奈良末摘花(ベニバナ)の道 紀行 200711

     

飛鳥へ

11月3日(土曜日)

 

明日香村。このせまい谷間に、くりかえし皇宮がおかれ、最先端の文明が息づいていたとは。

 

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見瀬丸山古墳(みせまるやまこふん)

出発までの1時間、カミさんを部屋において、169号線を南へ、見瀬丸山古墳まで歩いた。

「東五丁 孝元天皇御陵」の石碑をすぎる。清酒「八咫烏」(やたがらす)の看板を見かける。寺院建築につかうのか、巨大な木材が積みあけられた「大和銘木市場」というのがある。

15分ほど歩くと、ひだりに山稜が見えてきた。全長310m。古墳時代後期の日本最大の前方後円墳。道路が前方部を切りとったように見える。見瀬丸山古墳だ。欽明天皇と妃の堅塩媛(きたしひめ)の合葬墓だと推定されている。【地図06 見瀬丸山古墳】

見瀬丸山古墳

169号線にそって、古墳が多い。石碑にあった孝元天皇陵・宣化天皇陵・倭彦命墓・植山古墳・牽午子塚古墳・鑵子塚古墳・マルコ山古墳・東明神古墳…。見瀬丸山古墳の南東には、欽明天皇陵・吉備姫王墓・高松塚古墳・文武天皇陵・キトラ古墳がつづく。

(丸山古墳は、欽明天皇を葬ったとされる。しかし、べつに欽明天皇稜がある。宮内庁が治定した古墳のうち、学問的にも証明できるのは、天智陵と天武持統合葬陵だけだそうだ)。

これらの古墳のうち、高松塚古墳やキトラ古墳は、みごとな壁画で話題になった。これらの古墳があるところは、かつて檜隅(ひのくま)とよばれた。朝鮮半島の高句麗(こうくり)や伽耶(かや)などからやってきた渡来系の人びと、倭漢(やまとのあや、東漢とも書く)氏が、集中して住みついたところだ。

(かる)

6世紀、蘇我氏は見瀬丸山古墳のまわりの軽(かる)に、本拠地をおいていた。現在の大軽町・石川町のあたりだ。

金剛山地から流れでた曽我川が、畝傍山の西3kmほどのところを流れている。蘇我氏は、この曽我川の中流に発したという。

先進技術をもった檜隅の倭漢の協力をえて、蘇我氏は水田開発をすすめ、軽のとなりの見瀬をはじめ、各地に屯倉をひらいた。

とくに蘇我稲目は、34年間も大臣の地位にあり、勢力をのばした。父は高麗(こま)、祖父は韓子(からこ)。高句麗や伽耶の女性との混血ではないかといわれる。百済との関係を強化し、いちはやく仏教に帰依した国際派だ。

欽明天皇の妃となった堅塩媛は、蘇我稲目の娘だ。堅塩媛の弟が、蘇我馬子。欽明天皇とのあいだには、用命天皇、推古天皇がうまれている。堅塩媛以後、蘇我家は、用命・舒明・孝徳・天智・天武と、あわせて6天皇に后妃をおくりこんでいる。ということは、騎馬民族説をもちだすまでもなく、天皇家にもまた、国際的な血が流れているということになる。

越前・近江から大和にはいった継体天皇の王朝は、安閑・宣化の混乱時代をへて、欽明天皇の代に蘇我家のうしろだてをえて、ようやく安定したようだ。

奈良盆地を平行して縦貫する、上津道(かみつみち)・中津道(なかつみち)・下津道(しもつみち)は、欽明朝ころにつくられたとされる。丸山古墳は、下津道の起点に築かれている。

軽の衢(かるのちまた)

古墳をぐるりとまわって169号線にもどるつもりが、道にまよった。「八咫烏大明神」の扁額のかかった鳥居のある小さな神社のまえにでた。通りがかった小学生に聞いてみたが、要領をえない。けっきょく、きた道をもどった。

