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Vol.1
五木村を初めて訪れたのは2年前の夏。車で砥用峠を下り、1000mを越す山々を見渡すと、なるほどここは九州の脊椎であり天井なのだと思いました。夕方になって人吉へ下り、福岡と東京の知人、それに案内をお願いした人吉の方とで連れ立って、鶴田町で遅い夕食を食べました。何気ない話の中で、人吉の方がふと「33人衆」の話を聞かせてくれました。山がちな五木村のほとんどの土地は、元々33人のダンナが持っていたと言います。「ダンナ?33人衆?」タイムスリップしたような錯覚に襲われ、思わず焼酎を持つ手が止まり、聞き漏らすまいと強い球磨なまりに耳を傾けました。
「古今は直立した一の棒ではなくて、これを山地に向かって横に寝かせたようなわが国の様である。」(『後狩詞記』柳田国男)
柳田の言う古今、すなわち「とき」の捉え方でいくならば、九州山地の深奥に来て、ダンナという言葉を耳にするのはそれほど不思議ではないのかもしれません。その土地土地の風土や地理的環境に影響を受けながらも、言葉や習俗はその時代の「都」を中心にした同心円上に似通ったものが並ぶと言います。典型的な南九州型の山村である五木村にもまた、何代にも渡って重ねられた歴史があります。それまで、川辺川ダム水没予定地としてしか五木を知らなかった私は、自分がフィルターを通して見ていたことに気付かされました。
奥山にひっそりと流れてきた、気の遠くなるほどの遠い時間。そこに暮らしてきた人々の生活はどんなものだったろうかと惹かれます。川を交通路とし、球磨盆地という一つの文化圏を構成した中心は人吉だったのかもしれませんが、独特の地形と歴史を持つ五木村もまた誇り高くムラ文化を受け継いできました。川辺川ダム計画により、この三十数年間は村としては他村とは異なる歩みを進めています。表に出てくるのは、ダム是非や水没予定地の話ばかりですが、村の根底にひっそりと横たわる時間とダムの経緯を自分の目や耳で記録したく、近代史を紐解く作業をぽつぽつと始めていくことにしました。
Vol.2
古い記録によれば五木の土地の多くは33人のダンナ(地主)が代々所有してきたのだと言います。33人とはすなわち33のムラの地頭。ムラとは現在の村よりはもっと細分化された共同体であり、貢役の徴収の一単位でもありました。戦後になって全国的に農地改革が行われた際、山林が面積の96%を占める五木村はその対象にならなかったと言います。そのため現在まで地主−小作制度(ダンナ−ナゴ制)の名残りが残っており、五木村の独特の民俗にもこのダンナ制が大きく影響してきました。ダンナ制はまた、周囲と地理的に断絶された山がちな村の地形により維持されてきた制度でもありました。
ダム計画による集団移転で、地図から金川、清楽、逆瀬川、小浜の集落名が消えました。藤田谷から先、かつての藤田、野原地区は行政区分こそ相良村でしたが、わずかな迫に集落が広がるお堂を中心とした共同体は相良村の南部のムラとは大きく異なり、五木の集落に近い形です。この辺りは、川近くのなだらかな斜面や狭い平地に数十戸から成る集落があり、更に右岸、左岸の山手に小集落が点在するという形態です。山腹にある集落によっては川から遠い所もあり、1000数百メートル級の山の斜面に張り付くように数戸の民家が並んでいる場合がほとんどです。標高の高い集落の脇を流れる谷水は、日照りの時でも枯れることはありませんでしたが、水田を作るには十分ではありませんでした。山手の集落に暮らすお年寄りの中には、米を作れるようになったのはやっと昭和に入ってからのことで、嫁いできた頃は直播きのノイネ(陸稲)を主に耕作していたと話す方もいます。時代が下ってのちに、水路が整備されたおかげで水田稲作も可能になったそうです。 一面に広がる水田光景はありませんでしたが、地味は悪くなく、急峻な斜面を利用したコバサク(焼畑)も戦後長くまで行われていました。
Vol.3
焼畑は、柳田による宮崎県椎葉村の調査で一躍有名になりましたが、南九州を中心とする九州山地の奥地では椎葉村以外でもしばしば見かけられました。五木村もその一つで、基本的に山林を切り開いて火を入れ耕し(ハタケウチ)、ソバ、小豆、粟、カライモ(サツマイモ)などを輪作した後20数年ほどかけて自然に元の森に戻す(アラス)形態は同じのようです。
コバサクを行った山は、個人有地或いは共有地でした。3人、8人、13人、16人、18人持ちというように何人かで山を共有し、管理運営を行いました。山の多くは元々ダンナ持だったようですが、ダンナからムラ、複数人への分割売買やダンナ家の没落等によって共有地化した例もあります。共有地では、コバサクや、茶やソバ、コンニャクなど共同畑作地や、屋根を葺くためのタテノ(茅畑)として使われていました。集落では毎年一軒ずつ、茅葺きの順序が巡ってきました。各家から人を出しての共同作業だったので、タテノも当然共有地だったわけです。だんだんとコバサクが行われなるにつれ、共有林は分割され、事実上の個人有地へと変わっていった土地もあるようです。
コバサクでは、まず初めにコバを決めます。私有林や共有林であったり、ダンナから借りた山だったり。一人で耕作するよりも共同で作業した方が効率が良い場合もあり、毎年ダンナから決まったコバを借りて焼畑をする場合も多くありました。
昨年九月、五木村瀬目地区をたずねました。
瀬目は、五木村南部の川辺川左岸、国道から山手へ上ったところにある集落。国道445号線の森口商店のそばから川辺川左岸奥へ入って車で7、8分くらいのところにあります。標高500?600メートルで、下から集落はほとんど見えません。集落へ上る道は途中から1車線になり、この先に民家があるのかと不安に思うくらいですが、谷を見下ろす山腹に現在8軒の家族が生活されています。瀬目の方に話を伺いました。
「昭和30年代までだったか、瀬目でもコバ作をしていた。今頃の時期(秋の彼岸頃)はハタケウチ(耕耘)の時期で、なぜかハタケウチは夜にやっていた。夕方に草切りをし、夜は8時頃までたいまつを持って耕したものだった。ソマ(ソバ)コバでは、まずソバを作った。その後に小豆、アワ、カライモ・山芋などを続けて作った。
