ラバルト神父様エピソード集2(一信徒が作るホームページ カトリック川越教会)


第51話、天国

 ラバルト神父様が日本に宣教師として赴任された直後の事です。神父様は東京の雑踏を歩く沢山の人々を見詰めながら、複雑な思いに捕らわれていらっしゃいました。「子供の頃から、洗礼を受けなければ地獄に落ちると教えられて来たけれど、目の前の人々は皆、洗礼を受けていない。本当に、この人達は地獄に落ちるのだろうか?」その間にも目の前の人々は真面目に、あるいは楽しそうに神父様の前を通り過ぎて行きました。

 笑い話の様ですが、昔の教会では実際にその様に考え、また、その様に対応していました。しかし、1960年代の第二次バチカン公会議の後からは考え方が変わって来ました。例えば、以前は認められなかった未信者の葬式なども教会で行われる様になって来ています。

セーヌ川船着場

(パリ)


第52話、海外宣教

 ラバルト神父様が司祭になる前の助祭になられて間もなく、同じ村の実家から一キロも離れていない家から出た一人の神父がベトナムのハノイ近郊で殉教しました。教会の伝道師を装った共産主義者の男に聖堂で祈っている最中に後ろから頭を鈍器で殴られ、倒れたところを首を切られ、その首が近くの川に投げ捨てられたのです。神父様は同じ教会の出身だった本人のみならず、母親や兄弟達を良くご存知でしたので、自分の事の様に驚かれました。

 それまで、神父様は漠然と地元の神父になる事を考えて地元の神学校に入られていた様ですが、その時からその神父の身代わりとしてパリー外国宣教会に入り宣教師となってアジア宣教に向かう事を考え始めたのだそうです。

サンチャゴのカテ

ドラル(スペイン)


第53話、三重国籍

 ラバルト神父様はフランス南部のバイヨンヌ教区で神父になり、パリー外国宣教会に入って宣教師となり、日本の浦和教区に派遣されて秩父、川越、東松山の主任司祭等を務められましたが、神父様によると、その三つの何れにも同時に籍を持っている事になるのだそうです。そして、同じ事は国籍にも言えました。バスク民族ですが、フランス国籍を持ち、日本で47年を過されて日本を誰よりも愛されていました。

 神父様は主任司祭の一応の定年である75才になられる前頃から、御自分の余生を真剣にお考えになり、実際に可能性のある施設やその関係者を訪問されていました。選択肢としては、バイヨンヌ教区に帰って聴聞司祭(懺悔等を聴く司祭)をしながら無理のない様に働く事。フランスのパリー外国宣教会の養老院か、やはり宣教会が関係する姫路の養老院に入る事。ただ、浦和教区の世話になる事だけは考えてはいらっしゃいませんでした。身近な信者達に迷惑を掛けたくはなかったのだと思います。

ルーブル美術館

にて(パリ)


第54話、三つの誓願

 修道士になるには、清貧、貞潔、従順の三つの誓願を立てなければなりません。そして、ラバルト神父様は修道士ではありませんが、宣教師として、同じ様な生活をされました。ちなみに、清貧とは、清く貧しく生きる事、貞潔とは独身を守り身を清く保つ事、従順とは上役の命令に従う事です。神父様によれば、この中で一番難しいのは、実は清貧でも貞潔でもなく、従順なのだそうです。

 清貧は一見大変の様ですが、修道院では最低の生活は保証されていますから、却って一般の生活の方が大変かもしれないそうです。同じ様に、貞潔も一見大変そうですが、反対に一人身は気楽なものでもあり、妻や子供を支える生活の方がもっと大変かも知れません。例えば、神父様は御自分の事を愉快に「チョンガーですからね。」と表現されました。そして、神父様は清貧と貞潔の生活を充分に楽しまれていました。一方、従順は上役の命令に従えば済むので簡単な様に思われますが、本当の命令とは上役から部下への一方通行のものではなく、上役が部下の意見を充分に聞いた上での双方向のものですし、神に従わない命令には当然の事ながら従ってはならないからです。

出身教会へ

(イバロル村)


第55話、規則違反

 ラバルト神父様は子供の頃、成績優秀で飛び級をされた事がありました。しかし、その後、神学校に入り、神父になる為の司祭叙階を受ける段階になられて、それが大きな問題となりました。教会の規則では24歳にならなければ司祭に叙階する事が出来ないのですが、神父様はその年齢に3ヶ月余りも足りなかったのです。そこで、所属するバイヨンヌ教区の司教は、叙階前に、わざわざバチカンまで確認をとったのだそうです。

 そのせいか、神父様が規則をお好きではない様に見える事が度々ありました。例えば、信者が「神父様。規則では、こうなっています。」などと言おうものなら、神父様は「規則、規則と言わないで下さい。」と強い口調で発言されたりしました。戒律に厳しいと思われがちなカトリック教会には教会法を始めとする様々な規則がありますが、実は規制をするというよりは円滑な運用を目的としたものです。そして、所詮、人が決めたものですから絶対のものではないのです。

故郷を名ガイド

(フランス・バスク)


第56話、花崗岩

 ある時、ラバルト神父様は「アーメンの意味を知っていますか。」と一人の信者にお聞きになりました。その信者が答えようとすると、神父様は更に言葉を継いで「アーメンとはヘブライ語で花崗岩の事です。そこから、『私の信仰は花崗岩の様に硬い。』という意味になりました。」とおっしゃいました。

 アーメンという言葉は信者ならずしても広く良く知られている言葉ですが、その語源となると、キリスト教信者であっても殆どの人が知らないのではないでしょうか。この話の様に、神父様は観念的な信仰ではなく、より具体的なものを人々に伝えられました。そして、求道者には入門書や教義などを書いた本などではなく、キリストの信仰に生きた聖人の伝記を読む様にお薦めになられました。

城門にて

(ドニ・バネ・ガラジ)


第57話、フランシスコ

 ラバルト神父様は多くの聖人の中でも特にアッシジの聖フランシスコがお好きで、フランシスコが町を荒らすオオカミや空を飛ぶ鳥達に説教をした事をまるで御自分の思い出話の様にお話になりました。また、神父様は笑いながら「フランシスコに言わせれば、お金は悪魔のクソです。」と、おっしゃいました。ちなみに「悪魔のクソ」とは有害なだけで価値のないものと云う意味です。

