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| 第101話、ローラン・ラバルト先生について 今から13年ほど前でしょうか、私は当時大東文化大学の学生でした。フランス語を第二外国語として学んでおり、ラバルト先生が教えてくださいました。いつも丁寧に教科書を読んでくださった姿が今でも思い出されます。 シャンソンも歌ってくださいました。クラスのある学生がおしゃべりをしていると、温和な先生が一度厳しく、「私の幼稚園の小さなこどもたちも人が話している時におしゃべりはしませんよ、あなたたちは幼稚園生以下です」と注意なさったのが印象的でした。あれから先生はどうなさったのだろうと時折思い出し、このホームページに偶然遭遇し、先生が今はフランスにお帰りになっていないことを知ってなんだかとても懐かしく思いました。先生のお写真もたくさん掲載されていて、本当にうれしく、もっとフランス語きちんと勉強していればと後悔してしまいます。(大東文化大学OGの方) ラバルト神父様は、お若い頃、都内の大学で少数民族の言語バスク語をお教えになっていた様ですが、後年、大東文化大学で長くフランス語の教鞭を執られました。日本の学生達に生きたフランス語を学ぶ絶好の機会を与えられた訳です。そして、落第しそうな学生には御自分の教会に来て補習をする様にお命じになり、また、その学生が現れない時は「最近の学生は勉強しないので困ります。」と、こぼしておいででした。ただ、残念な事に神父様には出身地バスク地方の訛りがお有りだそうで、より正確なフランス語の発音を学びたいと言う人には友人で北フランス出身の同じ宣教会の神父を紹介したそうです。神父様が大学の授業を続けられたのは、こうした事の他に、金銭的な理由もお有りだった様ですが、同時に、学内でキリスト教を伝える宣教師としての仕事もされていた様です。神父様に見出された教え子の一人はその後、カトリックの司祭になりましたし、教職員仲間の何人かが、神父様の影響でカトリックの洗礼を受けました。 |
古い仏日辞典 (ドンボスコ社) |
| 第102話、火葬場
グレゴリオ聖歌のレクイエムで始まる葬儀はラバルト神父様の司式によって、やがて無事に終わりました。教会には葬儀がつきものですが、神父様は故人に対して常に深い哀悼の意を表わされました。葬儀が終わると、神父様はそれまで御召しになっていた白い祭服を素早くお脱ぎになり、庭に止めてあった御自分の黒いバイクに飛び乗られました。そして、エンジンを吹かしながら、「先回りして、場所を獲っておきますよ。」との元気の良い大きな声を霊柩車に乗せられた柩を見送る参列者達に残して、真っ先に教会を飛び出されました。悲しい筈の葬儀ですが、その一瞬、皆の心が明るくなりました。中にはクスクスと笑う人もいました。ちなみに、その場所とは、混み合っているかもしれない火葬場の窯の事でした。都合の良い事に、神父様は火葬場の担当者とも顔なじみでした。 通夜や葬儀は当然としても、火葬場まで付き合う神父は実際には少ない様です。しかし、神父様は葬儀の後、必ずと言って良い程、火葬場までいらっしゃいました。また、神父様が葬儀社のバスに乗らず一人バイクでお出になられるのは、道路が混んでいる事のほかに疲れ切っている遺族に帰りの心配をさせない為の様でした。こうした事もあり、神父様は遺族達から長く感謝をされました。 |
聖家族 (イタリア製御絵) |
| 第103話、同郷の友人
