+ もの申す! opinion
このページは、よく耳にする言葉や外部には聞こえてこない出来事をキーとして、「ヨソ者」の視点から、これまで言いたかったことを独断に基づき書いた雑感です。ここに書かれていることはそのまま鵜呑みにせず、一ヨソ者の意見として参考程度にお読み下さい。
<五木村役場関係者の皆さまへ>
ただ文句を言いたいのではなく、建設的提言をしたい気持ちから書いたもので、他意はありません。どうか気を悪くせず、また次に役場へ行った時もぜひいろいろお話を聞かせて下さいね。
なお、便宜上この文章では、川辺川ダム計画によって水没予定地となった場所に暮らす人びとのことを「水没者」と書いていますが、実際にはあくまで水没「予定」地に暮らす人であって、このままダムが進めば水没地になる、というだけのことです。同様の立場から、新聞などで五木村を「ダムで沈む村」と書かれるとちょっとムカつきます。新聞記者さん、よろしくご配慮願います。主張ある報道をして下さい。
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公共施設の移転
/ ダム関連工事と行政圧迫
「苦渋の選択」 / 「五木が反対していた頃、下流は反対しなかった」
「もうすぐダムに沈む村」 / 「故郷を金で売った」 / 代替地計画
「水没地ばかりが良くなって・・・」 / 歴史資料館のない村
+ 公共施設の移転
頭地代替地の完成は2001(平成13)年。予定よりはるかに遅れての完成だった。
代替地移転予定者は当初の半分以下になり、90世帯も割ることとなった。2002年4月には、村役場と保健福祉センターが移転し、代替地での業務を開始した。当時周辺は空き地で、民家等の移転は2003年度中までの3年間をめどにということになっていた。だから、ダムサイトの漁業権や南部地区金川の共有地が強制収用手続きに入っても、頭地地区だけは保留されたのだ。
村役場庁舎の建設費は12億円。しかし移転補償金は9億円だったとも聞いたが、それは本当なのだろうか?光熱費が高く、旧庁舎の1年間の光熱費が、新庁舎の1ヶ月間の光熱費という噂もまことしやかに流れる始末。ダムによるバブル景気状態になっている五木村だが、「ダムができてもできなくても村の将来は大変」と言われるのには、過疎化・高齢化・土建依存かつ林産業の衰退という産業基盤の脆弱さに加えて、ダムによって新調した村施設の維持管理費の高さもあるらしい。
それにしても、代替地への移転が始まった時、村役場はいの一番に「上」(代替地)へ上がった。役場に続けということだったらしいが、おかげで「下」(旧集落)に住む約100戸は毎日の暮らしの手続き等にかなり不便を強いられることとなった。役場がまっ先に移転したことの是非には、ちょっと疑問を感じる面もある。頭地へ行ったことのある人なら分かるだろうが、「下」と「上」との行き来は、かなりの不自由がある。国交省は意図的にやったんじゃないのか。一時的生活道をなぜ別に整備しなかったのか。という気がする。車のない家もあるのにあんまりである。細いジグザグの山道を荷物を背負って歩くのは、20代の体でもちょっと一苦労だし、第一足をすべらせる危険性も大いにある。幸いにして事故の話は聞いていないが、万一事故でも起きたのなら国と村はどう責任を取るつもりなのだろうか。
話を戻すが、私は村役場の移転は早すぎたと思う。半ばまで移転が進んだ頃になって、ぼちぼち上がろうかという形の方が水没地住民の心情的にも物理的便利さにおいてもより叶った形ではなかったのか。ダムしか見ていない村役場の姿勢がここにも感じられる。ダムは村にとっての一大事だが、私は「苦渋の選択」と「ダム推進」のみを悲痛なまでに繰り返す村の姿勢には、時として疑問を感じる。今、村が主張すべきことは、ダムと地域基盤整備事業の切り離しなど、他にも多くあるはずである。
代替地では、最初に役場と保健福祉センターが移転し、医療センター、交番、郵便局、小学校が上がった。商工会と森林組合、消防署、中学校、高校は以前の通り「下」にある。この中で、中学校はおよそ50年間、新築改築を制限され、老朽化が激しいのだと言う。とは言え、中高移転予定地完成には、このまま順調に進んだとしても最低あと4年はかかるらしい。実際にはそれ以上にかかるのは間違いないだろう。