 中世最大の聖人と言われるフランシスコはイタリアの出身ですが、西のエルサレムと言われたスペインの大巡礼地、サンチャゴ・デ・コンポステーラに向かう途中で神父様の出身地付近を通った事がある様です。それは13世紀初めの事で、もちろん、神父様はお会いになってはおりません。

故郷のホテル

(ドニ・バネ・ガラジ)


第58話、神の御摂理(みせつり)

 ラバルト神父様と同じ村出身の神父がベトナムで殉教した後、その身代わりになろうと思い始められた神父様ですが、事がそう簡単に進んだ訳ではありませんでした。その後、まもなく無事にバイヨンヌ教区の神学校を終えられて神父となられた神父様は、御自分の出身地であるフランス南部で、教区司祭として働き始められました。やがて起きた不思議な出来事を神父様は以下の様にお話になりました。「世界宣教の日になると決まってミサの当番が回って来ました。三年間、その偶然は続き、とうとう耐えきれなくなって、教区の司教にパリー外国宣教会への入会を願い出ました。」

 神父様と同郷の神父の話によると、この世に起こる全ての事は神の計画によるもので、それを「神の御摂理」と言います。ですから、この世には偶然という事はないのだそうです。神父様もその三回の偶然を神の導きと、お感じになり、宣教師としての道を歩み始められたのです。願い出を聞いた司教から神父様は散々叱られたそうですが、まもなく入会の許可が下りました。

殉教者の部屋にて

(パリー外国宣教会)


第59話、金庫

 ある日曜の晩、教会に泥棒が入りました。以前にもあった事ですが、教会に入る泥棒は出入り自由な教会を事前に下見をした上で、決まってお金のありそうな日曜日の晩に侵入するのだそうです。その時は、幸い教会の金庫は無事でしたが、共助組合という信者からお金を預かって、それを低利で信者に貸し出す組織のロッカーから、まとまった額が盗まれてしまいました。すると、ラバルト神父様は自腹で耐火金庫をお買いになり、それを使う様に係の者に渡されました。数ヶ月後、犯人は滋賀県で捕まりましたが、現金は戻って来ませんでした。

 神父様は共助組合の創立者の一人で、普段から何くれとなく援助をされていました。信者が消費者金融などに陥らぬ様、経済的自立の手助けをする事が必要とお考えになっていたのです。また、神父様御自身もまとまった額を預けていらしゃいましたが、生前の遺言によりローラン・ラバルト基金として積み立てられる事になりました。

モンセラートの山々

(スペイン)


第60話、クリスマス

 ラバルト神父様はクリスマスが近付くと「私はサンタクロースには反対です。もし、子供がうそだと分ると、クリスマスまでが、うそだと思ってしまいます。」と、おっしゃいました。39年間、川越白鳩幼稚園の園長を務められた神父様ですが、この幼稚園にはサンタクロースは登場しなかったのかもしれません。また、ある時、神父様は一人の未信者から「教会にも、クリスマスはあるのですか。」と訊かれ、大変に驚いたそうです。尚、神父様によればクリスマスの語源はキリストのミサというドイツ語から来ています。

 クリスマス時期になると、日本の町々にはクリスマスソングが流れ、いろいろな飾り付けや派手なパーティーが催されます。しかし、そのほとんどは商業主義によるもので、本当の信仰に関係のあるものは、どの位あるのでしょうか。神父様はそうした日本人のあり方に深い疑問をいつもお持ちでした。

サンチャゴのホテル

(スペイン)


第61話、母親

 ラバルト神父様は宣教師として日本に滞在されていましたので、故郷に帰る事も自由には出来ませんでした。しかし、たまたま休暇で帰国された折に、司祭として母親に終油の秘蹟(病者への塗油)をされ、その死を見取る事が出来ました。神父様の母親は長い間、心臓の病の為に寝たり起きたりの生活だったそうです。

 これは、偶然ではなく、神父様と母親への神の恵みだったのでしょう。また、それよりも前の話ですが、神父様の母親は生前、実家を訪ねた仲間の神父に「なぜ、息子は日本という遠い所にいっているのでしょうか。」と、一言だけ、こぼされたそうです。神父様は五人兄弟の下から二番目ですが、一番下は妹なので男としては末っ子になりますから、母親としても、とても可愛かったのでしょう。

故郷の妹と

(ドニ・バネ・ガラジ)


第62話、浦島太郎

 晩年、一人の信者がラバルト神父様に「将来はフランスにお帰りになるのですか。」と、お聴きしたところ、神父様は「帰っても浦島太郎です。言葉も考え方も変わっているもの。」とお答えになりました。また、フランスにある宣教会の養老院の話をしながら「養老院に入っている仲間の神父達は日本の事は知りません。だから、話が合いません。」とおっしゃいました。

 神父様は戦後のほとんどを日本での宣教に費やされました。そして、考えてみれば当然の事ですが、日本でも戦後五十数年で、人々の言葉も考え方も生活も大きく変わりました。その同じ事が神父様の故国であるフランスにも言える訳です。また、宣教会の関係する養老院が兵庫県の姫路にもありますが、神父様が活動された埼玉県からは遠く、仮に入っても誰も訪ねて来ないだろうとも、おっしゃっていました。

旅の朝食

(パリ)


第63話、教会泥棒

 ここで言う教会泥棒とは、教会に侵入して無断でお金や品物を盗んでいく泥棒の事ではありません。ラバルト神父様のお話によれば「戦後の一時期、日本は極端な物不足に悩まされました。そこで、当時、日本に進駐していた米軍は教会にも多くの援助物資をもたらしました。そのおかげで教会の信者も随分増えましたが、物不足の時代が終わると、そうした信者の多くは教会に来なくなってしまいました。教会の信者を増やそうとして物で釣る事は意味がありません。」つまり、教会泥棒とは物をもらう為に教会に来る信者の事です。

 神父様は今の日本の教会にも、信者の中に、そうした考えが残っているとお考えでした。戦後、日本は急速な高度成長を成し遂げ、世界第二の経済大国になりましたが、神父様に言わせれば日本の信者の有り方は戦後まもなくの宣教国のままなのです。

乾杯

(セーヌ川の上で)


