、深く島をえぐっている。春、湾に浮かべた船から見る山桜がうつくしいという。 曲がりくねった道のかどで、山すその畑のなかにいる、コウライキジが見えた。わが家の近所で見かけるキジより大柄のようだ。特徴の白い首輪が、はっきり確認できた。 もう1つ北の黒崎半島にむかう。とちゅうのカラカミ遺跡は、弥生時代の高地性環濠集落遺跡。刀伊の古戦場は、1019年に女真族の刀伊が侵略、猛威をふるった場所だ。
堡塁の地下洞窟への入口に、砲台でつかわれた砲弾と、戦艦大和の砲弾が、ならべて展示してある。おなじく世界最高とうたわれつつ、1発も相手に命中させぬまま、戦艦大和は撃沈された。これは、どういう意図の比較展示なのだろうか。 殺傷に役立たずだったという意味では、ともに平和賞ものだ。これらの技術やシステムが戦後の復興に役立ったという意味では、ともに功労賞ものだ。イージス艦はすでに漁船を沈めてしまったが、予算と技術を集中したあらゆる最新兵器が、結果として役立たずであることを祈る。
丘にのぼって砲台跡の巨大な穴をながめてもどってくると、背中で轟音など発するな、おれが見張ってるじゃないかと、猿岩が対馬海峡をにらんでいた。 前方後円墳 対馬にくらべれば、壱岐は山が少なく、田畑がやや多い。 島の中央の道路を走っていると、みぎてに双六古墳の表示が見えた。まもなく、ひだりてに鬼の岩屋が見えた。百合畑古墳群・掛木古墳など、壱岐中央部には古墳が集中している。壱岐の256基の古墳のうち、91基がここにあるという。
焼酎工場を見学して、おいしい麦焼酎をごちそうになる。壱岐は麦焼酎発祥の地だそうだ。 島の東南にむかう。田畑がだんだん多くなり大きくなって、原の辻遺跡についた。東の内海湾(うちめわん)までは1kmちょっと。海は見えないが、海のうえの空が明るい。
原の辻遺跡は、弥生時代の環濠集落跡だ。楕円形の集落をかこむ環濠は、東西350m、南北750m。長さ10mの2本の突堤をもった船着き場もあった。海を越えて内海湾についた船から、小船に乗りかえて海外の物資がはこばれてきたという。突堤自体が、大陸のすすんだ工法でつくられているそうだ。 静岡県の登呂遺跡、佐賀県の吉野ヶ里遺跡とならんで、弥生時代を研究するうえで欠かせない国の特別遺跡だ。稲がきた道の、「道の駅」といえるかもしれない。 田んぼをまえにして、原の辻展示館がある。発掘品やジオラマをまじえて、弥生の生活が再現されている。中国の古銭、ヤシの実でつくった笛、中国古代の秤。おそらく、稲とともに青銅器・鉄器・馬・梅・絹・漢字・仏教など、日本列島にはなかったものが、ここを通っていったにちがいない。対馬から壱岐への道は、日本列島をシルクロードにつなげた最後の欠かせないリンクだ。 クジラの道 原の辻展示館でとくに興味深いのは、弥生中期の土器に捕鯨の線刻があることだ。卜骨としてもつかわれたのか、獣骨とともに鯨骨もでている。
猿岩のちかくの湯ノ本湾のカラカミ遺跡からは、鯨骨製の銛やアワビおこしも出土した。このあたりは、むかし鯨伏郷(いさふしごう)といったそうだ。郷ノ浦の鬼屋窪古墳の壁には捕鯨の線刻がある。長崎県田平町のツグメノハナ遺跡という縄文時代の遺跡には、クジラの解体につかわれたと思われる石器がでているそうだ。 長崎県や熊本県の縄文中期の土器の底には、鯨骨の圧痕がついているものがある。土器をつくるときに、土台にクジラの脊椎をつかったからだという。さらに青森の三内丸山遺跡からも鯨骨がでている。 壱岐・対馬は、暖流の対馬海流と寒流のリマン海流が交差する潮目だ。クジラは、初冬、エサを求めてオホーツク海から寒流に乗って南下する。春先、暖流に乗って北上する。 3月に、沖縄の東シナ海で、ホエール・ウォッチングをたのしんだ。近世、五島列島から長崎の沿岸では、さかんに捕鯨がおこなわれたという。日本海では、山口県の青海島(おうみじま)の捕鯨が有名だ。五島列島では「祝えめでたの若松さまよ」、青海島でも「めでためでたの若松さまよ」。鯨歌もそっくりだ。 近世ばかりではなく、弥生時代はおろか縄文時代にすでに、どうやらクジラの道にそった海の民の道があった。対馬・壱岐をむすぶシルクロードとクジラの道は、十字に交差している。いわば、ここは「絹とクジラの辻」だったようだ。 岳の辻(たけのつじ)の狼煙台