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+ 行政圧迫
五木村が村是として「川辺川ダム容認」と公式に発言したのは、昭和50年代のこと。
しかし、村内にダムに対する慎重論も多かった昭和40年代には、早くも附帯工事の一部着手に村がOKを出した。ダム水没予定地となった村の中には、ダム絶対反対を掲げて建設省や県職員らを村に立ち入らせず、調査なども拒否して、ダム計画を白紙撤回させた村もある。しかし五木村行政は、表向きはダム反対と掲げつつもそれを貫くことができなかった。
その最大の理由は、五木村の道路や橋梁など生活基盤整備計画が、ダムとセットの形でしか村に与えられなかったことがあると言われている。本来、県道拡幅などはダムとは関係なしに進められるべきものだが、五木村の場合完全に「ダム関連事業」としての選択肢しかなかった。つまり、昭和41年7月計画発表直後の説明会で県と国が示したのは、ダム受入を条件とした立村計画だった。球磨川総合開発計画の中で、ダムは重要課題に位置づけられ、五木村はダムを前提とした村づくりを行うよう強い圧力をかけられた。当時、八代市長や熊本県知事などが何度も村に通って「説得」したと言うから、実際まさに圧力だったのだろう。
これを行政圧迫と言わずして何と言おうか。
建設省が持ってきたダム計画は、それ以前の電源開発ダムとは異なり、相手は国家であったため拒否することがどこまでできるのかという不安は当初から村や村民の間にはあった。当時の五木の人々の脳裏には、下筌ダムの記憶がまざまざと残っていた。「村がダムに沈められると言うのなら、故・室原知幸氏の闘いくらいのものをやらなければ」という強い決意。一方では、「あれだけ住民がねばったにも関わらず、ダム本体工事に着工されてしまっているではないか。国に歯向かっても、結局は負けてしまうのだ」と言った諦め。
そこへ国とその下部組織として県が示したのが、ダムを受け入れたのならば地域振興策を行うという計画。
現潮谷義子熊本県知事は、説明責任と住民参加を強調し、丁寧なプロセスを大切にしている。潮谷知事のような方がもう40年早くに現れていたら、川辺川ダム計画も、五木村も、今のような混迷の極みには至らなかっただろう。過ぎたことを仮にと持ち出すのは否建設的である。川辺川ダム計画には、公共事業の進め方として、熊本県と国土交通省に痛い教訓を与えることになるのは間違いない。
ただし、県はともかくとしても、国交省には「教訓」を「教訓」としないという、旧態依然の腐敗・停滞した官僚機構、お役所気質がしぶとく根強く残っている。事業遂行のためには違法脱法なんのその。法律と道理をねじまげることに麻痺してしまっているのが国のやり方である。彼らの言う「住民への配慮」「地域振興策の実施」などは、彼らの狭い視野と決められた法律の範囲内のことでしかない。そこに限界とジレンマを感じる国交省職員がいるならすばらしいが、何の限界もジレンマも感じない職員のいかに多いことか。彼らは「川辺川」から何をも学ばず、学ぼうとすらしない。五木村の将来に何の責任も感じてない。こういう人たちが、公共の利益を掲げて、村に行政圧迫を与えてきたし現在も与え続けているのだ。
なお、岡山県苫田ダムでは、ダム受入を拒否した町に対し、県や国から著しい行政圧迫がかけられ、数人の町長が辞職を重ねるという事態が起きた。調査団も結成されて事情を調べた結果、実に60数件におよぶ補助金の停止等の措置が取られていたことが判明し、中には保育園の改修などの事業も含まれていたと言う。
人の命と生活をタテに取り、ダムを無理矢理飲み込ませる。
こういうことは、全国どこであっても許されるべきではない。
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+ 「苦渋の選択」
ダム問題が余りに長引いていることもあって、五木村でヨソ者がダムの話をすることが歓迎されないこともある。私もしばしば冷たい対応を受け、落ち込んだりあとで密かに泣いたりする。