第64話、形見

 ラバルト神父様の執務室の良く見える所に、年代物の銀の懐中時計が置かれていました。それは大分以前に亡くなった父親の形見でした。ある日、一人の信者が訪ねてきて、時計を指差して「神父様、いつか、この時計を下さい。」と言いました。すると、神父様は少し笑いながら「死んだ後の事は知りません。」と大きな声でお答えになりました。その信者はそれを「後の事は任せる。」と云う意味に取りました。

 神父様の父親は第一次世界大戦に従軍した経験があり、神父様は子供の頃、そうした悲惨な戦争の話を聞かされたそうです。また、神父様は男らしく生きる様に、とも言われたそうです。神父様は、わざわざ、その時計を良く見える所に置かれ、それを見るたびに、父親の事を思い出されたのだと思います。その大切な形見の時計は神父様の死後、神父様の兄と妹のいる故郷へ送られる事になりました。

モンセラートにて

(スペイン)


第65話、バスク語

 ラバルト神父様は、ある時、こんな風に故郷のバスク地方の話をされました。「私の地方では、今なら大変な事ですが、昔、フランス政府によってバスク語の使用が禁止されました。すると、地元の教会ではバスク語でミサをやりました。さすがのフランス政府も、そこまでは禁止できませんでした。」

 バスク語はヨーロッパの他の言語と系統を異にした孤立した言葉で、一説によると、最初の人類であるアダムとイブも話していたのだそうです。事の真相は分りませんが、ローマ時代以前にさかのぼる古い言語である事だけは確かです。しかも、面白い事に文章の語順が日本語と同じなのだそうで、それが神父様が日本語を巧みに使いこなされた理由の一つかもしれません。

バスク聖歌の楽譜

(フランス聖歌集)


第66話、自尊心

 ある時、教会で一人の信者の葬儀が行われようとしていましたが、その妻はひどく取り乱していました。その死が突然であったばかりではなく、幼い子供達を残し、また、自分が入院中に夫が風邪をこじらせて亡くなった事に責任を感じてもいたからでした。ラバルト神父様はその妻を優しく抱き締めながら、言い聞かせる様に「自尊心を持つんだ。」と厳しい口調でおっしゃいました。やがて妻は自分を取り戻し、葬儀は神父様の司式によって無事に終わりました。

 その妻は教会の信者で、同時に御自身が園長をしていた幼稚園の卒園生でしたので、神父様は御自分の子供の様に思われていたのでしょう。当然の事ですが神父様は西洋人ですから、御婦人を抱き締めたり、手を取ってキスをされたりする事がありました。そうした習慣のない日本人の我々にとっては少し恥ずかしい気にもさせられましたが、それは神父様の優しさの表れだったのです。

オリンピックスタジ

アム(バルセロナ)


第67話、教会費

 ラバルト神父様は教会費についての話題の中で、御自分がフランスで教区司祭をされていた時の経験を次の様にお話になりました。「フランスでは教会に信者が納めるお金を年に一度、神父が各家を回って集めます。当時、私が受け持ちとなったある家を訪ねると、『今年は我が家では教会を使っていない。』と言って支払を断られた事があります。」

 神父様が川越教会に赴任されてから長い間、川越教会は赤字続きでした。神父様はミサでの説教や教会報の記事で、度々、その事を信者に訴えられました。また、御自身は幼稚園の園長の収入や大学のフランス語講師の収入で質素に生活され、教会の会計からは少しの収入も得ては、いらっしゃいませんでした。やがて、その努力が実って、川越教会は自前で聖堂と司祭館を新築し、更に多額の預金を残すまでになりました。

バスク地方の地図

(フランス・スペイン)


第68話、道路標識

 ラバルト神父様の故郷であるフランス南部のバスク地方に巡礼旅行のバスが入ってからの事です。自らマイクをお持ちになってガイドをされていた神父様は「あの道路標識を見て下さい。二ヶ国語で書かれています。バスク語とスペイン語です。スペイン語はスペインの国境に近いので、スペインの旅行者の為です。フランス語はありません。」とおっしゃいました。もちろん、そこはフランス国内ですから、それを聞いた巡礼団は大いに驚きました。また、ある時、神父様は故郷をスペインがバスク人達に無断でフランスに割譲した歴史に触れて「自分(スペイン)のものでないものを勝手に他人(フランス)にやってしまったんだろう。」とおっしゃって、お怒りのご様子でした。しかし、同時に神父様はスペインのバスク過激派の様な独立運動にも懐疑的でした。

 バスクはローマ時代にバスコニアとして歴史上に登場し、ローマの支配下に入りますが、他の多くの植民地と異なり、独特の言語と文化を保有し続けます。中世、イベリア半島がイスラム教徒の勢力下に入ると、バスクはその勢力に抵抗して、独立を保ちます。しかし、近世に成立したスペイン王国がイスラム教徒をイベリア半島から駆逐し、強力な王権を確立すると、バスクは強引にその勢力下に組み入れられてしまします。更に、その後、スペインと隣のフランスが政略結婚によって結ばれると、その一部がバスク人達には無断でフランスに割譲されて現代に至ります。だが、今日、EUによる国家統合が進むヨーロッパにおいて、国境の壁は次第に低くなっています。スペインとフランスに分断されたバスクの統合も意外に近い将来の事なのかも知れません。

スペイン地図

(旅行ガイドより)


第69話、演奏会

 ラバルト神父様は若い頃のフランスの教区司祭時代の事を次の様にお話しになりました。「私のいた教会で音楽の演奏会を行うかどうかを決める事になり、私も意見を求められました。七人の司祭のうち、一人だけが反対でしたが、実際にやって見ると宣教に効果がありました。」

 神父様は川越教会が新築されて建物が大きくなると、一般の合唱団の使用を許可され、実際に数回、演奏会が催されました。しかし、信者の参加は極く少なく、反対に演奏会自体に反対の意見が強く出されました。お困りになった神父様は、とうとう信徒の代表者を解任してしまいましたが、その後も、信者との溝は埋らず、演奏会は行われなくなってしまいました。神父様は宣教師として日本に派遣され、常に宣教の目的の為に働かれましたが、一方、日本の信者には隠れキリシタンの伝統からかも知れませんが、信仰は守るものとの意識が強かった様です。

