筑紫・壱岐・対馬海の十字路 絹とクジラの辻

 

対馬

2008年6月9日(月曜日)

 

対馬の中央には、リアス式のうつくしい浅茅湾があり、島を上島と下島にへだてている

     

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始度一海千餘里、至對島國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百餘里。土地山険、多深林、道路如禽鹿徑。有餘千戸。無良田、食海物自活、乘船南北市糴。(『魏志』東夷伝倭人条)

万関橋(まんぜきばし)

対馬は、南北に長い。82km。幅は、18km。北端から韓国の釜山までは、49.5kmしかない。対馬の厳原港から、壱岐の郷ノ浦港までは、73km。対馬の長さは、朝鮮半島と日本列島に架けられた橋というにふさわしい。この長い島の東西の岸を、暖流の対馬海流が洗い、東シナ海から日本海へと流れていく。【地図03 対馬全図】

島の中央に、浅茅湾(あそうわん)がある。本来は1つの島だが、湾から北を上島(かみじま)、南を下島(しもじま)とよんでいる。リアス式海岸がいりくんで、大船越や小船越では、船を運ぶことができたようだ。

大船越と小船越のあいだにある、万関橋(まんぜきばし)にいく。1900年(明治33年)、日露戦争にそなえて、島の東にも西にも軍艦を出没させるべく、日本海軍が運河をひらいて橋をかけた。いま島の南北をつなぐ国道が、この橋を通っている。

橋をわたって上島にはいる。島の89%が山林だという山道をいく。みぎにひだりに、めまぐるしく海があらわれる。

 

万関橋

和多都美神社(わたつみじんじゃ)

豊玉町仁位(とよたままちにい)の街並をすぎて、海岸にでた。ここまで深く、浅茅湾がはいりこんでいる。道路をまたいで建っている、赤い大鳥居をくぐる。まもなく、海中に石の鳥居がならぶ、おだやかな磯にさしかかった。陸がわに神社がある。和多都美神社(わたつみじんじゃ)だ。

海からつづく和多都美神社の鳥居

祭神は、彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)、豊玉姫命(とよたまひめのみこと)。彦火々出見尊は、海幸彦・山幸彦の物語にでてくる、山幸彦のほうだ。釣針が象徴する文明の伝播や国際結婚を思わせる神話は、いかにも神々がわたっていった島にふさわしい。ついでながら『古事記』によれば、彦火々出見尊の孫が神武天皇だ。

海のなかに2つ、岸に1つ、神社のまえに2つ。神が海からきて本殿にはいる様子が、5つの鳥居であらわされている。男女それぞれ、この海の道のどっちの方向からきたのか、興味深い。神々のミトコンドリアDNAを調べてみたくなる。

参道のひだりて、海から数えて3番目と4番目の鳥居のあいだに、満潮になると海水が満ちる小さな池がある。なかに素朴な3本柱の鳥居が立っている。トライアングルのなかに、うろこ状の石がある。磯良恵比須(いそらえびす)といい、草創期の神体ではないかという。

 

磯良恵比須

4番目の鳥居をくぐると、ひだりてに土俵がある。モンゴルから朝鮮半島へ、朝鮮半島から日本列島へ、相撲がつたわってきた道筋が見える。そばに神船をおさめた舟屋がある。5番目の鳥居をくぐると拝殿があり、おくに、いかにも古風な本殿がある。ほか
に豊玉姫命の墳墓、出産の井戸などもあるらしい。

烏帽子岳展望所(えぼしだけてんぼうしょ)

和多都美神社の、いわば裏山にあたる、烏帽子岳(えぼしだけ)176mの展望台にのぼった。ここから360°の展望がたのしめる。【地図04 浅茅湾】

西には、仁位浅茅湾が見える。ひだりから湾入して、みぎおくに和多都美神社をかくしている。対岸の長い岬のむこうに、朝鮮海峡がある。

浅茅湾 西の眺望 この方角に朝鮮海峡がある

南には、下島がある。視野をさえぎっているのは、遠見山だろうか。どこまでが上島で、どこからが下島なのか、よくわからない。湾にむかって、あちこちから岬がのびて、日本最大規模のリアス式海岸の名に恥じぬ、みごとな風景美だ。

対岸の城山276mには、天智天皇が築かせた金田城跡(かねたのきあと)があるという。白村江の敗戦でにわかに高まった危機感。ここが防衛最前線だったのだ。日本最古の城跡とされている。文明の架け橋も、国家などできてしまえば国境がうまれ、防衛の最前線となる。

上島から下島を見る

東にも、無数の小島を浮かべ、複雑にいりくんだ湾が左右にのびている。真下に見えるのは、豊玉町糸瀬の村落だろうか。遠くかすんでいる陸地には、島の南北をむすぶ国道が走り、東西の海をむすぶ小船越・万関運河・大船越がある。そのむこうが対馬海峡だ。このページの冒頭にかかげたのが、その写真だ。

北には、緑と青と紫の上島の山々が、はるかにつらなっている。海は見えない。最先端の海栗島(うにじま)からは、「韓国の美しい夜景が展望できる」と観光パンフレットはいう。ここに自衛隊のレーダー基地があるそうだ。島の北端の久ノ下崎には、豊砲台跡(ゆたかほうだいあと)がある。そして、村の名は鰐浦。大国主命とワニのエピソードは、この村にこそふさわしい気がする。