あとで地図をみたら、あと直線距離で500mほども東へいけば、飛鳥の甘樫丘(あまかしのおか)がある。古代の歴史が、意外なほどの狭さのなかで展開していたことを実感した。

いそいで「孝元天皇御陵」の石碑がある丈六の交差点までもどってきた。これもあとで知ったのだが、古代、このあたりは「軽の衢(かるのちまた)」とよばれていたという。【地図07 軽の衢(丈六交差点)】

 

丈六の交差点

『万葉集』の「柿本朝臣人麻呂、妻死にし後に、泣血哀慟して作る歌」は、つぎのようにはじまる。

天飛ぶや 軽の道は 我妹子が 里にしあれば
ねもころに 見まく欲しけど 人目を多み
数多く行かば 人知りぬべし

軽の道は、にぎやかなところだったらしい。

奈良盆地を南北に走る下津道は、このあたりでは軽路(かるのみち)とよばれ、東西に走る阿部山田道(あべやまだみち)と交差していた。山田道は、軽の衢から発して、甘樫丘の北をとおり、山田寺(やまだでら)のわきをぬけて、南北に走る上津道につながっていた。

時間に間にあうように、いそぎ足でとおりすぎた現代の軽の衢は、土曜の朝のせいか、まだ閑散としていた。

甘樫丘(あまかしのおか)

9時、ホテルをでる。バスは見瀬丸山古墳のわきをとおりすぎ、東にむかってまもなく、甘樫丘の南端についた。【地図08 甘樫丘】

西南から東北にのびる全長1kmほどの、甘樫丘の東のすそを北へすすむ。この丘の東がわが、いわゆる飛鳥の地だ。流れてきた飛鳥川が、しだいに甘樫丘にちかづく。

甘樫丘の先端の水落地区でバスをおりた。

ここから標高148mの甘樫丘にのぼる。もっとも奈良じたいが盆地であり、飛鳥は山あいの土地だ。丘のすそあたりの標高は100m。標高差は50mだ。木の間がくれの坂道はきついが、10分ものぼれば頂上に達する。

この丘で、5世紀に在位していたとされる允恭天皇が、盟神探湯(くがたち、熱湯のなかに手をつっこませる神明裁判)をおこなったという。

飛鳥寺から蘇我入鹿の首塚をかすめて眺めた甘樫丘。丘の北端が見える

軽から豊浦へ

甘樫丘から西を見ると、畝傍山から見瀬丸山古墳、そして高松塚古墳へと、緑がつながっている。蘇我氏の揺籃の地だ。

ましたに畑が見える。豊浦(とゆら)地区だ。みぎにいくと、向原(むくはら)の向原寺(こうげんじ)がある。

蘇我氏は、稲目のつぎの馬子の代に、軽から豊浦へ、そして飛鳥へと進出した。稲目の孫・馬子の姪である推古天皇は、豊浦宮で即位している。

甘樫丘から西には、二上山・畝傍山・橿原市街が見える

飛鳥

甘樫丘の東が、いわゆる飛鳥。いま明日香村とよばれている。

目のしたに、蘇我馬子創建の飛鳥寺(あすかでら)が見える。みぎに目をうつせば、山の中腹に岡寺(おかでら)がある。さらにみぎの飛鳥川をへだてた丘のうえには、橘寺(たちばなでら)がある。そのてまえの低地に川原寺(かわらでら)跡がある。

飛鳥川が流れでる谷のおくの島庄(しまのしょう)には、蘇我馬子の墓だといわれる石舞台古墳がある。

馬子亡きあと、その子・蝦夷(えみし)、孫・入鹿(いるか)父子は、飛鳥を見おろす甘樫丘に邸をかまえ、上の宮門(うえのみかど)、谷の宮門(はざまのみかど)などと称して、天皇をもしのぐような権勢をほこっていたという。

蘇我入鹿は、645年の乙巳の変(いっしのへん)で、中大兄皇子・中臣鎌足らによって、暗殺された。飛鳥板葺宮が血塗られた。殺害をかさねた蘇我家は、あらたに登場した殺害者によってほろびる。