パリ観光案内

(旅行ガイドより)


第70話、ミカエル

 フランスの大西洋岸にはモン・サン・ミッシェル、日本語に訳せば聖ミカエル修道院という古い有名な修道院があります。その修道院は岸辺近くの島の上に建てられ、中央に高い尖塔があり、その突端には大天使ミカエルの像が載っています。ある時、ラバルト神父様は「あの像はどうやって載せたのだろう。」とおっしゃいましたので、一人の信者が「ミカエルには翼があります。自分で飛んでいったのではないですか。」と答えました。しかし、神父様は納得されずに、また同じ言葉を繰り返されました。

 神父様がなぜこうした疑問をお持ちになったのかは分りませんが、素朴な疑問というよりは神父様の好奇心に富んだご性格が原因ではないかと思います。ちなみに、ミカエルは長く主任司祭を務められた川越教会の守護の天使で、同時に日本の守護の天使でもあります。余談ですが、絵画や彫刻などの天使に翼があるのはギリシャ神話のキューピットとの混同で、実は聖書の中には、その様に描かれてはいません。

聖ミカエル

(川越教会聖堂内)


第71話、お母さんのお弁当

 ある日の事です。川越白鳩幼稚園の園長をされていたラバルト神父様は昼時に園児達のいる教室の中にお入りになり「お母さんのお弁当は美味しいかい。」と大きな声で園児達に聞かれました。すると、それまで夢中でお弁当を食べていた園児達は声を揃えて「美味しい。」と嬉しそうに答えました。神父様はいつも、この様な園児達との触れ合いを大切にされ、園児達も神父様が大好きでした。

 幼稚園は神父様の生きがいでした。その教育方針は知育よりも徳育に重点が置かれ、例えば、幼稚園で小学校の予習や、ましては英語などを教える事には大反対でした。また、親(特に母親)と子供の関係を大切にされ、朝と帰りは幼稚園バスなどは置かずに親が送り迎えをする事、お昼も給食ではなく親がお弁当を作る事に最後まで、こだわられました。

正門より望む

(川越白鳩幼稚園)


第72話、祈り

 川越教会が新しい教会堂の建設を計画していた時の話です。ラバルト神父様は設計を担当する建築家に向かって「聖堂を明るくしないでしょうね。」と一言おっしゃいました。幸いな事に、ヨーロッパの教会に詳しいかったこの建築家がすぐに、その意味を悟ったので、聖堂は窓の少ない設計になりました。ヨーロッパの聖堂の内部は昼間でも薄暗い所が多いのですが、これは神父様によれば、祈りの雰囲気を大切にする為なのだそうです。

 この工事に当たって、神父様は仮住まいを余儀なくされ、精神的にも肉体的にも大変なご苦労をされました。この建築家によれば、新しい教会堂を建築をすると、主任司祭は必ず倒れるものなのだそうです。また、神父様は建築の為に個人的に多額の寄付をされ、更に建設の不足額は所属する宣教会が保証人になって融資を受けました。老朽化し、また手狭になった旧聖堂での火事などの災害を心配された神父様にとって、新しい教会堂の建設は同時に一つの祈りでもありました。

祭壇

(川越教会聖堂)


第73話、首を長くして

 一昨年、埼玉県のある病院での当直の夜、翌日の主日のミサにどこかの教会であずかりたいと思い、最寄りの教会を探し電話をしてみました。東松山教会です。外国人の神父様が電話に出られました。「明日のミサにあずかりたいが、何時からですか。」と尋ねると、時間を教えて下さった後「首をながーくしてお待ちしていすよ。」とおっしゃいました。その言葉が頭から離れず、翌日、どうしても、ごミサにあずからなくてはならない様な気持ちになり、東松山で、ごミサにあずかりました。見ず知らずのヒトなのに、首を長くして待って下さった神父様、私には忘れられない神父様です。(横浜の信者の方からのお便り)

 ラバルト神父様は生前、出来るだけ教会に居られるようにしていました。そして、いつも誰かをお待ちでした。ある時は締め切りにうるさい教会報の編集者、ある時は結婚希望者の若いカップル、また、フランス語の出来の悪い学生、医者や看護婦、弁護士や建築家、教会を練習場としている合唱団、幼稚園の父母や関係者、その他、諸々の相談に来る信者や未信者、数え上げればキリがありません。そして、何よりも神の国の到来を。

殉教者名簿

(パリー外国宣教会)


第74話、合唱団

 川越教会時代、ラバルト神父様は複数の合唱団の練習の為に教会をお貸しになっていました。その後、神父様が東松山教会に異動になり川越教会が使えなくなると、今度は川越教会と同じ敷地にある御自分が園長をされている白鳩幼稚園をお貸しになりました。更に、幼稚園が閉園になる事が決まると、神父様は御自分が主任司祭をしておられる東松山教会を使う様におっしゃいました。幼稚園が閉園になる少し前、それらの合唱団は川越を去られる神父様の為に送別演奏会を催し、当日は多くの観衆が神父様との別れを惜しみました。

 神父様は練習熱心な合唱団に遠慮していらしたのか、合唱団の練習には余りお見えにならなかった様ですが、それでも、たまにフランス語の歌を聴きつけて「ナニ語デスカ?」、古いエッチなシャンソンには「ヒドイ歌ですねえ」とニヤニヤされていたそうです。それらの合唱団の団員の殆どは未信者でした。神父様のお考えは日本の宣教の為に全てを捧げる事でしたから、こうして教会外の人や社会と交わる事もその一環だったのです。神父様の死後まもなく、その内の一つの合唱団が同じ会場で演奏会を催しました。教会音楽の演奏の時、舞台の上には当日お呼びする予定だった神父様の写真と花束が飾られました。

送別演奏会

(川越市民会館)


第75話、洗脳

 ラバルト神父様は神学生時代を振り返られて「洗脳されていました。」とユーモアたっぷりにおっしゃった事があります。また、神父様は「神学校の夕食の最中に停電になり食堂が真っ暗になった事がありました。すると、神学生達は教授達の席に向かってコロッケを投げ始めました。不意に明かりが付くと、教授の一人も神学生に向かってコロッケを投げ返そうとしているところでした。」と身振り手振りを含めて楽しそうにお話になりました。

