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斑鳩へ
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のどかな風景のなかの、法起寺三重塔。しかし、この斑鳩に住んだ聖徳太子の一族25人は皆殺しに…。 |
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| 斑鳩(いかるが)という地名 午後1時、奈良の旅は斑鳩からはじまった。【地図01 斑鳩】 イカルガ──まだらのハトと書く。このあたりにイカルという鳥が棲息していたことによる命名だと聞かされても、納得はいかない。 奈良には、ふしぎな地名が多い。奈良そのものも、古代朝鮮語のナラ(国、邦の意)だという説がある。奈良市や大和郡山(やまとこおりやま)市のある奈良盆地北東部は、かつて曾布(そう、添とも書く)とよばれた。これは古代朝鮮語のソプルの転化だという。王都の意で、韓国のソウルと語源がおなじだ。
だけではない。山背大兄王派だったというので、入鹿にとっては叔父である、蘇我馬子の弟まで、その息子もろとも、惨殺している。 三重塔は、それから60年ほどあと、706年に建立された。悲劇の一族の鎮魂のためだったといわれる。 寺には、10世紀の木造十一面観音菩薩立像のほかに、飛鳥時代の銅造菩薩立像がのこっている。
この寺も、法起寺の三重塔とおなじ時期に建てなおされたのだろう。かろうじて2体の飛鳥仏が、あたらしい講堂にのこっている。飛鳥仏は、悲劇の一族の似姿だろうか。 面長の薬師如来は法隆寺金堂釈迦像に似て、すそを長くたらす裳懸座(もかけざ)だ。虚空菩薩(こくうぼさつ)もまた法隆寺百済観音に似て、細身の立ち姿がうつくしい。ほのかにのこる彩色は、往時の華麗をつたえるには淡く、むしろ、モデルとなった人のゆかしい素顔を感じてしまう。
太子の死後85年もたっての創建。いまでいえば、関東大震災(1923年)で死んだ人のために、いまごろになって神社を建てるようなものだ。この時期に、太子ゆかりの寺の再建が集中している。だれが、なんの必要あって、鎮魂をおもいたったのだろうか。 太子の死 622年のある朝、聖徳太子も妃も、起きてこなかった。2人は死んでいた。太子は、蘇我馬子(そがのうまこ)の娘を妃としていた。しかし、才能のある皇子ほど、皇位につくまえに、しばしば排除されることがある。蘇我家の政治的専横のさまたげになるとして、皇子は殺害されたのだとする説がある。 そして643年、蘇我入鹿らによる、太子一族25人の惨殺。たしかに、太子一族の霊は、鎮魂されねばならない。 しかし、太子一族が根絶やしにされた2年後、645年、乙巳の変(いっしのへん)で、もっとも責任を負うべき、元凶の蘇我氏そのものが、ほろびている。 太子が死んでから85年もたって、一族の皆殺しから60数年もすぎて、法隆寺だけでなく、法起寺も法輪寺も建てて、悲劇の太子一族を鎮魂しなければならなかったのは、だれだったのか。 太子一族がほうむられ、蘇我一族がほろぼされて、天皇になれた血脈。これに加担して、権勢をえた氏族。その血脈が、太子の死後も脈々とつづいている。太子一族の鎮魂と賛美を必要としたのは、国家だったのかもしれない。 そう思ってみると、この壮大な伽藍には、人間臭がない。どんなに厳粛な禅寺でも、たとえば修行僧のひたむきさなど、人間的な気配があるものだ。しかし、西院伽藍には、修学旅行の生徒たちがあふれていても、一瞬にして人っ子ひとりいない静寂にもどってしまいそうな、粛然の気がある。 かといって、空疎だというのではない。ここには、当時の文化や技術が結集している。しかも、海外からもたらされた最新最高のものが、惜しげもなく注ぎこまれている。
かつて金堂の壁面をかざっていた飛天は、キジル千仏堂や敦煌莫高窟(とんこうばっこうくつ)など、シルクロードをへてつたわった。おなじく金堂壁画の阿弥陀浄土図の脇侍菩薩は、インドのアジャンタ石窟第1窟の壁画「蓮華をもつ菩薩」との類似を指摘されている。 そなえつけの懐中電灯で、釈迦三尊像を照らしてみる。中尊には、法輪寺の薬師如来とおなじ裳懸座があるというのだが、よく見えない。これらの諸仏は、鞍作鳥(くらつくりのとり、鞍作止利・鞍部止利・止利仏師ともいう)の作だといわれる。鞍作鳥は、帰化系の人だ。 五重塔の初重(しょじゅう)には、土でつくられた山岳を背景に、さまざまな塑像が配されている。釈迦涅槃(しゃかねはん)の情景もある。この塑壁という表現形式は、中国由来だそうだ。 蘇我一族の墓標 大宝蔵院で百済観音を見る。像高209.4cmの巨大な像であるにもかかわらず、優美、繊細、高雅。みぎ目のあたりのよごれで、顔の表情が見えにくいのが惜しまれるが、やわらかなまなざし、おだやかなほほえみ。ほのかにひらいた口もとから発せられる声を、聞いてみたくなる。 日本固有の樟材をつかっていることから、日本でつくられた可能性も高いともいうが、百済からつたわったとも、インドからもたらされたともいわれる。 