北の眺望

対馬固有種

もどりのバスのなかで、対馬固有の動植物の写真が回覧された。ツシマヤマネコ、ツシマテン、チョウセンヤマツツジ、ヒトツバタゴ(なんじゃもんじゃの木)。このほかにも、チョウセンイタチ、ツシマジカ、コウライキジ、アキマドボタル、チョウセンノギクほか、対馬固有種は枚挙にいとまがない。

日本列島と朝鮮半島が陸つづきだった時代には、対馬から壱岐への陸橋をわたって、さまざまな動植物がやってきた。しかし、さいごの氷河期ヴュルム期には、朝鮮海峡はわたれても、対馬海峡はわたれなくなってしまった。こうして、対馬には特有の動植物体系ができあがったようだ。

下島にもどって、名物・対州そばを食べた。そば粉100%に面食らったむきもいたが、そば好きのぼくには、うれしい。鶏肉、ネギ、白菜。野菜から滲みでる、やわらかな甘味がおいしかった。

朝鮮通信使

厳原の街を見物する。かつての宗藩十万石の城下町だ。石塀が目だつ。武家屋敷につかわれた名残りらしいが、武ばった感じはなく、ほのかな赤みが目にやさしい。

これだけ残っているのには、理由があるようだ。大陸からの強風を受けて、対馬では過去にいくつもの大火があった。その対策として、防火壁としても石垣が築かれたのだ。これは火切り石とよばれ、高さは4mを越えた。また、結果的にはこれが最後となった、1811年の朝鮮通信使をむかえるために、さらに美しく念をいれて整備されたことも手伝っている。

室町時代以来、朝鮮半島との外交貿易は、宗氏が担ってきた。秀吉の朝鮮出兵でとだえた関係が修復され、江戸時代には12回の朝鮮通信使をむかえている。その外交事務をおこなった以酊庵(いていあん)跡が、厳原港のおくにある。また、釜山には倭館がおかれ、対馬藩が管理経営していた。

対馬藩ゆかりの石塀を新しく組みあげた、半井桃水館(なからいとうすいかん)にはいる。桃水は、樋口一葉が師とあおぎ、恋心をよせた人だ。藩医の息子として、ここでうまれた。父の任地の釜山の倭館ではたらいたこともあるという。桃水館は厳原の観光案内所としてつかわれている。

すぐそばに、聖ヨハネ教会がある。教会堂こそ洋風だが、やはり石塀でかこんである。キリシタン大名小西行長の娘マリアが、19代対馬藩主・宗智義に嫁して、一時は智義もダリオという洗礼名をもつキリシタン大名だったという。しかし、徳川の世になって、改宗。マリアは離別されている。

半井桃水館

聖ヨハネ教会

お船江跡(おふなえあと)

厳原港の南、久田浦(くたうら)で、お船江跡(おふなえあと)を見る。

漁船がつながれた浦にむかって、2本の川が流れこんでいる。1本は久田川。もう1本は、じつは川ではなく、海からお船江へ、船をみちびく運河だ。

運河を100mほどさかのぼると、ひろい人工の入り江になる。100m×100mほどもあるだろうか。入り江の岸から、石組みの突堤が4つつきでている。この突堤と突堤のあいだに、藩船を格納したものらしい。赴任の役人や交易品を運び、ときには軍船の役割もはたしたのだろうか。

お船江跡

万松院(ばんしょういん)

ふたたび厳原の街にもどる。対馬市役所のわきの城壁に、大手楼門がそびえている。1919年(大正8年)に解体されたが、例の「ふるさと創生1億円」で再建された。

1669年、ここに金石城(かねいしじょう)を築いたのは、対馬藩主21代宗義真。江戸時代前期で、すでに21代目。宗氏の歴史は古い。大宰府の小役人だった者が対馬に流れて、鎌倉時代に守護代になりあがったといわれている。

城壁にそって流れる細流をさかのぼると、宗氏の菩提寺・万松院(ばんしょういん)の山門に達する。1615年建立、万松院創建時の桃山式遺風を残している。

万松院を創建したのは、20代義成。山門わきの長い石段をのぼると、山腹に歴代の藩主・夫人・側室の墓が立ちならぶ。おおいかぶさる楠の古木。空につきぬける杉の大樹。あんまりしめっぽい感じがしないのは、すべて岡山からとりよせたとかいう花崗岩で、墓石が統一されているからかもしれない。

万松院山門

宗氏歴代墓地

歴代の藩主の墓を見ながら、「ご苦労さま」といいたくなった。李朝の王と徳川将軍のあいだで、なにかと紛糾する外交交渉を、偽外交文書をつくってまで平和裏におさめてきた苦労は、並大抵ではなかっただろう。

かじめ汁

15:25、フェリーで壱岐へ、対馬海峡をわたる。距離73km。きょうも海は凪いでいる。13:30、郷ノ浦港についた。

対馬にわたるときも気になったが、海にドラム缶やペットボトルなど漂流物が多い。これからは、さらに加速度的にふえることだろう。

郷ノ浦港

 

港の見えるホテルで夕食。大きなイカが姿づくりででている。生ムラサキウニ、大きな岩ガキの生と焼き物、細身のしょきしょきと歯あたりのいいモズク、本マグロもまじった刺身。さらに地鶏の鍋物、茶碗蒸し、かじめ汁ほかがつく。かじめ汁とは、舌ざわりが納豆のようにとろりとした、磯の香の高い海草の汁物だ。地酒『心 意気』を飲み、満腹以上になった。いまが盛りのビワの房までもらって、部屋にもどった。

     

     

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