用語集

(類)恋

ちあきのうたうのはほとんどの場合恋の方です。例:「今日も恋のうたうたってる」(「喝采」より)ちあきの場合

個々の男や女が大切であって、その場合にはやはり恋となることが多いようです。より具体的なもの、それこそが

真実であり、普遍概念とは相容れないあるいはその概念からはみ出してしまう部分にこそ真実が宿るのだとする考

えがあるようです。

「それじゃあ生身の女は救われないんだよ!」と啖呵を切っているように私には聞こえます。

ちあきはうたうたびに違った曲の面に光を当てますが、そのそれぞれが真実であり、そこに感動があります。アル

バム「百花繚乱」の「百花繚乱」および「紅い花」においてはそうしたものすべてを包み込む愛の世界へと踏み込

んでいるちあきの姿を見ることが出来ます。

昨日1974年サンプラザの方を聴いたのですが、「ねえあんた」も愛の方でした。いやちあきは愛そのものと化して

います。真っ赤に燃える炎のようです。私はその炎に燃やし尽くされたような気がしました。一晩中その衝撃は続

いていまも心が震えています。

聴いている人すべてちがあきから愛されています。「こんなに愛されたことってあっただろうか?」とふと思いまし

た。私はあるとは自信をもって言えません。

男として最高に幸せではあるんですが同時にこの愛に応えられるだろうか?と思ったときに「できねえ」としか答

えられない自分がいました。それは私が男だからです。

「伝わりますか」でもちあきほどには私は愛することはできない、だからそれを重荷だと感じるに違いない私を知

っています。

この1974年中野サンプラザの方は、愛をストレートにぶつけてきます。後年の録音、「歌伝説」でのちあきはこち

らの反応を見る余裕があるようです。

これを聴いて何も感じない人とは以降一切のおつきあいをお断りいたします!

 

うた

(類)唄、歌

私が「うた」と標記する場合、多くは日本の歌謡(万葉集、梁塵秘抄、江戸時代の端唄、小唄)の伝統を継ぐ歌謡。

歌謡曲もこの伝統につながりますが、そのすべてを「うた」ということは出来ません。

ちあきのうたう「うた」は歌(又は唄)なのか「うた」なのか実は迷うことがたびたびで、私自身標記が混乱してい

ます。変換では歌と出ることが多いので、特に気にかけないときはそのままですが、「うた」と括弧付きで標記する

ときはこれはうたであるということを強く意識しています。

唄は端唄や小唄ですけれど演歌の場合に使うことが多いです。もちろん「紅とんぼ」や演歌美人三姉妹は「うた」

であって唄じゃありません。(笑)

テイチク時代のものはもう演歌なんかじゃないとはかねがね言っています。「うた」と標記します。

 

うたう

(類)歌う、唄う、歌唱

「うた」を心をこめて、芸術的に歌うこと。ちあきが「うたう」ということはありますが、他の人には使わないつも

りです。ちあきがうたうとそれは「うた」になります。

私自身、ちあきが歌うと標記することもありますが「うた」同様、迷います。これは「うたう」なんだろうか?それ

とも「歌う」なんだろうか?と。これからはちあきの場合全部「うたう」にしようかなあ。

 

うたうたい(類)歌手、うたいて、歌姫

うたをうたう人。ちあきとか美空ひばり、マリア・カラス、エディット・ピアフ、アマリア・ロドリゲス、ビリー・

ホリデーなど。外国の方もいらっしゃいますが、私が最高と認める人だけに限って「うたうたい」としたいと思って

います。

演歌美人三姉妹

「さだめ川」「酒場川」「矢切の渡し」の三曲の総称。1975年から76年にかけて発売。これによりちあきが演歌歌

手であると誤った認識(かなり多くの人がそう思っているようです)を持たれるきっかけにもなった記念碑的作品群。

後に「さだめ川」と「矢切の渡し」は再録音されました。「さだめ川」にはライブ録音(2コーラスのみ)もあります。

これらの三曲はまとめて聴くことが多いです。気になって再録音も含めてすべてを聴いてしまうことも多いです。

コロムビアでの録音は、ちあきがいかに演歌に接近しながら、自分との距離を保てるかというきわめてスリリングな

賭けを行っているかを聴くことができます。

長女(最も早い時期に発売されたから)の「さだめ川」ではその距離をかなり取っている感じがします。心がこもって

いながら臭くならないように曲を美しく彫啄していく姿にはいつ聴いても感動させられます。

旋律を美しく歌い上げていくということではちあきは大変な力がありますが、この「さだめ川」での美しさは格別だと思

います。品があって高貴な感じすらするんですよ。本当にこんな美しい人と「次の世までも」一緒にいられるのだろうか?

