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お知らせ(2002年2月9日) アイルランドの某地方都市で就職されたCさんより、体験記の投稿を頂いたので掲載しました。アイルランドで就職されようとする方には、最新の情報として活用していただけるのではないかと思います。投稿はまさにボランティアでして頂いたもので、その内容については当ページ管理人およびCさんにおいて責任を負いませんのでご了承ください。Cさんの投稿体験記はこちらへ |
始まり…
1998年暮れ、3ヶ月のケンブリッジコース(英語試験)を終えたおいら、正月は、フランスのアルプスでスキー、それからスウェーデンの友人宅にしばらく居候したりして過ごす。で、思った…「このまま日本に帰るのはもったいない、ダブリンで仕事探しでもしてみるか」信じていただけるかまったく謎だが、おいらはそう思っただけで、ダブリンに舞い戻ることを決めた。「就職を見つけるのは難しい」と聞いてはいたが、どのくらい難しいかなどはそのときまったく予想もしていなかった。電話で暮れまでお世話になっていたダブリンのホストファミリーに電話して、1−2週間泊めてもらうことをお願いする。それが始まり。つまり、何も考えていなかった。
1日目 1999年1月20日 (水曜日)
スウェーデンを出て、コペンハーゲンより空路ダブリンへ。ダブリンに着いたのは、夜。いきなりイミグレーション(入国審査)でトラブル発生。ご存知の方も多いだろうが、イギリスのイミグレーションはなかなか厳しい。何をするのか、金はあるのか、帰りの航空券はあるのかなどなど根掘り葉掘り聞いてくる。これはアイルランドも同じなのだ。
実はおいらのパスポート、去年の暮れに紛失のためダブリンの日本大使館で 再発行を受けたものだったのだ。これはなにやら非常によくないらしい。確かに、穿った見方を知れば、今までアイルランド(あるいはそれ以外の国)で不法就労をしていて、その事実を隠すためにわざとパスポートを無くした、という見方もできる。んで、「穿った見方」をするのが入国審査官のお仕事とも言えるわけでして…。
案の定いろいろ聞かれました。
審査官:「どれくらい滞在するのですか」
自分:「1ヶ月くらい」
審査官:「お金をどれくらい持ってるか見せて…」
自分:「カードしか持ってません(ポケットには1ポンド(130円)しかなかった)」
審査官:「アイルランド人の彼女はいるのか?」
自分:「いません」(そんなに趣味は悪くありませんと言いたかったのだが…。)
この質問(彼女がいるかどうか)、かなりしつこく何度も聞かれました。いるとプラスポイントになるのか、はたまたマイナスポイントになるのかいまだにわかりません。どなたかそっと教えてください。
審査官:「パスポート新しいねー」
自分:「はあ、数ヶ月いまして、つい最近バスの中に置き忘れてきました(←事実だから情けない)」
審査官:「グリーンブックは持ってる?」
自分:「(うげえ)預けたかばんの中です」
グリーンブックというのは、日本でいう「外国人登録証」アイルランドに3ヶ月以上滞在するEU国籍など一部を除く外国人は、最寄の警察署に言って外人登録を済まし、これを持ってなきゃいけない。思慮という言葉の意味を知らないおいらはこれをご丁寧に、バックパックの中に入れたまんま預けてしまった。
審査官:「どこに滞在するの」
自分:「しばらくお世話になってたアイリッシュファミリーです。住所は………です」
ここまでですでに20分以上経過。ここで、審査官氏、事務所の中へ消える。数分後、
審査官:「もう一回聞くけどどれくらいいるの?」
自分:「一ヶ月くらいです」
審査官:「君はウソをついていないかね?」
自分:「いいえ」
大うそつきである。確かに。ただし、おいら、自分でもこれから自分がどうなるかなど知らなかった。というか、考えてなかった。