藤原京へ

甘樫丘から北を見ると、あしもとの木立のなかから、飛鳥川が北西にのびている。畝傍山のほうからのびてきた阿部山田道が木立のしたをとおり、山田寺跡のある東の山に消えている。【地図09 大和三山】

木立のした、飛鳥川の右岸には、雷丘(いかずちのおか)があるはずだが、見えない。雷丘の東、阿部山田道の北に、推古天皇の2つ目の宮である、小墾田宮(おはりだのみや)があったという。

飛鳥川の右岸、てまえに香具山、やや遠く耳成山がある。大和三山にかこまれた飛鳥川の両岸に、かつて藤原京がひろがっていた。

飛鳥京から藤原京へ、やがて平城京へと、都がうつっていく。

飛鳥。これもまた、ふしぎな地名だ。「朝風のさわやかな土地」「菅(すげ)の茂る砂の聖地」「明日にいたりつくところ」など、由来については各論あり、よくわからない。やはり朝鮮語の「安宿(あんすく)」からきたというのが、なじみやすい。

光明皇后となった、藤原不比等の娘・安宿媛(あすかひめ、あすかべひめ)という例もある。

ちなみに、蘇我氏にかわって、つぎの時代の権勢をひとりじめにすることとなる藤原氏(もとの中臣氏)は、飛鳥の東の大原(またの名を藤原という)を開発し、本拠とした。

ただし、藤原京の命名は、直接には藤原氏とかかわりはないらしい。藤原京の地は、もと葛井ケ原(ふじいがはら)といったという。

甘樫丘からの展望は、まさに歴史のパノラマだ。

高松塚古墳

バスで高松塚古墳にむかう。【地図10 高松塚古墳】

高松塚古墳は、3つの古墳をふくむ飛鳥歴史公園のなかにある。東南にむかって、みどりゆたかな谷間の道がのびる。ひだりの山は中尾山古墳だ。みぎの山に高松塚古墳、そのさきに文武天皇陵がある。

高松塚古墳への道

知ってのとおり、壁画にカビのはえた高松塚古墳は、修復中で閉ざされている。かたわらに、石室のレプリカと壁画の模写を展示した、高松塚壁画館がある。

うつくしい色彩の衣服をまとった、貴族の男女の群像。流麗な筆致におどろく。中国や高句麗の古墳壁画にかようものだという。

なによりも感心したのは、被葬者の死後の世界をかたちづくる石室の構成だ。まず日月をえがき、東西南北に青龍・白虎・朱雀・玄武を配する。天井には、金で星宿(星座)がえがかれている。つまり、悠久の宇宙のなかに、親しい人びとの群像にかこまれた生前の生活を再現し、やすらかな眠りの世界をつくりだしているのだ。

星宿にオリオン座を見つけた。説明書には参(からすき)と書いてある。ぼくとカミさんが指摘できる星座は、それぐらいだ。壁画の筆致といい、その題材といい、おそらく古墳づくりにたずさわったであろう、倭漢たちの学術技芸の水準に感嘆する。

被葬者は、『竹取物語』でかぐや姫に求愛した貴族の1人、物部氏の石上麻呂(いそのかみのまろ)ではないかという。これだけの舞台装置があれば、彼は死後の世界でかぐや姫に再会できたのではないか。

飛鳥歴史公園のあたりが、かつて檜隅(ひのくま)とよばれた地域だ。ここに住んだ倭漢氏と蘇我氏がむすびつき、大和の開発がおこなわれた。宣化天皇の檜隅盧入野宮(ひのくまのいおいりののみや)がいとなまれたともいう。古墳づくり、宮づくりにも、倭漢氏ら渡来系の先進技術が発揮されたのだろう。

亀石(かめいし)