思うに、これは村とダムの経緯をヨソ者が知らないからだと言う気がする。私を含めヨソ者は、村とダムの歩みをもっと知ろうと努力するべきだと思う。同時に村にも、よそ者の視点を伝えていくべきである。いつまでも村の「苦渋の選択」だけを言っていても状況は何ら改善されない。「自分たちが反対していた時には、下流は反対しなかったくせに」という論点から動かないのは、それ相当の非常に苦しい選択を水没者が迫られたからであり、その当時に村外で反対「運動」が起きなかったことは反省に足る。その一方で、五木村がこの「今さら反対しても遅すぎる」「自分たちが反対していた時は、何もしなかったくせに」という論点にいつまでもとどまっているのは、極めて近視眼的であり、余計に将来への選択肢を閉ざすことにつながるだろう。
五木村がダム受入を決めたことは、すべての水没者にとって苦渋の決断だったと思う。この苦しみは口では言い表せないほど深く、ヨソ者は話を聞いたり文字で読んだりして追体験することしかできない。今では多くの方がダムについて口を閉ざしているが、それぞれダムに対しては言い尽くせない思いがあるのだと思う。
ここで納得がいかないことの一つには、五木村行政がダム推進の理由として、「村民の苦渋の選択」と引き合いに出し続けていることである。あまりに長く言われ続けているので、耳にタコ状態である。
しかしちょっと考えてみると、「ダムのためにこれだけの犠牲を払ったのだから、ダムは作るべきである」というのは、おかしいのではなかろうか。さらには、五木村民のためにダムを作るというのがどこまで事実なのかは分からない気がする。村民のためのダムではない。ダムに付随する生活基盤整備が村に必要だから、ダムを推進しか選択肢がないのだ。
また率直に言って、外部に「五木の声」として出てくるもののうち、一体どこまでが本当に「五木村民の声」なのだろうかと疑問に思う。私の印象では、五木村役場の声と五木村民の声はちょっと違う気がしている。
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+ 「五木が反対していた頃、下流は反対しなかった」
この言葉を村の中でもよく耳にするし、下流でその負い目を感じている方もいる。
残念なことだがこれは事実であるようだ。
村の中にダム慎重論や反対論が出ていた頃や、裁判闘争をやっていた頃、下流の人吉・八代などや、流域外では「ダム反対」運動はないに等しかった。五木村水没者地権者協議会が、村と国を相手取って裁判を闘っていたのは、昭和51〜59年の期間。ダム反対派の中心的市民団体である「清流球磨川・川辺川を未来に手渡す流域郡市民の会」(人吉市)、「球磨川を守る市民の会」(八代市)、「子守唄の里・五木を育む清流川辺川を守る県民の会」(熊本市、福岡・関西・東京)のうち、最も古いのは「手渡す会」。それ以前から、人吉市議会のダム特別委員会が「ダム反対(慎重?)」を公表したり、「くまがわ王国」の運動やJR湯前線(現在の「くま川鉄道」)存続運動の中から、社会や地域の問題への関心を持つ人々が増え、ダム反対の市民がつながり始めたという動きはあった。 平成3年から毎日新聞に掲載され始めた、福岡賢正記者による川辺川ダム連載記事は、緻密なデータを分析・検証する手法によって、ダム反対市民の理論的に拠り所として大きく力づけるものであった。また個々人の間では早い時期からダムに反対していた人も少なからずいた。これらの動きが一つのうねりとなり「手渡す会」が産声を上げたは、平成5(1993)年のことであった。
私の知る限りの事実関係を整理すると、
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昭和41年にダム計画が発表された時、村と村議会は一致団結して「反対」の意思表明をした。
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これを受け、国と県は五木村にダム受け入れを求めた。