昔はノイネ(陸稲)も作っていた。瀬目では水を引けなかったので米を作ることができなかったためだった。ノイネは畑に直に蒔いて作った。見かけは普通の米と一緒だが、味はおいしくない。私たちが瀬目に嫁いで来た頃には米という米はなかった。どこの家もムギとアワに、大根のヒバ(日干ししたもの)を入れて炊いた。炊くのは一日一度。ムギは一晩水に浸けた後、翌朝炊いた。夕食前にカライモ煮やイモ煮を食べた。
瀬目は現在8軒の家がある。隣りに「タケノクボ」という集落がありそこに昔は3軒あったが、今は一軒だけになったので、瀬目と一緒になっている。五木ではそれぞれの地区ごとにお堂があるが、「タケノクボ」には瀬目とは別に地区のお堂がある。
瀬目には共有林の他に共有の畑があり、コンニャクイモ、お茶を作っている。ドーゼン(ウド)を作って味噌漬けにしたりもした。昔はコンニャクイモも業者に売っていた。お茶は5軒ばかりで一緒に作り、製茶工場で製茶している。2、3軒は共同ではなく自分の家ごとにお茶を作っている。最近は若い人もお茶をあまり飲まなくなってきたのでお茶はあまり売れない。コンニャク作りは、瀬目の婦人部が大きな「クド」(かまど)を使って作っている。作ったコンニャクは、それぞれ家に配ったり、下の国道沿いの売店(=「瀬目公園」にある売店)で売っている。瀬目ではコンニャクは各家庭ごとにはほとんど作らない。」

Vol.4
「昔はどの家にもクドがあったが今は2軒にあるのみ。また、「ジロ」(いろり)もどの家にもあったが、ジロの方はどの家でも今は埋めてしまってコタツにしている。掘りゴタツもあったが子供が落ちたりして危ないので、電気ゴタツに変えた。
クドやジローでは薪を使う。最近、瀬目では木炭は滅多に使わない。昔はやっていたが今は炭焼きもしない。炭は相良の山手(地名)や五木内で炭を焼いているところを尋ねて買ってきたりする。昔焼いていた炭が残っているのでそれを使っている人もいる。
水は上のタンクからパイプで引いてきて使っている。20?30年前にタンクができた。特別な砂なのか、黄色い砂の入ったタンクが4つあり、それぞれパイプでつながっている。一つ目のタンクで漉された水が二つ目に流れて、そこで漉された水が三つ目に入っていくようになっている。タンクの砂は年に一回みんなで洗う。水がきれいに澄むまで砂を洗う。それができる以前は山から竹の樋で引いてきていた。竹を二つに割って節を取り、各家庭に引っ張ってきていたが、時々枝などが詰まったり、途中でひっくり返ったりもして大変だった。雨の日は仕方ないので雨の降り込むままだった。しかし今では、うまくパイプでそれぞれの家に引っ張ってきているので便利になった。
買い物は、仕事や病院通いで人吉に行く人にことづけたり、下の森口さんのところ(国道沿いに旧野々脇から移転した商店)で買ったり。木曜日には、免田町から魚屋さんが車で回って来て、魚や野菜を売っている。業者さんはずっと同じなのではなく、以前には湯前町や八代市から来ていたこともあった。」
瀬目地区の婦人部と老人会では、現在、国道沿いの瀬目公園に『四季の里』という売店を出されています。以前から毎年ある時期だけ旧国道沿いに店を出し、手作りのまんじゅうやコンニャクを出していたそうですが、5年前に新しい国道そばに瀬目公園ができ、村が作った店舗を借りて、現在週6日営業しています。445号線沿いの展望台のある場所です。もし万が一ダムができた場合には、(かつての谷を埋め尽くし緑色にどんよりと濁った)ダム湖を展望できるようにと村が作った展望台です。『四季の里』は朝8時頃から夕方16時までの営業。小豆アンまんじゅう、栗アンまんじゅう(時期限定)、コンニャクに漬け物、梅干し、わらびの塩漬け、茎わさび、柚の甘露煮や茶など、瀬目の女性たち手作りの商品が並びます。他にもソバやお菓子類、豆腐の味噌漬けや醤油、木製品などがならんでいます。明るい女性が店番をされています。
私が瀬目を尋ねていった時は、地区の老人会の台所で栗アンを作っているところでした。大きなクドが二つ、小さめのクドが一つあり、小さめのクドで栗を茹でられていました。大きなクドはコンニャク作りの時に使うそうです。クドのそばに灰を入れたブリキバケツが置いてあり、コンニャクを作る時のアクを取るために貯めているとのことでした。
薪をくべたクドにかけられた大なべの中では、たくさんの栗がぐつぐつと煮たっていました。台所の天井はすすですでに真っ黒で、年配の女性二人が栗アン作りをされていました。
栗がゆで上がったら、タオルで鍋の取っ手を片方ずつ持ち、蓋を少しずらしたまま傾けてお湯を切ります。その後また鍋をクドに戻して、残った水分を蒸発させて火から下ろし、大きなすりこぎで栗を潰します。太いすりこぎのような、杵のようなものを使われていました。木肌がゴツゴツしていたので何の木かを聞いたら、山椒の木だと教えてくれました。栗が大体つぶれたらあらかじめ計っておいた砂糖と、塩を少し入れてまた混ぜます。塩が15g、とつぶやかれていました。すりこぎから大きなしゃもじに換えてしばらく混ぜたら、栗アンのできあがりです。きれいに表面を慣らしたあと、「味見ばしてクダイ」とお皿によそおって分けてもらいました。できたての栗アンはいい香りがしてあまく、地元のお茶と漬け物(大変塩辛い)を頂きながら、しばらく話を聞かせてもらいました。
Vol.5
「瀬目と川沿いの小浜は離れているようで、実は山続きに隣り合わせ。だからコバサクも小浜の人たちと一緒にやっていた。共同でコバを刈って火を入れて。キンマ道というのがあって、そこを伝えば歩いて20−30分で下の国道に出る。昔、伐りだした木を川へ下ろす時に使っていた道で、キンマとは木馬のこと。マルタを並べた上に油を撒いて滑りやすくして、伐りだした木をソリ形に組んでその上を滑らせた。下に降りるにはそこが一番近道で、今でも歩いて降りる時に使っている。子どもはキンマ道を通って、野々脇にあった南小学校に通っていた。今はもう、南小学校も無くなってしまったけれど・・・」