家々のあいだに、ちらと天武・持統天皇陵を見て、甘樫丘の南端ちかくの野口地区でバスをおりた。【地図11 亀石・橘寺・川原寺】

ここからは起伏のある丘のうえの道を歩く。側溝をきれいな水が走っている。とちゅう人家のとなりの生垣のなかに、亀石を見た。飛鳥に散在する奇妙な石像遺物群のうちの1つだ。

長さ3.6m、幅2.1m、高さ1.2m。花崗岩の巨石だ。カメの形をしているとされるが、松元清張はペルシアの聖鳥グリフィンのつくりかけではないかといっている。

 

亀石

橘寺(たちばなでら)

東にすすむと、南の高台に仏塔山が見えた。ふもとに橘寺がある。田畑のなかの道を、小ぶりの山門にちかづく。

もとは欽明天皇の別宮があり、その厩(うまや)で聖徳太子がうまれたとされる。ここにも二面石という石像遺物がある。

橘寺

橘という土地名は、垂仁天皇の命で不老長寿の薬をもとめて中国にでかけた田道間守(たじまもり)が、トキジクノカグノコノミをもちかえったという故事にもとづく。境内に、橘の木が1本ある。キンカンほどの小さな実がなっていた。イネ・ウメ・ミカンなど、日本特有だと思われている植物の多くが帰化植物だ。

胡瓜(きゅり)・胡麻(ごま)・胡桃くるみ)・胡豆(そらまめ)は、胡人(イラン系のソグド人)がつたえたもの。シルクロードは、植物の道でもある。

聖徳太子がここに建てた橘寺は、盛時、金堂・五重塔など66棟の堂塔がたちならんでいたという。法隆寺の仏像・仏具の多くが、ここからうつされた。

川原寺跡(かわらでらあと)

橘寺から、みぎての山の中腹に岡寺の三重塔を見ながら、だらだら坂をおりていくと、ひろい空き地に礎石がならんでいる。川原寺跡(かわらでらあと)だ。礎石はプラスチック製で、位置や大きさばかりではなく、色と形も再現している。

 

川原寺跡

川原寺は、斉明天皇の川原宮(かわらのみや)のあとに、天智天皇が建てた大寺だった。その法灯をつぐ弘福寺(ぐふくじ)が、かたわらに小さくなって建っている。

石舞台古墳

飛鳥川ぞいに島庄(しまのしょう)にはいる。石舞台古墳は、色づきはじめた山を背にした、ひろい丘のうえにある。ここは、かつて桃原とよばれたそうだ。大陸からもたらされた食用のモモが栽培されていたのではないかという。【地図12 石舞台古墳】

モモを植えたのは、おそらくは今来漢人(いまきのあやひと)とよばれた渡来人たちだ。百済や伽耶、そして中国から、檜隅の倭漢たちよりも新しい高度の技術をたずさえてきた。

陶部(すえつくり)・鞍部(くらつくり)・画部(えかき)・錦部(にしごり)・訳語(おさ)などの人びとは、その専門の技芸によって、今来才伎(いまきのてひと)ともよばれた。

石舞台古墳

今来漢人たちは、倭漢氏の管下におかれ、渡来集団はさらに強化された。蘇我馬子は、後期には、本拠を嶋(島庄)にうつしている。蘇我氏は、当時の日本の最新最高の学術技能センターを丸がかえにしたことになる。

馬子は、「嶋の桃原の墓に葬られた」とつたえられている。いま石舞台古墳は、石室がむきだしになっている。もとは方墳だったが、墳丘の土砂が流れてしまったのだそうだ。天井を64tと77tの2つの巨岩がおおう。横穴からはいる。石室の広さは、奥ゆき7.8m、幅3.4m、高さは4.8m。蘇我馬子ならではと納得できる、圧倒的な規模の古墳だ。

飛鳥川をさかのぼると、渡来系の南淵漢人(みなみぶちのあやひと)が住んだ稲淵(いなぶち)、そして栢森(かやのもり)がある。そのおくの山中には、オンドルのある5世紀後半の建物の遺構が見つかっているという。さらに芋峠(いもとうげ)を越えてすすめば、ついには壬申の乱のとき、大海人皇子(のちの天武天皇)が拠点とした吉野宮にたっする。