審査官:「君は今日コペンハーゲンからのフライトだね」
自分:「はい」
審査官:「君、コペンハーゲンに送り返すわ」
この言葉、はい、永遠に忘れません。英語で、"I'll send you back to Copenhagen"と本当に言われたのです。そう、強制送還を宣告されたのです。海外に出る日本人多しと言えども、強制送還を宣告された最バカはそんなにいないと思います。
自分:「へ?」
審査官:「いま、XXさん(ホストファミリー)の奥さんに電話をしたんだよ。そしたら、君は彼女に、数週間そこに滞在して、それからアパートを探すといったそうじゃないか」
このときの自分、パニクってたように思われるかもしれませんが、信じられないくらい落ち着いていました。自分とこの入国審査官との会話をまるで映画でも見ているような感じで第三者的な目で見てました。それゆえ、次のような、すばらしい屁理屈が機関銃のように飛び出してきたのです。まあ、大筋本当とも言えなくもないけど。
自分:「実はですね、1−2週間すればおいらの友人のスウェーデン人がダブリンに戻ってくるのです。で、彼らがアパートを借りるそうなので間借させてもらおうかと」
審査官:「その人の住所と名前は?」
自分:「だ・か・ら。まだ来てないの、ダブリンに。クリスマス休暇でスウェーデンに行ったきりなの。ね、そこにしばらくお世話になればホストファミリーと違ってお金もかからないし、気兼ねもしないし」
審査官:「・・・(おいらの大演説に聞き入ってる)」
自分:「それにね、おいらの両親はおいらがここにいること反対だし、父は事業をやってていずれ継がねばならないし…」
苦節40分。わけのわからん父の事業までべらべら話しおいらはようやく強制送還を免れ、たった1ヶ月のビザ(普通は3ヶ月)をもらい、空港から退散したのでした。ちなみにここの会話はまさにダイジェスト。いろんなことを話しました。
ホストファミリーのおばさんは目を丸くして、 「もうこないと思ったわ」
「あんたのせいだよ」と言わなかったおいらはまあ、大人だったと言っていいでしょう。
2日目 1999年1月21日 (木曜日)
9時起床。2週間でこの家からは追い出されるし、何より1ヶ月でビザは切れるし、と言うわけで、疲れをものともせず精力的に動き回る。
今考えたらかなり勇気ある行動なんだけど、この日は、 「どうやったら合法的に仕事が得れるか」を調べるため、司法省、労働省、そして警察の出入国管理部(外国人登録等の一切の事務はここがやる)をはしご。たらいまわしにされるのはどこの国のお役所も同じようだが、それでも重要な情報はきちんと教えてもらう。
(1)就労許可証は被雇用者(自分)ではなく雇用者(会社)が申請する。つまり、この国では、まず仕事を見つけて、それからビザを申請することになる。
(2)ビザの申請から発給までは1−2ヶ月。手数料は1年のビザで125ポンド。
あなたじゃないとできない仕事(=アイルランド人ができない仕事)じゃないとビザは下りない。
(3)景気がいいとはいえ失業率は決して低くはないので仕事を得るのは非常に難しい。
おいらじゃないとできない仕事…。これつまり、日本語を使ったお仕事と言うわけで。単純な世界に住むおいら、日本語を使った仕事=通訳という超短絡思考で、自分にできるかどうかと言うことを考えず通訳になることとする。こうやってかいてて改めて気が付いたけど、おいらって最バカだわ。
ともあれその後、FAS(アイルランド版職安)へ。ここは門前払い。そりゃそうだ。アイルランド人の失業者のためにあるお役所なんだから、おいらを雇うはずはない。おいらが仕事に就いたって、失業率は上がりこそすれ下がらない。