ある時、ラバルト神父様は教会の信者数人と共に都内に住む同郷の友人の自宅をお訪ねになりました。その友人とは、神父様が主任司祭をされていた川越教会の前任者の一人で、しかも、戦後に多くの教会の建設に尽力した功労者したが、ある事情から司祭の職を辞し、既に妻帯もしていました。しばらくぶりの再会で皆話が弾みましたが、ふと、その友人は神父様に向かって「だれでも天国に行けるでのでしょうね。」と、問い掛けました。しかし、神父様は何もおっしゃいませんでした。 その時、神父様がどの様に思われたは、今となっては「神のみぞ知る。」ですが、同時に、だれが天国へ行く事になるかを知っているのも、神御一人でしょう。その後、その友人が亡くなると、神父様はミサの中でその死を公表され、更にその死を悼んで、毎年、命日には必ず祈られていました。また、その友人が川越教会に残した家具の修理を命じられ、修理が済むと自ら大切にお使いになっていました。そして、その幾つかは今も後任者によって使われ続けています。 |
故郷の教会へ (ドニ・バネ・ガラジ) |
| 第104話、紹介演説
川越市民クリスマスでの話です。その年は川越教会の出身のNHK解説者が講演をする事になっていました。そして、その人物を紹介をするのがラバルト神父様の役目でした。時間の制約もあり、関係者は簡単な紹介を期待していた筈ですが、非常に張り切られた神父様は延々と紹介を続けられました。もう、誰にも止められません。その時間は多分20分以上にも及んだと思います。しかも、やっと本番の講演が始まると、講演者は神父様の紹介の誤りを笑顔で訂正しました。その瞬間、会場は笑いの渦に包まれました。 市民クリスマスでは市内の各キリスト教会が実行委員を出して、毎月、準備の為の会議が開かれます。ただ、この年は川越教会の担当者が病気で入院した為、神父様はとてもご苦労されました。そこで、神父様は、たまたま別の用事で教会に来ていた信者夫婦を捕まえて、「これから市民クリスマスの会議に行きましょう。」と、おっしゃいました。そして、二人が「忙しい。」と答えると、神父様は「私も忙しい。」とお答えになりました。これで勝負は引き分けです。こうして、その夫婦は神父様を車にお乗せして会議に向いました。 |
日本語の名刺 (川越教会時代) |
| 第105話、日本語は半分にして
ラバルト神父様は信者に向かって時々注意や忠告をされましたが、その言い方が受ける側にとってはキツ過ぎると感る事がありました。でも、その事を申し上げると、神父様は「私は日本語が半分しか解りません。半分にして聞いて下さい。」とおっしゃいました。そして、それは神父様の言い訳ではなく、本音でした。外国人である神父様の頭の中では普通の言い方でも、それをそのまま日本語に訳せば厳しい言い方になる様でした。 日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルは日本語の習得にとても苦労し、その事から、日本語は自分に言葉を使わせない為に悪魔が造ったのではないかと考えたそうです。しかし、同じバスク人の神父様は30歳と比較的遅く来日されたにもかかわらず、見事なまでに日本語を使いこなされました。しかし、言葉の背景にはその国の文化や習慣があり、それらを理解するのには、とても苦労された様です。 |
フランス語の名詞 (川越教会時代) |
| 第106話、親友の祝辞
ラバルト神父様のご努力によって川越教会の新聖堂が完成し、お祝いを兼ねた盛大な献堂式が行われました。この式典で祝辞を述べたのは、神父様の親友である近くのお寺の住職でした。二人は刑務所の教誨師を通じての古くからの知り合いでした。この親友は演台に上がると、いかにも住職らしい大きな声で、にこやかに祝辞を述べ始めましたが、良く見ると、顔が少し赤らんでおり、声も上ずっている様でした。そして、この祝辞は何時果てるともなく延々と続きました。住職は自分の親友である神父様が立派な聖堂を新築した事を我が事の様に喜んで、感激の余り我を忘れていたのでした。 その後、教会関係の団体が関東一円から集まって川越見物をする事になり、お寺の多い土地柄でもあり、良い機会なので仏教の話を聞きたいという要望が出されました。そこで、担当者がその住職のお寺に説教を頼みに行きました。既に親友だった住職は他界していましたが、後を継いだ息子の住職が歓迎して出迎え、説教をする事を引き受けた上で「ラバルト先生は日本人以上に日本人ですね。日本酒をチビリチビリとやられます。」と言いました。また、未亡人もわざわざ玄関まで出て来られ「ラバルト先生には先代が大変お世話になりました。」とお礼を述べました。担当者は神父様の交際範囲の広さと深さに改めて驚きました。 |