話をしながらも、女性たちはせっせと手を動かします。ちぎったばかりの椿の葉の、葉先と葉元をパチンと切ると、それをふきんで一枚一枚、丁寧に拭いていました。まんじゅうの下に敷くのだそう。お彼岸の連休直前でまんじゅうがよく売れているらしく、予定を繰り上げての作業です。そろそろ足りなくなりそうだと売店から連絡が入ると、女性たちは手の空いた人から作業に取りかかります。ちょうど仕事から戻ってきた女性たちも加わり、作業場は2人から5人に。本当は明日まんじゅうを作る予定だったそうですが、午後から少し手が空いたから先に栗あんだけ作っておいたよと、2人は他の女性たちに伝えます。
ダム建設の附帯工事開始に伴って、村内各地では遺跡発掘調査が行われてきました。瀬目の女性たちもここ数年、もう何度も作業に出ていて、昨年後半は金川の発掘調査に参加しました。ちょうど数日前に私も金川の発掘現場を覗いていたので、「若い『よか男』ん先生がおられましたね」と言うと、女性たちはくすくすほころぶように笑います。一人は鹿児島、一人は福岡から来た大学の歴史の先生だそうです。二人の若い先生が、私にも発掘されたばかりの鏃や土器の破片を見せてくれたことを話すと、「小浜ではいろいろ土器や鏃が出たし、野々脇でもどっさりいいのが出た。今回の場所は小浜などに比べたらそれほどでもない」と少し残念そう。先生たちが角の丸い縄文式土器を見せてくれながら、「角が丸いのは高い所から土砂に紛れて流れてきたせいかもしれない。現場で、もっと上の斜面を掘ればいいものが出そうだと思っても、私たちは決められた発掘現場しか掘ることができないので少し残念です。」と言っていたのを思い出しました。
瀬目地区の台所の前に、男性が通りかかりました。見慣れない車を見て、何事だろうと思われた様子。瀬目の昔の話を聞きたいのだと話すと、木陰で山の話を聞かせてくれました。この辺りで栗や茶、シイタケや米を作ったり、山の手入れをしたりするのだと言います。「そう言えばクネンボって知っとるな?」と聞かれ、私が知らないと答えると、ちょっと待ってなと言うと、すぐに取ってきてくれました。手渡されたのは、もぎたてのレモン色の果実が5、6個。クネンボはこの付近の山に独特の柑橘類で、山の中に自然に生えていたり、各庭先に植えていたり。カボスと柚の間のような味で、酢のようにして使うけれど、酢よりも甘味があって酢の物には最高ですとちょっと自慢げです。
コンニャクイモもここのものですかと尋ねたら、今作っているのは在来のものだそうです。コンニャクイモは大きくなるのに数年かかるので、群馬あたりから成長の早い改良種が入ってきたけれど、粘り気が少なくて味が詰まっていない感じだそう。ムシロの上に並んだ大小のイモに目をやりながら、やっぱり在来のものがいいのだと男性は話します。
「昭和40年代頃から植林をたくさんやった。村や県が奨励してあんなに拡大造林をやったのに、伐採する頃には価格が暴落。木を伐っても手間賃ばかり高くて見合わない。信じられないだろうけど、昭和50年代には山ではサルもシカもほとんど見なかった。それが今では瀬目だけでなく、川沿いの里にまで下りてくるようになった。栗やシイタケの被害は、それはひどいものでね。電気の流れる防御ネットを買って来て付けても、サルは木から木へ飛び移ってくるからネットは役に立たない。」
Vol.6
「昭和40年代頃から植林をたくさんやった。村や県が奨励してあんなに拡大造林をやったのに、伐採する頃には価格が暴落。木を伐っても手間賃ばかり高くて見合わない。信じられないだろうけど、昭和50年代には山ではサルもシカもほとんど見なかった。それが今では瀬目だけでなく、川沿いの里にまで下りてくるようになった。栗やシイタケの被害は、それはひどいものでね。電気の流れる防御ネットを買って来て付けても、サルは木から木へ飛び移ってくるからネットも役に立たず、動物との知恵比べだよ。」
車で445号線を走っていて、けたたましい叫び声を上げてサルが川を渡る姿や、車の前を悠然と歩くシカの姿を目にしました。奈良か宮島、動物園などでしか見たことのなかったシカが目の前にすっくと立つ光景に、神さびた雰囲気さえ感じましたが、それは「よそ者」故の貧困な発想。山村にあって、山の獣から作物や生活を守ることはむら人の長い間の闘いだったようです。100年くらい前までは五木にもキツネやクマがいたという話を本で読みましたが、今では話に聞きません。サルやシカがここ10年間で激増していると誰もが口を揃えます。以前は、保護のため雌シカは撃ってはいけない決まりがあり、狩猟期間を越えて猟に出ることもほとんどありませんでした。現在では狩猟期間外でも駆除申請を出すほどで、それでも焼け石に水なのだと言います。どこかで生態系のバランスが壊れてしまっていることが原因でしょうが、増え続ける被害に対して公的補助や調査、対策などは十分なものとは言えず、人びとのやるせない思いは行き着く先がありません。
話題は子ども時代に移ります。
「瀬目の子どもは、キンマ道を通って国道に出て、そこから南小や頭地の小学校に通った。国道も昔はもっと下にあったし、子どもの足だから時間もかかる。小学校は歩いて通ったけど、中学校は遠いので自転車通学の人もいた。キンマ道は自転車も通れないから、下に自転車を置いてそこから自転車に乗った。子どもだった頃は、瀬目や宮目木当たりから14、15人で一緒に小中学校に通ってたかな。」
「中学校のころに、学校に遅れそうになったらそのままみんなでサボったりもした。板木の発電所辺りの川で泳いで、下校時間になったらいつも通りに家へ帰って親には黙っていたり。真夏でも川辺川の水は冷たくて、ずっと浸かっていたら体が冷えてしまう。しばらく泳いだら岩に上がって体を温めてからまたもぐっていた。学校をサボったりはしたけど、タバコを吸ったりはしなかった。頭地の中学校に行って、授業が終わって帰ってきてたらもう夜の8時過ぎ。ご飯を食べてたらもう寝る時間で、宿題やってる暇なんてない。もし頭地に生まれてたら、家にはすぐ帰れるし、まっすぐ学校に行くしかないし、勉強する時間もたくさんあって今頃は総理大臣になってたかもしれないな。」