西院伽藍では、大宝蔵院などはもちろん現代の建築だし、大講堂も平安時代の築造だ。しかし、創建時の遺構をつたえるのは、五重塔・金堂・回廊だけとしても、なんという充実かと感嘆する。玉虫厨子(たまむしのずし)は、法隆寺建立のころの建築様式をつぶさにあらわす、いわば模型だともいわれる。 仏教伝来が538年だとすると、たった70年ほどで、堂塔伽藍、仏像仏具などが、これほどに充実したことにおどろく。先進世界の文明文化が、怒涛のごとく日本列島に流れこむ時代だったのだろう。そして、それらが法隆寺建設に注がれている。にもかかわらず、この寺の粛然の気はなんだろう。たんに、時をへた文明のかなしさ、というだけのことだろうか。 もしかすると、これは寺の顔をした神社ではないか。鎮魂のための神社には、どんなに壮麗でも、粛然の気が宿る。 仏教を移入し文明化国際化に力をつくしたのが、蘇我一族だったことをおもうと、複雑な感慨がわく。聖徳太子もまた、その蘇我氏の血をうけている。法隆寺は、蘇我一族の壮麗な墓標のようでもある。墓標を立てたのは、だれか。 東大門から東院伽藍にむかう。【地図04 法隆寺東院伽藍】 この夢殿への道が好きだ。左右を土塀にはさまれた道のおくに四脚門があり、そのむこうに夢殿(ゆめどの)の八角の屋根がうかぶ。
夢殿で、救世観音(ぐぜかんのん)を拝した。明治までは、白布につつまれて厨子のなかに眠る秘仏だった。いまは春と秋のもっともいい季節に、1月ずつ公開される(4月11日〜5月18日、10月22日〜11月22日)。 格子ごしに堂内をのぞくと、薄暗がりのなかに、かろうじて黒い顔がうかぶ。厩戸皇子の等身大の木彫だ。存命中につくられたのだという。釈迦三尊像の中尊にも似る。夢殿こそは、太子を供養する御影堂。鎮魂の核心だ。 それにしても、だれが夢殿と名づけたのだろう。まがまがしい太子の運命を、あわあわとした夢に変えてしまったのは、だれか。 だいたい厩戸皇子という名も、景教(中国につたわったネストリウス派のキリスト教)の影響のにおいがないでもない。聖徳太子という名にいたっては、まるで天皇の諡(おくりな)だ。 夢化と聖化。現代の政治家は「記憶にない」をくりかえすばかりだが、いにしえの為政者は、夢化と聖化の光背を太子に背負わせ、その余光のなかに血塗られた世紀の記憶を消しさってしまった。 夢殿からもどり、東大門をすぎると、鐘の音が聞こえてきた。午後4時。みぎての塀のなかの鏡池のほとりには、正岡子規の句碑がある。
藤ノ木古墳 法隆寺のすぐ西に、藤ノ木古墳がある。被葬者は、穴穂部皇子(あなほべのみこ)と宅部皇子(やかべのみこ)だといわれる。 1980年代に発掘された、この若き被葬者たちについて、この旅にでる直前、新聞にこんな記事がでていた。 「遺体は内臓をとりのぞいてミイラとし、布をかさねてつつんであった。布は1枚おきに赤く染色したものがつかわれていた。さらに腐食をふせぐために、棺内に殺菌防腐効果のあるベニバナを大量に散らしていたことがわかった」(2007.10.6.朝日新聞)。 もしかすると、エジプトの影響があったのかと、心がときめく。救世観音は、白布にくるまれた秘仏だった。そこには、ミイラを葬るような心理がはたらいていたのだろうか。 穴穂部皇子と宅部皇子は、欽明天皇の子であり、蘇我馬子の孫。 蘇我馬子は、渡来系の東漢駒(やまとのあやのこま)に、崇峻天皇を殺害させている。崇峻天皇は、甥であり、娘婿でもある。 馬子の孫の入鹿もまた、おなじ曽我家の血の流れる聖徳太子一族を大量殺戮した。 まるで蘇我家の同属殺人の世紀。ベニバナは花粉分析の成果でわかったものの、シルクロードなどをつうじて大陸からつたわったもののなかには、痕跡ののこりにくい物質も、かなりあったのではないだろうか。たとえばワイン・麻薬・媚薬、そして毒薬。シルクロード(絹の道)はまた、香料の道・薬草の道でもあった。 法隆寺をでたバスは南にむかい、まもなく大和川をわたった。【地図05 奈良盆地を流れる川】 大和川は、奈良盆地のほとんどの川をあつめて、東南から西北へななめに流れ、大阪湾にそそぐ。奈良盆地をつくった川だ。そして、古代、世界に通じていた川だ。中国大陸や朝鮮半島からもたらされた文明文化は、瀬戸内海をとおり、大阪湾からは淀川や大和川をつたって奈良盆地にはこばれてきた。
薄幸の弟の死を悼んでよんだ、姉・大伯皇女(おおくのひめみこ)の歌だ。二上山の雄岳には、弟・大津皇子が葬られている。皇子は、天武天皇亡きあとの皇位継承あらそいの闇に消えた。 やがてひだりに耳成山(みみなしやま)、そのみぎに香具山(かぐやま)が見えてきた。橿原神宮前駅ちかくのホテルにはいる。窓から畝傍山(うねびやま)の黒い塊が見える。もう畝傍山の空に夕映えはない。 ぼくの万歩計は、12,533歩、カミさんのは、13,672歩を示している。 |
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奈良「末摘花(ベニバナ)の道 紀行」 斑鳩(いかるが)へ─おわり |
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