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寧楽へ
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東大寺二月堂。若狭の神宮寺で「お水送り」がおこなわれ、二月堂の若狭井で「お水取り」がおこなわれる。 |
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はやめに法華寺についた。法華寺は、奈良盆地の北辺、佐保路と佐紀路のあいだにある。冷えた空気のなかで、寺はまだ身を固くしている。【地図16 法華寺】 法華寺の西には、広大な平城宮跡がひろがっている。その大極殿の東、藤原不比等の邸跡に、法華寺が建っている。 やがて、待つぼくたちの身を考えてくれてか、時間まえに本堂の扉がひらかれた。本堂の厨子のなかに、本尊の国宝・十一面観音像がある。
蓮の態様は、あまりに精緻で、解剖の臓器をならべたほどにリアルだ。そのなかで、仏ともおもえぬ女人のうつくしさが、夢のようにきわだつ。 蓮(ロータス)の花模様もまた、エジプト・ペルシアからシルクロードをたどり、どこかで仏教と合体したのだろう。 観音像は、藤原不比等の娘・安宿姫、聖武天皇の妃・光明皇后の生身の姿を、インドの仏師・問答師がうつしたとする伝説がある。じっさいは平安仏だというが、ぼくには伝説のほうがうれしい。 境内には、「浴室」と書かれた額のかかった建物がある。光明皇后が貴賎をとわず千人の人を唐風呂(からぶろ、蒸し風呂、サウナ)にいれてやったという。唐風呂もまた、起源はローマ風呂にまでさかのぼるのかもしれない。 法華寺は、法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)、もとは総国分尼寺だ。奈良時代にはいると、仏教は国家宗教となる。
東大寺にくると、はじめて修学旅行でおとずれたときの、小学6年の茫然がもどってくる。戦争にやぶれ、焼け野原になり、バラックが建ち、ものも食えない日本に、大仏殿がある、大仏がある。夢幻なのは、歴史のほうか、現実のほうか…。 玉砂利をふんで、正倉院にむかう。池をへだてた間口33mの高床式の校倉(あぜくら)は、カメラのフレームにおさまらない。ここで古代の日本が輸入した世界の宝物が、まもられてきた。
ついでに三月堂のまえ、二月堂の見えるあたりまで山道をのぼった。 毎年2月、二月堂では、お水取りがおこなわれる。日本海の若狭の神宮寺から送られた水が、100kmもはなれた二月堂の若狭井(わかさい)にわきでるのだという。 東大寺の開山は、若狭出身の良弁僧正(ろうべんそうじょう)。お水取りをはじめた実忠(じっちゅう)は、若狭の神宮寺に渡来したインド僧だったという。そして、大仏開眼法要の導師をつとめたのは、インド僧の菩提僊那(ぼだいせんな)。 ついでながら、若狭とは「朝鮮語ワカソ(往き来)がなまったもの」と、神宮寺の由緒書にある。 大仏殿は、もとは近江紫香楽宮(しがらきのみや)に建立されるはずだった、良弁は紫香楽宮遷都にもかかわった、ともいわれる。 近江・若狭・インド人。これはなにを意味するのだろうか。遠くは応神天皇にもむすびつく、日本海ルートの大陸との交流をおもわせる。 良弁は、相模出身ともされる。赤ん坊のとき、ワシにさらわれて、奈良にやってきたなどという、伝説をもつ。菩提僊那と実忠という2人のインド僧の関係も、よくわからない。明々白々の大仏をめぐる、この曖昧模糊はなんだろう。 若狭の日本海ルート、難波津の瀬戸内ルート。近江遷都、難波遷都。なにか複雑な裏事情があるのかもしれない。 正倉院展