明日にむかって (川越少年刑務所) |
| 第107話、後任
長く刑務所の教誨師を続けられたラバルト神父様は、晩年、埼玉県教誨師会の会長に就任されました。前任は親友のお寺の住職でしたが、その住職が病気の時には会長代理をお務めでしたので、当然の人選にも思えます。しかし、一方でカトリックが会長になるのは稀な事でした。就任後、神父様は立派にその職を務められましたが、やがて、神父様ご自身も、会長から顧問へと退かれる事になりました。すると意外にも、神父様はご自分の後任にカトリックのお仲間ではなく、プロテスタントの牧師を指名されました。心の広い神父様は宗派にこだわらず、適任者をお選びになりたかったのです。 最晩年、浦和教区は神父様がお続けになられていた教誨師の仕事の後任に一人の若い神父を選びました。しかし、後からその事をお知りになった神父様は「教誨師には適性があります。たとえ神父であろうと誰にでもなれる訳ではありません。」とおっしゃり、ご立腹でした。そこで、それを伝え聞いた若い神父は、すぐに神父様の元に挨拶に行きました。すると、神父様は開口一番「私はあなたを知りません。」と、おっしゃいました。しかし、そう言われた神父は「でも、私は神父様を何度もお見掛けして良く知っています。それに、私は神学生時代に神父様から、お小遣いをもらいました。」と答えました。それを聞いた神父様は少し考えた後で「教誨師の仕事は持ち出しです。金銭上の理由で辞めた人もいます。お金が掛りますが、払えますか。」と、お訊きになりました。すると、神父はすぐに肯きました。やっと納得された神父様は教誨師の心構えを説き始められました。後日、神父様は刑務所に出向く際に、その若い神父を助手として伴われたそうです。 |
![]() クリスマス会 (川越少年刑務所) |
| 第108話、苔寺
ラバルト神父様が主任司祭をされていた頃の川越教会は敷地に鬱蒼と木々が生い茂り、天気の良い日でも陽が当たらない地面には青くて厚い苔が一面に生していました。そんな御自身の教会の事を神父様は「苔寺です。」とユーモアたっぷりにおっしゃいました。どうやら、神父様は京都にある本物の苔寺の事もご存知だった様です。しかし、神父様の異動後、多くの木が根元から切り倒された為、今では見る影もありません。その後も隣接する幼稚園の園長を続けられた神父様はそれを横目で見ながら、とても悔やんでおいででした。 神父様の故郷はフランスとスペインの国境にまたがるピレネー山脈の麓です。そこは森には木々が生い茂り、草原には羊や牛が草を食む、絵に描いた様に美しく緑豊かな所です。ただ、ヨーロッパの空気は日本よりもはるかに乾燥していますから、湿潤を好む苔類には適した環境とは言えません。ですから、神父様は庭に苔が生える事が珍しかったのでしょう。 |
ピレネー山脈 (フランス) |
| 第109話、誕生日