懐かしそうに男性は笑います。鮎があふれる川で、ガキ大将やらガラッパやらと一緒に遊ぶ子どもたちの様子が目に浮かぶようです。平地で育った私には頭地でも山奥のような印象でしたが、その頭地の学校まで1時間以上ある場所に住む人々にとって、小中高校や商店、民宿や役場、病院などがある頭地はやはり村の中心地。学校帰りに駄菓子を買えることも、子ども心にはうらやましく思えたかもしれません。

Vol.7
高い山々に囲まれた五木では、夕暮れは谷底からやってきます。朝日が差し込み始めるのも、人びとが動き出してしばらく過ぎてから。地形や気候が文化を作り、歴史を作ってきました。陽射しは山を滑り下りてきて谷や川を照らし、また静かに山を上って夜が来ます。山腹にある瀬目は、川沿いの集落に比べると少し長くまで陽が射しています。夕暮れが近づき、私もいとま乞いをして山を下りることにしました。
細い道を車で降りると、国道沿いの売店で女性たちが店じまいをしていました。瀬目公園には、売店のほかにも展望台と公衆トイレがあり、道を挟むと瀬目の滝へ続く道があります。「瀬目」公園とは言っても地名では金川(かなごう)。瀬目の滝へ続く遊歩道があるので、瀬目公園の名が付いています。せっかく来たお客さんに気持ちよく過ごしてもらいたいからと、遊歩道の草刈りも瀬目の人びとで自主的にやっているのだそうです。
「四季の里」は今年、開店6年目を迎えます。ここまでやって来るのには、それなりの苦労がありました。建物は村が作ってくれましたが、内装や大型冷蔵庫などの備品は自分達の負担。みんなで借金をして買い揃え、現在でも収益の中の多くはその返済に充てざるをえません。自分たちが日頃食べているものを、お客さんがおいしいと言ってくれる。それが嬉しいから苦労をしながらも続けてきたのだと言います。店頭には山椒味噌や葉ワサビ、蕗のつくだ煮やワラビの塩漬けなど、採れたての山の幸が並びました。新芽の出る季節には、瀬目の女性たちで山に入ります。ちょうど良い季節を見計らって、1週間かけて1年分の山菜を摘むのだそうです。
最近困っていることに、村の外から山菜を採りに来た人のマナーの悪さがあります。今年も山に入ると、タラの目が枝ごともぎ取られていました。地元の人は、来年も収穫できるようにと芽だけを摘んで採りますが、村外から来た人は容赦なしなのだと言います。それに加え、今年は生産者の1人が手を痛め、作業に参加することができませんでした。四季の里を運営している瀬目の婦人会と老人会は、40代半ばから81歳までの5人。少人数なので1人抜けただけでも痛手になってしまいます。大型機械があるわけでも補助金を受けているわけでもなく、それぞれ農作業や家庭の仕事を抱えて、すべて手作業、手弁当。女性たちも年を重ねていく中で、これから先いつまで続けていけるのだろうという不安も抱えています。
それでも、「もっといろいろな商品開発をしたい」と店先の女性は明るい表情を見せます。山の山菜は里のものよりたくましくて種類も多く、ほかの人にも味わってほしいものがまだまだあります。昔ながらの灰汁で固めたコンニャク玉やヨモギ饅頭は店頭に出るとすぐに売り切れるほどで、10年ほど前に国道沿いの小屋で販売を初めて以来、経営もなんとか軌道に乗りつつあります。素朴な外装の商品にきちんとラベルも付けて、できればもう少し見栄え良くしたいのだと言います。県の農業普及センターは、売店の立ち上げにも協力してくれ、数年前からは年に一度ボランティアで草取りの手伝いにも来てくれるようになりました。
「利益を考えていたら続けてこれなかった。みなさんの笑顔が嬉しくて、細々とですがこれまで続けて来れました」。
もっとおいしいものを作りたい。もっとお客さんに喜んでほしい。そんな気持ちが、女性たちの今を支えています。
(「四季の里」8時から夕方4時まで。毎週火曜定休。電話0966-37-2822)
Vol.8
相良村から国道445号線を通り五木村に抜ける途中、左手にレトロな雰囲気の発電所が見えてきます。ひんやりとした木陰にある「六藤」バス停を降り橋を渡れば、そこが川辺川第二発電所です。
発電所は(株)チッソの所有。昭和10年に建設された当時は九配電(九州電力の前身)の所有でしたが、昭和39年に九電からチッソへと譲渡されたとのこと。鹿児島県川内にあったチッソ層木発電所などがダム建設により水没することになったため、現物補償という形で譲渡されたのだそうです。
白い壁と三角屋根。辺りの風景に溶け込んだかわいらしい発電所ですが、よく見るとところどころ黒ずんだ染みが見えます。戦時中、白い発電所だと空から見て目立つため、攻撃目標にされることを恐れてわざとタールで黒く塗られた名残りなのだそうです。
この川辺川第二発電所は、五木村野々脇から引いた水で水力発電をしています。取水口のある堤防は、「野々脇の堰堤」として人びとから長く親しまれてきました。五木村南部の水没予定集落の一つ、野々脇地区の入口にあります。かつて野々脇には20軒ほどの家族が生活していましたが、川辺川ダム計画に伴う移転で多くが村外へ移転。旧野々脇地区で今も村内で暮らすのは、森口商店ただ一軒となりました。野々脇もまた、ダムによって共同体が離散させられた地区になります。
堰堤そばの旧道沿いには、集落の跡が連なっています。雑草に覆われていますが、草間には苔むした石垣が見え、手入れをする人を無くした庭木も伸び放題。人の姿はなくなっても、かすかに生活の記憶を残しています。平成4年に閉校となった五木南小学校の場所は、正門前の横断歩道と、校門へ続くセメントの坂ですぐに分かります。南小跡地は今では土砂置き場となり、工事用重機が時々作業をしています。写真でしか見たことのない、かつての茶色い校舎の面影を探して校庭に立つと、山ぎわのコンクリートの壁に消えかけた壁画が残っているのが見えます。校庭のフェンスは錆びてボロボロで、黙って風にさらされていました。
さて、川辺川の水の一部は、野々脇の堰堤から隧道(地下の導水トンネル)を通ることになります。発電所裏手から一気に山腹を駆け下り発電タービンを回した後、また本流に合流します。山肌に張り付いた2本の太いパイプに並んで、大小二つの水路が走っています。大きな水路は、発電を止めて発電機のメンテナンスをする際に、不要な水を流すためのもの。小さい方の水路は、以前木材を運搬する際に使われていたものだそうです。