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村は当初ダム反対を表明していた。また、村長を会長とする「ダム対策委員会」が作られ、村民の多くはほとんど白紙委任状に近いものを出し、全権委任して国との交渉に当たった。ダム対策委員会には、商工会や森林組合、村内各地区の代表、議員らなど村の各機関と住民の代表によって成り立っていた。(*)
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村民の一部から、ダム促進へと変わって行くダム対策委員会(=村行政)への不信が生まれ始め、自主的な組織を模索し始めた。
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「ダムができた後の立村計画が保証されないうちは、やみくもにダム受入を決めるべきではない」として、民間水没者団体の一つ、地権者協議会が立ち上がった。国は当初、地権協を認めず、すべての交渉を「ダム対策委員会」とのみ進めた。それに対し地権協が度々申し入れ等を繰り返し国はついに地権協の存在を無視できないまでになった。
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昭和50年末、県議会でのダム基本計画上程を巡り、村行政と地権協会員との間でずれがあることがくっきりと浮き彫りになり、村民の間でも、ダム受入派とダム慎重派、反対派などの意見の相違があることが明確化し始めた。
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村行政と訣別した地権者協議会は、行政不服審査法に基づく異議申立を経て、昭和51年から裁判を起こした。
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「ダム対策委員会」は解散し、「五木村対策審議会」(官)と「川辺川ダム対策同盟会」(民間)が作られた。また、同盟会から間もなく「水没者対策協議会」(民間)が分離発足した。
国は地権者協議会との裁判を抱えながら、他の水没者団体と交渉を進めた。またすでに昭和40年代からダム附帯工事が、見切り発車的に始まっていた。村行政は、ダムへの懸念を表明しつつも、ダム関連調査や附帯工事を受け入れたのだが、このことはダム慎重・反対論の立場に立つ村民の不信感をあおり、対立をさらに激化させることになった。
五木村でダム反対運動があったとは言っても、村の中で首尾一貫してダム反対を貫いていた地権者協議会でも、村内では常に少数派であった。また、昭和51年に裁判闘争を始めるまでは、地権協にも補償基準の早期妥結への危機感は強かったが、ダム反対を当初から打ち出していたわけではなかった。当時の大半の水没者は、自らの意見をあいまいなままにしているか、国・県上げてのダム建設推進の動きに直面してダム受け入れへと傾いていた。これは昭和30年代の電源開発ダム計画と異なり(この時は村一丸となって反対を貫き、計画白紙撤回を勝ち取っていた)、今回の相手は「国」であるということもあり、いくら反対しても勝てないだろうという思いもあったと聞く。また、ダム計画によって村が活性化するのではないかという期待を持つ人もいた。
ダム計画が発表された昭和41年と言えば、熊本県小国町と大分県中津江村の間にある、下筌(しもうけ)ダム本体工事着工の年だった。室原知幸氏をリーダーとして蜂の巣城を築かれ、また裁判を通して、国を相手取り「私権対公権」という闘いが続けられた昭和30年代は、人々の記憶の中にも鮮明に残っていた。当時はまた、労働運動や学生運動が盛んだった時代だった。下筌ダム闘争でもそういった運動が、住民側支援という形で入り、流血の混乱を招いた場面もあった。
地権者協議会の前身である「生活権を守る会」が、故・室原さんと共に闘った森純利氏を講師に招き、ダムというものについての勉強会を開いたのは、昭和48年のことだった。森純利氏だその後地権者協議会の総代理人となったこともあり、五木村でのダム反対闘争の戦術も、下筌ダム闘争の経験を参考にしていた。