と不安になるくらいです。船村演歌としても抜群だと思うのですがいかがでしょう。

「酒場川」は次女。「さだめ川」ではある程度距離を保っていた感が強いのですが、こちらは意を決して演歌とギリギリ

の接近戦を試みている絶品を超えた神品だと思います。

ひとつひとつの言葉にシャープに反応していきながらそれを徹底させることによって演歌の世界を突き抜けてしまった

と私は感じています。「夜へ急ぐ人」までスグそこまで来ていると感じるのは間違っているでしょうか?

「矢切の渡し」はいろいろな人がカバーしていますが、某Hがレコード大賞をとりました。

私は「喝采」の他この末娘の母親がちあきであることを知ってCDを買って聴き始めたものですから、格別な思い入れ

があります。

それを逆手にとってアルバム「男の心情」で男歌として録音したちあきは毒があるというか「役者」というか。

私にはちあきが可愛くてなりません。

お姿

ちあきの写真および映像のこと。

楷書(対)草書

私が楷書でうたっていると言う場合、楽譜どおりにうたっているというより演歌独特のドラマ構成に従って「それら

しく」うたっているということを指します。

コロムビア時代は楷書でうたっていたと思っています。それがシャンソンやファドをうたっていた時代の後、草書に

移行していったと思っています。「約束事」より歌詞にそして音楽に対して忠実であろうとしたためだと思います。

ですのでアルバム「紅とんぼ」は演歌じゃないと思っています。「船村演歌をうたう」なんて書いてありますが。

もちろん楷書であってもちあきの演歌からは臭みが感じられません。ですから若い人にもドンドン聴いてもらいたい

です。ちあきは演歌的なうたいかたを中島みゆきさんの「ルージュ」にまで持ち込んでしまうほど、実は演歌的うた

いかたが身についてしまった人です。

小節(こぶし)が付いてしまいますよね。

しかし感覚は意外なほど新しい。今聴いても古さを感じさせません。楷書で書いていながらお手本?とは別の世界

を築いてしまったとしか言い様がありません。

奇跡のコンサート(類)なし

1974年中野サンプラザで行われたリサイタルのこと。「ねえ、あんた」を初めて披露。文字どおり「奇跡」としか

言い様のないパフォーマンスを聴かせる。(「愛」の項目を参照のこと)

フィナーレは「激情〜バラード〜喝采」。この模様を収録したCDはファンの間で国宝扱いされている。(普通に買

えるのですが)その他の曲も絶品の上の神品揃い。まさに奇跡のコンサート記録。

激情(類)劇場

ちあきの14番目にリリースしたシングル盤のタイトル(A面)。詳しくはライナーノートをお読みいただきたいが、

出たときは「喝采」の陰に隠れてしまってなかなか真価が認識されなかった曲。

何かが始まりそうだと感じさせる序奏ですが、あまり劇的でない音楽に変わってしまってちょっとガッカリ。サビの

部分も「喝采」で感激した耳で聴くと、う〜んどうかなあと思ってしまう。以上シングル盤での印象。

ところが1974年中野サンプラザの実況録音盤では「劇場〜バラード〜喝采」という構成でうたわれていて、その中

でも感動的なのがこの「劇場」。

一番ではこの後にくる劇的なうたいかたを試みては声の状態がまだだと思ったのか途中でやめている場面も聞こえて

きます。それが「スター目指した人の涙が床に…」からはついに感情が爆発してしまいます。

歌のヒロインはちあき自身と完全に一体となり、冷静なはずのちあきが感情も露わに、かつてのドサ回り時代を振り返

りながら、今やついにその憧れのステージへ立っているという幸せを熱唱します。「劇場をーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」