ある時、信者から自宅の木を譲られたラバルト神父様はそれらの木を教会の敷地に移す様に若者達に命じられました。朝、トラックを借りてその家に向かい、庭から木を掘り出して、それを再び教会の敷地に植えるのです。作業は一見容易にも思われましたが、実際には不慣れな事もあって日暮れまで掛かりました。でも、苦労の後には楽しみが待っているものです。その日は神父様の誕生日でしたので、夜には慰労会を兼ねた誕生パーティーが開かれました。若者達に囲まれた神父様はハッピーバースデイの歌声の中、バースデーケーキのロウソクの炎を嬉しそうに吹き消されました。その中には後日、神父になった青年も含まれていました。 また、神父様の76歳の誕生日を目前にしたある夜、川越教会近くのレストランでは、内輪のささやかなパーティーが開かれました。たまたま、その店のシェフが神父様の幼稚園の卒園生でしたので、サービスも良く、また、ギターの演奏などもあって、集いは夜遅くまで続きました。懐かしい顔もあって神父様はとても満足された様ですが、残念にもこれが最後の誕生会になってしまいました。翌年の5月9日に神父様が突然亡くなられたからです。命日からちょうど5ヵ月後の10月9日は神父様77歳の喜寿の誕生日になる筈で、多くの人が随分前からその日を心待ちにしていました。「来年の事?鬼が笑います。」これは先の事を尋ねられた時の神父様の常套句でした。 |
ローラン・ラバルト (神父様のサイン) |
| 第110話、王であるキリスト
11月下旬の王であるキリストの祭日は教会暦最後の主日に当たり、カトリックでは重要な日とされています。しかし、ラバルト神父様はある年のこの日のミサの説教の中で「キリストは王ではありませんでした。私は『王であるキリスト』に反対です。」と、おっしゃいました。教会の暦に反対を表明された神父様に皆は驚きました。 キリストの語源はギリシャ語のクリストスで、それはヘブライ語のメシアの翻訳です。さらに、そのメシアとは「油を注がれた者」という意味で、イスラエルの最初の王サウルやその後の有名なダビデ王等が即位に当って油を注がれた事に由来しています。しかし、彼らと違いキリスト・イエスの王国は地上のものではありませんでした。神父様はそれをおっしゃりたかった様です。 |
グレゴリオ聖歌の 楽譜(バチカン) |
| 第111話、女性言葉
ラバルト神父様と少しでも話をした事がある方なら、語尾に「〜でしょう。」を付けられたりする神父様独特の言い回しを覚えてお出でだと思います。それは、神父様の魅力の一つであり、また、皆から慕われた大きな要因でもあるのですが、実は、その事で神父様は、お若い頃、同年代の男性信者の一人から「大の男は、その様な言い方はしませんよ。」と忠告されていました。その信者はそれが女性言葉である事を見抜いていたのです。その忠告は善意からものであり、的を得たものでもあったのですが、神父様は、その後もそれを改めようとはされませんでした。 神父様は30歳の時に来日されてから2年間、関口にある東京カテドラルの裏手のパリー外国宣教会日本管区本部から六本木のフランシスコ会修道院にあった日本語学校に通われました。その後、神父様は川越教会の助任司祭を皮切りに秩父、川越、東松山の主任司祭を歴任されますが、2年間の日本語の特訓を終えたとはいえ、初めの頃は、この異国の言葉に随分と苦労された様です。そのころ、言葉の不自由な神父様を助けたのは教会の女性達でしたので、その女性言葉が自然と身に付いてしまわれたのです。「三つ子の魂百までも」と言いますが、神父様は初めの頃に覚えた日本語を止める事がお出来にならなかったという事でしょうか。 |
黒いマリア像 (モンセラート) |
| 第112話、酒蔵
