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君死にたまふこと勿れ
(旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて)
与謝野晶子
あゝをとうとよ,君を泣く,君死にたまふことなかれ,
末に生れし君なれば,親のなさけはまさりしも,
親は刃をにぎらせて,人を殺せとおしへしや,
人を殺して死ねよとて,二十四まで育てしや
堺の街のあきびとの,旧家をほこるあるじにて,
親の名を継ぐ君なれば,君死にたまふことなかれ,
旅順の城はほろぶとも,ほろびずとても何事ぞ,
君は知らじな,あきびとの,家のおきてに無かりけり。
君死にたまふことなかれ,すめらみことは,戦ひに,
おほみずからは出でまさね,かたみに人の血を流し,
獣の道に死ねよとは,死ぬるを人のほまれとは,
大みこゝろの深ければ,もとよりいかで思(おぼ)されむ。
あゝをとうとよ,戦ひに,君死にたまふことなかれ,
すぎにし秋を父ぎみに,おくれたまへる母ぎみは,
なげきの中にいたましく,わが子を召され家を守り,
安しと聞ける大御代も,母のしら髪はまさりぬる。
暖簾(のれん)のかげに伏して泣く,あえかにわかき新妻を,
君忘るゝや,思へるや,十月(とつき)も添はでわかれたる,
少女(おとめ)ごゝろを思ひみよ。この世ひとりの君ならで,
あゝまた誰をたのむべき,君死にたまふことなかれ
日露戦争が始まって7ヵ月後の1904年9月,雑誌『明星』に発表された与謝野晶子の新体詩「君死にたまふこと勿れ」が当時の社会に投じた波紋は小さくはなかった。
「旅順口包囲軍の中に在る弟を嘆きて」と副題し,“あゝをとうとよ,君を泣く,君死にたまふことなかれ”と歌いかけたこの詩がまきおこした反響の代表的な例を,文芸評論の上に見ておきたいと思う。
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まず,大町桂月が翌月の『太陽』誌上の文芸時評において,この詩を問題視した。
“余は,平生,国家主義を唱ふるもの也。皇室中心主義をも唱ふるもの也”とする桂月は,この詩の第3連“すめらみことは,戦ひに,/おほみずからは出でまさね,かたみに人の血を流し,/獣の道に死ねよとは,死ぬるを人のほまれとは,/大みこゝろの深ければ,もとよりいかで思されむ。”という言葉をとらえ,
“「義勇公に奉ずべし」とのたまへる教育勅語,さては宣戦詔勅を非議す。大胆なるわざ也”
“世を害するは,実にかゝる思想なり”
と非難して論争の端を開いたのである。
これに対して晶子は,『明星』12月号に,夫鉄幹への私信のかたちをとって「ひらきぶみ」を公開した。
すなわち,出征する肉親をプラットフォームに送り,
“「無事で帰れ,気を附けよ,万歳」と申し候は,やがて私のつたなき歌の「君死に給ふこと勿れ」と申すことにて候はずや。彼れもまことの声,これもまことの声,私はまことの心をまことの声に出だし候ことより外に,歌のよみかた心得ず候”
“当節のやうに死ねよ死ねよと申し候こと,又なにごとにも忠君愛国などの文字や畏おほき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は,この方却て危険と申すものに候はずや。私はよく存ぜぬことながら,私の好きな王朝の書きもの今に残り居り候なかには,かやうに人に死ねと申すことも,畏おほく勿体なきことかまはずに書きちらしたる文章も見あたらぬやう心得候。いくさのことも多く書きたる源平時代の御本にも,さやうのことはあるまじく,いかがや”
と静かに反論した。
一方,剣南(角田浩々歌客)も12月12日の「読売新聞」紙上に「理情の弁」と題して,
“この詩は戦場に在る弟を懐ふ姉の詠嘆也,願望也,死ぬなとの外には他情を混ぜざる情の声也。未だこれを以て対国家の危険なる思想とは見るべからず”
