+ 週刊ひとよし 「私的“五木紀行”」

その1  2003年4月〜 Vol.1-15
その2  〜2003年12月 Vol.16-31
その3  2004年7月4日〜 Vol.32-Vol.65(最終回)

週刊ひとよしに掲載させていただいている、『私的“五木紀行”〜よそもの故の考察〜』です。
2005年4月3日号で終了しました。

Vol.1-15▼
Vol.16-31▼

Vol.32(2004.7.4掲載)

 昨年10月からしばらくタイに行っていました。離れている間もどうしても五木が気にかかり、メコン川を見ては川辺川を思い出し、サルウィン川(ビルマとタイ国境)の渓谷を見ては五木の山々を思い出していました。2月に帰って訪ねた五木はまだ冬枯れの寒々しい光景でしたが、3月初めの寒の戻りでは、思いがけず雪化粧した山々を眺めることができました。下旬になると頭地でも桜が咲き始め、旧道沿いに並んで咲いた薄いもも色の花と黄色い菜の花とが、無人に近くなった昔の頭地に彩りを添えていました。
 ソメイヨシノが盛りを過ぎると山桜。それが散り始めると次は新緑の季節です。
 どの季節の五木も良いのですが、今年の新緑はことに美しく目に映えました。傾斜の急な山腹は植林されていないままの自然林も多く、宮原五木線沿いや少し奥へ入った谷あいでは眩しいほどの新緑が山を包みます。明るい黄緑でも彩度がさまざまで、ほとんど白に近い緑や茶色の混じった緑もあれば、赤みがかった緑もあります。同じ「緑色」でもこんなにたくさんの色があったのかと驚くばかりで、杉やヒノキの深い緑と混じり合い、パッチワークのように五木の山に彩りを与えていました。冬の間ためていた生命力が色鮮やかな萌える新緑となって、春の訪れを喜んでいるようでした。
 5月5日に頭地を訪ねると、ちょうど今朝作ったばかりだからとアクマキをご馳走になりました。包みをほどいて包丁を入れると、中までほんのり褐色に染みて、米粒が見分けられないほどよく蒸し上がっていました。上白糖をかけてほおばると、甘みと一緒にもち米の味と竹の皮の香りが口いっぱいに広がります。アクマキを作る時は、一度に何本も作るのだそう。もち米を灰汁に一晩ひたし、竹の皮に包んで大きな鍋に入れ、数時間かけてぐつぐつ茹でると出来上がりです。アクマキが五木で作られるようになったのは戦後のことで、そう古い話ではないようです。誰かが作り方を習ってきて、それからまたその人に作り方を聞いてというふうに広がったと聞きました。コンニャクと同じで、アクマキもいい灰汁を使わないとおいしいものではできないそう。昔ながらの大きなクドがあり、自分で焼いた良質の木炭を使っているそのお宅へは、代替地に移った方が灰を分けてほしいと訪ねて来られることもあるのだと聞きました。
 昔は五木では、端午の節句には子どもがいる家庭でもいない家庭でもチマキを作ったそうです。竹の皮の上に小麦を平たく伸ばし、中心に小豆餡や黄色いキビを細く置いてそのまま巻き、茹でたものを輪切りにして食べるのだそう。竹の皮で包んで上下を折り返し、紐でぎゅっと縛った棒のような形で、アクマキもチマキも見かけは同じなのだそうです。子どもの日前後によく店頭で目にするのは、笹で餅を包み、細長く三角錐型に巻き上げたものですが、同じチマキでも五木では少し違ったようです。

写真=新緑の季節になると山がにぎやかに。同じ緑でもこんなに違う
写真2=アクマキが入ったのは戦後のこと。砂糖やきなこをかけて頂く


Vol.33(2004.7.11掲載)
 五木村が歴史書に出てくるのは12世紀のこと。33人の地頭が治める五木谷は、現在の五木村とほぼ同じ地域を指したと思われます。ダンナ制は五木の村落社会をさまざまな側面において特徴づけているものの一つ。「農地は戦後土地改革で小作人に解放されたが、山林は解放されなかったのでそのまま大地主制が残った」とはよく耳にする話です。五木の総面積253平方kmのうち、山林は243平方kmとその96.1%を占めています。うち国有林の25.5平方kmをのぞいた残りの217.62平方kmは民有林になっています。村の総面積の86%が私有林というわけです。この中には私有林や共有林もあるでしょうが、ダンナの持つ山もかなりの広さを占めると聞いています。農地の少なかった土地柄、焼畑農業が戦後も長く続いていましたが、コバ作ではまとまった広さを必要とし、その上数年ごとにコバを移動しなければならなかったため、ダンナの持つ広い山を借りて焼くことが多くありました。自然にダンナ家とナゴ家との結びつきは強くなります。コバを借りたトウドとして、昔はテマガイと言って農繁期や山仕事の際にダンナ家へ手伝いに行ったり、盆や正月に焼酎を提げて挨拶に行ったり、収穫物の一部を納めたりしていたそうです。
 五木のむら社会を大きく特徴づけるダンナ制度は、多くの「よそ者」にとって非常に興味深いテーマでもあります。近代になって徐々に五木の村社会も変わりつつありますが、それがどう変容してきたのか、今後どのようになっていくのかは大変関心のあるところです。
 五木では、一集落、或いは小さな数集落ごとにその土地のダンナ家があります。その地区の中に家を構えていることもあれば、後の時代になって頭地や村外へ移転したなどに、その土地にいないこともあるようです。同じダンナ家を持つ複数の集落はかつての「ムラ」で、現在の行政区である区とほぼ同じになっています。大平、葛ノ八重、宮目木は一つの「大久保」(オクボまたはオオクボ)というムラで、大久保のダンナである田山氏は頭地に住まわれていると聞きました。しかし後になって大平は行政区で逆瀬川と一緒になったそう。逆瀬川にもダンナ家がありましたが、そこと大平の家とは特にダンナ−ナゴ関係はなかったそうですで、区がムラと一致しない例もあるそうです。
 中世以降の長い長い歴史の中で、没落してツブレたダンナ家や、遠方への転出のためムラの家に財産分けをして出ていくダンナ家もあったと聞きました。ダムによる移転が始まる前までは、頭地地区は下流から下手、田口、溝ノ口、少し山手の松本、川向こうの久領の各区によって構成されていました。人口の多かった下手や田口はさらに小さく分けられ、それぞれに小集落名があったと聞きます。旧道の元役場より少し上の辺りから、びゃーどんのお墓のある辺りまでが田口。とんち者として知られるびゃーどんこと木野兵衛は、溝ノ口のダンナである木野家の先祖になるそうで、そのお墓が溝ノ口と田口との境付近になります。田口は、五木では珍しいダンナ家がない集落の一つ。コバサクは誰の土地でやっていたのかと言うと、共有地を使ってきたそうです。ダンナの土地がない代わりに、「田口組」名義の区有地、または旧家の十人で共有する「十人持ち」の土地や五人、三人と言った数人で共有する土地がありました。

写真=溝の口薬師堂の隣りに咲いたアジサイ。びゃーどんの墓も近くにある


Vol.34(2004.7.18掲載)
 ダンナのいない田口にも、古くは渡辺姓のダンナ家があったのだそう。田口の隣りの集落、下手の五木荘裏手の川べりには、渡辺の墓と言われる石碑が今も残ります。荒削りの石碑の表には、三つ星に一文字、「渡辺紋」と言われる家紋が刻まれています。五木は現在でも川辺川左岸を東俣、五木小川沿いを西俣と呼びますが、渡辺家はその東俣庄屋だったと伝えられています。元禄12(1699)年には、東俣は渡辺六郎左衛門、西俣は土屋平右衛門立ち会いの下、五木茶を上八代へ出していたとあり、口銭(仲介料、保管料)として一俵に付き一分を受けていたと古い記録に残っています。
 渡辺家はある時代以降、頭地から忽然と消えてしまいます。豪奢な生活で藩主から咎めを受けたという話、主が自害し家系が絶えたという話、最後の代で村外へ出て行くことになり、その際渡辺家の土地をムラで分けたという話など、関連する話がいくつか伝えられています。一つの事実の一部分ずつなのか、それともそれぞれに異説なのか分かりませんが、その時期と理由についてはよく分かっていません。
 現在も田口に暮らす方からは、渡辺家は財産を処分し村外へ転出したと聞いたと小さい頃祖母に聞いたと伺いました。なんでも東京へ行ったらしいと聞いたが、とのこと。大正末生まれのその方の祖母にあたる方の話だそうですから、明治中期かそれ以前のことのよう。東京とは江戸のことなのか、明治以降の東京を指すのか、それとも単に都市へ転出したことが形を変えて東京と伝わったのか。今では知る由もありません。
 ダンナだったという渡辺家の土地は、田口「組」や当時の住民に共有地として分けられたそうで、田口公会堂あたりも旧家十戸名義の共有地になっていたと聞きました。旧道沿いの大きな銀杏の木の側に、観音堂と向かい合って建っていた公民館です。五木東小学校旧校舎があった土地も、元は田口組持ちだったのを村に譲ったらしいとのこと。興味がわいてきて、役場で古い土地台帳を見せてもらうことにしました。
 明治22(1889)年、それまでの地券が廃止され土地台帳法が施行されます。役場に行くと、茶色い厚紙に「五木村土地台帳第何號」と墨書きされた台帳が、地番順に何冊も保存されていました。褐色の薄いページをめくっていくと、確かに元の田口公会堂やお堂付近の土地は「田口組」や田口の旧家十軒の共有地だったよう。元の東小学校付近の土地の方は、「五木村」か下手にいた住民の名義になっていたようで、田口組の記載はありませんでした。明治20年頃のこの土地台帳に渡辺家の名が出てこないところを見ると、渡辺家消滅?の謎がもっともっと古くに遡るのは間違いなさそうです。
 ダンナのいない田口では、コバ作もタテノ(茅畑)も、田口ムラ共有地か複数人の共有地でした。ダンナのいる集落とではまた異なる秩序があったのだと考えられます。

写真=田口観音堂と大銀杏。ダム水没予定地内にあるため、公会堂はすでに取り壊された。この辺りは田口組の共有地だった


Vol.35(2004.7.25掲載)
 さて先週、五木村頭地の田口集落にはダンナ家がないが、古くには渡辺姓のダンナ家があったと書きました。より正確には渡辺家はダンナ家とは異なり、いわゆる「三十三人の地頭衆」には含まれていません。相良家から使わされた庄屋元で、地付きのダンナ衆とは出自を異にしていました。田口には元々「地付き」のダンナ家はなかったのですが、相良藩支配下になってのちに渡辺家が長く田口に居を構え、実質的な田口ムラのダンナ的存在となっていたようです。
 ダンナ−ナゴの関係は焼畑農地の貸借だけでは語れませんが、田口ムラの特徴の一つに、ダンナ家(渡辺家)から独立して共有地を持ち、コバサクを行っていた農家十戸のつながりがあります。十戸は相互のつながりも深く、「十人衆」とも言われたのだそう。各家から男女一人ずつ出てのコバサクや、各家順々にマワシで行った茅屋根の葺き替え、互いのテマガイ(手間借り)・テマガエシ、植林や山仕事など、十戸そろっての共同作業が多くあったと聞きました。戦中戦後には、瓦葺き替えのための瓦講銀もあり、この十戸は同じ講銀にカタっていたのだそう。瓦講銀は無尽や頼母子講の一種で、まとまったお金の必要な瓦葺き替え用資金を調達するために、講仲間で掛け金を出し合い、集まったお金を講仲間で毎年順番に使っていくという経済的な相互扶助の仕組みです。瓦講銀をした頃はちょうど通貨価値が大きく変動した時期で、遅くに順番の回ってきた家は大変だったとも聞きました。
 さて、車も電話もなかった時代、お役所である相良家から五木ムラへの通達は、人の足や舟を使って、最初に田口の渡辺家へと伝えられました。庄屋元の渡辺家からは東俣地区、つまり平沢津、八重(はえ)、平野、栗鶴、対岸の保楊枝(ほよじ)、宮園、梶原川沿いに嶽、入鴨、梶原、九折瀬(つづらせ)や掛橋から頭地地区をずっと下って板木や下谷、さらに川辺川沿いに続く逆瀬川(さかせごう)、野々脇、清楽、左岸山手の大平・宮目木・葛の八重の大久保へと回し文が回され、各ムラの地頭へと伝えられました。西俣へは渡辺から久領の土屋家へと伝えられ、そこから高野、土会平(つてひら)、平瀬、中村、出ル羽(いずるは)、白岩戸と五木小川とその支流沿いにある各ムラの地頭衆へと回し文が回ったようです。
 その回し文の届けられる道もまた悪路だったよう。牛馬も通れず、人がすれ違うのもやっとという路しかない時代が長くありました。川辺川やその支流沿いを右へ左へと曲がりくねって走っていた旧道が、いかに見通しが悪くせまかったかは皆さんも記憶におありだと思いますが、それでもほんの半世紀ほど前までは、車すら通れない道がほとんどだったのだそうです。近世に最初に道が通ったのは、ダンナ家の庭と庭とを結ぶ道だったとも言われます。それでも川辺川か支流を挟む両岸にムラがあるため、対岸への移動は小舟に乗るか泳いで渡るかしかなかったのだそう。五木では初期に作られたコンクリート橋である竹の川橋や頭地橋は、大正末期から昭和初期にかけた時期に、日窒竹の川発電所や頭地発電所を建設する工事の際整備されたものと記録にあり、発電所建設の副産物としてでした。