 軽口をたたかせて頂ければ、神学生を一所に集めて同じ事を何度も繰り返し教えているのですから、洗脳というのも、まんざら冗談ではないのかも知れません。尚、真面目に云わせて頂ければ、神父様の神学生時代は沢山の仲間と優秀な教授達によって実り豊かなものだった様で、その時の仲間の中には司教になった人もいるそうです。地元で開かれる神学校のクラス会には日本宣教の為に出席出来なかった神父様ですが、ようやく晩年になってから念願かなって参加する事が出来ました。しかし、既に仲間の半分はこの世にはなく、残りの仲間の殆ども現役を引退していたそうです。神父様は同期の中では最年少でしたから、その時も、まだ現役だった訳です。

セント・アンドリュー

スの港(フランス)


第76話、怖い所

 以前、川越教会で鶏を飼っていた事があります。ラバルト神父様は鶏達に残飯などを与えられ、時々、雌鶏の産む卵をお召し上がりになっていましたが、その頃起った一つの事件を以下の様にお話になりました。「ある日、その内の一羽を捕まえて首をはね、料理をしました。丁度その時、一人の未信者が教会に来て勉強をしていましたが、この様子を見て顔を真っ青にしていました。そして、この日を境に教会に来なくなってしまいました。教会とは恐ろしい所だと思った様でした。」

 日本には仏教の影響が多く、殺生を忌避する考えがあり、この未信者も、そうした目で見て教会を恐ろしい所と感じてしまったのかも知れません。しかし、それらは農村育ちの神父様にとって朝飯前の事でしたし、考えてみれば以前は日本でも普通に見られた光景でした。神父様の実家では羊や牛などの家畜を飼い、ブドウや小麦を植え、庭には鶏が遊んでいました。それらを自然に見ながらお育ちになった神父様によれば家畜は意外な程、頭が良いのだそうです。そして、それらの光景は今も変わっていません。

旧鐘楼

(川越教会)


第77話、動物の弔い

 ラバルト神父様がある信者の家を訪ねた時の事です。家にお入りになった神父様は、不意に、そこの娘さんから数日前に死んだ犬の葬式を頼まれたそうです。この非常識な依頼に、お困りになった神父様は、その娘と共に死んだ犬への感謝の祈りを捧げられました。

 日本人は家畜やペットを大切にし、その死を悼んで神道や仏教によって葬儀を行う事もある様ですが、残念ながら、カトリック教会では人間以外の動物の為に葬式をする事はありません。また、動物が死んだ後、天国に行けるのかどうかも、聖書には述べられていません。ですから、これは神父様の優しさを表わした話です。

(東松山の動物園)


第78話、選挙活動

 国や地方自治体の選挙は大抵、日曜日に行われますが、その日は当然の事ながら教会でも主日のミサが行われます。ラバルト神父様は、こうした選挙の日になると決まって「棄権せずに、必ず選挙に行きましょう。」とおっしゃいました。また、川越の市議会議員の選挙の時などは、まだ誰に投票するかを決めていない信者に向って「では、この人に投票しなさい。」とおっしゃいました。

 神父様が指名された市議会議員候補は信者ではありませんが、神父様が園長をされていた幼稚園の関係者で友人だった様です。神父様のご出身のフランスでは、長い歴史の中での教会と政治の関係は常に良好なものとは限りませんでした。しばしば教会は政治に無関係と思われ勝ちですが、神父様は反対に世界の将来は政治にかかっているので信者も政治に関心を持つべきだと、お考えでした。ただ一つ、さすがの神父様もフランス大統領選挙には棄権されていた様です。わざわざフランス大使館まで出向くのは神父様にとって大変な事だったからです。

紫陽花

(川越教会)


第79話、教会音楽

 ラバルト神父様のお話によれば、神父様が園長を務められていた川越白鳩幼稚園の先生が亡くなり、教会で葬儀が行われた事がありました。その時に教会の古い伝統的な聖歌であるグレゴリオ聖歌が歌われましたが、葬儀に出席した園児達はその歌の特徴を良く覚えていて、その後も教会からグレゴリオ聖歌が流れるたびに、葬儀の事を思い出していたそうです。

 1960年代の第二バチカン公会議の後、日本の多くの教会では、新しく作曲された日本語の聖歌が歌われる様になり、反対に、それまでのグレゴリオ聖歌は、ほとんど歌われなくなってしまいました。しかし、当時の川越教会では、グレゴリオ聖歌や神父様の故郷のバスクのメロディーに日本語の歌詞を付けた聖歌も広く歌われていました。神父様は、それらの歌は長い年月をかけて取捨選択されたもので、非常に価値の高いものとお考えでした。一方、日本の聖歌には御不満の様でした。事実、日本の聖歌は玉石混交と云った風があり、これから長い年月をかけて完成されていくものなのでしょう。

古い航空写真

(川越教会・幼稚園)


第80話、少年刑務所

 ラバルト神父様は川越少年刑務所に教誨師として長い間、通われました。意外な事ですが、神父様のお話によれば、受刑者は教誨師が来るのを心待ちにしているのだそうです。他に面会者も少ないので、話し相手が欲しいからだそうです。また、神父様は、この刑務所の再犯率が全国でもトップクラスに低い事をとても自慢げに、お話しになりました。

 神父様は刑務所の受刑者に直接お話をされる事もありましたが、適当なビデオを鑑賞させる事もありました。神父様が相手をされた受刑者には、もちろん日本人もいますが、カトリックという立場上、ブラジルなどの外国人も多かった様です。それらの国の多くはキリスト教国ですが、親の怠慢から洗礼や宗教教育を受けていない事が多いのだそうです。

赤い薔薇

(川越教会)


第81話、人質

 川越では毎年12月になると、多くのキリスト教会の合同で、市民も参加して、お祈りやクリスマスにちなんだ音楽会や講演会等を行う市民クリスマスという行事が開催されます。しかし、当初はプロテスタントの一部の教会のみで行っていた為、参加者も少なく、これまで加わっていなかった他の教会にも働き掛ける事になりました。そこでまず、プロテスタントの牧師さん達は、イギリス国教会系の聖公会に行きました。すると、そこの司祭は「カトリック教会が参加するなら、参加しても良い。」と答えました。つまり、聖公会がカトリック教会を人質に取った訳です。牧師さん達はやもなく恐る恐るカトリック教会を訪ねました。既に、聖公会から連絡を受けていたラバルト神父様は「喜んで参加しますよ。」と笑いながらお答えになりました。