この歌唱を聴いてこれは「喝采」と同じくらい素晴らしい曲だとわかりました。

「ねえ、あんた」ではちあき自身燃え尽きました。「激情」ではこちらに向かって感謝と決意をうたうためにふた

たび立ち上がるのです。

「きっと開ける私の名前」のところでは声が震えてしまっています。「ねえ、あんた」ではちあきを世界一愛して

いる女だと感じましたが、この「激情」ではちあきが好きである自分の幸せをつま先から背筋を通って脳天まで

、痺れるような衝撃とともに感じました。

いや〜今書いていても涙が出てきてしまいます。それ以来「劇場」は「激情」と標記することにしました。

こうやってこそ劇的な序奏も生きてくるはずです。本当に何かが起こるのですから。

恋(類)愛

デビュー以来ちあきがずっとうたってきたテーマ。普遍的な愛よりも個々人の具体的な(もちろんフィクション

ではありますが)恋の方に比重を置いて歌手生活を送ってきたと思います。

恋する女の身いや本人そのものになってうたってきたと思います。その場合やはり歌詞にある具体的な女の方が

演じやすかったようです。私よく言うんですが、みんな愛しているってことは誰も愛していないことではないで

しょうか。

その中でも特別な人に寄せる気持ち、それが恋でしょう。では聴く人をどうしてこんなに心揺さぶるのでしょう

か。それはその人になりきること、これは当然のこととしてどこかにクールな眼差しがあるからではないでしょ

うか。

ちあきの場合、演じている自分を第三者的な眼で見ているもう一人のちあきがいると思います。演じている人に

なりきってそこで終わってしまうようなある意味甘いところのある人ではない。

客観的に見てそこに真実があるかどうか常に監視している視線があると思います。このままこの議論を推し進め

ると難しい議論につながってしまいますのでこれ以上は論じませんが、突然ゲラゲラ笑い出すような人はこうし

た冷静な目が生まれつき備わっていて、自分のしていたことも突然おかしく思えてくるような理性といいますか、

透明な知的視線があると私は思っています。

デビュー当時の「ちあきなおみはこんな女」というのを見て、一番衝撃を受けたのは突然笑い出すということでし

た。ひょっとして恐ろしい人なのかも知れないと感じたのです。そして次々と曲を聴いていってちあきの凄さの正

体はここににあるんじゃないかという確信のようなものがますますふくらんでいきました。

ちあきのうたは、その全てが自らの透明な知的視線と情念のパワーとのギリギリのバランスに賭けたものと言って

良いでしょう。私たちはその恋の描き方の素晴らしさに打たれるばかりです。

 

酒(類)アルコール

ちあきはお酒の方はあまりいける口ではないようですが、若い時にはつきあいも結構やっていたみたいです。それも

楽しい酒だったそうです。

とにかく笑い声はガハハ!とかなり大声?だったとか。色っぽい人ですからウフフとやればクラクラとくると思うん

ですが。

私の読んだ本の中で、ちょっと面白いことが書いてありました。その笑い方は声音などをいろいろと変えていたという

んです。いろいろな声が出せるように、いろいろな表現が出来るように、スタッフと寛いでいるはずの時でも芸の稽古

をしていたのでしょうか?

空恐ろしくなるような人だと思いました。たぶん、ちあきは想像以上に天才なのだと思います。

ちあきには酒に関するうたが多いです。「酒場川」とか「誘い水」とか。本人はほとんど飲まない人なのに、聴いてい

てその情景が思い浮かんでしまう。

これは芸の力なのでしょうけれど、私が映画監督なら着物姿で泥のように酔ったちあきを撮ってみたいです。

♪死ぬよりつらい裏切りを」とか

♪溶けた目張りのしみの跡」とかちょっとうたってもらって。(笑)

酒もいろいろな種類あります。

♪お湯わりの焼酎飲んではむせてます「冬隣」

♪琥珀のグラスに浮かんで消える虹色の夢「紅い花」

酒場側は、玉置宏さんではないですがコップ酒でしょうか?(笑)

私は「今日は冬隣でいくか」とか「やっぱり最後は紅い花だな」とか日常で使うようになりました。