写真=渡辺家の墓と呼ばれる礎。下手の川原にある


Vol.36(2004.8.1掲載)
 庄屋元の渡辺家が最後に村から転出する際、渡辺家の持ち家は村へ寄付され、その後小学校用地として使われたようです。旧道沿いの、かつての五木村診療所あとより少し川側へ下りた所は、田口の中でも「古学校」という地名の残る場所。かつて小学校があった土地だと言われています。
 明治以前、五木では士

族や地頭家の子弟を中心に新泉寺や地頭の家を借りる形で初頭教育が行われていましたが、明治5年に学制が公布されて後の明治8年には、五木の頭地、宮園、中村、野々脇の四ヶ所に小学校が作られたと記録にあります。ただ、人口に比して広すぎるとも言える面積を持つ五木村。東西20.7キロ、南北17.5キロ、総面積で252.94平方キロという村の中に、大正時代に入ってからさらに三校、戦後にも二校の分校、本校が新設されましたが、交通の不便は完全には解消されず、通学に数キロという家庭も多かったと記録されています。コバサクの際の出作小屋(サエ)から集落の形成された地区などでは山深い場所に小集落があったり、各家が点在していたりということも多く、炭焼きや山仕事のために外から入った家々なども多くあったためでした。戦後、過疎化による生徒数減少により、現在では4つの分校が休校となっていますが、通学の便の悪さは同じく大きな問題で、どの山村も抱える状況と同じようです。
 「あの辺りに昔は学校があったげな」「学校の土地は渡辺の家が村に寄付したげな」。地元の古老の記憶にかすかに残る「げなげな」話も、たどって行くとずっと古くに起きた史実の一部だったり、形を変えて語り継がれた事実の変形譚だったりします。昔の家にはほとんどどの家庭にも年寄りがいましたし、もの覚えの良い達者な人や、技巧に優れた器用な人がどこかに必ずと言っていいほどいました。日常生活の中で、子どもが年寄りと話をする機会も多く、小さい頃に祖父母や叔父叔母に聞いた話などをよく覚えている方は、よき話者として、民俗調査では重要なリソース・パーソンでもあります。
 古い話を記録したり調査したりすることだけが民俗学ではなく、ここ半世紀あまりの社会の急激な変化を受け、さまざまな民俗伝承や村落社会がどう変容しているのかを知ることもまた重要なテーマの一つです。
 ダム計画にからみ、五木の水没予定地ではここ20年でコミュニティが劇的な変化を遂げています。南部地区の川沿いには、移転によってなくなったムラもいくつかあります。五木村の中心地である頭地では、かつてのムラであった下手、田口、溝ノ口、松本、久領といった地区分けは一旦解体し、多くの家は移転して、代替地に言わば新たな「頭地」ムラを再編成することになりました。
 現在の九十区画ある頭地代替地ですが、その設計の際には様々な配慮と制限がなされたと聞きました。

写真=掛橋地区と国道とを結ぶ道。車は通れず荷物運搬用モノレールがある。民家までは距離もあり、昔は子供の通学も大変だったと聞く


Vol.37(2004.8.8掲載)
 頭地代替地計画では、四角四面に定規で割ったステレオタイプの住宅分譲地的なデザインではなく、かつての頭地らしさ、ふるさとらしさを外観に残すことが取り入れられたのだとか。そのため、細い路地やゆるやかに曲がった通りを作り、治山ダムや小川にも自然石が多く用いられたそうです。家屋にも基準を設け、屋根瓦の色は統一感を出すためにモノトーン、窮屈さを避けるため外壁は設けず生け垣を推奨、家の外観にできるだけ木材を見せるような設計などの建築基準を設け、頭地地区全体でのまちづくりに努めました。その結果、建物は新しいけれどそれでいて落ち着きのある代替地ができあがりました。役場や小学校、道の駅は地元産木材を多く用いた木造で、頭地の町並み視察と合わせて、建築や都市計画を学ぶ学生の見学も絶えないようです。
 旅行者が通る時、分譲住宅地のような余所余所しさを感じないのは、頭地で暮らす住民全体が町並みづくりに協力したおかげ。しかし、実際にそこで暮らす身からしたら「基準だらけで面倒くさくてたまらん」といった本音もある様子です。基準も徐々に緩和されたと聞きました。ふるさとにいくら似せたとしても人工的な町なのは事実で、昔のような共同での農作業が減り、代替農地がないため畑仕事も少なくなり、地域での相互の交流や協力の在り方も少し変わりつつあるよう。コミュニティの再編で、都市化による新たな課題も出始めたと聞いています。
 さて、地図を開くと県内第四の総面積を持つ五木は、さながら両手を大きく広げた扇のよう。その中心を走るのは、大川とも呼ばれる清流川辺川とその支流五木小川で、川辺川の流れる谷沿いを泉村へと抜ける国道445号が併走し、五木小川沿いには宮原五木線があります。445号の村境に峠はなく、川辺川を右手に、五木ダム予定地だった上荒地(かみあれち)を過ぎればいつの間にか村境を越え、泉村へと入ります。泉村に入ってすぐ東へと入れば、平家の落人伝説の残る久連子へ至ります。
 五木の東半分、川辺川左岸は、国道から少し足を踏み入れるとどこまでも続く山また山。竹の川発電所のすぐ下で川辺川と合流する梶原川は、その支流を深く刻まれた谷のさらに奥にまで広げています。五木東部の村境は、水上との境にある標高1508.2mの高塚山など高く急峻な山か、その尾根のわずかな切れ目を抜ける峠道になります。この入鴨、下梶原地区から、泉、水上、多良木方面へと抜けるには、1000mを越す峠や山越えをしなければなりません。泉村久連子とを結ぶ岩茸峠、多良木への茶臼峠などです。東端の白蔵峠は三方山の途中まで上り、尾根を越えて水上とつながる道を形成しています。最近では林道も造られ、五木スカイラインと呼ばれる空と山の間を縫うようにな大規模林道が、この東部の尾根づたいに走っています。

写真=白蔵峠から水上村を望む。古くからこの峠をたくさんの人が行き来したのだろうか


Vol.38
 川辺川左岸、梶原川の上流地区は、元は久連子や泉村方面から入った人たちによって作られたムラだとされています。久連子から尾根伝いに南へ入れば、中道、下入鴨、さらに村南東部の下梶原にまで続きます。コバサクには広い山林が必要で、久連子から出作に入ってそのまま定住して村ができたと聞きました。五木には曹洞宗の新泉寺がありますが、この地区の氏寺は泉村久連子の正覚寺(真宗)になるのだそう。山の暮らしでは、峠や山道を通った往来は日常のことで、地図を見て十数キロもの道でも、昔は誰もが歩いていたものだと聞きました。
 下入鴨と下梶原に対し、入鴨・梶原という地名もあります。不思議なことに、下入鴨や下梶原は、入鴨・梶原地区に対して川の上流部。上流なのに「下」と呼ばれていることになります。入鴨・梶原地区は、どちらもダンナ家のある古くからのムラ。「下」は地形的な下流ということではなく、時代が下って古いムラから分かれた小村という意味で、「下」という言葉を冠したのだろうとも聞きました。
 五木には深田や泉村の真宗の寺の檀家もありますが、村唯一の寺と言えば、頭地地区久領にある曹洞宗龍雲山新泉寺。開山は17世紀半ばで、村内に散在していた古寺や、ダンナ衆が各自祀っていた氏寺を統一する形で、村の中心地に開かれたとされています。明治以前まで、真宗以外の寺院では妻帯を公には認めておらず、新泉寺の住職も代々世襲ではなく一代限りでした。現在の住職は、世襲するようになって4代目だそう。この時期は一年で最も忙しい時期。村外へ移転した家へ法要に行くことも増えたと聞きました。
 頭地橋を渡って右に折れると、突き当たりの濃い緑の向こうに、新泉寺の本堂が見えてきます。門の手前には、小さな石の堂宇に二体の地蔵菩薩が祀られています。手や顔が一部欠けてしまっていますが、背面には何やら文字が刻まれ、古い由緒が示されているようす。
 このお地蔵様、昔は結婚式にも登場したのだそうで、ムラで結婚式があると、青年団の若い衆がこの地蔵を持って祝いにかけつけ、ついでに焼酎やご馳走によばれていたとのこと。田口の尾方茂さん宅でも、結婚式の時はムラの若い青年たちが新泉寺から地蔵を運んできたそう。地蔵は庭から座敷へと据えられ、数日置いたのちに夫婦で元の場所へ返しに行ったと聞きました。頭地などムラ同士が隣接している地区では、隣りのムラの青年たちが地蔵を持ってやってくることもあったのだとか。ムラの若い衆が、年寄り衆とは別にヨリアイを持っていた時代に行われてきた習慣で、その頃ののんびりした日々を表すような、何ともほほえましい話です。
 夏の強い陽射しの中でも、苔むした石の屋根の下はずっと涼しい様子。お地蔵様は今と変わらぬ優しい表情で、尾方さん夫婦や、頭地に暮らしたたくさんの新郎新婦を見守ってきたのでしょう。向き合った二体の地蔵菩薩は、50年前の尾方さん夫婦の結婚式も「つい昨日のことじゃっでな」「じゃっじゃ」とでも話を交わしているよう。人気の少なくなった頭地で、微笑みながら今日も静かにたたずんでいます。

写真=新泉寺の入り口に立つお地蔵様。本名は地蔵菩薩。釈迦入滅後、弥勒菩薩が誕生するまでの無仏の時代に現れ、衆生を救済するとされる。


Vol.39(2004.8.29掲載)
 新泉寺の378坪の境内には、本堂と庫裡の他に阿弥陀堂や墓地もあります。かつて五木村大平地区の川辺川右岸で銅山開発が行われていた時代がありましたが、この銅山関係者で亡くなった方たちを祀った観音様もあるのだそう。歴史的に貴重な文化財となるような仏像もあると聞きました。
 新泉寺の檀家は広い村内のほぼ全域に点在していましたが、寺のある頭地や川辺川沿いの南部の集落には、ダムによる移転のため離村した方も少なくありません。やむなく寺を変わる檀家もありましたが、家は移転しても法事は新泉寺に頼みたいと新泉寺の檀家のままでいる元村民も多いのだとか。最近では村外へ法要に行くことも増え、盆の忙しさもひとしおのようです。   
 水没予定地から家を移転する際には、先祖の墓も一緒に新しい土地へと移ります。現在境内の墓地に残る墓碑も、代々の住職の墓や無縁仏がほとんどのようです。お寺の門へ続く道を歩くと、道路端の墓地の端には墓石がいくつも無造作に積まれているのを目にします。魂抜きをしたあと、移転された方か業者がそのまま置いて行ったものでしょうが、中には小さな地蔵や戒名のくっきりと分かる墓石も見えます。新しい墓地は、土葬をしていた頃とは違い、イエごとに遺骨を祀り墓碑も一つになります。行き場を無くした古い墓碑たちは、土砂に半分埋もれてしまっていたり、勢いを増して繁る夏草に覆われてしまっていたり。かつて祀られていた方々を思うと、仕方ないこととは言え、ややいたたまれない思いもします。
 五木での葬式は、斎場や葬祭会社をほとんど通さないことも多く、比較的新しい時代まで古い葬送が残っていたようです。60〜70年ほど前までは土葬が行われていたと聞きました。墓地はムラごとにまとまって墓碑を立てる共同墓地や、屋敷の近くにイエごとにまとまって埋葬していた個家別墓地が多いよう。ムラのお堂のそばに、寄り添うように並ぶ古い墓石群や供養塔をあちこちで目にしました。平成13年から代替地への移転が始まった頭地地区でも、頭地橋のたもと、田口観音堂そば、久領の薬師堂の裏手や新泉寺境内そばなどに、苔に覆われた古い墓石が並んでいる共同墓地がありました。
 頭地以外の川端の集落ではどうなっているのかまだ知る機会を得ていませんが、葛の八重や瀬目など山間部の集落を訪ねた際には、死者一人一人個別に祀っていた古い墓碑群を、イエごとに新しく一基の墓にまとめることが近年行われたそうで、新しい墓地を目にしました。頭地でイエごとに一基ずつの墓へとまとめられたのは、代替地への移転に合わせてのことだったようで、代替地南側の一角には共同墓地が作られています。
 ここ百年足らずの間に、埋葬法は土葬から火葬へと移り変わりましたが、人吉あたりとも少し違った、土地独特の葬送制や埋葬法があったようです。

写真=変わりゆく頭地。手前の旧集落には寺やお堂、古い墓碑やケヤキ・銀杏の巨木も残る


Vol.40(2004.9.5掲載)
 