まだ車のなかった頃、川辺川は極めて重要な交易路でした。山で伐り出した材木は、牛馬か川を使って町へ運び出しましたが、太く重い材木を馬に引かせ、曲がりくねった細い道を通るのは大変な苦労で、多くは手間も経費も少なくて済む川流しを利用していました。野々脇に堰がなく、下流にもダムがなかった時分には、材木はそのまま川に浮かべられて人吉や八代まで下っていたそう。それはさほど遠い昔の話でもないのだと言います。
堰堤ができてからは、材木は野々脇から一旦隧道を通るようになりました。山腹にある隧道出口では、水だけが導管へ流れるようきちんと設計されているのだとのこと。しかし木材を流す時には、万一に備えて出水口側にも人が付き、鉄のトビで引っかけて木材を細い水路へと流していました。
Vol.9
チッソの竹の川・頭地発電所ができたのが昭和初期で、その後昭和10年代に、野々脇の堰堤と六藤を結ぶ川辺川第二発電所が、続いて逆瀬川の九電川辺川第一発電所、平野の九電五木川第二発電所が完成。時代が下がって内谷発電所と内谷ダム、梶原発電所ができました。いずれも豊富な川辺川やその支流の水を利用した、水力発電所です。
発電所建設は、村にいくつかの変化をもたらしました。工事中は作業員、完成後は発電所職員として村に外部から人びとが入り、また地元に新たな雇用も生み出しました。資材を運ぶために道も整備され、依然として悪道ながら、多少の不便さは解消されたようです。発電所付近には早くから電気が灯り、人吉辺りから見学者もあったのだそう。一方で川に流量減少区間ができたり、堰が作られたりして河川環境が変わりました。鮎やヤマメ、ホタルなどが減り、材木の川流しにも支障を来たすようになりました。
発電所建設には、朝鮮人労働者もいたそうです。隧道掘りなどのために、朝鮮から連れて来られた人びとも働いていたと聞きます。昭和15年、五木川第二発電所建設工事中に起きた落盤事故によって命を落とした7名のうち、そのほとんどが朝鮮人だったという記録が残されているそうです。戦争中、村に朝鮮人がいたとを記憶している人も多く、頭地発電所工事の際には朝鮮人をたくさん見かけたと聞きました。第二次大戦中、下流の高原大地には飛行場や地下倉庫があり、労働者として連れて来られた朝鮮人が付近の小学校講堂などで生活していたそうです。戦争中のこととは言え、遠く故郷の地を離れ労働を強いられ、無念さの中で命を落として行った人びとを思うと、強く胸が痛みます。
五木村は、300年以上続く地付きの家もある一方で、人の出入りの激しい所だった面もあり、各集落にはよく無縁仏が残されています。外部から来た山師や、放浪の果てに五木へ流れ着いた人がそのまま亡くなったり、様々な事情で絶家となった家などもあった様子。大平地区右岸の杉林の中には、銅山労働者の墓が200基近くあり、縁者も見つからないまま放置されています。村内に、朝鮮人労働者の墓が残っているという話や、発電所建設工事で亡くなった霊を祀る慰霊碑があるという話も聞きました。
さて、相良村六藤にある川辺川第二発電所は、昭和62年以降無人化されました。現在は、水俣から遠隔操作されていますが、以前は常時職員がいたそうです。戦前が最も多く、地上と地下、常時作業員数人が一組となって、24時間3交代制で管理をしていたそうです。発電所付近には社宅が数棟あり、普通は一棟に2家族、独身寮もあったのだと言います。五木の頭地発電所そばには、今でも赤い屋根の社宅が残っています。
無人化された六藤の発電所でも、メンテナンスだけは業務委託を受けた作業員が担当しています。発電所の管理で最も大変なのは、大雨で川が増水した時ではなく、台風で山の木が倒れたり、雷が山に落ちたりする季節だそう。倒木により送電線が切断されたり、送電線に落雷し高い電圧が流れたりすると自動的に送電が止まります。すると発電所運転を止め、送電線の復旧作業が終わるまで待機となります。山に入って取水口や関係設備を確認して回ったり、運転休止中は取水口からの水もそのまま川へ流したり。台風が来ると夜中でも仕事に出かけなければいけないのだそう。台風で発電所の屋根が飛んだことはあったそうですが、発電機自体の故障は、最近では滅多にないのだと言います。
Vol.10
さて、川辺川ダム計画ではこれら発電所のうち3つが閉鎖予定となっています。
チッソの五木村頭地発電所と相良村六藤にある川辺川第二発電所、それに逆瀬川にある九電川辺川第一発電所で、それぞれ発電所自体や取水口が水没地となるため閉鎖される予定。その代わり、ダムの水を利用した相良発電所が建設されることとなっています。
五木村とダムとの関わりも、元々は発電が目的でした。川辺川ダムの歴史は、昭和20年代、電源開発株式会社が発電用ダムとして調査を始めた頃に遡ります。昭和32年、電源開発が発表した計画では、最大出力14万キロワット。水門予定地は藤田ではなく頭地地区直下となっていました。
熊本市の県立図書館に「五木村下頭地ダム建設反対陳情書」という冊子が保存されています。
「電源開発株式会社による調査開始以来われわれ村民の精神的動揺は日増に強くなっている現状であり個人の産業開発生活の充実発展を強く阻害しつつあるのであります。新聞等が伝えるところのダム建設が若し実施されることになれば村行政の中心地である頭地は全く水没し約四百戸に近い住民は先祖伝来の土地を離れて他所にそれを求めることにはなりますものの現住地より以上な安住地を求めることは極めて困難なことであります。・・・」
色褪せた粗末な紙に、ガリ版刷りの青インク。昭和32年1月、村民各世帯の印を添え、村長と議会の名前で桜井三郎県知事(当時)にダム中止を陳情する内容でした。その後、ダム予定地は下頭地から相良村藤田へ移動。同時期、同じ電源開発が球磨村に計画していた神瀬ダムが中止へ追い込まれたこともあり、このダムは一旦立ち消えになりますが、国土総合開発計画の中でダムが再浮上。高原台地の灌漑に強い意欲を持っていた熊本県や相良村は、利水ダムとして積極的姿勢を示していました。当時の日本は岩戸景気直後。高度経済成長期の入り口にありました。できるのかできないのか。発電なのか利水なのか。はっきりしないまま数年がたち、昭和41年7月、3年連続の大水害を理由に、国は治水ダムとして川辺川ダム計画を発表。その後利水や発電などが目的に追加され、多目的ダムとなりました。五木の深い谷間は、格好のダム予定地として早くから目を付けられ、村民は40年間に渡り水没への不安に揺られてきたわけです。