下筌ダムの経験から、地権者協議会の中心メンバーの脳裏にあったもう一つのことは、外部からの「党派」色を持ち込まれ、五木村をかき回してほしくないということだった。あくまでも主体は地域住民であり、地権協のあり方として「住民運動」としてやっていきたいと考えられた。のちに、党派色のある団体から組織的な支援を打診されたこともあったが、地権者協議会はこのことを伝えたところ、結果としてその団体の組織的支援はなされなかった。
逆に、地権者協議会が下流へ支援要請に訪ね、支援を拒絶されたこともあったと言う。人吉市議会にも要請に行ったが、取り上げられなかったという話を聞いた(その一方で、ダム建設によって流量が減少し、球磨川下りの存続が困難になるのではないかという懸念から、人吉市議会ダム特別委員会が、ダム反対表明をしていた時期もあった。)。ダム受入をしぶる五木村に対し、八代市長がダム受入を陳情しに来たこともあったと言う。
人吉市議会の事実関係についてはまだ調査中だが、いずれにしても五木村でダム反対だった村民の頭には、「下流は応援してくれなかった」と記憶されてしまった。実際に、人吉市民の間の関心は平均して低く、当時バスで1時間半以上もかかっていた五木村の水没地のことは、今よりも遠い距離感があったのではなかろうか。「あの頃人吉の人たちは、五木はもうダムで沈んでしまうというような、まるで他人事の言い方だった。」と言う話もあった。また、ダムの効果についての疑問や、環境への負荷、下流や海への影響が世論として議論され始めたのは、少なくともここ77、8年のことであり、当時はそういった視点からダムを見る人は、地権者協議会など地元住民以外ほとんど誰もいなかった。これは川辺川の下流だけではなく、全国的にそういった時代でもあった。
総合的に見て、五木村が反対していた頃、下流や世論はダム反対の声は弱かった。
五木村でダム反対をしていた人たちに対する、申し訳なさと後悔の気持ちは、時代を超えて私の胸にいつも消えない。
しかし、悔恨の気持ちと共にそれでも村に言いたいのは、過去だけを見て今を見ず、「あの頃にもし今のような運動と世論があれば」と繰り返すのは、不毛であるということである。村の未来を見失うことになるのではないかと懸念する。
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+ 「もうすぐダムに沈む村」
という言葉を直接聞いたわけではないが、子守唄公園に大型観光バスがやってきて(それ自体は問題ではなく、むしろ大歓迎である)、おもむろに「ここがもうすぐ川辺川ダムで沈む五木村です」なんてやられた日には、ちょっと頭に来るという話を聞いた。五木村に観光に来る人が増えるのはいいことだが、子守唄公園の周辺だって、村の人が暮らしているのである。観光客には配慮とマナーをお願いしたい。
言うまでもないが、「沈む前に村を見に行きたい」などという人は、さらに無神経である。
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+ 「故郷を金で売った」 言ってはいけない度:100%
これは、絶対に言うべき言葉ではない、非常に偏った認識である。
村でダム計画が発表され、その後の紆余曲折した歩みを続ける間、外部に今のような運動はなく、水没予定地となった五木の住人は孤立していた。だれしも、家族がいて、子どもがいて、親がいて、生活があり仕事があった。すでに上に述べたが、村の中からダム反対運動を続けた人達は少数派だった。村の分裂、孤独感。地権協の人達は「おまえたちがダム反対裁判をするから、村民が離村するし、村づくりも進まない」と非難され、先の見通しも立たない中で、ついに国と和解しダム受け入れを決めた。その胸の内は、推し量るに余りある。また、ダム容認、一部容認と言われた「同盟会」「水対協」に所属した人たちにも、先祖から続いてきた故郷の地がダム湖に沈むことを喜んだ者は、一人としていないだろう。
「金で売った」などという言葉は、無知無理解、無礼極まりない言葉である。
なお、有名カヌーイストの某氏は「五木の人達は札束で故郷を売った」なんてことを言ったりしているらしい。これに続けて、「しかし、私たちはこの美しい自然を守りたいのだ!」などと言いたいらしいが、事実経緯を知ろうともせずにこんなことを言うのはやめてほしい。こういうことを言うから、五木村で環境団体の評判が落ちるのだ。
