待望のゲルツェン回想記
『過去と思索』全巻が公刊!ロシア社会主義の源流として知られる19世紀ロシアの革命思想家のほぼ半世紀におよぶみずからの生涯の回想記であるが、たんなる私的回顧録とはちがい、ロシアとヨーロッパの社会変革の思想と運動にかんするいうなれば現場証人の記録でもある。
この回想記は故金子幸彦先生が戦後まもない1950年代に世界古典文庫の一部としてまず世に送ったものであるが、当時は全部で8部からなる分量のうち3分の1ほどしか刊行されなかった。
その後、15年ほどを経てその続きの部分がそれまでの分とあわせて筑摩書房の『世界文学大系』の一部として刊行された(『過去と思索』1966年)。1950-1960年代にかけて金子先生のゼミナール(一橋大学大学院)に在籍していた私も、当時、ゲルツェン研究にかかわっておられた外川継男氏(現上智大学教授)とともに先生のこの訳業のお手伝いをさせていただいた。先生はその「付記」にこう記された。「ゲルツェンの難解な文章、すくなくとも日本語に移すことのいちじるしく困難な文章の訳出に日夜努力された両氏に感謝する・・・」
遠い昔のことであるが、たしかにずいぶん苦労したおぼえがある。しかし、私どもの、充分とはいえないお手伝いで、ともかくこの書物が第6部まで日本で日の眼を見ることがきることになったわけである。そのような重要な訳業に若年の私をも起用していただいたことはまことにありがたく、また誇らしいことであった。
その金子先生も数年まえに逝去された。『過去と思索』完訳を念じていながら、ついに生前に果たし得なかったことは先生にとってさぞ無念であったことと思われる。
私と外川さんがお手伝いして続刊が出てから30年が過ぎた今年、ついに幻の続編が世に出ることになった。金子先生の衣鉢をついで長らくゲルツェン研究に専念してきた先生の直系の弟子である長縄光男氏(横浜国立大学教授)の手で、最後に残った第7、8部の新たな訳出が完了し、かつて前半部分を世に送った同じ筑摩書房からあらためて全巻が刊行される運びとなった。
全3巻からなり、第1巻はこのほど刊行された。未完の最後の分まで含めて、年内にすべて刊行されるとのことである。
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長縄氏はこの機会に既刊部分にも手を入れ、不備を補正されたとのことである。訳業は氏単独のものである。私ももちろんおぼえがあるが、ゲルツェンの、文章そのものは決して難解とはいえないが、あまりに含蓄に富み、かつ全編アフォリズムと言っていいほどの簡潔な凝った文章はたしかに日本語には移しにくい。それをひとりでやりとげることはさぞたいへんだったと思う。達意の文章をものする氏のこと、きっと金子先生の訳業とはまたひと味ちがった訳文が期待できそうで楽しみである。
スターリン型社会主義が崩壊し、社会の未来像が見えなくなっている現代に、ロシア社会主義の源流にたちかえって100年まえの思想家の未来模索を追体験することは決して無駄ではないであろう。
おそらく採算を度外視して翻訳と出版にとりくまれたであろう訳者と版元に敬意と拍手を送りたい。心ある読者の努力で本書が普及されることを願わずにいられない。(1998.10.07)