ある時、教会を訪ねて来た信者がラバルト神父様に「ここに酒蔵はありますか。」と失礼な質問をしました。すると、神父様は「ああ、ありますよ。」と肯きながら答えられました。神父様の酒蔵の話は信者の間では、つとに有名で、一説によると、その本数は300本にも達していたそうです。そのコレクションの殆どはワインでしたが、一部にはブランディーやウイスキー、老酒等の蒸留酒も含まれていました。また、ある時、神父様は高価なブランディーを知り合いの神父に気前良く譲られましたが、その訳を聞かれると「薬です。」とお答えになりました。不眠症に悩んでいる仲間を心配して寝酒にする様にと渡されたのです。 酒蔵のコレクションは専らこうした来客用のもので、普段、神父様は一升瓶に入った安い国産ワインを10本単位で購入して愛飲されていました。これらの話は神父仲間の内でも有名だった様で、神父様が亡くなった直後、一人の神父は掛け付けるなり、真っ先に酒蔵の在り処を尋ねた為、悲しみに沈む信者達から大いにヒンシュクをかったという事です。また、神父様は遺言の中で、そのワインの行き先をユーモアたっぷりに述べられたましたが、実際には、それらの内で飲むに値したのは比較的新しい3分の1位でした。残念な事に残りの殆どは保管の悪さから、すっかり気が抜けていたそうです。そして今、神父様は天国でどんな美酒をお召し上がりなのでしょうか。 |
送別演奏会 (チケット) |
| 第113話、司祭の特権 ある時、ラバルト神父様は御自分の身分である司祭の利点を訊かれて「司祭になっても、自分自身に役立つのはミサを挙げる位ですよ。自分でミサを挙げて、自分でパンと葡萄酒を頂く事が出来ますから。後は自分の為には役立ちません。告解や洗礼、終油は自分に対しては出来ません。」とおっしゃいました。意外ですが、神父様は、たとえ司祭とはいっても、一般の信徒とはミサを挙げる事以外に大きな差はないとお考えの様でした。 カトリック教会では聖なる「しるし」として、洗礼、堅信、聖体(ミサ)、告解(ゆるし)、終油(病者の塗油)、叙階、婚姻の七つの秘蹟が定められています。そのうち、聖職者を任命する際に行われる叙階は司教の権限で、聖霊の恩恵を与える堅信も司祭が授ける事がありますが本来は、やはり司教の権限です。また、洗礼は普通司祭が授けますが、緊急の時には信徒にも授ける事が許されています。告解は司祭を通して神に自分の罪を告白する事ですが、司祭自身は他の司祭に告解しなければなりません。また、終油とは生命の危機にある病人が癒しを受ける事ですが、これも告解と同様です。そして、最後の婚姻ですが、司祭には一般に妻帯が認められていませんから、当然、神父様御自身も婚姻しないという事になるのです。 |
聖ペトロ大聖堂 (バチカン) |
| 第114話、ミサ会場 ある時、ラバルト神父様は巡礼団を組織してフランスに向かわれましたが、その一団には川越教会で奉仕をしている修道会のシスターが加わっていました。そして、その巡礼中、シスターは、予期せぬ事態に直面しました。神父様が、なかなかミサを挙げる聖堂を確保しようとされなかったのです。幸い、そのシスターの修道会本部はフランスにあり、シスターもフランス語が堪能でしたので、ホテルの一室を予約して、なんとかミサを行う事が出来ましたが、当の神父様はご立腹の様子でした。その部屋がミサを挙げる雰囲気ではないと、感じられたからです。しかし、その一方で、神父様は、そのシスターを高く評価され、シスターのフランス人の上長が巡回に来るたびに、「彼女はこの教会にとって必要です。」とお得意のフランス語で表明された為、本来は数年で他所に異動する所を永く川越で奉仕する事になったのだそうです。 教会などに送られてくる旅行会社主催の巡礼旅行のパンフレットには、大概の場合、全行程の毎日に、いつどこでミサを挙げるかが詳しく記されている様です。ただ、その為には事前に現地と連絡を取って、会場を確保する必要があります。しかし、それとは違って神父様は実際に現地に赴いてから、より相応しい時間と場所を選んでミサを捧げる事をお考えでした。また、大きな巡礼地や司教座教会などでは、巡礼団のみのミサは行わず、その聖堂の集会時間に現地の司教・司祭・信徒達と共にミサを捧げられました。教会は一つである事を身をもって表明されたのです。 |
古い典礼書 (公会議前のもの) |