ヨソ者にとって環境も大切なことではあるが、本当に必要なのは住民の視点に寄り添うことではないだろうか。
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+ 「代替地計画」
昭和56年から、五木村の水没予定地からの移転が始まった。次々と移転し始め、集落が一気に寂しくなった。その頃は代替地すらできていなかったから、当然村外移転がほとんどを占めていた。ダム反対裁判で闘っていた人たちは、当初「なぜこんなに出ていくのか。みんなダムによる補償金を待っていたのか」と怒りがわいたと言う。
水没予定地には当時の村の総人口の半分近くが住んでいた。代替住宅地は計画より遅れに遅れたのち、五木村に6ヶ所、相良村に2ヶ所作られた。ところが、これらのうちで小浜、野々脇、野原の3ヶ所の代替地は実質的に誰も移転しなかった。
<五木村>
1)高野代替地(昭和62年度造成)/一般住宅と振興公社
2)小浜代替地( 〃 )/3戸分が造成されたものの誰も移転しなかったので現在空き地。
3)大平代替地(平成3年度造成) /一般住宅3戸と神社、お堂
4)下谷代替地(平成10年度造成)/一般住宅と村営住宅
5)野々脇代替地(平成12年度造成)/お堂と村営住宅
6)頭地代替地(平成13年度造成)
/当初予定より大幅に規模縮小し、約90区画造成。しかし移転を拒む人や転出する人もいるので全区画は埋まっていない。役場、医療センター、郵便局、派出所など。
<相良村>
7)柳瀬代替地(平成56年度造成)/国交省川辺川工事事務所のすぐそば。
8)野原代替地(平成61年度造成)/小浜と同じく、造成されたものの誰も移転しなかった。現在では集落センターと野原小学校の碑だけがあり、空き地になっている。
ここで疑問なのは、誰も移転しなかったにも関わらず、国交省の資料ではそのことに触れられていないことである。
なぜ遅れてしまったのか、再発を防ぐにはどうすれば良いのかということすら、あいまいなままにされている。
http://www.qsr.mlit.go.jp/kawabe/qa7-2.html
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+ 「水没地ばかりが良くなって・・・」
五木村の人口の半分以上は、頭地より上流や山腹に住んでいる。ダムができても沈まない、非水没地である。この非水没地の人たちから、こういった言葉を聞くこともある。
話を聞くと、確かに理が通っている。つまり、水没地は家や田畑と引き替えに補償金をもらうが、それで村外の便利なところへ行って新しい家を建て、生活を立て直すことができる。けれども自分たちだって、村の中心地が水没地になり人口も大きく減ってしまったり、川沿いにあった小学校や大きな集落が無くなったりして、非常に不便を強いられている。自分たちも言わばダムの犠牲者であるのに国は何の補償もない、というのである。
今や五木村で行われるほとんどの事業は川辺川ダム関連で、頭地など水没地で優先的に行われている。旧道などは、どうせ数年後に新しく付け替えるからと、軽い土砂崩れが起きても簡単な補修だけでほったらかしになっている。鉄柱に渡した板木が折れかけ、危険な状態になっている光景も目にした。
加えて、高齢化と過疎化も五木村の課題として存在する。広大な面積の村では、山手の集落への福祉医療サービスが重要である。頭地で人口減少が起きて、村唯一のタクシー会社は無くなり、バスの本数も減ってしまった。水没地の小学校が無くなると、登下校がスクールバスか親の送り迎えが必要になる。村営保育所は1ヶ所で、自然が豊かで子どもの環境としてはすばらしいが、一方で子育てしにくい面もある。現在ではダムのことが最優先となっているために、村の中での雇用創出や産業育成事業はほとんど後回しとなってしまっている。
村は「ぜひ若い人たちに五木に住んでほしい」と言うが、それならば、住宅支援や雇用創出、子育てしやすい環境づくりや、村内出身者の定住と村外からの移住を勧めるための事業に今すぐ取りかかるべきである。このまま待っていたところで、ダムができたとしても、間違いなく村は過疎化、衰退化の道をたどるだろう。その対策カギを握るのは、村行政の賢明さと先見性であり、村民一人一人の考え方次第である。特に村役場は大きな予算と政策を握っている。