それから、暮れに作ったCV(履歴書)をコピーし、12月まで在籍していた英語学校のとなりにあった、リクルートエージェンシー(人材紹介会社)へ。こんなことを言われる。 「ゴールデンページ(ご賢察のとおり、日本で言うイエローページ)でエージェンシーを探すなら、人材派遣”employment” じゃなく通訳“translator”の項目を見なきゃだめよ」ごもっともなご指摘。
リクルートエージェンシー、こっちで仕事を見つけるときお世話になる会社。ここ、仕事を探す求職者と労働者を探す雇用者の掛け橋のような会社。費用は雇用者負担。決して安くない。
根が素直なおいら(??)そのまま郵便局へ行き(公衆電話がある)ゴールデンページで目に付いた通訳派遣会社に片っ端から電話。まさに向こう見ず。
のち、Boots(こぎれいでちょっと高いマツキヨと言った感じ)で生活必需品を買って帰ってくる。つかれたー。
3日目 1999年1月22日 (金曜日)
8時過ぎ起きる。Dun Laoghaire(ダンリアリー=市内から南へ電車で約20分、イギリス行きのフェリ−が頻繁に出る港町)の通訳業のエージェンシーへCVを撒きに行く。迷ってたどり着いた挙句に言われた言葉、「日本人?予定はありません」これで午前中は潰れる。
昨日と同じコ−ヒーショップで昼食の後、市内の数社の通訳業のエージェンシーへ。で、USIT(学生旅行社)の2階のインターネットカフェにメールをチェックに行く。いつ引っ越すかわからない状況下、どこでもチェックできるEメールはまさに必需品。
4日目 1999年1月23日 (土曜日)
土日は仕事探しができない。と言うわけで、このころお世話になっていた美容室でゲイ(と思われる)美容師に髪を切ってもらい、Bray(市内から南へ電車で30分、海沿いのきれいな町、おすすめ)まで行き海と映画を見る(どういう取り合わせなんだか…)ちなみに見た映画は、ディズニーの子供向け映画、"The Parents' trap"子供に囲まれて一人で笑う日本人はある意味異様だったかも。
5日目 1999年1月24日 (日曜日)
今度は市内から北へ30キロほど行ったBalbriggan村のArdgillan城へ。ここ、ガイドブックにも載ってないけど、きれいなバラ園もあったりして、ちょっとした穴場的お勧め場所。アイルランド名物シャワーにあって濡れたがまあいい日だった。
この日の日記にある一言 「ライトの壊れた車で闇夜を突っ走る感じ」陳腐な表現ながら、でもそのとおり感じていたんだと思う。
6日目 1999年1月25日 (月曜日)
さあ、2週目。朝、市内の別のエージェンシーへ。ドイツ人のお姉さん、やさしく接してくれるが、今のところ特に何もないとのこと。募集枠は突然出るからねーと。ならばそのときは絶対連絡をくださいといつも通りのことを言い退散。
そして、Ballsbridge(ダブリンでも1−2の高級住宅地、んなとこに居を構えおって!)にある、日本国大使館なる場所に期待をしないながらも行く。大体今まで大使館で親切にしてもらったことがない。なんかのときに、自ら 「お役所ですから(そういうことはできません)」といわれ唖然としたこともある。ま、仕事を探すと言うことは、今流行りの自己責任という言葉が重くのしかかるんだろうな。案の定、けんもほろろに追い返される。
市内に戻り、お世話になっていた英語学校のダイレクターと会う。有益な情報、ドイツ系の某航空会社がダブリンにコールセンターを持っており、日本人が数人働いているとのこと。行かねば。
学校で昔のクラスメイトに会い、そのままパブへ。さすがはパブ文化のアイルランド(言い訳)。
7日目 1999年1月26日 (火曜日)
まずUSIT(学生旅行社)でスピード写真をとり、ここにもCV(履歴書)を出す。そして、コンピュータ系のお仕事をしているジャパンバイト(ここはお世話になり心から感謝しているので、実名を出させていただきます)という会社へ。担当の日本人の方に親身に相談になっていただく。ここでの募集は短期以外ない(=就労許可証が申請できない)ということで、ちょっと残念だったが、おいしい日本茶をいただき(ありがとうございました)、日本の某電話会社の現地法人が日本人を数人採用していると言う情報をゲット。