酒船石(さかふねいし)

岡の街で昼食をとり、桃原につづく大原(藤原ともいう)のすそを北にむかう。ここが中臣鎌足の本拠があったところだ。

道のひだりての家々のむこうに、皇極天皇の飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)跡だという田圃が、ちらと見えた。

岡地区の北のはずれを東にはいる。木材で土どめをした段をのぼって、小山をのぼる。しばらくいくと、道にずり落ちそうな場所に、藪にかこまれて、酒船石が鎮座していた。【地図13 酒船石・酒船石遺跡】

長さ5.3m、幅2.27m、高さ97cmの花崗岩の巨石だ。松元清張が、ゾロアスター教の儀式として、ハオマ酒(幻覚を生ずる麻薬酒)をつくったのではないかと仮説をたてている。

しかし、高松塚古墳の星宿を見たあとで、水のたまった黒いくぼみを見ると、星座をを映して天体の動きを観る装置ではなかったかなどとおもった。

 

酒船石

この山を北へおりる斜面には、飛鳥時代の石垣が発見されている。調査によれば、この山じたいが人工のものだそうだ。ということは、星々をさえぎる樹木のない天文台にふさわしい。

酒船石遺跡(さかふねいしいせき)

山をおりると、2000年に発見された酒船石遺跡がある。山すそのくぼ地につくられた、30m四方ほどの石と水の施設だ。中央に、湧き水を流す石の装置がある。水は小判形水槽から亀形円形水槽へと流れる。山をふくめて、すべてが人工でできているという。

酒船石遺跡

ひと目見て、ぼくはアンコールワットを思いだした。いや、それより古い9世紀のロリュオスのロレイ遺跡を思いだした。リンガに聖水を注ぐと、水が四方へ流れる仕掛けだ。その生殖のなまぐさい気配が、ここにも漂っているような気がした。

この遺跡は、斉明天皇の時代にはじまり、天武・持統天皇の時代までつかわれていた痕跡がある。そして、ここでも、天武・持統天皇の時代の土から、ベニバナ花粉が発見された(2007.10.25.朝日新聞)。亀形円形水槽から流れでたものらしい。

亀形円形水槽は、内径約2m、深さ20cm。1人や2人なら沐浴できる。赤い水のなかで、血の再生にまつわる儀式がおこなわれたのだろうか。

ベニバナの殺菌防腐作用が必要な水場での処理とは、いったいなんだろう。亀形円形水槽のなかで、ミイラづくりがおこなわれたのか。たんなる虫除けだったとすれば、儀式は夏場におこなわれたのか。酒船石遺跡でベニバナがつかわれたとすると、山上の酒船石はベニバナの色素をとりだす装置だったとも考えられる。

酒船石遺跡の西約100mの飛鳥寺南方遺跡の土からも、ベニバナ花粉が検出された。こちらは濃度約85%で、そばに染織場があったと推定されている。

ベニバナの染料は、口紅や布を染めるのにつかわれた。古代、紅い布は、ことのほか珍重されたようだ。食用油にもなる。源氏物語の時代には、末摘花(すえつむはな)とよばれた。

「古来、浄血(じょうけつ)薬として、とくに婦人の血の道に繁用され、月経不順、冷え性、産後の腹痛、更年期障害などにも効き目がある」(e-yakusou.com)。また、「血行障害による血(おけつ)、腫瘍(しゅよう)、打撲傷(だぼくしょう)などにも効き目がある」そうだ。酒船石遺跡のベニバナは、なんの目的でつかわれたのだろう。

斉明天皇は、いろいろと物議をかもした女帝であったらしい。再婚して舒明天皇の皇后となった。舒明亡きあと、皇極天皇として即位。つぎの孝徳天皇が病死し、重祚して斉明天皇となった。皇極元年には、雨乞いで大雨をふらせている。巫女的な傾向があったのかもしれない。この時代の蘇我入鹿のあまりの専横から、女帝と入鹿の男女関係をいう者もある。