ダムにより廃止予定とされる3発電所の発電最大出力は、1万5900KW。代わりに、川辺川ダムによって発電される電力は最大1万6500KW。わずか600KWの増加にしかならないことはよく知られていますが、これに加え、上流にある竹の川発電所の廃止の噂もあります。ダムができると、堆砂が始まる位置になるため実質稼働できなくなるのではと何度か耳にしました。もし最大出力3000KWのチッソ竹の川発電所まで閉鎖されれば、返ってマイナスに転落することに。発電目的は後から追加されたものなので、ダムの規模の割に発電量が少ないのです。
発電所の管理者に尋ねると、「会社の上の方のことはよう分からんですけん。」と素っ気ない返事。ダムができるできると言って10年たち、さらにまた10年が過ぎたと言います。
「ダムができれば仕事もなくなるかもしれんばってん、下の者には具体的な詳しい話は今もあっとらんです。ダム問題をめぐる状況も、最近では変わってきましたもんね。」
もしあと10年ダム建設が延びたら、自分も定年退職の年になるのだと男性は苦笑します。
Vol.11
去年の夏、五木村頭地に泊まったことがあります。川辺川と五木村に関心を持つ若手の人に呼びかけて、五木村を知り、村の視点から川辺川を考えるための合宿を開いたのでした。京都や福岡、東京から来た学生と社会人20名ほどで、公会堂と呼ばれている地区の集会所を借り自炊をしながら一泊二日を過ごしました。二日目の朝、早くに目が覚めてしまった私は、寝袋の中で眠る他の人たちを起こさないよう起き出して、外を歩いてみました。
今でも鮮烈に覚えているのは、村で迎えたこの朝の光景です。川辺川にかかった朝もやが次第に薄れ、山の端からじわじわと朝日が降りくるのを見ていました。晴れ渡った夏空と、色濃く萌える山の緑。谷底までやっと降りてきた日差しに、濡れた緑の一つ一つが照り輝いていました。
頭地に住む方から、「若い頃は、ここをすり鉢の底だと思っていた」という言葉を聞いたことがあります。周囲をぐるりと山に囲まれ、地平線も、真っ赤な夕焼けも見ることのない村の暮らし。20年前までは国道445号線はまだ県道扱いでした。道は、屏風のように迫り来る山を左右によけながら、細くうねるように走っていました。狭くて見通しの悪い道で、「地獄の一丁目」と呼ばれる急カーブもあったと聞きます。人吉まで出るにも、バスで1時間半かかっていました。
ドイツの詩人、カール・ブッセの詩に「山のあなた」という有名なものがあります。
山のあなたの空遠く
幸い住むと人のいう。
ああ、われ人と尋(と)めゆきて
涙さしぐみかえりきぬ。
山のあなたになお遠く
幸い住むとひとの言う。
(上田敏訳)
村を「すり鉢の底」と例えた心理には、“山の向こう”への憧憬もあったのかもしれません。
地元に暮らす人びとにとって当たり前の光景でも、よそ者には不思議に思えたり、新鮮に目に映るというのはよくある話。五木村でも同じことが言えると思います。
例えば、苔。村の長い歴史を表すかのように、五木では苔やシダ類の群生を多く目にします。コンクリート塀や墓石、庭石だけなく、電柱や樹木、お地蔵さまや庚申塔などが苔やシダにびっしりと覆い尽くされているのを目にしました。日本では古来、苔も芸術として鑑賞の対象で、世界文化遺産にも登録された京都の西芳寺は苔寺とも呼ばれ、境内に見事な苔庭があります。五木では人びとの暮らしの中にあって、一つの芸術を作り出しています。
村唯一のお寺である新泉寺にも、苔の袈裟を着た小さなお地蔵さまがいます。お寺の入り口にはそれぞれ石のお堂に納まった、2体のお地蔵が向き合って立っています。古く、五木には地蔵前婚の風習があったそうで、そのお地蔵さまなのだと言います。きっとこれまで何人もの花嫁、花婿を祝福してきたのでしょう。
映画「ネバーエンディング・ストーリー」(果てしない物語)の中に、2体の向き合ったスフィンクスの守る門の話が出てきます。心にやましさを持つ者が門を通ろうとすれば、スフィンクスの目から光が出て、その者を焼き殺してしまうのです。
人に言えない悩み事を抱えそっと寺を尋ねる人や、先祖供養にお参りする人、思い出の場所に別れを告げに来る人や、早く移転立ち退きをと迫る人たちなど、様々な人がこのお地蔵さまの前を通って行ったことでしょう。厳格なスフィンクスとは違い、五木のお地蔵さまは優しい目をしています。人のやましさも弱さも包み込み、今日も静かに村の「今」を見つめています。
Vol.12
もう一つ、五木村でよく目にするものにお堂があります。ほぼ各集落に一つずつ、お地蔵さま、観音さま、薬師さまなどを祀ったお堂やお社があり、地域の人の手によって大切に守られてきました。お堂や神社の側には、しばしば大きな銀杏の樹が見られます。秋になれば五木のあちこちで黄金色に色づいた大きな柱が見られ、お堂前にも黄色い絨毯が広がります。
五木村の中心地頭地地区は、下流から下手、田口、溝の口、川を挟んで久領という集落によって成り立っていて、それぞれに堂祠が祀られています。下手のお堂は頭地橋のたもと。田口の観音堂は旧道沿いの銀杏の木の隣り、公会堂の向かい側に。溝の口では、子守唄公園よりやや下の田の奥にお薬師様が祀ってあって、久領では、消防署の隣りから保育所の方へ少し上った所に薬師堂があります。
下手はさらに細かく、二瀬、栗瀬、船戸の3地区に分かれていました。ダンナと呼ばれてきた旧家も下手には3戸あり、元はそのそれぞれが堂祠を祭っていました。現在では一つのお堂に合祀されています。ダンナ家が代々お堂の祭祀を中心的に担ってきたというケースです。一方で、田口にはダンナ家がないのですが、お堂はあり地蔵祭りも行われて来ました。田口は他の集落と違って田口地区共有地もあるそうで、そのこととダンナ家がないこととは関係があるのかどうかなど、いっそう興味をそそられます。