その足で、日本大使館の少し先にある某電話会社へ。ほとんどロールプレイングゲームのノリ。新しい情報を得たらそこへとりあえず足を運ぶ。ここでは日本人のおじさんが出てくるも、ハナにもかけないと言ったご様子。世間は厳しい。
そんなことでは諦めない。市内から北へ1駅行ったところにある新しい数千人が働くビジネスパークになる某ドイツ系航空会社へ。このビジネスパーク、最近港湾付近の空き地同然の場所を開発したらしく、良きにつけ悪しきにつけアイルランドらしくない場所。こんな場所で仕事ができたらかっこいいなーと思う。ここは、守衛さんにCV(履歴書)を渡したのみ。人事部の担当者には会えなかった。
まったく後日談なのだが、この航空会社には日本人が5人ほど働いていたのだが、日本部門が翌2000年2月に突然閉鎖され、この5人は解雇(次の仕事の世話はしてくれたらしいが…)。他方おいらは、同じビジネスパークで解雇された5人を横目にのうのうと働くことになる。人生何がどうなるか全くわからない。
そして電車で、Dun Laoghairの手前のBlackrockへ。ここで、デーモン小暮が昔コマーシャルしてた外国語学校の関連会社と思われる会社に通訳としてCV(履歴書)をおいてくる。 「通訳未経験ですかあ」いてっ、としか言いようがない。
さらに、市内の大手リクルートエージェンシーへ。ほぼ玄関払い。CV(履歴書)は置いては来たけどきっとごみ箱直行だったんだろうなと思う。
8日目 1999年1月27日 (水曜日)
飛ばしすぎて打つ手が早くもなくなった感じ。通訳業の会社をゴールデンページを頼りに訪ねるも、個人経営のようなこじんまりとしたとこばかり。無駄足、なのだろうが何かが起こると信じたい。
久しぶりに英語学校の友人のスウェーデン人の女の子、M&Mと会う。(両方マリアと言う名前なのでそうなった。安易)2LDKのアパートを800ポンドで借りたとのこと。高すぎるわい。ダブリンの地価。
9日目 1999年1月28日 (木曜日)
まずは落ち込む情報。USIT(学生旅行社)から手紙。 「あなたに適した仕事はありません」はいそうですか。
市内で通訳業の会社を2社捜すが見つからず。あまりに小さくて見つからないか、小さすぎて潰れたかのどちらかだろう。
清水の舞台から落ちたつもりで、市内の高級紳士服店でスーツを買う。手痛い出費だったが、この出費が呼び水となってほしい。
10日目 1999年1月29日 (金曜日)
英語学校の例のダイレクターから聞き出した情報を元に某所で 「在アイルランド日本企業リスト」をもらう。気後れしそうな大企業の名前がズラリ。しかもコンピュータ関連企業ばかり。このころのおいら、コンピュータなど電源を入れるのが精一杯という状態だったから、この企業へ飛び込んでゆく自信はなかった。
2日目にも行った労働省へ。実は前回ここでしっかりした話は聞けなかったが、今回は担当者と膝を詰めて話をすることに成功。結論的には、 「仕事を見つけるなんてまあ無理だよ」と言われた。んなことわかっとるわい。
11日目 1999年1月30日 (土曜日)
単なる時間つぶしの日。日雇いのバイトもできないのもつらい。最もできなくはないのだが、どうしても違法なことはしたくなかったのだ。さんざんあちこちで脅されてたこともあったので。一日2万円稼いでた日本での日々が懐かしい。
12日目 1999年1月31日 (日曜日)
日曜日だから何もすることがなかっただろうとお思いの向きもあろうが、実は忙しかったのだ。と言うのも、RDS(Ballsbridgeにある晴海の見本市会場のようなとこ)で年に1回のFAS(職安)主催、"Opportunities '99"という催しがこの日から開催だったのだ。