| 第115話、花嫁行列 ラバルト神父様は倹しく生きる傍ら、物をとても大切にされ、使わない物でも簡単には処分されませんでした。また、仕事柄、結婚式などの頂き物も多かった筈で、長く主任司祭を務められた川越教会はそうした品物が物置を含めた全ての部屋にあふれ、足の踏み場もない有様でした。やがて、神父様が東松山教会に異動されると、そうした品物の多くも東松山に運ばれて、建物の中を占拠しました。それらはトラック3台分にもなったそうで、信者達は冗談半分に花嫁行列と表現しました。「宣教師はカバン一つで移動する。」と言われるそうですが、それとは正反対に見える神父様の行動は、物を安易に生産し、また、安易に廃棄してゴミの山を築き続ける現代文明に対する大いなる挑戦だったのです。 ただ、さすがに神父様も整理整頓の必要性はお感じになっていた様です。その証拠に川越教会が新築されると、神父様の指示に従って不要品を廃棄する事になりました。こうして日曜日の午後、たくさんの信者が参加して、たちまちゴミの山が築かれました。ただ、後日、確認の為、数人の信者がこうして出来たゴミの山の一品一品を調べたところ、幾つかのまだ使える品物に混じって、新品のガラスの器が数点出てきました。信者達はホコリにまみれていたそれらを教会の台所できれいに洗い、乾燥の為に台の上に載せて帰りましたが、次の週、奇跡が起こります。ミサの時、パテナ(聖なるパンを置く為の皿)として使われたのは、そうしたガラスの器の内の一つだったのです。神父様の手によって、ゴミが祭器に生まれ変わった瞬間でした。 |
フランシスコ・ ザビエル |
| 第116話、同い年 ラバルト神父様が活動された浦和教区には、神父様と同い年で親友の二人の神父がいました。どちらも、日本人でしたが、いつの日か、この三人で一緒に温泉に行こうと約束した仲でした。しかし、この約束が果たされる事はありませんでした。そのうちの一人が主任司祭を務める東松山教会の司祭館のベッドの上で誰にも見取られずに寂しく息を引き取ったからです。程無く、神父様はその後任として川越から東松山に異動されましたが、神父様の執務室には、その親友の写真が飾られていました。ひょっとすると神父様は既に、同じ様にこの世を去る事になる将来の御自分を予感されていたのかも知れません。 最後に残されたもう一人の神父は神父様の死を聞いて「ラバルト神父は本当の信仰を持った人物で、私の大恩人だった。いつか、恩返しをしようと思っていたが、遂に果たせなかった。」と、しみじみと語ったそうです。しかし、生前、その話を伝え聞かれた神父様は「私もお世話になりました。お互い様です。」と謙虚にお答えになっていました。 |
ネウマ譜 (中世) |
| 第117話、腹黒 ラバルト神父様は晩年何回も腸閉塞が原因で川越市内の主治医のいる病院に入院されましたが、ある時、遂に切開手術を受けて腸の通りの悪い部分を取り除く事になり、そこから更に所沢市内にある専門医のいる病院に転院されました。やがて、手術が成功のうちに無事終わると、病状を心配していた主治医は真っ先に「切り取った腸の色は何色でしたか。」と医者らしい質問を神父様に投げかけました。すると、神父様は「真っ黒でした。だって、私は腹黒だもの。」とユーモアたっぷりにお答えになりました。 腸閉塞に罹ると、腹部に激痛が走る七転八倒の苦しみになり、手遅れになれば命にも係わるのだそうです。また、それ以前からお悪かった神父様の右足は本来なら切断しなければならない程の状態だったのです。神父様は、そうした中でもユーモアを忘れず、最後まで司祭の仕事に励まれました。 |
幼馴染との食事 (モンセラート) |