新しく造成された頭地代替地は、溝の口と田口の裏山に当たります。以前のこの場所は、上の方に松本という数戸の集落があったほかは畑で、ほかに少しの林が広がっていました。川辺川が目の前にあっても、五木では昔から簡単に農業用水を手に入れることができたわけではありません。川より高い場所に水を引くのはどこでも難儀で、谷水はあっても水田にするにはまったく足りないのがほとんどでした。川へ下った旧道沿いにはいくらかの水田がありますが、それも先人たちが苦労をし水を引いてきたお陰だそうです。頭地の裏山はジョウバタ(畑)のままついにタンナカ(田)にはならず、その後ダム計画に伴い国が買収しました。買収とは言っても、その引き替えにと国が農家の方に約束した代替農地は、20年たった今でも口約束のまま。ただの一枚も造成されていません。高野地区に完成している別の代替農地では、耕作者のない田畑も出始めているようす。旧頭地集落の上に盛り土をし数年後に完成予定という頭地代替農地計画も、同じ運命を辿るのではないかと懸念されています。
五木の中でも、この川辺川と五木小川の合流地点は最も建物の密集した地区でした。役場、森林組合、商工会、へき地診療所、駐在所、郵便局などの公共機関があり、正に村の中枢神経。代替地へすでに移転を済ませた商店や理髪店、ガソリンスタンド、食堂、民宿などの他にも、スーパー式雑貨店や旅館数軒、薬局、クリーニング店、畳屋、写真屋、飲み屋、タクシー、自転車修理屋などがあり、日常生活のほとんどすべてをまかなうことができました。ダム移転による急激な人口減のため店を続けることが難しくなり、閉店を余儀なくされた店も少なくありません。現在の旧集落からは往時の姿を想像することは難しいのですが、時の移り変わりを一番実感されているのは、地元に暮らしてきた方なのだろうと思います。
お堂を中心とした共同体形成は、五木村の一つの特色でもあります。南に隣接する相良村北部地区も元は四浦村と言い、昭和31年に川村と合併して現在の相良村になるまでは、独立した一つの村でした。
Vol.13
村の方から、昔は帰省する際、バスが藤田谷辺りまでくると、やっと「ふる里へ帰ってきたのだ」という安堵の思いがしたものだと聞きました。旧四浦村北部の集落は、地形や集落形成が五木村とよく似ていて、川まで迫る山の、わずかに傾斜の緩やかな場所を選んで集落が形作られました。四浦北部の集落にも、やはりお堂がありました。
相良村藤田や五木村金川のように、住民移転はずっと早くに終わっても、ごく最近までお堂だけがポツンと草むらに取り残されていた地区もあります。水没予定地ではこの間、仏像や鰐口が盗まれたり、住民が減って地蔵祭りそのものがほとんど行われなくなったりということも。有形無形の文化財調査に関しては、村の先人たちの熱意と努力により、人文・自然編2巻から成る五木村学術調査報告書も刊行されています。ただし共同体は机上のものではなく、実体あってこそ。法律がない限り、国は水没地の文化財保護には不熱心なようで、仏像の盗難には村と国とにも一因があるとの声も聞きました。
ところで現在、五木村では、頭地下手地区にある五木東小学校旧校舎が、解体の危機に直面しています。黒い板壁に白い窓枠、玄関横の二宮金次郎像と広い運動場。校庭から6500年前の縄文遺跡が出土したことでも知られています。校舎を見た誰もが懐かしい思いにとらわれるのは、「二十四の瞳」や童話「太郎こおろぎ」に出てくる学校そのままに、周囲の風景に調和した見事な建物だからでしょう。おまけに校庭の横には川辺川と、ここは最高のロケーション。住みたいくらいです。現在の校舎は築65年で、現在70歳の方々が新校舎一期生でした。今年4月に児童たちが代替地の校舎へ移るまで、現役の校舎としては県内最古だったそう。新校舎のランチルームが工事中なので、子どもたちは給食の時間だけ下の校舎へおりていますが、この夏休み中にも本体校舎を解体するのだと言います。
「ルーツ(根)なくしては、人も花も生きられない(DES RACINES POUR VIVRE)」という言葉があります。自分へと続く、人の営みを知ることは、命を大切にすることにもつながってきます。今も水没地に暮らすある農家の方が長いことダムに反対してきたのは、先祖が切り開いてきた田畑と自給自足の今の生活を守りたいためだったと言います。様々な思いで村を離れた方々の心にも、自分のルーツである五木村への望郷の念は強く、恐らく決して消えることはないでしょう。
現在、各地で廃校を活かした取り組みが行われています。自分たちのルーツにつながり、貴重な文化遺産でもある校舎をそのまま壊すのではなく、村づくりの拠点としてもう一度息を吹き込もうという取り組みです。過疎化や高齢化など、どの村も同じ問題を抱えていますが、それぞれ住民を中心にしてユニークな試みが行われています。今年4月、文部科学省が出した「廃校リニューアル50選」という報告書には、歴史資料館や体験型宿泊施設、高齢者福祉や文化交流施設、図書館、美術館、小劇場、観光拠点や町営住宅、NPO事務所などなど各地のさまざまな事例が紹介されています。
この時期に、五木東小学校旧校舎を急ぎ解体する理由はどこにもないのではないでしょうか。村を訪れる私たち“よそ者”にとっても、東小旧校舎はふるさとの原風景であり、五木村のシンボル。解体して手遅れになってしまう前に、村が解体を延期し、地域づくりの拠点として活かす方向で検討してくれるよう願うばかりです。
Vol.14
田口のお堂では、毎年お堂祭りが行われていました。頭地地区の中ほど、旧道沿いの銀杏の隣りにある小さなお堂です。お堂祭りの日になると、きれいに掃除された観音様の前に、田口地区の方たちが作った饅頭や団子をお供えします。お祭りが終わると、このお供え物は地区の子どもたちに均等に分けられました。昔は甘い物もあまりなく、このお供え物を目当てに子どもたちはみんなお堂祭りを楽しみにしていたそうです。
今はどうなったのか、どうなっているのかは分かりません。ほとんど行われていないのではとのことで、お堂も少しずつ荒れてしまっているようす。鰐口もいつの間にか消えてしまって、今も見つかっていません。