五木の古い葬送は『五木の民俗』などに詳しくまとめられています。
 家の者が死ぬと葬式の用意が始まり、並行して埋葬の準備もします。葬式を集落に伝えたり、炊事場を手伝ったり、イケホリ(墓穴掘り)や棺桶作りなど、むらで協力して準備を行いました。
 棺桶は、近所の住人やその家の者によって、死者を納めるための杉板でできた棺桶と、それより一回り大きな棺桶の2つを作ったのだそう。死者は膝を抱えて座した形で納めるので、棺も四角で深い坐棺形。これはタテガンと呼ばれ、一回り大きな外側の棺桶はソトガンとかウワガン、タマヤ(霊屋)と呼ばれたそうです。寺に頼んで葬式を一通り済ませたら、死装束を着た死者をタテガンの中に座らせ釘を打ち、それをさらに一回り大きなソトガンに納めます。近所から加勢を頼み、棺桶を棒に背負って埋葬する墓地へ着くと、掘った墓穴の中に内側のタテガンだけを埋葬します。上に土をかぶせ終わると、ソトガンはそのまま埋葬した土の上に置いて、そのままにして帰ります。数年たっておよそソトガンの板が朽ちてきてから、墓石を立てたと聞きました。
 現在では火葬に代わり、墓地に埋葬するのも骨壷に代わりました。ただ、ソトガンを墓地の上に置いていた風習だけはそのまま残っていて、現在でも骨壷をソトガンに入れて墓地へ運ぶと聞きました。ただ昔に使っていた大きなものではなく、簡略化した小さなソトガンだとのことで、以前と同じように、骨壷を埋葬したあとその土の上にソトガンを置いて帰り、数年後、ソトガンの木が朽ちた頃に墓石を立てているのだそうです。
 土葬をしていた古い時代は、死が生きている人の体に付いて戻ってくることのないようにと、埋葬した人の服やワラジを墓場に置いてくるとか、墓場から帰る時は後を振り返ってはいけないといった風習があったようです。また、葬列に参加する人は、耳にカジや障子紙でできた、こよりのようなものを挟んだらしく、この紙は埋葬の時に石一個と一緒に墓穴の中に投げ入れていたという古老の話が記録されています。地域によっては湯灌をさせる時にも耳に紙を挟み、紙は入棺の時に一緒に入れるということもあったようで、これもなにか、死を非日常の世界ととらえ、日常と一線を引いたためかもしれません。
 古くは死はクロフジョウと呼ばれ、その家からはむら行事への参加を遠慮する風潮があったとも聞きました。一方で、葬式に使った五色の旗は、腹帯にすると安産になるとして取っておいたとも記録にあり、古い時代の自然現象の捉え方が垣間見えるようで興味深いところです。生や死は対立する概念のようで、実は表裏一体のものだったのかもしれません。
 今年は私の家でも、昨年末に亡くなった祖母の初盆がありました。私が小さい頃に仏壇の引き出しから古銭を見つけて、祖母に、昔土葬をしていた頃は三途の川の渡し賃として六文銭を入れていた、墓を納骨堂に移す時に土の中から出てきたものだと教えられました。気持ち悪いと言う私に、死は誰にも訪れるし死ぬことは気持ち悪いことではない、私が死んでも気持ち悪いと言うのかと祖母は笑っていましたが、あれから10年以上を経てその祖母の死を経験してみると、祖母の言った言葉がなんとなく分かる気がします。

写真=頭地のザクロ。ザクロは鬼子母神の好物で、ギリシア神話では冥府の食べ物としても語られる


Vol.41(2004.09.12掲載)
 
カジと言えば紙の原料となる梶の木のこと。お茶やコンニャク、シイタケも古くから特産で、いずれもに樹木の下など半日陰でも育つ作物ですが、カジもまた常畑ではなくコバサクをした後の山から採っていたと聞きました。
 五木の名が初めて記録に現れる平河文書には、建久3(1192)年に雑紙300束、はた(檜皮)1500、うるし300を納めていたとあります。18世紀半ばの「諸郷地籠萬納物寄」にも、中茶6893斤2、萬銀325匁395、漆300盃、猪鹿肉40斤等に並んで、雑紙50束が上納され、正月5日には、五木の郷士が相良公御目見の際に雑紙1束献上する古例があったとの記録があり、古くからカジが作られ、手漉き紙を産していたと見られます。天保5(1834)年には、楮植を奨励し毎月5、15、25日に物産方で買い上げ、大阪に廻送して美濃国と取引したと記録にあり、五木も一時代にはそれらの影響を受けていたのかもしれません。
 カジ(梶、穀、構)とコウゾ(楮)は別の植物ですが、古くは同一視され、カジやコウゾの皮で作られた紙を梶紙・加地紙・加遅紙、穀紙(こくし)と呼びました。2世紀初め後漢の時代、蔡倫が紙を発明したと言われていますが、実際には「発明」ではなく、植物繊維を用いた製紙技法を改良し書写紙として普及させたことが近年の研究で明らかになっています。蔡倫がこの時に原料としたのは穀皮だったと言われ、それまで一般的だった麻紙の原料である、麻の古い布や網の繊維に樹皮を混ぜ紙を作ったとされています。
 五木ではカジでできた紙はカジガミと呼び、シイタケやコンニャクイモなどとともに冬場の農家の副業として重要な現金収入源だったよう。「カジは正月の鰯がわり」とも言われたそうです。数十年前までは八代あたりから買い付け業者が五木にも入り、原木や紙の状態で売っていたと聞きました。後の時代には農協にも売ったと記録に読みました。
 固いカジの木を紙に換えるまでには結構な手間がかかります。茶畑や山から採ってきたカジを束にし、大きな釜で蒸すようにしてゆでて皮を剥ぎます。このまま乾燥させて商いすることもあったそうですが、カジガミを作る場合は乾燥させたカジ皮を水に浸けてやわやかく戻し、アクを入れた釜でゆでた後に再び水にさらしてアクダシをします。それを分厚いカジウチイタの上で棒で叩いて繊維をほぐし、紙漉き漕に入れノリを混ぜて溶かしたものを簀で漉いて水切り、日に干して乾燥するとやっと完成です。
 できた紙は、商品にする場合には一定の大きさに切りそろえましたが、自家用にも使いました。中でも農作業用には、4枚をつなげて丈夫にするため分厚く重ねられたヒロガミ(紙ゴザ)が作られ、アズキなど目の小さなものを干す際にムシロの上に敷いて使ったと聞きます。田口の尾方家には昭和45年に作ったと言うヒロガミがあり、現在でも農作業の際に使っているということです。
(先の台風による、五木村白水地区で国道が一部不通になっています。不便を感じられている地元の方へお見舞い申し上げます。)

写真=田口尾方家で現在も使われているヒロガミ。大きさは約2畳ほど。


Vol.42(2004.9.19掲載)
 
川辺川が南北に走る五木では、山は谷川を挟んで東西に向かい合います。朝日に照り出された西の山を覆う木々は、昼前にはもうかげり始め、午後になる頃には東の斜面が昼の強い日差しを浴びます。高い山の向こうに太陽が沈んでもなお空は明るく、少し涼しくなった夕暮れのもうひとしきりの間、畑仕事が続きます。
 午後7時近く。頭地の旧道を歩いて、外灯のスイッチを入れる尾方茂さんの姿がありました。人気の少なくなった旧道沿いには、白い外灯が点々と並んでいます。旧診療所の前と、家から20mほど離れた所にある2つの外灯だけは、自動点灯ではないため誰かがスイッチを入れなくてはなりません。ここ数年の間、電柱に下がった紐を引いてスイッチを入れるのは、尾方さんの日課になりました。
 20年前、商店や役場、学校などを含め280戸を数えた五木村頭地地区ですが、国と村との間で一般補償基準が妥結された昭和56年以降、多くの家族が村を後にしていきました。平成13年にようやく頭地代替住宅地が完成し、残っていた90戸ほどの家々も代替地や村外へと次々に移りつつあります。現在、この頭地地区で生活しているのは尾方さんと数家族のみ。補償交渉に応じず、移転先に家を作っていないのは、とうとう尾方茂さん一家だけになりました。
 尾方さん方は、少なくとも300年は続くという代々の農家。頭地地区田口でも古くから続いた農家のうちの一戸で、祖先はいつの時代からここに住み始めたのか分からないと言います。西南の役で一度消失した後に立てた家は、築120年ほど。奥さんのチユキさんと2人、それに犬のジロウとサクラとで、受け継いだ家と土地を守ってきました。
「できることなら移転はしたくなか。ずっとここで暮らしたかです」
 ダムがいつできるのか分からないのに移転はしたくない、ダムができることになれば移転しなければならないが…と尾方さんは顔を曇らせます。
 五木で水没地住民がダム賛成反対に割れたのは、計画が発表された昭和41年から50年代末のこと。水没者団体で唯一、ダム基本計画取消を求めて裁判を起こした「五木村水没者地権者協議会」も、昭和59年末には訴訟を取り下げ、苦しい思いで和解の道を選びました。
 尾方さんも地権者協議会の会員の一人でした。ただ、昔に比べると今の方がダムができないことを望む気持ちが強くなったと言います。10年前から生まれた下流でのダム反対運動や、近年の世論の動き、熊本県のダムに対する慎重姿勢などに励まされているためもありますが、年を重ねるにつれて、子どものいない老夫婦で将来の生活に対する不安もあるようです。
 頭地を静かに闇が包み、川からの水気を帯びた空気が旧頭地地区に漂い始めました。家々の明かりは減っても、旧道の外灯と尾方さん宅の洩れる光は、遠くから訪ねる私の不安をいつも消し去ってくれます。
 この3年あまりの間見つめてきた、尾方さんの暮らしを追ってみます。

写真=静かな日中に、庭の池の水音だけが涼しく響く


Vol.43(2004.9.26掲載)
 
1966年のダム計画発表後、五木村では行政や住民を主体として複数の水没者団体が作られました。
 当時の村長を会長とした「ダム対策委員会」(のちのダム対策審議会)、行政主導のダム対策委への不信感から立ち上がった「地権者協議会」、ダム対策委の組織再編の過程で発足した「ダム対策同盟会」、同盟会と協調しつつ農地補償などを求めていった「水没者対策協議会」。抵抗する地元に対し国や県がダム受入を強く求めるようになると、村行政か住民かで視点や立場の相違が徐々に意識されるようになっていきました。村がダム受入を決めて後、個々人への補償(一般補償)については、地権協、同盟会、水対協の3つの水没者団体が交渉の中心となりました。約500あった水没世帯のほとんどはいずれかの団体の会員となりました。
 「百姓が農地ば取られてどうやって生活すっですか」。
 ダム反対の立場を取った地権協に尾方茂さん(77)が入ったのは、古くから続く農家としての思いからでした。現在の頭地代替地がある土地は、かつては山裾から集落裏手まで続いた一面の農地がありました。頭地地区のダンナ家や農家それぞれの畑や共有地でした。7反余りの田畑を持っていた尾方さんは、この場所に5反の畑がありました。当時、代替農地造成の計画はなく、ダムに賛成すれば、生活ができなくなるとの気持ちが、国を相手にダム中止を求めた闘いへの参加を決めました。
 しかし昭和59年、最後まで法廷闘争を続けていた地権協が国と和解をすると、ダム関連工事が本格的に進み始めます。尾方さんの家にも、建設省から担当者が何度も訪ねて来ました。村がダムを受け入れた後も農地は売りたくないと言い続けた尾方さんですが、村のためだからとやむなくこの農地の補償に同意しました。「最後まで畑を売るとは言わんかったですよ」。しかし同意書に自分の手で押印することはできず、建設省の担当者に印鑑を渡し押印してもらいました。
 農地を手放すことになったあと、尾方さんは畑から土を持ち帰りました。一枚の畑から土のう一袋ずつ。全部で十数袋になりました。せめて土の供養をと考え、新泉寺に頼んでお経をあげてもらいました。住職によると、土の供養をしたのは後にも先にもこの一度だけだったのだそうです。
 代替農地が造成されたら、尾方さんも購入したいと考えています。
「ところが、それのでくっとがいつになるか分からんとです」。尾方さんがため息を付きます。農地造成が計画されてすでに十余年になりますが、頭地にはまだ1枚も畑は作られていません。

写真=自宅敷地内の小さな菜園に鍬を入れる尾方さん。新しい畝が作られる
写真2=尾方さんの菜園で採れたジギュウリやニガウリ、オクラなど



Vol.44
 五木村田口に暮らす尾方茂さんに、忘れられない光景があります。
 戦時中、茂さんの父親は召集され、家を離れていた時期がありました。長男だった茂さんは、母親や年の離れた弟や妹たちと一緒に農業を営み家を守りました。ある激しい雨が降った日のこと。畑の畔の様子が心配になり、母親と一緒に裏山の畑を見に行きました。見ると大雨で畔が決壊し、崩れた畑の土が土砂となり流れ出し始めています。茂さんの母はすぐ走り寄るなり、崩れた畔に体を横たえました。雨に濡れ、土にまみれながら体で流出を食い止めると、茂さんにすぐに人を呼んでくるよう言いつけました。茂さんが走って家へ戻り、むらの人を呼んでくるまでの間、母親はそのままの状態で体で崩れを防いでいたそうです。畑の被害は最小限に留まりました。ダム計画による代替地造成のため、茂さんが手放さなければならなかった畑の一つでした。
 昔から「畑は自分一代んもんじゃなか」と聞かされてきたと言います。農地の少ない五木では、田畑は平地の村に比べてより貴重なものだったよう。いくらかのサイエンを持つ家は多くありましたが、まとまった田畑を持っている家は恵まれている方で、コバサクと並行して、サイエンとタンナカを中心に農業を行うことができました。
 畑はよか時もあれば悪い時もある、作物が不作だった場合に備えて何でも作らんばん。両親に教えられた茂さんは、ソバや麦、大豆、小豆、サトイモ、コンニャクイモ、お茶、そのほか何種類もの野菜を作り、畑を遊ばせることなく年中何でも育てて来ました。ダムのため尾方さんが手放さなければならなかった5反の畑は、地味も日当たりもよく、ゴボウなども大きなものができたとか。チッソ頭地発電所の社宅に住んでいた奥さんや地元の旅館の人が、「こげな太かとは店にもなか」と、一貫いくらで買い求めに来ていたこともあったそうです。
 茂さんが畑の土を供養した話は、熊日の『山が笑う村が沈む』(葦書房、2001年)の中でも触れられています。2000年1月から熊本日日新聞に連載された「五木日記」が本になったもので、しばらく前に、この連載を担当した記者の方に話を聞かせてもらったことがあります。
 記者の方は最初、「尾方さんの話を書いた時、正直に言うと、なぜそこまで土への思い入れがあるのかよく理解できなかった」と言われました。「しかし、尾方さんを記事に書いてのちも何度か尋ねているうちに、このお母さんの話を聞かせてもらった。これを聞いて初めて、尾方さんたちが農地にこだわる理由が、少し分かったような気がしました」。そう明かしてくれました。
 白い土のうに詰められた、わずかずつ色の違う土たちは、今も茂さん宅の納屋に置いてあります。この土はどうするのですかと尋ねると、新しい代替農地が完成したら、そこに戻してやるのだそうです。

