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筑紫
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青くかすむ大城山。この山をあおぐ緑の野に、かつて大宰府の坊条が広がっていた… |
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| 大宰府政庁跡(だざいふせいちょうあと) 福岡空港からバスで、大宰府にむかう。ひだりてに山並がちかづいてきた。福岡平野の東をさえぎる三郡山地(さんぐんさんち)の南辺、四王寺山麓(しおうじさんろく)だ。いくつかの峰のうち、大城山(おおしろやま、大野山の別名もある)がもっとも高い。410m。ここに大宰府を守る山城、大野城が築かれていたという。 南西のふもとに、いま大野城市がひろがっている。大野城市がつきるあたりで、みぎとひだりに、樹木におおわれた古墳のようなものが見えた。水城跡(みずきあと)だ。これもまた、大宰府を守った施設の1つだったといわれている。
大野城市から太宰府市(だざいふし)にはいると、ひだりてに広大な緑地がすぎた。礎石のある平地を、こんもりとした森がかこみ、背後に大城山がそびえている。大宰府政庁跡だ。都府楼跡(とふろうあと)ともよばれている。 北に大野城、西に水城を築いて、ここに大宰府(おほみこともちのつかさ)をひらいたのは、天智天皇だ。663年の白村江の戦いで唐と新羅に敗れて、沿岸から退いた要害の地に、本格的な防御施設をつくる必要がでてきたのだろう。 大宰府は、博多湾にそそぐ御笠川(みかさがわ)を15kmほどさかのぼった、福岡平野のおくの山ふところにある。南に8kmいくと、背振山地の東端の基山(きやま)405mがある。ここに、さらに南の守りとして基肄城(きいじょう)が築かれたという。 基山の南には筑後平野がひらけ、筑後川が有明海にそそいでいる。ここは、継体天皇に対抗した、磐井の勢力圏でもある。ちなみに、あの吉野ヶ里遺跡は、基山の西南16kmのところにある。 日本海と有明海をむすぶ陸の回廊の中間点。東西を山々にはさまれた狭い結節点。いざとなれば背後の大野城にこもり、まさかのときには山を越えて北へ逃れることもできる。大宰府は、筑前と筑後のむすび目、筑紫の中央の絶好の位置を占めている。【地図01 大宰府の位置】 大宰府はまた、遠の朝廷(とおのみかど)ともよばれた。もしかすると、朝鮮半島と連携するかもしれない、国内の対抗勢力への備えも、兼ねていたのだろう。九州全域を統括し、これから旅する壱岐・対馬も、その管轄下におかれていた。 興味津々の大宰府跡だが、観光ツアーのバスは平然とパスして、さらに御笠川をさかのぼり、太宰府天満宮についた。 参道には、名物の梅ヶ枝餅の店がならんでいる。ここは、いわずと知れた、天神さん菅原道真(すがわらのみちざね)をまつった神社だ。
894年、道真は遣唐使を廃止した。唐は907年に滅びた。道真の時代には、もはや使節をおくる意味がなくなっていた。皮肉にも、大宰府の外交と防衛の重要性は薄れ、もっぱら道真のように失脚した貴族の左遷先と化していたのだった。 いくつもの石の鳥居をくぐって、心字池にかかる太鼓橋をわたる。楼門をはいると、左右に梅の木を配した本殿がある。みぎてにあるのが、「東風ふかば にほひおこせよ 梅の花」の伝説の飛梅だ。丑年うまれの道真には、牛にまつわる伝説もある。あちこちに牛像がある。このインチキさ加減は、建立の動機にもよるが、道真にかこつけての敗者を応援する庶民心情のあらわれでもあるかもしれない。 菅公恨みの雷こそ鳴らないが、ポツポツと額に雨がきた。これからが自由時間だというのに、あいにくの天気だ。
熟年の係官がちかづいてきて、「70歳以上の方は無料です」。入場料は、カミさんのぶんの420円だけでOKだという。後期高齢者に冷たい国家にしては、奇特なことだ。 なかにはいると、縄文時代から江戸時代まで、「大陸と日本列島の文化のクロスロード、九州」ゆかりの品々が展示されている。「倭人伝の世界」「装飾古墳バーチャルシアター」「遣唐使とシルクロード」などなど。しかし、いまのぼくは、むしろ会場入口に設けられた大宰府のコーナーのほうに、興味をそそられた。 都府楼の模型、大野城出土の鬼瓦、大宰府出土の花模様タイル、水城の模型。大野城の鬼瓦も、大宰府のタイルも、新羅の強い影響を受けつつも、日本列島独自の個性を生みだしつつあるのが感じられる。