東大寺をでて、奈良国立博物館へ。正倉院展を見る。きょうは日曜日、ものすごい混みようだ。カミさんとわかれて、もみくちゃになりながら、べつべつに好きなものを見る。 羊木臈纈屏風(ひつじきろうけちのびょうぶ)は、樹木にヒツジとサルを配したササン朝ペルシアふうのデザイン。退色した古色が、ゆかしい。ヒツジやヤギの毛でつくったフェルトの花氈(かせん)は、キャラバンのラクダの背にゆられて安息国あたりからきたのか。唐三彩のような色の細かい花模様が、大きな花模様を構成している。
いちばん人だかりがしているのが、墨絵弾弓(すみえのだんきゅう)だ。矢ではなく、玉をはじいて飛ばす遊具だそうだ。弓にほどこされた小さなイラストがおもしろい。まるで中国雑技団。散楽(さんがく)とよばれる軽業・曲芸・楽隊などが、軽妙な筆致でえがかれている。 現代人の群がりを見ていると、飛鳥のどこかでくりひろげられた散楽に、古代人が目をまるくしている姿が目にうかんでくる。 シルクロ−ドの東のはてだといわれる正倉院。世界各地からつたわった多彩な品々に、あらためて飛鳥から天平へのはげしい国際化が実感される。 日本のふるさと 展示のさいごになって、とつぜん日本の顔があらわれた。ぼんやり出雲国大税賑給歴名帳という古文書を見ていて、94歳、87歳などという高齢者がいることに気づいた。男寡などと書かれたのもある。古代の出雲の人たちの顔がうかんできた。 飛鳥は、日本のふるさとだという。大国主命をおもえば、出雲だって、日本のふるさとではないか。飛鳥に王朝をひらいたのが継体天皇だとすると、近江・越前も日本のふるさとだろう。 飛鳥に、この列島を代表する勢力の中心があったことはたしかだが、東北には蝦夷とよばれる、大和にまつろわぬ、独立した勢力がいくつもあった。801年に、坂上田村麻呂が蝦夷を平定したというが、はたしてどうか。 平安末期の前九年の役や後三年の役によっても、前首相の先祖の安倍氏などは滅亡したが、東北勢が壊滅したわけではない。そのあと、奥州藤原氏が栄華をほこる。 平泉には、寝殿づくりの宮殿や中尊寺の金色堂などが建ちならんでいた。シルクロードを逆にたどり、マルコ・ポーロがヨーロッパにつたえた黄金の国ジパングとは、じつは平泉のことだったという。つまり、はじめてヨーロッパにつたわった日本とは、奥州のことだったのだ。 奥州は、もともと日本にはいなかった馬の名産地となった。ベニバナをつかいこなす文化をもっていたとしても、ふしぎはない。奥州を攻めた坂上田村麻呂は、飛鳥の倭漢の子孫だ。坂上田村麻呂がひきいる渡来人が、馬やベニバナの知識をつたえとも考えられる。 奥州は、難波津とも若狭湾ともちがった、大陸との第3の交易ルートをもっていたともいわれる。 藤原三代のミイラが、ベニバナ処理をうけていたとしたら…。東北地方とくに山形県には、即身仏が多い。そのミイラ化に、ベニバナがつかわれていなかったかどうか。山形県では、ベニバナが特産であり、県の花になっている。栽培がさかんになったのは、江戸時代からだそうだ。即身仏が多くなるのは、江戸時代からだ。しかし、もしミイラとベニバナが、古代からつたわったものだったとしたら。 奈良のベニバナと東北のベニバナ。ベニバナはどこからきて、この列島でどんな道をたどったのだろうか。 3日間の歩きで、足が棒になった。ミュージアム・ショップでカミさんとであい、レストランににすわりこんだ。それでも足りなくて、そとにでて池のほとりに腰をおろした。 飛鳥の旅は実り多かったが、ベニバナと東北が頭をはなれなくなった。この秋にはたせなかった三内丸山遺跡の旅へのおもいがつのってきた。飛鳥の、もっとさきの日本のふるさとへ。縄文の世界へ。 家にたどりつき、万歩計を見ると、ぼくのは12,772歩、カミさんのは13,863歩を示していた。3日間の合計は、ぼく45,816歩、カミさん42,076歩。 |
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奈良「末摘花(ベニバナ)の道 紀行」 寧楽(なら)へ─おわり |
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