写真=盆過ぎに蒔いたソバが花を咲かせた。自宅前の畑で。
写真=花は白い小さな星の形。寂しい水没地内が華やぐ。


Vol.45
 ダムで揺れる五木村に、秋がゆっくりと近づいています。
 頭地を訪ねると、旧道沿いで盛り土工事が進んでいました。
 実は頭地代替地はまだ完成しておらず、今後国道から川面へ、ちょうど古い頭地集落を埋めるように盛り土をすることになっています。のり面に代替農地と学校の移転用地を造成する計画で、昨年着工されました。頭地代替地の開発面積34.5haに対し、一般利用面積12.5ha、代替農地3ha。大きな差があるのは、旧道よりさらに川側へせり出す、盛り土の裾部分があるためです。
 この工事で土砂はかなりの量になります。これまで関連工事で出て村内に仮置きされている土砂と、ダム本体工事の際にダムサイトから掘削する土砂を用いる計画。つまり本体工事と代替農地、中高校移転は表裏一体。五木はこれまで、将来のむらづくりを人質にダム賛成を強制されてきましたが、今でもまだその人質は残っているわけです。五木にダム推進の立場を取り続けてほしい国交省にとっては、さぞ良い切り札でしょう。
 中学・高校は、昭和47年の河川予定地指定以来、一切の改修・改築工事は厳しく規制され老朽化もかなり進んでいるとか。「下」にある田畑はダム湖に沈むという計画なので、今のままだと将来使える農地がないことになります。五木村で国が行うすべての事業はダムを前提としたもの。農地や学校問題にはいくらでも代替案はありそうなものですが、国も村も現制度では「ダム中止の可能性」に備えることはできないと言います。
 3年前に尾方茂さんを初めて紹介してもらった時の、「素朴であたたかい村のおじいさん」という第一印象は今も何一つ変わりません。親切で働き者、寡黙だけど芯のある茂さんの「茶ども飲んで行かんですか」に甘え、自家製のお茶をいただくことも増えました。五木の古い話や現在のくらしについて話を伺っているうちに、そう言えばと奥の戸棚から取り出した2枚の紙を見せて下さったことがあります。川辺川ダム工事事務所と県、村の担当者の名前と押印がある、平成8年に作られた覚え書きの控えでした。
 代替農地が完成したら、尾方さんが失った農地とほぼ同じ面積となる50aを「適正な価格で」「優先的に」配分するという文面。口約束では信用できないため、文面にして確約をもらったそうです。村長にも立ち会いを求めましたが、尾方さんに対して責任を持てないのか、結局断られてしまったと言います。「バッテン、期限を区切っておったら良かったですたい」。文書を交わして8年が過ぎましたが、約束の土地がいつできるのか今も分かりません。
 補償契約の調印を迫る国交省が、一人残ってさみしくはないかと聞くことがあります。
 「そりゃさみしゅうとはさみしかたいな。誰もおらんごとなれば」。谷底に取り残されるような不安や寂しさがないとは言えません。「バッテン百姓は百姓の仕事があっでな。野菜作ったり堆肥作ったりいろいろせんばん。せまか所ではでけんし、ここなら畑も水もあっで、自給自足の今のままの暮らしが一番よか」。
 先日、五木の山すそで見つけたアケビと、茂さんにいただいた柿を持ち帰りました。山里の恵みを頬ばりつつ、茂さんの言葉を繰り返し思い出しています。

写真:秋の夕暮れどき、お土産にと尾方さんが柿ちぎり。
写真2:つややかに光る甘柿と、ぱっくり口を開けたアケビ


Vol.46
 清流川辺川とその支流が走り、ふんだんに水に恵まれているように見える五木ですが、水には昔から苦労してきたと聞きました。1000mを越える山々は、川へ向かうにつれ徐々に急勾配になります。傾斜の緩くて田畑が開ける土地はそう多くない上、川面より高い位置にある田で水稲を作れるのは、地形的に水が確保できる限られた地域だけでした。
 尾方茂さん宅の裏手を上ると、代替地へ続く林の中ほどに古い水路があります。深さ50cmほどで、一年中を通し冷たく澄んだ水が流れています。昭和17年から数年かけ、地元の人たちの手で作られた「田口溝ノ口水道」です。
 頭地の左岸上流側で広く米が作られるようになったのは、戦後になってから。下手(旧役場周辺)や対岸の久領にはいくらか水田がありましたが、農家の多い田口、溝ノ口地区にはほとんど田はありませんでした。下手や久領に水が来ていたのは、昭和3年にチッソ頭地発電所が作られた際、地元から条件として、発電所の導水管から水路を引くことを頼んだため。発電所より上流で水の少ない田口などでは、小さな渓流や湧き水、川辺川から汲んだ水が使われていましたが、米を作るにはまったく不足していました。
 「みんな米ん飯ば食いたかったで、その一心で作った」。尾方茂さんも、奥さんのチユキさんや父親の乙平さんたちと共に、田口溝ノ口水道工事に関わった一人でした。茂さんの叔父の山口健蔵さんは、物事に達者で地元でも信頼の厚い“田口ムラの長老”的存在だったよう。水を引いて来るとは言っても、戦争中で物資は不足していたし、建設には大きな費用も必要で借入金もしなければなりません。反対の声もありましたが、「健蔵ジイサン」や元役場職員の西進さんたちが中心となり、共同で水を引くことに決まりました。
 取水口は上流にある掛橋地区で、右岸の渓流から水を取り込んで川辺川の下をパイプでくぐらせ、自然勾配を利用しサイホン方式で左岸に上げられています。若かった茂さんもセメントや石を入れた木の箱を背負い、山道を何度も往復しました。完成までに何年もかかりましたが、機械を一切使わずすべて手作業で作られました。
 戦時中はとにかく物資がなく、原料の調達にひと苦労だったと言います。セメントも人吉では売っておらず、八代のアサノセメントにまで買いに行きました。「袋持って来んば売られん」と言われ、セメントを入れる紙袋すら持参しなければならなかったそう。購入にも県の許可証が必要で、五木からトラックを雇って八代へ買いに行きました。
 現在、この水路の水は頭地代替地の生活水の水源としても使われています。先の台風ではこの掛橋の取水口が詰まり、代替地はしばらく断水になりました。取水口は傾斜の急な山奥にあり、危険なため風雨が収まってからでないと復旧できなかったそう。水路敷設工事の苦労がしのばれます。
 五木では、ダムによる離村と急激な社会変化のため、ムラの記憶が後世に語り継がれないまま失われようとしているように見えます。私一人聞くのも惜しい話だと感じながらノートを閉じ、水路を見に小径を上がりました。遠くから近くから、背後で絶え間ない工事音が響いていました。



Vol.47

 「下」と呼ばれる頭地の旧集落を一人歩いていると、ここがダムに沈むかもしれないとは信じがたく思えます。
 土を満載したダンプが何台も行き来し、クレーン車や工事の音がこだまする谷から少し目と耳を遠ざければ、旧道沿いには、苔むしたお墓や小さな実を付けたお茶の生け垣があります。まだ青々とした銀杏の大樹は樹齢500年とも600年とも言われ、移転した家族が下りてきて耕作しているという畑では、大きなサトイモの葉の上で、玉のような朝露が揺れています。
 尾方茂さんの家が近づくにつれ、そこだけはほっとあたたかく、周囲の自然にとけ込んだ暮らしの息づかいが聞こえるようです。丁寧に手入れされた畑には、茎が赤くなり始めたソバ、サトイモ、ショウガ、シソ、ニンジン、アズキ、ラッキョウ、ダイコンなどが整然と植えられ、まるでここではどんな野菜でもできるよう。庭のカエデの木の下の小さな池では、涼しい顔で鯉が泳ぎ、庭の片隅にはいつからそこにあるのか分からないようなものたちも並びます。苔やツタに覆われた古い石風呂、漁に使うのか虫取りに使うのか、長い竹竿のついた破れた網。軒でほこりをかぶった木材や、錆びた鉄が積まれたままの小さな鍛冶場の跡もあります。大きな梁の通った納屋は、大工が一日だけ手伝いに来て、あとはすべて自分たちで建てたのだそう。道を挟んだ向かいには、風呂やトイレ、台所が付いた2階建ての離れがあります。こちらはまるごと一軒、茂さんが自分で作った家なのだと言うから、茂さんの器用さにはまったく驚かされます。
 以前に茂さんを訪ねると、ちょうど納屋でウコンを粉に牽いているところでした。スイッチを入れるとモーターにつながった石臼がゴリゴリと回り、下の筒から褐色のウコンの粉が少しずつ出て来る仕組みです。聞けばこの機械まで自作とのこと!古いモーターや鉄の端材をもらったり中古で安く買ってきて、自分の家にあった石臼と組み合わせ作ったのだそうです。
 「昔電器の配線の仕事ばしよったで道具はあるし、若か頃はこぎゃんと作っとの楽しみだったっですたいなぁ」と、はにかんだように茂さんが話します。よく見ると、確かに石臼を締めているのは、電柱についているのと同じ金属製のベルト。これまた茂さんが建てたというこの納屋の中には、ほかにも、購入したり改良したり手作りをした、製茶や豆腐作りで使う道具類が並んでいました。見よう見まねで始めた鍛冶で鍬や鋤を打ったり修理したり、ヤスリや釘を研いで彫刻刀を作り、自分の山から切り出してきたツバキやツゲ、人から譲ってもらったシカの角で印鑑を彫ったり。
 「目のまだ良かとなら、寺嶋さんにもいっちょ彫ってやっとバッテンなぁ」。印鑑彫りの道具を見せてくれという私につき合って、納屋の引き出しから取り出す茂さんから、またうれしい言葉を聞きました。
 ダムとは生活の場を奪うもの。家や土地だけでなく、平穏な毎日の暮らしも思い出も村づきあいも、目に見えないすべてを奪い去ろうとするもの。茂さんの視点に立つことで見えてくる、水没者としての問題があります。

写真=茂さん自作の電気挽き臼。ウコンは苦いけど肝臓に良いらしい
写真=印鑑彫りの道具。今でも茂さんが作ってあげた印鑑を使っている五木の人がいるのだとか


Vol.48
 五木にある寺院は新泉寺のみですが、神社は村むらに多くあります。頭地や宮園のほか、五木小川沿いにも多い阿蘇神社や、祇園神社(北瀬目)、霧島神社(大平)、甲佐神社(松本)、春日神社(栗鶴)など、十数社にのぼります。人口の多い頭地周辺をのぞくと、ダンナ家のあるムラと神社の所在地とが一致している例も多くあります。山がちな五木ではムラが形成される場所は地形的に限られており、そこにダンナ家や集落が発生するにつれて神社が建てられたのか。あるいはまた、数多くの神社の中には、ダンナ家の氏神から発展したものもあると考えられているようです。
 村内に最も多くの分社を持つ阿蘇神社は、総社を頭地地区に持ちます。川辺川を挟み、久領に西俣、下手に東俣の社があり、古くは村社とされていました。西俣の阿蘇神社は、頭地橋を渡り五木中手前の木立の中。石段を上って鳥居をくぐると、境内には本殿、拝殿のほかに社務所や弓道場、石燈籠やおみくじもあります。主な祭祀は、元旦の祈祷と春祈祷、夏祈祷、秋神楽だとか。宮司は二十四代目の尾方芳郎氏で、現在は熊本護国神社でも神職に就かれていると聞きました。
 対岸の東俣の神社の方は、旧東小の運動場拡張に伴って少し南へ移されたため、本殿と拝殿は南向き、鳥居と参道は西向きになっています。隣りのグラウンドでは、ダム計画に伴い、今年夏から県文化課による縄文遺跡発掘調査が行われており、その向こうに拝殿と、土台が一段高く上がった本殿とが並んでいます。本殿両脇には、木造の狛犬と、烏帽子姿で台座にちょこんと腰かけた随神像があり、神社の縁起の古さを示しています
 300年ほど前、青井大明神の宮司が郡内各所を回り記した「麻郡神社記」には、五木の神社として阿蘇大明神3社、祇園天王1社が登場します。阿蘇神社の創建は、9世紀初頭の大同年中(806〜809年)とされており、大同元年の青井阿蘇神社(人吉)の創建後のことのよう。1777年には、31代相良藩主相良長寛公が、駕籠に乗り一行199名で直参した記録も残っています。五木に2泊したとありますが、当時の細く曲がりくねった山道を、駕籠や荷を担いで歩いた、一行の苦労が想像できます。
 今年も10月14と15の両日、西俣東俣の両阿蘇神社で例祭が執り行われました。東俣が14日で西俣が15日。それぞれで朝夕に二度、ご祈祷と共に神楽が奉納されます。
 「御夜」と呼ばれ、神楽も舞われる前夜祭をのぞかせてもらうため、私も頭地で夜を待たせていただくことにしました。台所で茂さんと、ふかしたばかりのカライモを頬ばりながらよもやま話をしていると、庭でジロウとサクラが吠え始めました。
 「お客さんだろか」と見ると、納屋のかげから見覚えのある男性の姿が。以前福岡の新聞社に勤められていたカメラマンの方でした。離れてもなんとなく五木が気になると、東京の本社に転勤になってのちも、休暇を取ってはこうして時々来られているのだそうです。今回は、阿蘇神社の祭りを取材するため訪問したとのことでした。