と桂月批判を展開して晶子を援護したのである。
桂月は越えて翌1905年の1月,『太陽』文芸時評欄に「詩歌の骨髄」の題のもと,もっぱら剣南の「理情の弁」に応えつつ,詩歌の本質は“温藉”つまり優しさや穏やかさという人情の自然の発露にあるとしながら,「君死にたまふこと勿れ」の第3連“すめらみことは戦ひに……もとよりいかで思されむ”は,
“これ啻(ただ)に詩歌の本領を失へるのみならず,日本国民として許すべからざる悪口也,毒舌也”
とし,さらに,このように歌った晶子は,
“乱臣なり,賊子なり,国家の刑罰を加ふべき罪人なり”
と絶叫・極言したのである。
ことここに至って,見かねた与謝野鉄幹と新詩社同人の平出修は桂月に面談し,その記録を「『詩歌の骨髄』とは何ぞや」と題して『明星』2月号に掲載し,晶子の擁護に努めた。
この座談は,“詩歌の骨髄は温藉にあり”とする桂月の論をくつがえし,“乱臣賊子”云々という言葉は“文章上修辞の勢にて彼の如き文字を用ゐたり。今思へば,不穏の文字にして,晶子女史には気の毒なり”という桂月の発言を引き出して,この論争に一応の終結をもたらしたかに見えたが,しかし桂月が本心から自説をひるがえしたとは,その後の文章を読むかぎり考えられない。
また,この座談を掲載した『明星』とほぼ同時に発行された『新声』2月号には匿名三者による「桂月対剣南」が発表され,この論争への三様の立場が示されている。
三様の立場とは――
その1,“誤れる国家主義を鼓吹し,文学の傾向を只頑迷なる一辺に偏向せしむるものあらば,その頑迷なる桂月の罪也”として晶子側に立つもの。
その2,“偏へに個人主義に立脚せる者に反国家主義を歌ふなと言ふのは馬の耳に念仏と同じことだが,さりとて我が国の粟を食み乍ら此の国家の大事にあたつて泣き事ばかり繰り返して居ても困るではないか,少なくとも印刷物にしなくともいいではないか”,“剣南の「理情の弁」も平時に於てこそ聞きものであらうが,今時の際は冗々しく言へる場合ではなからう”と時局論,便宜主義の立場から晶子や剣南を批判するもの。
その3,“如何なる詩も歌も或度迄は社会国家の幸福と一致せざるべからざるを信ずるが故に”“若し幾分にても其影響が現行社会道徳の壊乱を来すことありとせば,断じて許容さるべきにあらず。少なくもこの一篇は此等の危険分子あり”,だから“穏健なる桂月の評に賛意を表す”というもの。
2対1で晶子や剣南のほうの分が悪い内容になっているが,しかし,これが当時の世間における反響の在りようをそのまま表わしていると見ていいだろう。
そんななかで注目されるのは,田岡嶺雲の一文である。
嶺雲は2月23日発行の『天鼓』創刊号に「桂月対晶子」を書き,桂月が偏った道徳論をもって批判したのは間違いであるとともに,晶子の“莫死の想”は個人の利害にもとづいた私情にとどまっている,“其私情は之を犠牲として更に大なる或公義に殉ずることあるによつて始めて没我の美はしき詩想に化し得らるべきのみ”であり,したがって“審美上,上乗の想を歌へるものたるを許す能はず”として,両者におのおの斧鉞を加えている。
「君死にたまふこと勿れ」を時局に制約された倫理的な論争の渦中から引き上げ,この詩がはらんでいた問題を,はじめて本来の文学的な俎上に置き直したのが嶺雲だった。
もし文学・芸術上の問題として「君死にたまふこと勿れ」論争が起こるならば,それはこの嶺雲の提示した地点から出発するべきだろう。
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以上がこの論争の大略である。
その間,桂月「詩歌の骨髄」が載った『太陽』1905年1月号に大塚楠緒子の詩「お百度詣」が発表されている。晶子と同じ女性の立場から戦場にある夫を思う詩として,「君死にたまふこと勿れ」と対比されていることは周知のとおりである。