太宰府天満宮へおり、参道をもどる。 ひとりで大宰府政庁跡へ くたびれたカミさんをバスにのこして、15分でいけると聞いた大宰府政庁跡へ、ひとりででかけた。ときどき雨が大粒になってカサをさす。 山を背にして南にむかい、五条の交差点を右折、御笠川をわたる。思ったより、距離があるようだ。みぎてに観世音寺の石碑がある。観世音寺は、天智天皇が母・斉明天皇の追善のために建てたものだという。ここまでで、もう20分ちかくかかっている。 さらに300mほど歩くと、草むらのなかに大宰府学校院跡という石標が見えた。大宰府学校院は、西国の役人を養成する機関だったという。8世紀のすえには200人の学生がいたという記録があるそうだ。
もう200〜300mほど歩けば、政庁跡につくはずだが、すでに25分かかっている。帰りの時間を考えれば、限界だ。あきらめて、ひきかえした。 大宰府は、東西各12坊約2.6km、南北22条約2.4km。その大きさを、自分の足で体験する結果となった。ちなみに大宰府政庁前から五条まで1.1km。左10坊ぐらいを歩いて、ダウンしてしまったことになる。なお、このあたりが大宰府の北端で、坊条は南にひろがっていた。ぼくは、大宰府の北隅をかすめたにすぎない。 660年、斉明天皇は百済へ援軍をおくり、翌661年には博多湾沿岸の娜大津(なのおおつ)に磐瀬行宮(いわせのかりみや)をいとなんだ。7月、朝倉橘広庭宮(あさくらたちばなのひろにわのみや)で死んでいる。朝倉宮は、大宰府から20km内陸にはいった、現在の朝倉市のあたりにあったという。そして、663年、白村江の敗戦。664年、息子の天智天皇が防衛のために、大宰府を築く。都府楼にも大野城にも、新羅の影響が色濃い。時代が急激に動いていたことがわかる。
那津(なのつ) バスは博多湾にむかう。博多ポートタワーのしたの埠頭から、壱岐・対馬へのフェリーがでる。西どなりにある埠頭には、那の津という名がついている。娜大津、那津、那の津など、表記はわずらわしいが、古代、ここにあった港のことだ。
博多湾は、東を志賀島(しかのしま)につづく海の中道がかこみ、西を糸島半島がさえぎる。志賀島からは、「漢委奴国王印」の金印がでた。奴国は、福岡市と大野城市のあいだの春日市あたりで、那の津は奴の津、つまり奴国の港だっといわれる。糸島半島には、伊都国があったとされる。まさに『魏志倭人伝』の世界だ。 那津には、奈良時代以前から外交施設がおかれていた。平安時代には、鴻臚館(こうろかん)とよばれる、いわば迎賓館がおかれていた。外国からの使節は、まず鴻臚館でむかえられる。鴻臚館から大宰府までの16kmを、直線道路がむすんでいたという。道路わきには、幅10mもの側溝がそなわっていたらしい。使節の行列のあとから、物資を積んだ船が引かれていったのだろう。 ぼくは、大宰府の防衛意識に、過剰に反応してしまったかもしれない。本来の筑紫は、海外にむけてひらかれていたのだ。壱岐・対馬を通じて、マンモスやナウマンゾウがきた。日本人の祖先もきた。稲・青銅器・鉄器・馬・漢字・仏教がきた。遣唐使は、難波─瀬戸内海─筑紫─壱岐─対馬─朝鮮半島西岸─渤海湾─山東半島─長安というコースをたどった。逆のコースは、長安から東大寺正倉院にいたる、東の絹の道、シルクロードの東端だ。【地図02 筑紫・壱岐・対馬の位置関係】 16:20、ジェット・フォイル高速船ヴィーナス号が動きはじめた。志賀島と糸島半島のあいだを、玄界灘にのりだしていく。 オオミズナギドリの海 外海にでても、船はほとんど揺れない。ときどき島影をみるが、どこの島だかまるでわからない。どこまでいっても、オオミズナギドリが海面すれすれに飛んでいる。 18:10、対馬の東岸、厳原港についた。博多港から、124km。いくえにも重なる山並のむこうに陽が落ちていくが、空は明るいままだ。 埠頭から市街地にむかうとちゅうに、立亀岩(たてがみいわ)がそびえている。崩落があるのか、金網でおおわれている。かつては安全航海の守り神として信仰の対象だったのだろう。いまも港のランドマークだ。
橋をわたって街にはいる。どぎつい広告がないせいか、こざっぱりした印象だ。夕食に、新鮮な魚介と野菜の石焼きを食べる。歯ごたえのある新鮮なアナゴ、貝殻のうつくしいヒオウギ貝、ダイナミックな水ダコ。たっぷりと海の幸を味わう。酒は、『白嶽』300mlを冷酒で。白嶽(しらたけ)は、対馬下島(しもじま)の北にあって浅茅湾(あそうわん)を見おろす、519mの山だ。サツマイモを原料とする飢饉食、六兵衛汁もでた。満腹を叱られているようで、恐縮する。 |
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