写真=東俣阿蘇神社本殿前に並んだ、狛犬と随神像
写真=東俣阿蘇神社全景。後ろは旧五木東小グランドのイチイガシ木立


Vol.49
 出身地でも知り合いがいたわけでもないが、何度か足を運ぶうちに五木が自分にとって特別な場所のように思えてくる…。川辺川ダムでこれだけ注目される五木村。最初はダム問題がきっかけだとしても、私のようなそういう人も稀にいるもので、変わり者扱いのそんな“よそ者”は“よそ者”同士、妙な親近感や連帯感が沸いてくるので不思議です。このカメラマンの方とも福岡で知り合って以来、“よそ者”ならではの話ややりとりを時々交わしていました。
 カメラマンの方とは、今年6月の堂祭りの日にも五木ですれ違っていました。急な仕事で東京へ呼び戻されてしまい、入れ違いで私は会えず。翌日到着した私は、前夜の田口観音堂の堂祭りの様子を茂さんに聞きました。水没予定地にポツンと残った古いお堂には、祭りの時間になってもお参りする人は見えず、結局取材は諦められたのだそう。少し肩を落とし東京へ戻られたとのことでした。
 さて、今年の西俣阿蘇神社、御夜の時刻が近づいて来ました。準備の様子から撮影したいと、カメラマンさんは先に神社へ向かいました。残った私は、「なんもなかバッテンが」と勧められ、尾方さん宅で夕餉に呼ばれることになりました。チユキさんは「五木で塩サバ食べて来たちゅうて、話のタネになろうて」と言いながら、手際よく準備を進めます。塩サバは私の好きな魚なのですが、チユキさんは塩サバ「しか」なくて、と笑います。海から遠い九州山地ど真ん中の村では、庶民の魚を代表するサバの、それも塩漬けぐらいしかなくてねと恥ずかしく思われているよう。今日は御夜だからと山盛りの赤飯のほか、大きなサバの焼いたもの、じゃことニラの油味噌炒めや干しタケノコとダイコンの煮物などが食卓に並びます。米も豆も野菜も味噌も、この土地で作られたもの。真っ赤に炭の燃えるコタツに足を突っ込むと、体の芯からじんと暖かくなりました。
 勧められるまま2杯もお代わりをして、お礼を言って神社へと急ぎます。拝殿の奥では赤や黄緑の衣装を着た二人の神楽が始まっていました。集まった氏子は15人ほど。橙色の裸電球の明かりが、神楽を闇からおぼろに照らし出します。笛の音に合わせ、刀や鈴を手にした二人がそれぞれに舞っては向かい合い、と繰り返し、激しく静かに、厳かな舞が奉納されます。
 頭地代替地中程の山つきには、荘厳な造りの新し社殿の建設が進みます。来年のこの神楽を見るのは代替地になるのかもしれません。新しい木の香りに包まれて見る神楽は楽しみでもありますが、その時ここはどうなっているのだろうと思うとどうしても淋しさが消せないのは、やはり“よそ者”故の勝手な感情なのでしょうか。
 神楽が終わり、神官に戴いた2つの餅をポケットに、尾方さんへ届けようと急ぐ夜空には、無数の星が小さく瞬いていました。

写真=御夜の夕食。食卓いっぱいの故郷の味だった
写真=阿蘇神社のお神楽。二人が対になり舞いが続く


Vol.50
 ここ最近、五木に惹かれる若い“よそ者”仲間が増えつつあります。
 夏の五木村はたいへん過ごしやすく、夏休みや休暇を利用して、家族連れ以外にも若い気ままな旅人の姿を時々目にします。昔の子守唄公園には、そういった人たちの張ったテントや水分補給のため休憩する姿がよく見られていました。
 そういった旅人以外にも、環境問題という切り口で川辺川ダム問題を知り、遠くから「現場」を訪ねる若い人たちが少なからずいます。
 今年8月末、大学生グループを五木に案内しました。メンバーのほとんどは18、19歳で五木へ来るのは初めて。京都のSAGE(セージ)という学生グループの一行で、川辺川ダムをテーマに調査しているそうです。学生「サークル」というよりははるかに熱心な一行で、夜行バスや鈍行列車を乗り継ぎ、自分たちのフィールドとして念願の川辺川へやって来たのでした。
 毎年8月末になると、人吉・相良で「現地調査」というイベントが開かれています。地元住民のガイドで川辺川やダム予定地、高原台地や水害跡を訪ねたりシンポジウムを開くというもので、地元や熊本市の住民・市民グループが主催。全国各地から400名が参加する恒例イベントですが、学生たちはこのイベントを手伝いながら、川漁師や利水農家からインタビューをしました。事前に学生グループから直接相談があり、いろいろとやりとりをする中で、私は可能なら滞在期間を延ばし、五木に泊まって五木としての事情も調べることを勧めました。同じダム問題でも、下流と上流とでは大きな事情の違いがあります。あまり報道されない分、今五木がどのような状況に置かれているのかについて、ぜひ自分の目で耳で知ってもらいたいと思ったためでした。
 五木でのユース合宿の提案に、学生たちはぜひ!と快諾。私は地元とのコーディネートを手伝うことになりました。村の様子や自分の知る村の取り組みや人々を紹介しながら、学生たちが知りたいことと照らし合わせ、自然や文化に触れながら、五木の状況や村づくりについて、地元に暮らす方々から話を聞かせてもらうことを主眼を置いて、プログラムを組みました。村側にも予め趣旨を話し、宿泊先選びや西村村長との対談の場の設定にも快く協力していただきました。
 お金はないが熱意と体力のある学生たち10余名は、高野代替地にある公民館に寝泊まりし食事は自炊。2泊3日の間、昼間は取材、夜は遅くまでミーティングという日々を五木で過ごしました。私はガイド役も兼ねてこの寝袋合宿に参加。同じ“よそ者”でも、更に若い世代の新鮮な視点に、初心を思い起こしたり、改めて考えさせられたりという場面も多くありました。
 実は2年前にも、五木で同じような合宿を開いたことがあります。知り合いの学生と若い世代約15名ほどで頭地の古い公会堂に泊まり、水没地に暮らす方々を中心にインタビューをさせてもらいました。その時も私は準備を手伝ったのですが、今回やってきた学生たちは、その時参加した学生が先輩となり、今度は後輩たちを率いて再び現場を訪ねてきたのでした。2年前に蒔いた種が思わぬ形で実を結んだようで、私にとってはうれしい来訪でもありました。



Vol.51
 
人吉盆地が朝霧に包まれる季節が巡ってきました。あけぼのの球磨川に立つと、細かな水蒸気の粒が川面を漂います。苔むした石垣や葉を落とした広葉樹が、遠くは薄く、近くは濃く。霧の間からぼんやりと浮かぶ木々を見ていると、いつの間にか中世に迷い込んだような幻想的な気持ちにさせます。
 人吉から頭地まで約1時間。この季節、朝早くに五木へ向かうと、窓の外にはいつもと少し違う風景が広がります。盆地を覆う濃い霧は、日が昇り、標高が高くなるにしたがい、少しずつ薄くなっていきます。上下坂あたりまで来ると少しずつ陽が射し始め、霧に濡れた家並や、うっすら紅葉を残した山肌のところどころに陽の光が当たるようになります。曇った窓をごしごしと手でぬぐい窓ガラス越しに見る山や谷。時々しか訪れることのできない私は、こんなにきれいな場所もあるんだなぁと、うっとり見入ってしまいます。
 谷底へ夜が訪れるのは早く、冬ともなれば夕方5時前から肌寒さを感じます。頭地は五木小川のある西側へ少し開けているので、川辺・五木小川の合流点や山つきの代替地はほんの少しだけ、昼間の名残が続きます。面積の9割以上が山林という五木ですが、谷や流れの形、碧く澄んだ水を湛える大きな石灰岩の淵、尾根と迫の微妙な向きなどの微妙な違いが、山里に千変万化の表情を作ります。
 夏の合宿では、地元の自然や環境を生かしながらまちづくりに取り組んでいる例として、瀬目マロン会、マダラ倶楽部、ペンション黒木について、地元の方々からお話を聞きました。限られた時間と移動手段の中で、自分の足や耳を使って知ることは一番の勉強となったようです。
 生活の場が水没地になるとはどういうことかは、多くの人にとって体験することのない問題でもあります。尾方茂さんのお宅も訪ね、昔の山での暮らしや移転を拒否続けられている理由、今の思いについてお話を聞かせていただきました。尾方さんがどういう方なのか事前に説明していたこともあり、学生たちそれぞれには予め想像していた人物像があったようです。感想を聞くと、「想像していた方と違い、実際にお会いしてみて少し意外な印象だった」とのこと。“村全体がダム受入れを決め、500世帯もの人が移転した中で、水没地にたった一人残った『ダム絶対反対』の頑固な古老”。そんなイメージを抱いていたようす。ところがお会いした尾方さんは、穏やかな口調で、故郷への思いを訥々と語るおじいさん。
 生活を奪うダムに強い憤りを抱きつつ、「今の暮らしのまま、自給自足が一番いい」と語る尾方さんの姿は、彼らには少し意外だった分、いっそう深く心に刻み込まれたようでした。
 頭地では久領の遺跡も見学。山裾の小さな迫地で発掘の進む現場で、五木村教育委員会の方に解説を聞きました。球磨盆地の北への玄関口でもある五木は、南九州と熊本平野との交流の地でもあったそう。遠く数千年前の縄文人の生活について聞きながら、縄を掛けた痕の残る石錘や、褐色の土器破片など、発掘されたばかりの遺物も触らせてもらいました。これもまた貴重な体験となり、学生たちは「ロマンのあるすてきなお仕事ですね」と目を輝かせていました。


Vol.52


Vol.53
 頭地から川辺川沿いにさらに車で約10分。宮園で橋を渡り、西谷の田園風景を左手に見ながらカーブを曲がると、道路端に「九州ハイランド」と書かれた幟が見えてきます。幟の横からは、山手へ入る急勾配の坂道。国道から数メートル先から道は大きくカーブし、ぐんぐん標高が上がって行きます。幾度目かのカーブを曲がり少し開けた小さな山里が見えてきたら、そこが上平野(かみひらの)地区。集落のほぼ中心にある大イチョウの木と、縁側のあるお堂が目印です。夏に学生たちと一緒に訪ねた上平野の「ペンション黒木」へ、再び足を運びました。
 ライトグリーンに切り妻屋根の建物。、赤毛のアンの舞台となったグリーンゲイブルスの家をなんとなく彷彿とさせます。バーベキューをしたり、背後に広がる森へ入れるようにと1階は土間にしつらえ、2階の部屋へ続く階段には、チョークで「ようこそ」と書かれたウェルカムボードや野菜やタカキビの束など季節の風物詩が並びます。
 黒木晴代さん(48)がペンション黒木を建てたのは、今から4年前。いつか自宅で小さなペンションを開きたいとの思いは、結婚以来長い間の夢でした。
 県北の鹿本町の農家に生まれた三人兄弟の長女。下には東京に嫁いだ妹がいます。大学時代に知り合った同級生の一秀さん(48)と結婚し、縁あって五木で暮らすことになりました。標高700m前後にある上平野集落は、山の6号目付近。その名の通り、山腹に広がる小さな平野部に12世帯が暮らしています。夜にもなれば周囲は山。結婚当初しばらくは、夜空よりも濃い山里の闇に心細い思う日もあったと、今は笑って話します。
 地元の人たちにあたたかく迎えられ、晴代さんはここでの生活にすぐなじむことができました。目の前には、季節ごとに表情を変える大パノラマ。川辺川を挟んで向き合う保楊枝地区の山が、背後には上平野地区を懐に抱く緑の山が広がります。集落のお堂の前は、秋には一面イチョウの葉で埋まり、地元の人たちの交流の場にもなっています。黒木さん宅は兼業農家で、晴代さんも一秀さんの両親と一緒に米や野菜を作ってきました。
 自然がもたらす恵みを感じつつ季節が過ぎていく中、晴代さんはだんだんと「第二の故郷」の豊かさを思うようになりました。3人の子どもを育てる中で、晴代さんも村外に働きに出たことがありました。町との往復は距離もあり、豊かな村を離れて町で働くことにも、なんとなく矛盾を感じていました。できれば地元で、地元の自然を生かしながら仕事ができたら…。そんな思いが膨らんでいた頃、農家民宿という発想があることを知りました。農業を体験してもらったり、地元の山や自然を味わってもらいながら宿を提供する、と、まさに晴代さんの考えていたものにぴったり。毎日の生活の中から少しずつ積み立て、20年間で700万円を貯めました。足りない部分は一秀さんに協力してもらい、2000年9月、隠居家の隣りにあった空き地に、念願のペンションが完成しました。