| 第118話、核実験 フランスが核実験を太平洋のムルロア環礁で行う事が公になり、世界の世論が核実験反対で盛り上がっているちょうどその時でした。ラバルト神父様を団長とする巡礼団が飛行機で一路フランスへ向かっていました。その機内で巡礼団のうちの一人がフランスで核実験反対を訴える絵葉書を配りたいと申し上げると、神父様は日本語の文章にフランス語の訳文を書いて下さいました。その後、ルルドでは実験場の近くの島で宣教師をしている助祭に葉書を渡して驚かれたり、パリでは浦和教区で以前働いた事のある司祭に渡して論争になったりしましたが、結局、百枚程を配る事が出来ました。核実験はその後、残念ながら強行されましたが、当初の計画より一回少なくなりました。 日本に帰るとまもなく、神父様のお仲間のフランス人司祭数人がフランス大使館の前で核実験反対のハンガーストライキを行いました。夏の暑い盛りの事です。でもその事をお話しすると、神父様は意外にも「彼らは政治に利用されているのだ。」と反対を表明されました。日本にはフランス大使館をはじめとして多くのフランス人が働き、また、暮らしています。神父様は教会が政治や経済の問題に深入りして、具体的なフランス非難を行えば、そうした人々が教会を離れてしまうのではないかと警戒された様です。 |
正門前の桜並木 (川越教会) |
| 第119話、国有財産 ラバルト神父様はある時「フランスの教会の建物の多くは教会から取り上げられて、今は国有財産になっています。教会はその建物を借りて使っているのです。そこである時、パリ市内の教会の外壁が汚れたので、パリ市に訴えたところ、市はそうした教会を市の予算できれいに掃除してくれました。当時のパリ市長は今のフランス大統領のシラクです。」と、笑いながらおっしゃいました。 神父様によれば、教会に隣接した司祭館の建物の多くも使えない為、司祭達は、やむなく教会の建物の近くに家を借りて住んでいるそうです。また、フランス革命はパリ祭などとも呼ばれ、日本の世界史の教科書では人民が王制を打倒した記念すべき事象と教えていますが、神父様に言わせれば、革命軍は教会を王制側と捉え、多くの聖職者や修道者を虐殺した憎むべき事件なのだそうです。 |
鐘楼とイチョウの木 (川越教会) |
| 第120話、1枚のポスター ある時、教会の掲示板の担当者が各教会宛てに送られた中央協議会のポスター数枚を掲示しました。すると、それを見たラバルト神父様は、その内の1枚を指差して「これは外しなさい。」とおっしゃいました。それは部落問題の解決を呼び掛けるものでした。担当者が不思議な顔をすると、神父様は「うちの教会にも居ますよ。そういう人達が気にします。」と言葉をつなぎました。優しい神父様は、そういった事にも良く気が付く敏感で繊細な心をお持ちだったのです。 フランスのバスク地方を巡礼した折の事です。マイクをお持ちになった神父様は「バスの右手の教会を見て下さい。入口が二つあります。一つは一般の信者用です。もう一つは被差別民のものです。昔は同じ入口から入れなかったのです。」と説明されました。実は神父様の故郷にも同じ様な問題があったのです。 |
ルオーの版画 (川越教会) |
| 第121話、世間知らず 共同告解の行われる日のミサで、ラバルト神父様は教会に招いた5〜6人の神父達を一人づつ紹介した後、信者達に向かって「この神父さん達は普段、修道院の奥に篭っていますから、世間知らずです。皆さん大いに鍛えて上げて下さい。」とおっしゃいました。そこで、信者達は大きな声で笑いましたが、良く見ると、言われた当の神父達も一緒になって笑っていました。そして、この発言をされた神父様だけは日本社会の裏までを良くご存知でした。 告解とは司祭を通して神に赦しを求める秘蹟(しるし)で、年中行う事が出来ますが、実際にはクリスマス前と復活祭前に行う信者が多い様です。しかし、信者の数に比較して司祭の数は、はるかに少ないので、そうした時期に信者に集中して来られたのでは時間的な制約もあり、また司祭の体力も持ちません。そこで、最近は他所からも神父を動員して、一斉に告解を行う事が普通になっており、これを共同告解と言って居ます。川越教会でも、こうした共同告解が行われますが、動員される神父は特定の担当教会を持たない修道会所属の方が殆どです。 |