この催し、アイルランドの大型企業やリクルートエージェンシーが一同に会し、新たなる人材を見つけようと言う企画。3日間で、10万人以上の人が訪れるというから、アイルランドの人口規模から考えるといかにこれが大きなイベントかおわかりいただけると思う。実際、会場は仕事探しを真剣にしている人や考えはじめてる人、単に物見に来た人などであふれ、不思議な熱気に包まれていた。
この催しの大きなメリットはアポなしで大企業の人事担当者に会えること。そして、数歩歩くだけで、次の会社の人事担当者と会えること。仕事探しをしているものにとって、これほどありがたいイベントは他にない。
いろいろな会社の担当者に会ったり、有意義なセミナーに参加するなどして過ごす。
13日目 1999年2月1日 (月曜日)
今日もRDSの"Opportunities '99"へ。CV(履歴書)をまさにじゅうたん爆撃。午後は、例の英語学校のコンピュータを1台占領して、ダブリン空港の免税店の店員への求職の手紙を書く。実は店員と言うのはおいらが大学のときにずっとやってきた仕事で、ある意味で天職といえるのだ。
この日の日記: 「おいらが人事担当者なら(この手紙を見るなり)即採用」手元にコピーはもはや残っていないが、よほど自信のある手紙だったに違いない。さらにCV(履歴書)にいくつかの改変を加え、30枚ほどコピーする。この頃から、 「(現状を)楽しもう」と言う言葉をよく日記に見かける。逆説的に多分辛かったのだと思う。
14日目 1999年2月2日 (火曜日)
警察の出入国管理部へ行きビザを延長する。残念ながら、ここではどうやってビザを延長したかお教えすることはできません。(ごみんなさい)いばれた話じゃないが、ダブリンで現地で仕事を見つけた日本人のそのすべては、多分何らかの法に触れる行為をしていると思う。そんな理屈じゃ自己正当化は到底できないけど…。
法に触れたことをした勢いで、不法就労をすべく近所の某ホテルへ面接へ。結果は後日とのこと。 (その後なしのつぶて=不採用)
夜はM&Mと市内のパブへ。
15日目 1999年2月3日 (水曜日)
「あー、やっぱりだめなのかなー、と少し弱気になる」(日記)
USIT(学生旅行社)のインターネットで仕事探しをするが、ネット上をポイントを衝かずに検索したので、情報の洪水の前にあえなくダウン。結局何をしたんだかわからないまま一日は過ぎた。
16日目 1999年2月4日 (木曜日)
仕事探しをサボって映画を見る。"Two girls and a guy" 登場人物わずかに5人(うち二人は脇役)。場面はアパートの中と外のみ。時間はリアルタイムで流れる。考えてみれば劇場向きの内容。
17日目 1999年2月5日 (金曜日)
仕事探しはお休み。ちなみに仕事探しが停滞しているのは、最初に飛ばしすぎてネタ切れになり、今返事を待っているという状況もあるが、実は、アパート探しを始めたのだ。詳しくは、別ページをごらん頂くとしてここではあまり述べないが、まあ、このバブル真っ只中のダブリンでおいらが払える範囲でアパートを探すと言うことは実に難儀なことでして…。
18日目 1999年2月6日 (土曜日)
今日は郊外の映画館で"Stepmum"(ジュリアロバーツ主演)を見る。
19日目 1999年2月7日 (日曜日)
寒かったが快晴。郊外をかなりの距離歩いて過ごす。平日も歩き回ってるのに酔狂なやつだ。
20日目 1999年2月8日 (月曜日)
小雪が舞うほど寒く、一日中冷たい雨が降り続く最悪な天気。そんな中スウェーデン人二人とアパート探し。天気のせいだと思うが、最近ものすごく落ち込んでいる。この頃の自分の人に会うたび触れ回っていたキャッチフレーズは
No job
No money
No girlfriend