Vol.54
 最近球磨郡でもよく耳に目にするグリーンツーリズム。農山漁村などに長く滞在し、農林漁業体験やその地域の自然や文化に触れ、地元の人々との交流を楽しむという、新しい旅のあり方を言います。農山漁村は生活の場でもありますが、よそ者にとっては日常と異なる余暇の空間です。都市近郊に住む人が農村や山村、漁村を訪ねて、そこに暮らす人々との交流を味わい、豊かな自然環境や地元の暮らし、農林漁業を体験してもらう。マチの人びとには観光旅行とは違う体験と感動を、ムラの人びとには地域資源を守りながら活性化へとつながるというもので、むらおこしやまちづくりの面からも近年注目を集めています。
 黒木晴代さんが試みを始めた農村民泊もその一つ。とは言え、実際に民宿を開くには、旅館業法や食品衛生法、消防法、建築基準法など、多くの法律の基準をクリアし許認可を受けなければなりません。そこで考え出されたのが、「安心院方式」と呼ばれる会員制の農村民泊システム。大分県安心院町では平成8年から、不特定多数ではなく会員制、宿泊料ではなく農村文化体験料として宿泊者から謝礼を受け取る形で、当時の法制度に適合させた農家民泊の取り組みが始まっていました。その後、全国的な規制緩和と構造改革特区構想が進み、行政や法制度が後追いをする形で法制度も改正され、現在ではモデルケースとして全国に知られるようになりました。
オープンしたてのペンション黒木も、まずはこの安心院方式を採用することにしました。
最初は、知り合いや口コミで聞いた人が泊まりに来てくれたり、迷い込んだように旅行者が訪ねてきたり。数年前、村の観光パンフレットの民宿案内のページで、たまたま「会員制農業体験施設(要予約)」として掲載されました。ほかの民宿が全部埋まっていたため、「どこか泊まれるところがないか役場で尋ねたらここを紹介され、よく分からなかったけどとりあえず来ました」とやってきた若い旅人もいました。晴代さんから地元に残る伝説を聞いたり、山を散策したり、田オコシやナバ採りを体験したり、軽トラドライブで新緑の山を案内してもらったり、摘んだばかりの山菜を天ぷらにして味わったり。あるいは一日何もせずに、鳥の声を聞きつつのんびりくつろぐのも、ここではもちろんOK。お客さんに晴代さんは、翌日何をしたいかを聞いて、それぞれが思い思いに時間を過ごせるようにしています。
ワンルーム25畳のフローリングの室内には、はしごで上るロフトも作られています。ジャングルジムのように上ったり下りたり、家族連れや若い学生にも好評だそう。焼酎の並ぶ窓際には、小銭の入った大きな大きなガラス瓶が置かれています。いつかは叶えたい晴代さんの夢のひとつ、露天風呂作りのためのカンパ入れです。カンパをしてくれたお客さんは、隣り並ぶ各銘柄の焼酎が飲み放題というおまけつき。
「畑や家のことなんかもあるし、お客さんが時々来るくらいの今のままが、私もちょうどいいんですよ」。自分が一番楽しませてもらっている、と晴代さんは晴れ晴れとした表情で語ります。

写真=地域の人々の交流の場でもある上平野のお堂。大イチョウの木のそばにある
写真=春にはサド(イタドリ)を採りにお客さんと山へ。油炒めがおいしい


Vol.55(2005.1.23掲載)
 黒木晴代さんの住む上平野地区は、五木北小校区。子どもたちは杉木立の山道を歩いて国道まで下り、宮園の小学校まで通います。宮園は頭地に続く村内第2の集落。往時より減ってはいますが、現在20名ほどの児童が在籍しています。
 地域で子育てをする中で、晴代さんは絵本の読み聞かせボランティアをするようになりました。小学校の畳スペースで、子どもたちに絵本を読んで聞かせたり、手話で一緒に歌を歌ったりと毎週楽しみなのだそう。ほかにも、子どもの相談にのったり登下校の見守りをする主任児童委員や、近くに住む高齢者の病院送迎など、地域に根ざしたいろいろな活動をしています。
 「なんやらかんやら、やらしてもろうとります」。
 陽気に笑う晴代さんに、五木に来られてすぐの頃は地元に溶け込むのに苦労されたのでは…と恐る恐る尋ねました。苦労をした、という答えを予想してでしたが、意外にも「それが私の場合、幸運にもそういった苦労はなかったんですよ。地元の方たちにあたたかく迎えてもろうてですね」。田畑にしても子どもたちのことにしても、自分の家のように気に懸けて下さる。山村特有の密な近所づきあいも、集落全体が大きな家族のようで、晴代さんには居心地が良いのだとか。ざっくばらんでさっぱりした、晴代さんの気質によるところもあるようです。
 豊かな山と川に囲まれ、山里の恵みを味わう暮らしの中、自然や環境のこと、山村の将来についての関心も高まります。
 今から十年余り前。晴代さんは地域で小さなリサイクルの取り組みを始めました。
 当時、すでに人吉のスーパーや生協などでは、リサイクルのため牛乳パックやトレイの回収が始まっていました。しかし、五木ではまだ回収システムはなく、村にかけあっても実現するのは先のよう。多くの家では、燃えるゴミとして庭先で燃やしていました。できることはまず足元からと、晴代さんはお堂のそばに回収箱を設置。集落の家々をまわって回収を呼びかけました。しばらくすると、牛乳パックとトレイが回収箱いっぱいに集まるようになりました。回収したものは晴代さんがまとめて人吉へ届け、取り組みは周辺の集落にも広がりました。村が回収を始めるまでの数年間、自主回収を続けました。
 1998年、晴代さんは「観光ガイドインストラクター養成講座」の知らせを目にします。主催は九州ハイランド活性化協議会。読めば受講生を募集しているとのこと。どんな内容だろうかと興味がわきました。

写真=村でただ一人のおまわりさんと。自転車で見回りの途中、地区の子どものことでちょっと立ち話。左は宮園の五木北小の先生
写真=タカキビで作った晴代さん特製のキビ団子


Vol.56(2005.1.30掲載)
 「九州ハイランド活性化協議会」には、高森町・蘇陽町・清和村・矢部町・御船町・五ヶ瀬町・美里町・東陽村・泉村・椎葉村・水上村・五木村・相良村の、自治体13町村が加盟しています。九州ハイランド(高地)とは、阿蘇外輪山の南から球磨郡に至る熊本県東部と、宮崎県西部を含む九州脊梁山地一帯を名付けたもの。長い歴史と文化が息づき、自然体験ツアーやアウトドアの可能性を秘めたこの地域で、観光と地域活性化のため互いの交流、連携を進めていくための協議会です。人材育成事業の一つとして、新たにガイドインストラクター養成講座が開かれることになったのでした。
 晴代さんは早速申し込みを決意。地元の知り合いとともに、五木からは2名で受講し、旅行者を案内する心構えや山の歩き方、植物や自然体験についての知識など、ガイドをするために必要なことを学びました。先進地の取り組みを知り、各地で元気に活躍している人たちと出会えたことは新鮮な体験で、晴代さんにとって大きな励みになりました。
 講座受講後、晴代さんは「九州ハイランド観光ガイドインストラクター協会(KHI協会)」の活動に関わることにしました。ガイドインストラクター養成講座受講生や関係者の有志により、当時発足したばかりの自主組織。「環境との共生を考えた新しい地域観光」をコンセプトに、講座で学んだ知識の実践と研鑚の場として取り組みを続けていくことになりました。
 KHI協会では各地のガイドが牽引役。山登りやトレッキングガイド、川遊びや沢登り、森でのネイチャーゲーム、山野草や野鳥観察、茶摘みに枝打ち、かずら工芸、山菜料理、石橋ガイドや歴史探訪など、訪れる人の要望に合わせた多彩な体験メニューを準備。KHI協会メンバーは、各自地元での催し物開催や観光・自然ガイドとして案内したり、総合学習の授業づくりの相談に応じたり。ハイランド地区共通の観月会や俳句コンテストの実施、ガイドブック作成なども行っているほか、KHI協会自身のガイド認定制度もあり、研修会や講座を通して、ガイド自身のレベルアップと教育にもつなげています。
 KHI協会五木支部窓口でもある晴代さんは、自然体験・農林業体験が得意分野です。KHI協会認定の農林業体験インストラクターでもあり、昨年末には、グリーン・ツーリズム・インストラクターの資格試験にも合格しました。ペンション黒木は食堂も営業していて、調理師と家庭科の中学教員資格も持っているのだそう。クネブや柚を使ったマーマレード作り、サド(イタドリ)と揚げの炒め物、野草の天ぷらやタカキビで作った団子など、地の物を使った伝統料理や保存食作りも、楽しみながら手際よくこなします。昨年2月に村で開かれた「第1回五木ふるさと食コンテスト」では、晴代さんの「元祖きびだんご系」「さど入り山菜おこわとさど炒め」が、優秀賞の一つに選ばれました。
※九州ハイランド観光ガイドインストラクター協会
http://www.kyusyu-highland.com/  TEL/FAX:096−388−0457

写真=ペンション黒木の内部。学生が宿泊や話を聞くため訪ねて来ることも。
写真=各地の魅力とおすすめスポットをまとめた、九州ハイランド活性化協議会のパンフレット。


Vol.57(2005.2.6掲載)
 ペンションへ上がる階段に掛けられた、一つかみのタカキビの束。今では稀少種となった種を、大事に育て、増やしてきたものです。濃い赤紫の穂をつけるタカキビは、秋の収穫時には高さ2メートルを超えます。それを刈り取って、唐箕や臼を使い粉にするまでは、時間と手間がかかりますが、晴代さんにはそれを楽しむ心のゆとりがあるようです。
 さて、上平野のシンボルでもある大イチョウの根もとに、苔むした古いお墓があります。江戸時代に実在した相撲取り、熊ヶ嶽猪助の墓です。本名を黒木松次郎と言い、黒木家にとっては祖先にあたります。
 熊ヶ嶽は、当時の相良藩肥後国球磨郡五木村上平野の出身。幼い頃から相撲に秀で、熊ヶ嶽が出場すると、勝負にならないため相撲大会は中止されたと言われています。18歳で熊本嶋川磯平の門下に入り、23歳で京都若駒部屋へ。大阪相撲で活躍した後、31歳で江戸の追手風喜太郎を訪ね門弟となり、活躍の場を江戸相撲へと移します。弘化2(1845)年、熊ヶ嶽は32歳で平戸藩のお抱え力士となり、親方の名を継いで黒柳松治郎と名乗ります。嘉永元(1848)年には、相良藩お抱え力士となって四股名を熊ヶ嶽猪助と改め、活躍後47歳で角界から引退。通算17場所を踏みました。故郷に戻り、後進の指導に当たりましたが、帰郷した翌年の安政2(1855)年3月7日、人吉にて病没。享年48歳の若さでした。熊ヶ嶽の菩提は、実家の上平野と永国寺とに祀られました。
 昨年3月、五木北小学校を会場に、「熊ヶ嶽杯わんぱく相撲大会」が開かれました。上平野を含む、宮園地区の地域づくり組織「リバーサイド山里の会」が初めて開いたもの。会場そばには、土俵に立つ熊ヶ嶽を描いた大きな錦絵も登場し、相撲協会から大人の相撲取りも加勢にかけつけてくれました。村内の小学生たちの元気な取口に、地元の人や家族からにぎやかな声援が送られました。平野が生んだ名力士は、今も故郷の誇りでもあります。
 亡くなった晴代さんの義父も、熊ヶ嶽にあやかって同じ松次郎の名でした。晴代さんはお客さんを案内する時、熊ヶ嶽や人情淵の話など、地元に残る古い言い伝えや伝説も話すようにしています。何事も前向きな晴代さんに理由を尋ねると、「縁あって嫁いだ場所で、与えられた環境や自分にできることは、できるだけ活かさんばんですから」と、笑顔が返ってきました。
 五木で暮らすようになり早24年。晴代さんは3人兄弟の真ん中で、鹿本の実家は兄が継ぎ、一つ下の妹は東京へ、姉の晴代さんは五木へと嫁ぎました。「だけど今では、東京や町の方から五木に旅行者がやってきたり。おもしろかもんですよね」。
 観光ガイドインストラクターとして旅人を案内すると、鳥や木々、四季の移ろうこの場所の豊かさを肌で感じます。結婚して間もなく、合成洗剤をやめる運動を地域へ広げる小さな取り組みを始めたのも、中流や下流でいくら川を守ろうと言っても、自分たち上流が川を汚していてはどうにもならないとの気持ちからでした。自然や環境を大事にすることが、結局は自分たちの命や暮らしを大事にすることにつながる。晴代さんはそんな気がしています。

写真1=平野に残る熊ヶ嶽の墓所。雨上がりの棚びく雲を背景に、静かにたたずむ。
写真2=錦絵は今でいうブロマイド。熊ヶ嶽(中央)は二枚目関取として知られていたらしい。