五木村役場にはもっとがんばってもらいたいところである。
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+ 歴史資料館がない村
五木村に行ったことがある人ならば、頭地橋を渡って左へ行くと、木々と川に挟まれた「やませみ」という小さな資料館を見たことがあるだろう。白い平屋の建物の中には、ちょっと寂しいコレクションがならんでいる。石臼があったり、子守唄をヘッドホンで聞けたり、頭地代替地模型を見たり、野鳥の写真を見たりできるが、五木村の歩いてきた歩みが感じられない。どこかよそよそしいのは、ここが国交省のダムPR施設であって、村の民具などは収蔵されないままになっているからだろう。
五木村がダム水没地となった時、すでに故人となられた佐藤光昭さんや鶴宗六さんといった、優れた先人たちはこう考えられたと言う。
「村の水没地区が永久に沈むのであれば、この村が日本、世界の他の地域と比べて、一体どういう村だったのかを記録せねばならない。しかし、日本や世界の各地と比較していたのであれば、気の遠くなるような年月がかかってしまい不可能に近い。それならば、せめて五木村のすべてを調査して、その中にあって水没地というものは一体どういう位置づけにあったのかということを、記録せねばならない。」
佐藤さんたちは文化財調査団を結成し、まずは手弁当で村のすべての文化財等を調査し2冊の厚い基礎資料を作った。それをもって、建設省川辺川工事事務所に対して、これらの文化財に加えて、人文、自然の各分野について本格的調査を行わなければ、これらは永久に失われてしまうことを繰り返し訴えた。建設省はその熱意を理解し、調査のための予算を作り、専門家たちによる本格的調査を支援した。その結果まとめられたのが『五木村学術調査』人文編、自然編の2冊であった。その後、この時の調査カードを元にして、一般向けに分かりやすくまとめなおした『五木の民俗』も発行され、村内の全戸に配布された。これらは、一村の地方誌としては誇るに余りあるほどの貴重な記録であった。
昭和50年代の後半から、五木では村外移転が相次いだ。その後も次々と移転し、水没地にあった古い民家や納屋が壊されていった。これを見た村の文化財保護委員たちは、貴重な民俗資料を保管する作業に取り組んだ。今はまだ計画はないが、将来歴史資料館を作りたい、その時にはこの収蔵品がきっと貴重なものになるという彼らの視点に、大きな拍手を送りたい。まさにその通りである。
ところがこの民具たちは、頭地のプレハブ小屋からその後宮園の廃校に移された後、ずっっっっっとほったらかしになっている。
これは、村教育委員会と村行政の怠慢ではないのか。しかも、誰に聞いても「あるという話ですが、今もそのままになっているんだろうと思います」と曖昧な答えで、いい加減である。
ここで言いたい。
『やませみ』を以て五木の歴史資料館とする国の姿勢には大きな問題がある。あれは国が村をナメているとしか思えない。それに甘んじている村行政にも呆れる。村は国が約束した歴史資料館整備についてもっと主張すべきである。「やませみ」は近く頭地代替地へ移転する予定になっている。当然収蔵品も増やすのだろうと思ったら、今と同じ規模なのだと言う。はっきり言って、国交省は村をバカにしているのかという気すらしてくる。
歴史を大切にすることは、自分へとつながる営みを知ることであり、命を大切にするということにつながると私は思う。逆に言うと、歴史やルーツを大切にできない人は、命を大切にすることはできない。ダムとか予算とか、大人の都合からしか考えられていないが、本当は子どもの教育のための施設でもある。これが軽視されていることに対して、どうして誰も問題視しないのであろうか。
なお、「やませみ」の館長は村の人であって国交省の役人ではないことを申し添えておく。
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