松本清張は、入鹿のひきいる渡来系集団のなかに教(けんきょう、中国につたわったゾロアスター教、拝火教)をもたらした者がいたとする。入鹿は女帝にハオマ酒やハッシッシュをささげたのだろうか。

『日本書紀』の斉明天皇の死の描写は、怪しげだ。「朝倉山の上に鬼ありて大笠を着て喪の儀を臨み視る」。天皇の幻覚だったのか。

息子である中大兄皇子が、中臣鎌足と手をむすんで、入鹿を暗殺したのは、母帝の行状を見かねたということもあったかもしれない。

斉明天皇は「興事(こうじ、大土木工事のこと)」を好んだという。飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)、飛鳥川原宮(あすかかわらのみや)、後飛鳥岡本宮(のちのあすかおかもとのみや)をつくった。さらに田身嶺(たむのみね)に両槻宮(ふたつきのみや)をつくるために、「狂心の渠(たぶれごころのみぞ)」を掘った。石をはこぶための運河をつくるのに3万人、石垣をきずくのに7万人を動員。

この狂気と思われるほどの大土木工事が、近年の発掘で、事実であったことが明らかになってきている。酒船石遺跡もその一端で、石上神宮の北にある豊田山からとれる、天理砂岩とよばれる石がつかわれている。これを船にのせてはこんだ運河が、すでに1kmほど発掘確認されているそうだ。

飛鳥寺(あすかでら)

酒船石遺跡からおりて、北へ400mほど歩けば、飛鳥寺につく。

飛鳥寺があるのは、古くは真神原(まかみがはら)とよばれたところだ。推古天皇4年(596年)に、蘇我馬子によって創建された、日本最古の寺だ。五重塔をかこんで、3つの金堂のある大寺だったという。【地図14 飛鳥寺周辺】

いまは中金堂のあとに小さな本堂があり、鞍作鳥がつくった日本最古の仏像・飛鳥大仏をまもっている。

 

飛鳥大仏

鞍作鳥は、あの法隆寺の釈迦三尊像をつくった仏師だ。祖父の司馬達止(しばたっと)は、継体天皇16年(522年)に日本にやってきた、中国南朝の人だという。飛鳥の南の坂田原に住んだ。

鞍作鳥がつくった丈六の飛鳥大仏は火事にあい、鋳なおされた。目から眉にかけてと、みぎの指3本だけが、オリジナルだという。真正面にすわると、首がややみぎにねじれてつけられた感じがする。

釈迦如来だというが、迫力ある容貌に圧倒されて、鞍作鳥は馬子の顔をうつしたのではないかという気がした。

本堂のまえの小さな庭に、五重塔の心礎がある。これが掘りおこされたとき、まるで横穴式古墳の副葬品のような、勾玉・管玉などの1セットがでてきたという。

仏塔は、釈迦の遺骨(舎利)をおさめるストゥーパ(卒塔婆)に発する。そこに古墳との共通性を見たのだろうか。

大型古墳は、さきの大王をたおしたあとの大王が、鎮魂のためにつくったという説もある。飛鳥寺も、だれかの鎮魂のための寺だったのだろうか。そして、蘇我勢力はふたたび、聖徳太子の鎮魂のため、法隆寺を建てる。寺の建立も、そう考えると、怖いものがある。

槻樹広場(つきのきひろば)

飛鳥寺の西門をでて菜畑のなかを50mほどいくと、蘇我入鹿の首塚だという石塔がある。切られた入鹿の首が、中臣鎌足らを追って、飛鳥板蓋宮からここまで空中を飛んできたのだという。ここから飛鳥川までは、180m、甘樫丘は目のまえだ。

寺の西の川原には、大化の改新当時、槻(いつき、ケヤキのこと)の巨木のある槻樹広場があったという。中大兄皇子に中臣鎌足がちかづく契機となった、打毬がおこなわれた場所だ。そういうひっかかりで、ここに首塚がおかれたのかもしれない。