Vol.58(2005.2.13掲載)
 紅白の梅のつぼみもほころび始めた2月。平野地区の前を流れる川辺川は、冷たく澄み切った水が滔々と流れています。
 国道沿い、下平野地区の前の川辺川に、人情淵と呼ばれる大きな岩が残っています。
 川に向かって突き出た岩の上に、3本の赤松が根を張った様子はなかなか趣き深く、小雨の落ちる日などは一幅の掛け軸のようです。岩の上には小さな祠が建てられています。
 河川改修で様子が変わってしまいましたが、かつてこの岩の下には、深く水を湛えた淵があったのだそう。地元には、人情淵にまつわる古い言い伝えも残っています。
 ある家に姉妹が生まれました。姉妹は一人の若い青年を恋い慕いますが、やがて互いの心を知ります。苦しんだ姉妹は川に身を投げ、二人が沈んだ淵は黒く濁りました。その後この淵には大蛇が現れるようになり、姉妹が姿を代えたものとささやかれたと言います。
 黒木家はこの青年にゆかりのある家系。黒木晴代さんの家では、代々人情淵にある姉妹を供養する祠を祀ってきました。岩場にあった祠はその後近くの小高い山に移し、晴代さん夫婦は今でも供養を続けています。
 隣りの集落には、姉妹にゆかりがあると言われる旧家もあります。そちらの古老が、かつてこのような話を語っていたとも聞きました。
 ある時この家に姉妹が生まれた。姉妹のところに、夜な夜な若い公達が現れては、明け方前に帰ってゆく。不思議に思った母親は、公達の袂に密かに針を刺すよう娘の一人に言います。公達が去った後、母親が苧をたよりに後を追うと、苧はどこまでも続き、やっと辿り着いたのは、日向国との境にある姥ヶ嶽八幡。針はお堂の中に立つ木像の袂に刺さっていました。帰って母親がそのことを告げると、嘆き悲しんだ姉妹は人情淵に身を投げ、その後淵には、7巻き半もの大きな蛇が現れるようになった…。
 姥ヶ嶽は、今の大分と熊本、宮崎の県境にそびえる祖母山の旧名。姥ヶ嶽八幡の化身は大蛇と言われており、各地に残る大蛇伝説とのつながりを感じます。
 また、「平家物語」第八巻緒環(おだまき)には、豊後国の英雄、緒方三郎惟栄(これよし)の出自についての下りがあり、苧を辿る場面等が人情淵の話とよく似ています。
 惟栄は源義経とともに、平安、鎌倉の激動の時代に活躍した人物で、豊後大神一族の頭領でした。平家の家人ながらその横暴に怒り、太宰府に落ちてきた平家を追討し、平家滅亡の端緒を開いたとされています。壇の浦の戦いでも源氏方を支え、義経が頼朝に追われると義経を支えて共に逃亡しますが捕らえられ群馬へ流されました。この惟栄は姥ヶ嶽大明神の化身である大蛇の末裔とされ、その武勇を畏れられていたと言います。
 伝説はいずれのものが本当なのか、あるいは、伝えられる中で少しずつデフォルメされていったのか。今では真実の確かめようもありません。
 ペンション黒木では、こういった地元に残る古い話も語り継いでいます。

写真=人情淵の大岩。姉妹の悲哀にまつわる伝説が語り継がれている。
写真=五木の子守唄を歌う黒木晴代さん


Vol.59(2005.2.20掲載)
 晴代さんが五木に嫁いで24年。第二のふるさとの将来に関わる問題として、川辺川ダムの行方はいつも気になります。
 村がダム本体工事着工に同意したのは1996年10月。それまでダム関連工事として進んできた村づくりの主体は、国や県主導から、少しずつ村や住民を主体としたものにすべきという動きが少しずつ始まりました。
97年、村は新たに景観審議会を設け、当時着工したばかりだった頭地代替地や村全体の景観づくりについて、条例制定へ向け答申づくりが行われました。晴代さんも委員の一人としてこれに参加。翌年、「ふるさと景観を守り育てる条例」が設置されました。
「わたしたちの求めるふるさと景観は、大自然と人工物と人間の3つの要素の調和から生み出される風景である。そして、生活と文化がとけあった視覚的な美しさと、人々のふれあいから醸しだされる心の充実感である」。
条例の前文にはこう歌われています。審議会で出たすべての意見が取り入れられたわけではないものの、この条例で頭地代替地は重点地域に指定され、かつての集落の面影を残した、緑に包まれた新しい景観づくりが決まりました。ただ、現在の代替地はやっと住宅や公共施設が移転が終了した状態。当初は移植や植樹が予定されていたイチョウやイチイガシ、ケヤキなどは、数本を残し、かつての集落跡地から伐採されつつあります。
「『トンネルを抜けるとそこは大都会だった』じゃ、あんまりですもんね」。代替地の夏は気温も高く、暮らし心地のよい村づくりへはまだ道半ばのようです。
行政の動きは遅く、時には柔軟性や現実性に欠くようにも見えます。「ダムありき」ですべてを進める今の村のあり方に、疑問を感じることも少なくありません。周囲からの誤解や、うまくいかないジレンマに落ち込むこともありますが、長い目で村の将来を考えた時にどちらが良いのか、晴代さんはこれからも考え続けて行きたいと思っています。
 「ホタルなんかも、どういう仕組みで育っているのかとか、知っておかないといけないと思うんです」。昔は人情淵にもたくさんホタルが飛んでいたそうですが、今ではポツポツとまばらにしか見れません。鹿本町の実家では、父親が長くホタルの繁殖作業に取り組んでいました。今ではホタルも増え始め、鹿本の夏の風物詩になりました。
「『昔はたくさんおったとにいつの間にか減ってしまった、なんでやろうね』じゃなくて、どういう仕組みで今の環境があるのかば知っとらんと」。晴代さんの言葉は、私たちの今の暮らしそのものを問いかけるようです。
 昨年6月、人吉・球磨は「森林(もり)の郷(さと)農林業げんき特区」指定を受けました。規制緩和、構造改革の全国的な流れを受けたもので、民泊や市民農園を始める際や、サルやシカなど害獣駆除を行う際の規制を一部緩和し取組みを促進していくのが狙い。ペンション黒木は、あさぎり町の民宿と共に、管内第一号として正式な営業許可を受け、晴代さんの夢がまた一つ実現しました。
 熊日新聞での連載やグリーン・ツーリズム・インストラクター資格取得など、昨年は晴代さんにとって充実した年となったそう。女性としても外から五木へ入ったよそ者としても、晴代さんとの交流は私にとって励みと刺激になります。
 今年はどんなおもしろいことを考えられているのでしょうか。一緒に過ごす春の訪れが、今から待ち遠しいところです。

写真=ダム関連工事の着々と進む頭地地区。下頭地端の開通も近いが…


Vol.60(2005.2.27掲載)
 さて、近年川辺川ダム問題が広く知られるようになり、現在では西の川辺川、東の八ッ場(やんば)と言われるようになりました。どちらも、数十年前に計画されたものの、現在まで本体工事着工に至っていない巨大ダム計画です。
 国際的に、あるいは東アジア地域では、ダムや河川開発問題に取り組むNGOのネットワークができつつあり、情報交換や交流が積極的に進められています。東南アジアなど途上国で作られるダムの多くは、世界銀行やアジア開発銀行(ADB)、日本国際協力銀行(JBIC)など国際的な開発金融機関が、「援助」と称して融資が行われることが多くあります。ダムを作って発電をすると、電力を売電することで外貨が稼げる。または国内に電力を供給して経済が豊かになる。富は豊かな層から貧しい層にまで広がっていくという、古典的なトリックルダウン(したたり)理論とが「開発する側」から住民へ押しつけられてきました。ここ数年、世界的な規模で、開発の目的は「経済発展」一辺倒から「貧困削減」へシフトしつつあります。ダム建設も、国際開発金融機関や企業、政府の側から、貧困削減政策の一環として位置づけられるようになりました。
 世界銀行、アジア開発銀行に対する日本の出資額は、それぞれ第2位、第1位を占めています。どちらも融資決定の際は、出資各国は一国一票制ではなく、出資比率に応じた投票権を持ちます。アジア開発銀行は、歴代総裁をすべて財務省・大蔵省出身官僚から輩出しており、日本政府の意向を大きく受けています。国際協力銀行は、日本の税金と膨大な額の財政投融資を原資に、世界中に投融資をしている機関。貸付額では、世界銀行に匹敵する規模を持ちます。ダムマフィアと呼ばれるこれらの機関は、空疎な住民参加や環境配慮を実施しつつ、現在でも世界中にダムを作り続けています。事業が失敗しても途上国に債務は残り、日本政府などへの重債務の返済が国の発展を妨げてきたのも忘れてはならない事実です。
 これらのダムや河川開発問題に取り組む、アジア地域、また世界地域でのNGO間でネットワークが作られつつある中、川辺川ダムは日本を代表するダム問題として、多くの場面で事例報告をしてきました。日本は、国際開発機関へ大口の出資国としてのみでなく、国内にも公共事業として実施されるダム計画があり議論を呼んでいることや、どのような現状があるのかを知ってもらうためです。住民参加の欠如、環境や漁業など生態系への影響軽視、大規模な住民移転、採算性の薄さ、将来に渡る債務化などは、いずれのケースでも国境を越えて共通しています。
 アジアを代表する「問題」ダム事例として言われるものに、東北タイのパクムンダムがあります。世界銀行の融資により94年に完成した発電用ダムで、メコン川の支流にあります。地元で強い反対運動が続く中で完成したものの、甚大な漁業と生態系影響を引き起こし、毎年一定期間、生態系回復のためのダム水門開放が決まった問題ダムです。

写真=タイ東北部にあるパクムンダム。巨大な魚道もメコン河の回遊魚の生態系回復には役に立たなかった
写真=漁業を生業としていた被害住民は、ダム水門の永久開放を求めている


Vol.61(2005.3.6掲載)
 2003年11月、パクムンダムにほど近いタイ東北部ラーシーサライにおいて、ダムについての国際会議が開かれました。「第2回ダム被影響住民と支援NGOによる国際会議」で、通称は“RIVERS FOR LIFE”(命のための川)。米国の国際河川ネットワークが主催し、62カ国から300名を超える人びとが参加しました。
 当時私は、タイの環境NGO「東南アジア河川ネットワーク」でインターンをしていました。助成金を受けて、環境と開発についてや、タイのダム問題解決におけるNGOの果たす役割を知るため3ヵ月半のタイ研修が実現し、この会議へは日本人参加者のサポートや事務ボランティアスタッフとして参加しました。
日本からの参加者は約10名。ODAによる開発問題をモニタリングしているNGOの他、日本国内のダムや河口堰問題解決に取り組んでいる「水資源開発全国連絡会(水源連)」などの市民グループや研究者といった顔ぶれでした。
その日本メンバーで唯一、開発による直接の当事者として参加していたのが、漁民有志の会の吉村勝徳さん。川辺川からの参加です。吉村さんは会議で、ODAと同じような構造で、日本国内にも地域住民や環境へ大きな負荷を与えるダム計画があることや、先進国でありながら、政策決定プロセスへの住民参加システムや法の整備が遅れていることなどを報告。これまでこのような場で語られる日本は、破壊的なダム計画へのドナー(資金供与)国の代表格としてのみでしたが、同じ政府主導の事業により影響を受ける人びとが国内にもいることを生の言葉で伝えたことで、多くの参加者から共感が寄せられました。
資金の流れ、環境アセス、政策決定プロセスへの住民参加の確保、法改正、ダム撤去、NGOのモニタリングや地域ごとの連携強化など、多彩なテーマの分科会が開かれ、参加者同士で積極的な交流が行われました。会場内展示スペースでは、川辺川ダムコーナーも設けました。私は展示制作を担当し、川辺川の自然環境や漁民や利水農家のおかれている状況に加え、五木村についてのパネルも1枚加えました。五木村にこだわったのは、自分の足で現地を訪ねている分、水没予定地が現在おかれている状況や五木で暮らす尾方茂さん一家の思いについて、どうしても触れておきたいという気持ちからでした。
2000年11月、世界ダム委員会(WCD)という国際機関から、1冊の分厚い報告書が発表されました。2年間をかけ世界中の1000以上のダムについて事例調査と分析を行い、今後へ向けたガイドラインや勧告づくりを含め、400ページに及ぶ長大な最終報告書をまとめたのです。報告書は、大規模ダムが建設推進者側の主張ほど発電、水供給、洪水抑制などを実行できていないことを充分な調査報告をもとに明らかにするとともに、住民の合意や代替案検討の必要性、既存のダムの評価と見直しを指摘し、国際的なダム政策の見直しをせまった画期的な内容でした。
パクムンダムはそのWCDによって、重要なケーススタディとして選ばれた8つのダムのうちの1つでもあり、開発援助の問題に関心のある人たちの間では知られています。
ペンション黒木や瀬目マロン会など、昨年京都から五木を訪ねた大学生グループが「川辺川」へ入ったのは、このパクムンダム問題がきっかけでした。
【お知らせ】
演劇舎蝶恋花によるドキュメンタリー映画「せめて自らにだけは恥なく瞑りたい〜川辺川ダム異聞」が、3月11?13日東京都江東区の門仲天井ホールで上演されます。全6回公演。東京の若者が見た川辺川を、実際のインタビューと演劇をまじえて上演します。問合せ:090−7299−8192(葛西)

写真=ダム会議で川辺川についての展示を熱心に見る参加者。五木村についての展示もあった
写真=WCD報告書は市民ガイド本も出されている。問合せTEL:03-3951-1081