参考として以下に掲げておく。
お百度詣
大塚楠緒子
ひとあし踏みて夫(つま)思ひ
ふたあし国を思へども
三足ふたたび夫おもふ
女心に咎(とが)ありや
朝日に匂ふ日の本の
国は世界に只一つ
妻と呼ばれて契りてし
人も此世に只ひとり
かくて御国と我夫と
いづれ重しとはれなば
たゞ答へずに泣かむのみ
お百度詣あゝ咎ありや
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また「君死にたまふこと勿れ」が発表されたとほぼ時を同じくして,1904年10月に小杉未醒の『陣中詩篇』が刊行されている。集中に「帰れ弟」という一篇があり,“「君死にたまふこと勿れ」に呼応しているかのような作品”として,つとに西田勝「日本反戦文学の前駆者たち」のなかで紹介されている。
これも参考に掲げる。
帰れ弟
小杉未醒
帰れ弟 夕の鳥の
林の中に没(い)る如(ごと)帰れ
韓の平壌 気は腥(なまぐさ)く
乾ける風に殺気ぞこもる
いかんぞ国の春を蹴立てゝ
好んで平沙の風雨(あらし)を慕ふや
弟汝(いまし)の白き額の
あないたましや日に黒みたり
恋と歌とを語るに澄みし
星の瞳の猛くもなりぬ
稚児なす覇気(きおい)の已(や)むに難くて
八道の野に墓求めにか
帰れ弟 夕の鳥の
林の中に没る如帰れ
かの美しき優しきものゝ
情(なさけ)の絆(きずな)焼いて断ちしは
何が煽りし野心の炎ぞ
留めし袂(たもと)を魔や払はせし
云ふな却つて理(ことわり)めかし
兄をいかにと比べて説くな
汝に教ゆ かゝる処は
とはに情の春に追はれし
吾輩(ともがら)の怨みを吐きつゝ
濁りに沈む冷たき塚よ
兄の血の香をなどや羨やむ
疾(と)く其腰の刃を捨てよ
歌の泉の清くも湧けば
弟ながら神の若子よ
玉の器を守りて帰れ
別れの盃挙ぐるも遅し
憂ひて泣いて待つらむ人に
酷(むご)くも解きし其手を返せ
帰れ弟夕の鳥の
林の中に没る如帰れ
時間をさかのぼって「君死にたまふこと勿れ」論争の延長線上で見るべき評論の一つをあげれば,平出修が『明星』1904年6月号に発表した「所謂戦争文学を排す」がある。
これは,それより4年前の9月に『日本人』誌上に発表された幸徳秋水の「所謂戦争文学」との関連とともに,時局に便乗して戦争を謳歌する皮相な文学の横行に警鐘を鳴らすものとして十分に評価されるべき文章であろう。
また,与謝野鉄幹が日清戦争時の主戦論から日露戦争時の反戦的姿勢へと転換した軌跡も十分にかえりみられなければならないと思う。
1982年7月4日 吉田仁
【 付 記 】
この「『君死にたまふこと勿れ』とその周辺」という短文は,学生時代にゼミの討論のたたき台として書いた。与謝野晶子の「君死にたまふこと勿れ」が発表された当時にまきおこった論争の概略のみをつづったものである。
イラク戦争に反対する気持ちからホームページに「IMAGIN」というページをつくって晶子の詩を載せたとき,“そういえば”と思いだし,段ボール箱に詰めてあった反故のなかから見つけだして入力してみた。
味気ない文章だけれど,手を加えだすと際限がない。テニオハ程度の直しにとどめ,参考までに掲載しておきたい。
ほとんど100年も前に日露戦争があり,与謝野晶子の「君死にたまふこと勿れ」という詩が生まれ,売国の詩かどうかという滑稽な論争が大まじめにおこなわれた。その事実を思いおこすよすがの一つにでもなれば,と思う。
またふたたび,同様の論争が起こらないとはかぎらない。過去の論争,滑稽な論争として葬り去ることはできないという危惧も感じられるこの頃である。
「君死にたまふこと勿れ」については,もう一度書いて,この文章と差し替えたいと思っている。
2003年4月1日(火) 吉田仁
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