なお、打毬は蹴鞠(けまり)とされるが、アラビア・チベットを経由してつたわったポロだった可能性がないわけでもないらしい。

入鹿の首塚 むこうに甘樫丘

水落・石神遺跡(みずおち・いしがみいせき)

槻樹広場の北200m、甘樫丘の先端にちかい飛鳥川の右岸に、水落遺跡がある。その北につづく石神遺跡とともに、ここには外国使節などをもてなす鴻臚館(こうろかん、古代の迎賓館)のような施設が、飛鳥川の東岸(右岸)にひろがっていたという。

あの有名な天智天皇の水時計(漏尅または漏刻、ろうこく)も、ここにあったことがわかった。飛鳥川の水を利用した池苑。そのまわりには、雨にぬれる山の姿をあらわす須弥山石(しゅみせんせき)や、抱きあう2人の男女の口から水のふきだす道祖神などの、水を利用した石像遺物が配されていたのではないかという。

噴水については、中国などの東アジアの例は、まだわかっていないらしい。とすると、ローマの噴水やササン朝ペルシアの水の文化がつたわっていたのではないかと期待がつのる。

飛鳥京苑池遺構

水落・石神遺跡から飛鳥川ぞいに800mほどさかのぼった、おなじ右岸に、飛鳥京苑池遺構というのがある。南北200m、東西80m。かつてここから、もう1つの酒船石がでたことがある。あらたに2つの石造物がでた。もとは、それらが1つの水の施設を構成していたらしい。石には水が流れる穴や溝があるという。

飛鳥には、水を愛で楽しむ文化があったようだ。あるいは、水を人工の石の施設で楽しむというのが、当時の最高度の文明の洗練だったのかもしれない。これは、砂漠の周辺に発生した中東や西欧の発想ではないだろうか。

飛鳥資料館

かつての阿部山田道、山田寺跡のてまえを北にはいった川のほとりに、飛鳥資料館がある。石像遺物のレプリカがならべられている。

水を利用した石像遺物は、往時の機能を再現して、水を噴きだしている。水落・石神遺跡にあった迎賓館では、外国使節や蝦夷・隼人がもてなされたという。明治時代の鹿鳴館のごとく、これだけ文明開化したのだぞと、せいっぱいのデモンストレーションがおこなわれたのだろう。【地図15 飛鳥資料館】

 

噴水石像

奇妙な石像たち

レプリカとはいえ、亀石・二面石・猿石など、飛鳥の各地にちらばっていた奇妙な石像遺物が、庭に勢ぞろいしているのも興味をそそる。猿顔もあるし、鼻の高いインド人かペルシア人のような顔つきもある。くぼ目にちぢれた長髪もある(からす天狗、グリフィンという説もある)。人種の国際見本市か、外国使節や蝦夷・隼人などの来訪記念彫刻か。男性器をまるだししているのも多い。なかには、いじっているのではないかと疑われるものもある。

『姓氏録』によれば、まず欽明朝に、「伎楽調度一具(ぎがくちょうどひとそろい)」がつたわった。『日本書紀』によれば、推古朝には、百済から「面身皆斑白(顔も体も、まだらに白い」、またの名「芝耆麻呂(しきまろ)」がやってきて、「南庭に須弥山と呉橋を築いた」。白人だったのだろうか。これといっしょに、百済人・味摩之(みまし)が帰化して、中国の呉で学んだ伎楽を、少年たちに教えたという。

奇妙な石像たち

伎楽は、楽隊パレード、獅子舞いからはじまる。獅子舞いは、中国伝来というが、中国にライオンはいない。アケメネス・ペルシア由来ともいわれる。つぎに、「呉王、金剛、迦楼羅(かるら)、呉女、崑崙(くろん)、力士、波羅門(ばらもん)、大孤(たいこ)、酔胡(すいこ)という登場人物によって劇的展開をもつ演技がはじまる」(ウィキペディア)。中国人・インド人・ペルシア人など、この登場人物の顔ぶれこそが、飛鳥の猿石たちなのではないだろうか。