 聖公会は16世紀に政治的な理由でカトリックから分れますが、極めてカトリック教会に似た教会です。聖公会も同じ様に考えており、関係も良好で合同で祭儀を行う事もあります。

岩のドーム

(エルサレム)


第82話、地の果て

 聖書の中でイエスは地の果てまで福音を述べ伝える様に我々信者にお命じになりましたが、ところで、地の果てとは何処になるのでしょうか。ラバルト神父様によれば、ヨーロッパでは正に日本が地の果てのイメージになるのだそうです。

 ヨーロッパで出されている世界地図を見ると、ヨーロッパと大西洋が中心に描かれおり、確かに、日本は東の端になっています。ですから、神父様は日本にいらっしゃる間、ご自分は地の果てにいるとお感じになっていたのかも知れません。一方、日本の世界地図は、ご存知の様に、日本と太平洋を中心にして描かれ、ヨーロッパはその反対の西の端になっています。

日本とバスク

(地図)


第83話、疑い

 ラバルト神父様は日本に来られてから何度もルルド巡礼に行かれましたが、ある巡礼の折の事を笑いながら以下の様にお話になりました。「ルルドで泉の水に漬かりました。すると、それまで悪かった足が良くなりました。でも、後で、『本当かな?』と疑いを持った途端に足は元に戻ってしまいました。」

 少女ベルナデッタが何度も聖母マリアに会ったというルルドの巡礼地はフランス南部のピレネー山脈の麓にあり、そこからは泉が湧き出しています。そして、その泉の水を飲んだり、水浴したりすると怪我や病気が癒される事があると言われています。実は、ラバルト神父様が司祭になられて最初の赴任地はルルドから僅か15キロの所でした。そこで、まだお若かった神父様は毎週、自転車でルルドへ行かれたそうです。ルルドの巡礼地は神父様にとって青春の思い出の土地でした。

ルルドのホテル

(フランス)


第84話、おばあちゃん

 毎朝、ミサに参加する一人の熱心な老婦人がいました。ラバルト神父様より十歳年上のその婦人は大分以前に主人を亡くしていて、神父様をとても当てにしていました。また、神父様も「私の恋人です。」などと、おっしゃって、とても大切にされていました。ある時、その婦人の知り合いが飼っている猫がある信者宅の古井戸に落ちました。すると、その婦人は夜中にも拘わらず神父様に電話をして助けを求めました。寝ている所を起こされた神父様は後で、その顛末を教会報に載せられました。神父の仕事は大変なものです。

 神父様は川越教会から異動する折に、その婦人の事を後任者に直接託されました。しかし、残念な事に、その婦人は、それからまもなく亡くなりました。

死海

(イスラエル)


第85話、三人の司教

 以前、教会の笑い話に「浦和教区には三人の司教がいる。その内の一人は川越教会のラバルト神父だ。」というのが、ありました。当然のことですが、司教は神父の上役に当たり、殆どの教区では司教は一人で、浦和教区でもそうでした。ただ、神父様は教区よりも教会の立場でお考えになり、また、誰に対してもはっきりと御自分の意見をおっしゃったので、教区内でも煙たい存在だったようです。

 ちなみに、神父様が長く主任司祭を務められた川越教会は教区の中でも歴史が古く、また信者の数も一番多かったのですが、県庁所在地ではなかった為に司教座聖堂にはならなかった様です。

浦和教区(埼玉、

群馬、栃木、茨木)


第86話、講演料

 川越市内のキリスト教会が毎年、合同で行っている「市民クリスマス」の打ち合わせ会議での事です。あるプロテスタント教会の牧師が今年はカトリックの某神父に講演を依頼してはどうかと提案し、更に講演料はどの位かと、ラバルト神父様に質問しました。すると、神父様は「あの神父の所属する修道会は金持ちだから、講演料はいりません。」と強い口調でおっしゃいました。

 プロテスタント教会からカトリック教会への折角の提案の筈だったのですが、そのやり取りを聞いていた他の出席者達が講演料なしで講演を頼む訳にはいかないと考えた為か、その話は立ち消えになってしまいました。一般に講演料は、その講演者や講演の内容などにもよりますが、一回40〜80万円が相場なのだそうです。ひょっとすると、神父様はそうしたお金の使い方に疑問をお持ちだったのかも知れません。

サクレクール

(パリ、モンマルトル)


第87話、新興宗教

 これも川越市民クリスマスでの話です。例年、12月の本番を前にして、市内のデパートのホールで讃美歌を歌って宣伝をするプレ・市民クリスマスが行われますが、地理的に近く、広さもちょうど良い為、カトリック教会が当日の練習会場として使われています。ある年、練習を終えて、催しの宣伝に行こうとする聖歌隊員達を見送られたラバルト神父様は「新興宗教と間違われないで下さい。」とおっしゃいました。メンバーの殆どが真面目なプロテスタントの牧師や信者達でしたが、その冗談に皆が笑いました。

 市民クリスマスに参加している教会は、教派の違いはあっても、お互いをキリスト教と認め合っています。しかし、一方でキリスト教を名乗りながら、それらの教会からキリスト教と認められていないものに「ものみの塔(エホバの証人)」「統一教会(原理運動)」「モルモン教(末日聖徒キリスト教)」などがあり、これらはキリスト教系の新興宗教と言う事が出来ます。また、本来仏教系である筈のオウム真理教の教祖が自らをキリストの再来であると名乗った等は、お話にもなりません。そして、真面目にやっているキリスト教の各教会がそれらと混同されるのは残念な事です。

十字架

(川越教会ホール)


第88話、A・A(エーエー)

 川越教会を会場に、アルコールに問題のある人達によるA・Aという集まりが毎週開かれています。ある時、ラバルト神父様は「あなた達は毎週教会に来るけれども、一人も信者になりませんね。」とおっしゃいましたので、A・Aの人達は、とても済まなく思ったそうです。また、ある時は「私もあなた達の仲間に入るかも知れません。」とおっしゃいましたので、A・Aの人達は、とても心配したそうです。