金川地区では、昭和60年までに民家が移転を済ませた後、草むらに埋もれるようにしてお堂だけが長く残っていました。ここでも、この20年間に薬師像が盗難に遭い、今でも行方不明になっています。昨年になって右岸付替道路沿いにお堂も移されましたが、中を見ると、肝心の仏像は不在。周囲には民家はまったくなく、右岸道路は開通していないので、工事作業員以外は前を通る人もいません。中は落ち葉と虫のフンで荒れ果て、同じ敷地内にある「金川記念碑」の下には、無縁仏が埋められているそうですが、参る人もいなくなってしまいました。 仏像が「盗まれた」とは言っても、もしかすると、草むらに取り残されたお堂を不憫に思い、祀り直そうと思って誰かが持って行ったのかもしれません。あるいは、売れば骨董品だからと持って行かれたのか。三十三観音のように、堂を巡る慣習はありませんが、五木村の各地区のお堂には古いものも多いようです。相良村北部の岳野は、10年ほど前に地滑り地帯指定を受け、3家族が移転を余儀なくされました。川辺川右岸の、四浦トンネル側の上部にあった小さな集落で、ダム水没地ではなかったのですが、ダムができると地滑りが起きると国に言われたのだそうです。岳野にもお堂があり、仏像や鉄の矢と鏡があったそうです。矢は、岳野を開いたと言われる「よいちざえもん」の矢だそうで、岳野にあった3軒がお堂を守ってきました。移転に当たり熱心な収集家が来て、お堂ごと売ってほしいとも言われたのだとか。岳野の方は、祖先が守り継いで来たものを売ってしまってはバチが当たるからと丁重に断り、3軒で話し合い、相良村に移転された一家族が自宅と一緒に移転してきました。
五木村には村指定記念物のケヤキや銀杏の大木もあります。「五木には国や県指定の文化財がほとんどない、だから観光資源はないのだ」と村の人が嘆いていたのを聞きました。指定を受けても維持管理が大変だとか、村にあるのは大した文化財ではないとか。村行政も同じ立場だとも聞きましたが、もしそうなのだとしたらそれは間違いだと言いたいです。文化財は、指定を受けたから大事に保護するものではなく、祖先から地域で受け継ぎ、また次の世代へと伝えてゆくべきもの。“よそ者”ながら、惜しまれてなりません。
旧小浜地区に、現在でも茅葺き民家が残されていると聞きました。持ち主が村外へ移転する際に村が移築の可能性を考え、とりあえずそのまま保存したのだと言います。きちんと図面を取り、現在でも元の位置にあるそうですが、移築予定地は未定のまま。主を無くした家はすぐに荒れるもので、早く良い移築先が決まると良いのだがと気になります。
Vol.15
田口のお堂には、ほかにもおもしろい話があります。
昔、と言っても100年も昔ではありませんが、日本のあちこちの農山村では、よく漂泊者の姿が見られました。村の外からやってきて一時的に滞在し、多くはもの乞いをしたり、技芸を披露したりお経を上げたりして門付けや米や豆などを得ていました。生活に苦しむ者、人に言えない事情を抱えた者や、目や耳にハンディを負った者、或いは漂泊を好む者など。一人者以外にも、夫婦連れや子ども連れであることもあったそうです。
今から60年ほど前、頭地地区田口の観音堂に、しばらく「うりゅうじいさん」と呼ばれる老人が住んでいたそうです。村の人ではなく、ある日ふらりとやってきた流れ者。お堂の近くに住む地元の方に、少し話を伺いました。
「私たちがまだ子どもだった頃、田口の銀杏のそばにあるお堂にうりゅうじいさんという人が住んでいた。年は70くらいだったろうか。本当の名前は知らないし、どこから来たのかもしらない。ただみんな、うりゅうじいさんと呼んでいた。いつの間にか村にやってきて、最初はお堂の軒に住んでいた。下駄を作るのが上手で、村の人に下駄を作ってそれを売り、生計を立てていたようだった。田の仕事などには出なかった。
今はお堂の壁はなくなっているけれど、昔は壁もちゃんとあって、中には囲炉裏も切ってあった。お堂を正面から見て、左手と右手とで間に仕切りがあり、戸も付いていた。村の消防団が夜警をする時は、詰め所として使っていたくらい、しっかりした建物だった。 うりゅうじいさんは、堂の戸で仕切った奥の部屋に住んでいた。ちょっと言うとお堂の管理人みたいな感じで、お堂祭りの時も普通に隣りの部屋にいた。10年近くそのお堂に暮らして、そのまま村で死んだ。田口の者たちみんなで、遺体を埋めて祀ってやった。うりゅうじいさんの墓は、今でも田口にあるのではないだろうか。」
うりゅうじいさんのことは、村の資料にはほとんど出てきません。正式な村の歴史にはつづられていないながら、村の人たちの記憶の中には残っているという、貴重な話に出会えました。ダムの移転補償で無縁仏の処理の曖昧さの問題が出ていますが、うりゅうじいさんの墓はどうなっているのでしょうか。
また五木にはゴゼ、ケギュウと呼ばれた盲目の遊行芸人がやってくることがありました。女性がゴゼ(瞽女)で、男性がケギュウ(検校)。三味線や筑前琵琶を抱えて農山村を歩き、門づけ歌や段物・くどき・はやり歌などを唄っては喜捨を得て、収入としたのだそうです。夫婦者や一人者で、集落を順々に回り、篤農家の家に宿を求めて、村の人に唄や音楽を聴かせたそうです。数日間滞在すると、また次のムラへと出発して行きました。
「ずっと昔、うちの座敷にもケギュウを泊めたことがある。ケギュウが誰かの家に来たら、『ケギュウどんの来やった』と子どもが言って回った。夜になると、近くの家からみんなその家に集まって、三味線や筑前琵琶を聴いた。昔は娯楽が少なかったから、こういった人たちの唄を聴くのは楽しみだった。」
昔はもの乞いの姿も多く見られたのだそう。そちらはお堂や寺に宿を借りたようです。
うりゅうじいさんやゴゼ、ケギュウのことを記憶している方の数も少なくなってしまいました。今では全く見られない風習なだけに、彼らがどこからやって来たのかは、交通路や昔の人の移動範囲を知る上でも興味のあるところです。
(参考文献:『五木の民俗』五木村民俗調査団編、1993年)
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