Vol.62(2005.3.13掲載)
 ODA(政府開発援助)によるダムと、公共事業としての国内ダムの問題には、財源や計画過程でいくつか共通点があります。
 ODAの財源には、税金のほか、国民年金や健康保険、郵貯を原資とした財政投融資も多く使われます。財政投融資は「第二の政府予算」とも言われ、一般会計の3割から4割に匹敵する巨額の資金でありながら、国会で検討される一般会計とは違って、使途についてはほとんどノーチェックで運用されてきました。現在ではその「焦げ付き」が大きな問題になり、病んだ日本財政の病巣部分でもあります。
 また海外で作られる巨大ダムの場合、強制立ち退き、環境影響や社会影響評価の軽視、採算性の小ささ、計画段階から住民参加の欠如などが問題になります。近年では、援助機関に社会環境影響ガイドラインなどが制定され、異議申立制度やガイドライン遵守を監視する中立機関なども作られるようになりました。
 一方、公共事業として計画される国内のダムの資金源は、その多くが私たちの税金。ですが、県や自治体の負担金は地方債発行につながり、その買い取りの多くは財政投融資によって国が引き受けることになります。加えて国内のダムでは、環境や社会への影響評価や住民参加制度などの整備が極めて遅れているのが実状。公共事業を実施する法律はあっても、時のアセスメントや社会環境影響評価を義務づける法制度やシステムは整っておらず、走り出した公共事業は止まりにくい構造になっています。政官財の癒着は言うまでもありません。
 環境と開発に関心を持ち、海外だけでなく足元の日本で行われているダム問題も考えていこう。ダムというものが何を引き起こすのかを知りたい。そういった思いで五木村へ入った京都の学生グループは、昨年2度の五木訪問を経て、大きな衝撃を受けたようでした。
 実際に現場へ足を運んで見たり知ったりした事実は、事前に本や資料で調べて抱いていたイメージとは異なり、生活者の生の声はここに来なければ分からなかったと言います。下流でダムに反対する漁師や農家、市民グループの人達とも出会い、上流の五木村で、先祖から受け継いだ土地を守るため移転を拒む人や、ダムを強く推進する村長、地道に地域づくりに取り組む人びとと出会い、それぞれの胸に複雑な思いを抱えたまま帰路に付きました。
 京都へ戻った彼らは、自分たちが見てきたことをどう次へつなげるかを改めて話し合いました。現場から遠い、しかし問題の構造そのものは自分たちにもつながりがある。自分たちの見たもの、感じたものを人へ伝えることができることの一つではないかと提案が出て、京都での川辺川写真展企画にたどりつきました。
 自分たちが撮影した写真100枚をパネルにし、川と人のつながり、五木村の自然や人びと、ダム問題についてなどをまとめ展示しました。立命館大大学祭と京都市内のギャラリーとで開いた二度の写真展では、ゆっくり見てもらうためにとカフェも同時企画。メニュー表には、五木の瀬目マロン会に材料を提供していただいた、お茶やそば粉などを使ったケーキなどが並びました。

写真=五木を訪ねた学生たちが昨年11月に開いた、大学祭での写真展。
写真=五木から地元産のお茶やソバなどが届き、準備にも力が入る


Vol.63(2005.3.20掲載)
 京都で開いた写真展では、敢えて「ダム反対」の言葉を飲み込みました。先入観なしに自分たちが見たまま感じたままを伝え、その上で一緒に考えてほしいという考えからでした。
 写真展は来場者数も上々。事前に京都新聞で取り上げられたのを見て、今は京都市に暮らす五木村出身の方も来てくれていました。夫婦、子どもと家族全員で見に来て下さったその男性は、展示していた旧頭地地区の航空写真の中に、かつて過ごした自分の家を見つけて非常に喜ばれたそう。遠く離れた村での思い出を学生たちと懐かしく話し、開催のお礼を何度も重ねながら会場を後にされました。
同じように、紆余曲折を経て五木村へとたどりついた若い世代の中には、別の切り口の人たちもいました。 
 昨年夏頃から、カメラを手に度々五木を訪問している一団がありました。私と同じくらいの年頃の人たちが、映画を撮るのだと東京からちょくちょくやって来ている、と、私も時々耳にしていましたが、五木では会う機会のないまま。先月知り合いにもらったチラシを見て、その映画が完成して今月11〜13日に東京で上映会を開くことを知りました。
 川辺川をテーマにしたドキュメンタリー映画「せめて自らにだけは恥なく瞑(ねむ)りたい〜川辺川ダム異聞」を制作したのは、東京の演劇舎「蝶恋花」の20代のスタッフたち。1年近くの間で8度ほどこちらを訪ね、五木や下流に暮らす人びとの声をカメラに収めました。
「現代の若者である自分たちが、川辺川ダム問題や五木を知って現場へ行き、それぞれの立場からダム問題と『向き合う』人たちと出会い、何を感じたかを伝えたかった」とスタッフの藤本さん。映像に演劇を組み合わせたユニークな試みは、全6回上演すべてが満席という大成功に終わりました。
 非水没地でヤマメ養殖業を営む方や、今はダム反対の旗を降ろし静かに暮らす元地権者協議会のメンバーたち、水没地に暮らす尾方茂さんなど、彼らは五木関係者数人にもインタビューをしました。12月初め、最後に茂さんを訪ねた際には座敷に泊めさせてもらったそう。滞在のお礼にと、町で買ったクリスマスのイルミネーションを飾り付けて東京へ帰ったのだそうです。庭の大きな柿の木に灯る電飾を見上げながら、照れくさそうに茂さんが話してくれたのを思い出しました。
 京都で写真展を開いた学生たちも、映画を制作した青年たちも、それぞれに五木で自分たちが感じた思いを伝える手段を選びました。はるかまで連なる山の稜線や、石灰岩の白い岩をかんで流れる清流、日の出から日没までゆっくりと流れる時間といった山里の暮らしと、粛々と進むコンクリート打設工事や重機の機械音といった、目に映る事象だけが彼らの見たものすべてではなかったよう。五木に暮らす人、暮らした人たちの生の声に耳を澄ますことが、自分自身の「あり方」への問いかけへと帰っていった気がします。リアルな日常に触れた瑞々しい感性が、ダムというフィルターを越えた先にあったものを、垣間見させてくれたのではないでしょうか。

写真=梶原川沿い、小原での茶摘み風景。ドキュメンタリー映画制作ではさらに上流にあるヤマメ養殖場も取材した。
写真=演劇舎蝶恋花の公演チラシ


Vol.64(2005.3.27掲載)
 私が初めて五木村を訪ねたのは2001年初夏。川辺川ダムの現場としてでした。福岡高裁で利水訴訟が係争中で、球磨川漁協の補償受入をめぐり大きく揺れていた頃。福岡で、環境問題や公共事業問題として「川辺川ダム」問題に取り組んでいる友人がいて、時々話を聞いていました。海外のダム問題を見聞きしていた自分にとって、国内ダム問題は未知の世界。ダム問題とは何かということについて、紙や本など文字による情報しか知りませんでした。
 砥用を抜けて北から下る中、さっきからずっと続いている山々を見て、こんな山深いところがあったのかと驚き、車窓に目が釘付けになりました。紹介してもらった人吉の川漁師の方に、ダンナ制とコバサクなど山村の歴史や、ダムをめぐる今の村の立場とその理由について聞きました。ちょうどその頃、熊日に連載された五木日記が、『山が笑う村が沈む』(熊本日日新聞、葦書房、2001年)という1冊の本になって刊行されました。福岡の戻って偶然書店で手にしページをめくると、ダムをめぐる、村の溜息の聞こえるような苦悩と、山村に古い民俗風習が残ることを知りました。
 年が明けて、暇を見つけては時々五木を訪ねてみるようになりました。民俗学者か社会学者かの真似事です。自分の力と知識不足を嘆きつつも、自分の足で歩かなければ分からない部分があるはずと信じてのことでした。熊日の本に出てくる人物や話も参考にしながら、古い話を聞かせてほしいと村に飛び込んでいく私の胸の内には、生意気にも、ダムについての村の人たちの思いには、きっと新聞記事には出ていない部分もあるのではという思いもありました。人びとの生活とダムの間に、簡単には話すことのできない長い時間や沈黙が横たわっていることを感じました。まだ記されていない村の記憶をたどることは、地域や開発問題の根底を見つめたいという自分の思いと重なって行きました。
 五木村にもさまざまな考えの人がいます。初めて五木を訪ねた頃には、ダムの話と切りだした途端、玄関口や電話口で強い拒絶に遭って、一人落ち込んで帰ったこともありました。村外へ移転したばかりの方にインタビューを申し込むと、「あなたたちによって自分たちは振り回され続けた。ずっと振り回され続け、結局は自分たちが馬鹿を見た。何も言うことはありません。今後ももう二度と連絡しないでほしい」と断られたことも。「もしダムについて知りたいと言うのならば、ここに住む全員に聞かなければ分からない。それぞれがそれぞれ人生の大切な時間をダムによって失い、一人一人、ダムへの思いは違う」といった言葉を聞くこともありました。
 ダム問題はそれのみで単独であるのではなく、長い村の歴史の中の最近のページに書かれたもの。人の心に土足で踏み込むような自分の行動を後悔し、村の背景をさぐりながら丁寧にたどっていきたいともう一度村を訪ねていくことにしました。
 「もしまた新しくダムを作ることになれば、その時は上流も下流も一緒に話し合ってほしい。ダムによって上流で失われるものと、それによって守られるというものとを同じように示し、上流も下流も一緒に考えてほしい」。
 今はもうダム反対の旗を降ろした元村民の方の言葉には、多くの思いと時間が横たわっていることを考えさせられました。二度と同じようなことが繰り返されないことを願う、真摯な思いからのメッセージでした。

写真=清流に沿って深い谷が続く五木村。海辺育ちの私にはすべてが新鮮に映る
写真=五木行きバスは密かなお気に入り。川辺川を左手にのんびり上っていく。


Vol.65(2005.4.3掲載)
 五木は、これからどこへ向かおうとしているのでしょうか。
 平成8年、現在の村づくりの基本方針となる「五木村ルネッサンソン計画−子守唄の里づくり計画書」がまとめられました。この一冊の計画書は、完成までに丁寧なプロセスと時間がかけられています。
 平成6年頃、五木で「水曜会」という地域づくりグループが活動を始めます。メンバーに共通していたのは、進学や就職、独身時代などそれぞれ一度は村の外を経験していたことと、ダム是非をめぐる激動の時代を経験した世代に続く「ダム第二世代」だったこと。当時20〜30代の若い世代でした。ダムで疲弊し分断されたまま、地域衰退へ向かおうとしていた村を見た彼らは、このままだと村の将来がだめになってしまうという危機感を感じていました。独自の活動を展開する中、水没地が中心、行政が主体という点で、従来の地域振興計画や立村計画に対し疑問も生まれました。
 新たにルネッサンソン計画づくりが始まった際、水曜会は牽引役として活躍しました。徹底した住民参加と全村対象にこだわり、村内を6ゾーンに分けてそれぞれの地域の将来像について話し合いを重ね、計画へ反映させる道筋を作りました。
 ルネッサンソン計画策定から10年目が近づき、現在村ではその見直しと評価作業を進めています。住民自身が地域の将来を考えた点で高く評価できる計画ですが、この中の提案や事業の少なからぬ部分は、予算や優先順位の関係でダム関連事業に含められています。ここでもやはり、ダムの動向が村の将来に立ちはだかってしまうのです。
 間もなく、長い冬が終わりを告げ、五木にまた春がめぐってきます。
 村じゅうで命が芽吹き、鮮やかな新緑と草花が彩る山里の春。私はいつもの道を五木へ向かいます。途中瀬目マロン会に立ち寄って、お気に入りのユズ甘露煮を買い込み、トンネルをくぐって頭地へ。資料を探しに役場や商工会に寄ってから、いつも訪ねる尾方茂さんの家へ。二匹の犬の頭をなでて目を遣れば、畑で鍬を握る茂さんとチユキさんが笑顔で迎えてくれます。小麦は風に揺れ、夏野菜も種蒔きの季節。自家製のお茶で一服して聞き取りの続きを再開し、それからペンション黒木にも遊びに行こう。晴代さんと道端でサドを取りつつ山菜の天ぷらピクニックに。冷たい清水を口へ運ぶと、喉の奥でゴクリと寿命が延びる音が聞こえます。初めて行く場所、初めて会う人、初めて聞く話。人見知りですが、何度訪ねても飽きないのは掘り下げるほどに魅かれるから。村の今昔を書き留めておけば、山村の歩みやダムを考える一つの視座として、また誰かの役に立つことがあるかもしれません。
 「よそ者」は地元住民にはなれず、逆もまたしかり。しかし村が周囲との関係性の中で存在している限り、村と「よそ者」とは相互に影響し合います。水曜会の視点や行動力も、「よそ者」の視点と住民の視点とをうまく融合させたことによるものかもしれません。二つが互いに関わり合い変容を遂げながら、また新しい関係が生まれていくような気がします。
 その狭間で、私自身は五木にどう向き合うのか。地元の人を中心にして、例えわずかでも「よそ者」が担える部分はないのだろうか。薄れゆく山村民俗や村社会の変化をどう捉え、また誰かへと伝えていくために自分に何ができるだろうか。
 私のささやかな模索と思索の旅は、これからもまだ続きそうです。
 長くお付き合い下さった読者の皆様、どうもありがとうございました。また、五木でお目にかかりましょう。(おわり)

写真=ソバガキを知らないと言うと、茂さんが作って食べさせてくれた。聞き取り中の一コマ
写真=浪人越から見た五木の早朝。雲海の下でそれぞれの一日が始まる

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