この狼煙の道こそ、日本列島と大陸をむすんだ幹線道路だ。絹の道シルクロードでもあるが、名のごとき優雅さだけの道ではない。マンモスやナウマンゾウがきた。日本人の祖先もきた。稲・青銅器・鉄器がきた。新羅や刀伊や蒙古が来襲した。この道は、縦にまっすぐ通ずるハードな道だ。文明や戦争などの直球が飛んできた。 打ちかえした、打球も鋭い。倭寇・秀吉の朝鮮侵略・朝鮮併合・満州建国。直球をカーブに変えた対馬藩などの存在がなければ、もっとデッドボールや打球の直撃などが多かったことだろう。 昼食に、生のムラサキウニをごはんにのせた、ウニめしを食べた。北海道のムラサキウニにくらべると、磯の香も味もやさしい。 はらほげ地蔵
半島の南がわに、八幡浦(やはたうら)がある。港に「はらほげ地蔵」がならんでいる。満潮時には沈む台座のうえに、6体の地蔵が陸をむいて立ち、赤い頭巾と衣を身につけている。海で命を失った仲間の供養に、海女さんたちが建てたものだという。
この縦糸にたいして、横糸となったのが、「南国的な流れ」だ。海に祈りつつサカナを獲り、魚醤などの味で食べる。ひいては、山に祈りつつトリやケモノを獲り、クリやドングリや山菜を採り、あらゆるものに神が宿るとする。いかにも縄文的な世界だ。八幡浦の海女さんたちは、こちらの流れだろう。そして、「鬼の足跡」のデイは、海女さんたちがはこんだ説話だろう。彼女たちは、文化と平和をはこんだといえるかもしれない。 対馬は、縦に長い。いわば直線輸送路だ。壱岐は、四方八方に岬がつきだして、まるでエアターミナルだ。役割としても、文明と文化の集配センターとして機能していたのだろう。弥生的なハードな縦糸と縄文的なソフトな横糸。直球とカーブの配球。日本がつくられ、日本人がうまれるには、この2つが必要だったのだろう。 男岳神社(おだけじんじゃ)
15:00、島の東の芦辺港からジェット・フォイルに乗った。港の北の岬に、壱岐神社の白い鳥居が見える。小弐資時(しょうにすけとき)がまつられている。 小弐資時は、蒙古襲来の1281年(弘安4年)、19歳の若さで一軍の将として戦って全滅、討ち死にした壱岐守護代だ。直球にあたってしまったといえる。
博多総鎮守・櫛田神社(くしだじんじゃ)
この神社は、櫛稲田姫命(くしなだひめのみこと)・須佐之男命(すさのをのみこと)・日本武命(やまとたけるのみこと)をまつる、佐賀県神埼市の櫛田宮(くしだぐう)の分社だ。櫛田宮のそばに、あの吉野ヶ里遺跡がある。継体天皇に対抗して反乱をおこした、磐井の勢力圏だ。有明海ルートもまた、大陸と日本列島をむすぶ縦糸の1本だ。 そして、須佐之男命(素戔鳴尊)は出雲大社の祭神でもある。須佐之男命・櫛稲田姫命夫妻がつなぐ、有明海と日本海。あいだをむすぶ博多の櫛田神社。これもまたクジラの道、海人の道の横糸だ。 『魏志 東夷伝倭人条』では、対馬から壱岐へ、そのつぎには「又渡一海千餘里 至末盧國」、佐賀県松浦半島に上陸している。「好捕魚鰒、水無深浅、皆沈没取之」。海人がサカナ・アワビを獲っていたという。むかし佐賀の親戚からもらった、クジラの軟骨の粕漬けの珍味を思いだす。
福岡空港で、鯛めしを食べた。おなじ旅に参加した、伊豆大島の夫婦と隣りあわせた。島唐辛子をもらって、酒がすすんだ。日本の旅はおもしろい。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
筑紫・壱岐・対馬「海の十字路 絹とクジラの辻」 ─おわり |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
海外旅行の紀行文・エッセイなどは、こちらのサイトでお楽しみください。 |