 神父様は普段からアルコールが大好きでいらっしゃいましたが、ストレスの多い司祭の仕事が原因か、その量が増えた事もあった様です。A・Aの人達は教会を会場に集まりますが、全く一般の方達で、そうした意味でも面白い話だと言えます。

荒野

(イスラエル)


第89話、神に仕える

 ある信者が教会の仕事を熱心にしているのを御覧になったラバルト神父様は、その信者に向かって「あなたは私の為に働いていると思ってはいけません。あなたも私も共に神に仕えているのです。」と、おっしゃいました。また、同じ様に「夫婦は、お互いに仕えているのではなく、共に神に仕えているのです。」とも、おっしゃいました。

 キリスト教的な考え方は自分が相手に対して何か良い事をしても、その人の為にしたとは考えず、神の為にした、または神が喜ぶ事をした、と受け止める事です。人間はどんなに立派な人であっても、所詮、完全な者ではありませんから、自分が以前に良い事をして上げたと思っている相手から後で裏切られたと感じる事も多いものです。しかし、この様に考えれば腹も立たない事でしょう。しかし、言うは易く、行うは難しい事です。

ノートルダム

(パリ)


第90話、片足を

 ラバルト神父様が長く責任者を務められていた川越教会墓地では、春分の日と秋分の日の年に2回、ミサが捧げられました。そもそも、この日は彼岸に当たり、この頃に家族総出で墓参りをするという日本的な習慣によるもので、墓地に墓のある人達を中心に遠方からも多数が集まりました。ラバルト神父様はお元気なうちから毎回の様に、そのミサの説教の中で「私はもう片足を棺おけに入れています。」と、おっしゃいました。また、参加者もその冗談を聞いて笑うのが常でした。

 神父様はその一方で御自分の事を「憎まれっ子、世にはばかる、ですよ。」とおっしゃっていましたから、当分は頑張るお積りだった様です。そして、その片足とは、以前から悪くされていた右足の事だったのかも知れません。

司祭の墓

(川越教会墓地)


第91話、もう一人の人間

 私はААメンバーです。川越グループに平成元年11月に繋がりました。その日、川越教会の今もある銀杏の木の下でラバルト神父は新聞を読んでおられました。少しアルコールが入っていましたが、「何で嫁さんもらわないの?」妻帯が認められていないのを知らなかったから、こんな質問しました。神父さんは顔を赤らめて何かモゴモゴ言っておられました。この時が初めての出会いでした。二年くらいアルコールが止められないでもААには参加し続けていました。ステップ2のミーテイングでアルコールから解放されたように感じた時から飲酒欲求はあってもいつも飲まない方に考えが転がるようになりました。この時、ラバルト神父に「神って何ですか?」と聞きました。神父さんは「哲学的に難しいですがたぶん愛でしょうね。」と、おっしゃいました。その時からミーテイングで神という言葉を聞いても拒絶反応を示さなくなりました。ステップ5で自分の生き様を大まかにもう一人の人間に聞いてもらい飲まない生活を確かな物にする作業があります。私はラバルト神父にもう一人の人間の役目をお願いしました。その時、「あなたは私に話すのではなく、私の後ろにおられる方に話すのですよ。」と言われました。時間かけて私が酒を飲む大きな要因について聞いていただきました。話し終わった時、開口一番、「信頼なんだよね。」って、おっしゃいました。そのことがあって飲まない生活も11年目に入りました。自分を見失いそうな時、いつもラバルト神父に相談しました。いつも支えて下さいました。今回帰天された時、ベルデイのレクイエムをNHKで聞きました。涙が止まりませんでした。ありがとうございました。(川越A・Aの方より)

二色のサツキ

(川越教会)


第92話、寿司屋さん

 ラバルト神父様は川越教会時代、夕食時に来客があるとよく教会から東に300m程の寿司屋に案内されました。そこで、いつもお決まりの席に座ると、注文をしないのに江戸前の寿司と燗をした日本酒が運ばれてきました。そして、神父様はゆっくりと話をしながら、その日本酒をチビリチビリとお飲みになりました。大抵の客はその様子を見て、とても驚きました。

 神父様はヨーロッパ生まれですから当然チーズやワインが好きでしたが、意外な事にお寿司や日本酒も日本人以上にお好きでした。ただ、ビールはどうしてか余りお好きではなかった様です。そして、神父様は来客をとても大切にされました。

パリの地図

(旅行ガイドより)


第93話、倹約家

 信者が教会の部屋の電灯を灯したり暖房を入れたまま、そこを不在にすると、ラバルト神父様はそれらのスイッチを切った上、当事者を見付けて注意されました。更に、川越教会に新しい教会堂が建って光熱費が2倍に跳ね上がると、神父様はスイッチに注意書きをお付けになりました。神父様は無駄遣いが大変お嫌いでした。

 フランスの階段の電灯はスイッチを入れても一定時間して誰もいなくなった頃に自動的に消えるのだそうです。この様に神父様の倹約振りはフランス仕込みのものでした。ただ、川越教会が新しい教会堂になって建物が大きくなり部屋数も増えると、当然の事ながら光熱費が増えるのですが、それも無駄遣いのせいだとお考えの様でした。

教会全景

(川越教会)


第94話、教会学校

 川越教会では日曜日の午前に小中学生を対象とした教会学校が行われます。ある時、ラバルト神父様は子供達に向かって「悪い事をしたら、神様が罰(バチ)を与えますよ。」と、おっしゃいました。すると、一人の子供が神父様に向かって「神様は罰(バチ)など与えません。」と答えました。神父様は、その事に大層驚かれた様で、その後は二度と同じ事をおっしゃいませんでした。

 旧約聖書では神は民を選び、従わない時には罰を与える厳しい存在として描かれていますが、一転して新約聖書ではキリストが神を人々の罪を赦す優しい愛の存在と説きます。ですから、神父様は幼い子供の鋭い指摘に驚かれたのだと思います。

馬小屋の聖家族

(川越教会)


第95話、泣き部屋(幼児室)

 今の川越教会には聖堂の後ろ側に幼い子供達の為のガラス張りの泣き部屋があり、ミサ中でも泣き声などで迷惑を掛けない構造になっています。しかし、改築前の古い聖堂には泣き部屋がありませんでしたので、子供達も大人に混じってミサに参加していました。ある時、1人の信者が「ミサ中、子供達がうるさいので神父様から注意して下さい。」とラバルト神父様にお願いした所、神父様は「あなたが静かに祈りたいのなら、人のいない平日に来て下さい。」とお答えになりました。