その演技は、「波羅門がフンドシをぬいで洗う」「酔胡(酒に酔った胡の王)が従者(酔胡従)にからむ」「崑崙は男性器を誇張したマラカタを扇でたたいて呉女にいいよる」らしい。

芝耆麻呂(またの名・路子工みちこのたくみ)がつくった池苑に、エッチでユーモラスな猿石がならび、味摩之が教えた伎楽が奏されて、饗宴がもりあがる。

飛鳥世界は、想像以上に国際的だったのではないだろうか。おそらく飛鳥では、いまの六本木のように、いつでもどこでも、外人にであえたことだろう。

飛鳥京

奈良盆地の東南のすみ、飛鳥川のほとりの狭小な河岸段丘のうえの土地。飛鳥とは、南の橘寺から北の小墾田宮跡までの、東西わずか700m、南北3kmの盆地をいうらしい。

ここに、推古朝の小墾田宮、舒明朝の飛鳥岡本宮、斉明(皇極)朝の後飛鳥岡本宮と飛鳥板蓋宮、天武・持統朝の飛鳥浄御原宮(あすかきよみがはらのみや)がいとなまれた。ちかごろは、これら重層する宮跡を、総称して飛鳥京跡とよんでいる。

継体天皇の530年ごろから、平城遷都の710年までの、ほぼ2世紀間にわたって、2〜3の例外をのぞいては、この飛鳥あるいは周辺から皇宮がはなれたことはない。飛鳥京には、当時の最先端の文明文化が集中していたのだ。

しかも、645年の乙巳の変で、蘇我家がほろぶころから、集中にドライブがかかる。おそらく蘇我家の所領・財産・利権・人脈のすべてが、いっきょに飛鳥にぶちこまれたのだろう。飛鳥バブルの半世紀がはじまる。とめどもない土木工事。はてしない外国かぶれ。

建ちならぶ宮殿、そびえたつ堂塔伽藍。わけのわからぬサンスクリットや呉音の読経。ききなれぬ管弦のさんざめく石と水の池苑。チーズを食べワインをのんで、ふしぎな味つけの異国風の料理をたのしむ、異国風の顔ぶれ。ただようのは、嗅ぎなれぬ体臭。いりまじる薫香。時を知らせる水時計のドラの音も聞こえてくる。

広場では蹴鞠に興じる大宮人。ときには、異国の顔もまじる散楽(サーカス)が、人びとの度肝をぬく。ラクダなどの奇妙な動物もやってくる。それを見ながら、くちびるやほほにベニバナの紅をさし、ベニバナで染めた紅い衣をひらめかせた飛鳥美女が嬌声をあげる。……

そのかげで、飛鳥の背後の山々の巨木は、すべて伐りたおされた。山は保水能力をうしない、洪水が頻発するようになる。飛鳥の東の山にきずかれた古墳は、すべて封土が流れてしまっているという。

せまい土地への、限界をこえた、急激な文明の注入。石できずかれた人工の山。狂心の渠。漏尅や噴水のために、流れをかえられた水路。土を掘りかえしてつくった池泉。そのまわりに立てられた石像たち。これらの人工の石と水は、自然の水の猛威のまえには、なすすべはない。石と水の文明のたどる運命を、飛鳥もたどった。

藤原京へ、やがて平城京へ、時代はうつる。

「明日香より藤原宮に遷居(うつ)りし後、志貴皇子(しきのみこ)の御作歌(みうた)」(『万葉集』巻1-51) が、甘樫丘の中腹にある石碑に刻まれている。

采女(うねめ)の袖吹きかえす明日香風
都を遠みいたづらに吹く

初冬の陽射しが長い影をおとしはじめた飛鳥に、ぼくたちも別れをつげる。

この日の万歩計、ぼくは20,511歩、カミさんは15,632歩。

     

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