後から見るとすごく自虐的だったのだろうなと思う。語学学校にいた頃はアイルランドを愛していると言ってもいいほどだったが、こうやっていつ報われるとも知れない仕事探し、うそつきの大家どもと付き合っているうち、だんだん自分が人間不信になっていった頃なのだろうと思う。この人間不信はアイルランド人に向けられ、この頃からアイルランドが嫌いになっていった、そんな気がする。
かといって、日本に帰ろうということは考えなかった。海外で仕事を見つけると言うことはロトに当たるくらいのはかないものとはいえ、子供の頃からおぼろげに描いていた夢だった。その夢を叶える最初でおそらく最後のチャンスをそんなにすぐに投げたくはなかった。要するに、負けたくなかったのだ。確かに段取りも何も取らずに来たけれども、このまま引き下がるのは、アイルランド人に馬鹿にされるようですごく嫌だった。
21日目 1999年2月9日 (火曜日)
スウェーデンに来たかと見まがうような寒さ。そんな中アパート探し。ふと、 「もしかしたらロンドンにも仕事探しに行かなきゃだめかな」と思う。
22日目 1999年2月10日 (水曜日)
それは突然に来た。今日着いた手紙。また、 「今のところ仕事はありません」と言う内容かと思いきや、 「来週の月曜日の朝9時30分にインタビューをしますので来てください」やりい、2週間前に買ったスーツの効果がボディブローのように効いてきたか?
落ち着いて手紙を読んでみた。この会社、ダブリン市内(に限らずヨーロッパのあちこちの都市)を15分おきには知る観光バス会社。2階に屋根のない2階建てバスに乗って、マイクをもってひたすら話しつづけるガイドの仕事。確か2週間くらい前新聞の3行広告で募集があり、すぐに応募したのだった。自分の天職は人と触れ合う仕事と信じて疑わないから(今はそれからえらくかけ離れた仕事をしているが…)、これはまさにおいらにとってうってつけの仕事と思う。
半面問題はあった。パートタイムのお仕事だったのだ。とすると、ビザの問題などで結局だめだろう。だからと言って、せっかくお招きいただいた席に行かないという話はない。アイルランド、海外初の面接なのだ。
何かが変わる、そんな気がした。そう願わずにはいれなかった。
23日目 1999年2月11日 (木曜日)
やはり何かが変わったか、苦労したアパート探しもついに報われた。Eastwallという中心に程近いエリア。実はとんでもないエリアなのだがその話は別のページ(ダブリン家がない!)で。
24日目 1999年2月12日 (金曜日)
EastwallのChurch Squareにお引越し。スウェーデン人二人との生活が始まる。引越しで結局一日潰れてしまった。
25日目 1999年2月13日 (土曜日)
引っ越したが何もない、貧乏なおいらは、Coolockという郊外にあった、中古品のジャンク屋へ行くが、なんと店自体がペットショップになってしまっていた。自分を養う余裕もないのに、ペットなんか飼えるかい。そして、偶然発見した、リブタイラーのポスターを買って帰る。別に彼女のファンではないが、彼女が主演した”Stealing Beauty”(邦題:魅せられて)という映画がすごくよかったのだ(おヒマな方はビデオ屋へ)。で、このポスターもその映画のカットから。蛇足ながら今もその映画のサントラを聴きながらこれを書いていたりする。
スウェーデン人二人にパンケーキを作らせるが、なぜかもんじゃ焼き状態。悲惨な夕食だったが楽しく過ごす。
26日目 1999年2月14日 (日曜日)
別のスゥエーデン人、M&Mの家で遊ぶ。何でこんなにスゥエーデン人ばかりと付き合っているのかというと、英語学校のクラスメートのその多くがスウェーデン人だったのだ。で、いっしょにケンブリッチという資格試験を受けたこともあり、彼らはある意味で「同士」だったわけ。
そういえば今日はバレンタインデー。こっちではチョコレートという習慣は当然ながら、ない。カップル同士が仲良くすごすという。なくなっちまえ。