 普通、一般の家庭では食事の時に老人から子供まで一堂に会するものです。教会でミサに参加するのは、キリストの食卓に与かる事ですから、子供がいるのは当然の事でしょう。そして、子供がうるさいと注意すれば、その親達までが教会に来なくなる事を神父様は心配されていた訳です。

聖母子のイコン

(川越教会)


第96話、看護士の無用心

 ある時、一人の信者がラバルト神父様をお訪ねしたところ、定期的に足の治療に来る看護婦を一人でお待ちになっているところでした。そこで、それまでの間と思い、お話をすると、神父様は待ちくたびれたのか「私にも注射が打てますが。」とおっしゃいました。信者が不思議な顔をすると、神父様は更に続けて「若い頃、パスツール研究所で看護士の資格を取ったんです。もう、随分(資格を)使っていませんが。」とおっしゃいました。ちなみにフランスのパスツール研究所は世界で最も権威のある医療機関です。

 神父様が心理学に詳しく、また、長く精神科医とフランス語原書の勉強会を続けられた事は一般に良く知られていましたが、看護士の資格をお持ちだった事は余り知られていない様です。しかし、こうした事の土台には看護士の資格が生きていました。晩年、お体を悪くされる事の多く、入院しても医者や看護婦を困らせる事の多かった神父様ですが、同時に「医者の無用心」ならぬ「看護士の無用心」だったのかも知れません。

サンチャゴのホテル

(スペイン)


第97話、洗礼

 ある日の夜遅く、ラバルト神父様のもとに急な依頼が入りました。それは信者からで、都内の病院に入院している身内が危篤になったので至急洗礼を授けて欲しいというものでした。すると、神父様は遠方でもあり、また今から行くと帰りの交通機関がない事を理由にお断りになりました。しかし、それでも強く依頼された為、神父様はやむなく病院に比較的近い教会にいる知り合いの神父に連絡を取られました。

 後から神父様はその事についての理由を信者達に向かって以下の様に説明をされました。「緊急の場合、洗礼は信徒でも授ける事が出来ます。まして、身内に洗礼を受けていない者がいる場合は日頃からその準備をしておかなければなりません。」神父様は優しくユーモアに富んでいる反面、特に信者に対しては、その自覚を求める厳しいお考えをお持ちでもありました。

聖母子像

(神父様聖別)


第98話、趣味

 ラバルト神父様は忙しい司祭生活のかたわら、幾つかの趣味をお持ちになり、またそれを大いに楽しまれました。その一つがオートバイの運転、今風に言えばツーリングでした。最初に主任司祭として赴任された秩父教会では暇を見付けては自然にあふれる周辺の山々を走り回られました。また、オートバイを全ての部品に分解して、それを再び組み立てるという様な芸当もされたそうです。それから、サイクリングもお好きで、若い頃には教会の青年達と川越から京都までの500キロ余りの自転車旅行をされた事もありました。そして、神父様が亡くなるまで続けられていた趣味が切手収集でした。旅行帰りの信者がおみあげとして切手を持参すると、神父様はそれを喜んで受け取られました。

 生前、神父様の収集された切手の数は相当なものだった様ですが、同時に神父様は御自分が死んだ後にそれを自分が長く主任司祭をした川越教会の為に役立てて欲しいとお考えでした。神父様は無駄の無い現実主義者でした。

ルルドの記念切手

(バチカン)


第99話、幼稚園

 ラバルト神父様は前任地の秩父教会から川越教会に異動されると、まもなく、隣接の白鳩幼稚園の園長に就任され、その後、東松山教会に異動されてからも園長を続けられました。その期間は幼稚園の50年の歴史の内の実に8割に当たります。当然の事ながら川越教会の周辺には園児や卒園生、その家族等が多く暮らしており、神父様は付近の住民からカトリックの司祭ではなく、白鳩幼稚園の「園長先生」と呼ばれ、親しまれていました。

 その後、浦和教区の役員で構成する理事会が幼稚園の閉園を決めた時、最後まで反対されたのも神父様でした。その理由は、心の荒廃が叫ばれる現代にあっては宗教的なものが求められており、宗教法人としての白鳩幼稚園の役割が大きい事と、不況のさなかにあって教会が教職員を解雇して失業者を出す訳にはいかないからでした。しかし、教区が新入園児の募集を禁止した結果、幼稚園は2001年春で閉園となりました。その一方で、神父様は「私は(理事会に席のない)雇われ園長ですから。」としみじみとおっしゃり、また、幼稚園の父母達には反対運動をしない様に強く釘を刺されました。幼稚園の閉園の理由は公表されませんでした。

走る園児達

(白鳩幼稚園)


第100話、聖人

 聖人とは、キリストの道に従い教会の模範となった人の事ですが、ある日のミサの説教の中で、ラバルト神父様は「一般の信者の中にも聖人に値する人はたくさんいます。しかし、聖人になるには多くの手続きとバチカンから使節を招いたりする為の多額のお金が必要で、それが出来るのは修道会くらいなものです。ですから、一般の信者で聖人になる人は非常に少ないのです。」とおっしゃいました。神父様は聖職者や修道者中心の現在の列聖制度のありかたに大いなる疑問をお持ちでした。

 神父様の所属するパリー外国宣教会にも多くの聖人がいますが、これらは、たまたま、活動した国や地方の聖人調査の際に認められたもので、宣教会が列聖の為の活動を自ら行う事はないのだそうです。宣教の為に全てを捧げ、お金や手間を無駄にしないこの宣教会らしい話です。

ラウレンチオ

(神父様の霊名)


さようなら白鳩幼稚園 神父送別演奏会 神父様エピソード集1.  2.  3. 神父様の通夜、葬儀、納骨式 神父様の追悼ミサ

 

目 次 1.所在地と地図 2.集会時間 3.主な行事 4.キリスト教とは 5.お祈り
6.最近の話題 7.共助組合支部 8.写真集 9.お薦めHP 10.グレゴリオ聖歌 特 集
クイズ A.意見交換の広場 B.キリスト教の本 C.川越散策 *編集後記 メールとML