ミサのお姿 (川越教会) |
| 第122話、パパ様の従兄弟(いとこ) ある日曜日、一人の大柄な神父が教会を訪れラバルト神父様と共にミサを捧げました。その神父は自分の著作の宣伝の為に来たのですが、大きな澄んだ声での歌唱ミサでした。このミサの中で、神父様は「この人はフランス人ですが、両親はポーランド人です。パパ様(教皇)の従兄弟です。」と、この神父を紹介されました。すると、この神父もおどけながら「そうです。私はパパ様の従兄弟です。良く似てるでしょ。」と言いました。この後、聖堂が笑いに包まれたのは当然の成り行きでした。 この時の話のどこまでが本当かは解りませんが、「友達の友達は友達だ。」という諺の友達を親戚に置き換えれば「親戚の親戚は親戚だ。」となります。そして、この理屈で行くとポーランド人は皆、パパ様の親戚になるのかもしれませんが、確かなのは、今の教皇ヨハネ・パウロ二世がポーランド人初の教皇である事だけです。東欧の共産主義を打ち破り、歴史に名を残すだろうと言われる反面、保守的と評価される事もある現教皇ですが、神父様は「正しい信仰を持った人」と、この教皇を高く評価されていました。ちなみに、このパパとは父親を表わす幼児語が古代の教父達に用いられる様になり、更に中世以降、専ら教皇に用いられる様になった言葉です。つまり、日本語のパパと同じ意味なのです。 |
菊の花 (川越教会) |
| 第123話、結婚式 ラバルト神父様はよく未信者同士の結婚式を引き受けられましたが、ある時、神父様は「この間、結婚式の希望者に披露宴の会場を紹介して欲しいと頼まれました。そこでH会館を紹介しました。すると、後から『便利なので式もそこでやるから。』と言って、結婚式を断ってきました。これには頭にきましたよ。まあ、いいでしょう。」と、おっしゃいました。神父様は親切から知り合いが経営する式場を紹介されたのですが、そこは市内の神社の付属施設だったのです。 また、約束した結婚式の時間になっても誰も現れず、結局、神父様がまちぼうけをくわされる事もありましたが、その時、結婚そのものが破談になったのか、他の式場で挙げたのか、今となっては判りません。しかし、そうした事は例外で、「未信者同志の結婚式は、こちらの事をよく聞いてくれるので楽ですよ。信者はわがままが多いので困ります。」と、おっしゃっておいででした。 |
拝殿 (川越氷川神社) |
| 第124話、乱暴者の野蛮人 ある時、中年の男性信者がある用事で幼稚園の園長室にラバルト神父様を訪ねました。すると、神父様は若い女性を相手に楽しそうにフランス語を教えておいででした。その女性が近々フランスに行くので、神父様にフランス語会話を習いに来ていたのです。そこで、羨ましく思ったその信者は「神父様はフランス人ではなくバスク人ですよ。それにバスク人は乱暴者の野蛮人です。気を付けて下さい。」と言いました。でも、神父様はこの意地悪をお笑いになるだけで否定されようとはせず、その信者を待たせたまま、楽しそうに講義をお続けになりました。 少数民族バスク人の勇猛果敢ぶりはヨーロッパでは有名ですが、なかなかキリスト教徒にならず、バスク地方を通る巡礼者達を散々いじめました。ただ、神父様によれば「巡礼者が怖かったんですよ。見知らぬ人達が勝手に自分達の土地に入って来るんですから。」との事です。また、大西洋を荒らし回った海賊もいて、仕舞いには「海賊のミサ」という冗談の様なミサ曲まであるのだそうです。そして、その中には歴史に名を残した人もいます。世界一周と言えばマゼランが有名ですが、実はマゼランは途中のフィリピンで没し、その後を引き継いで偉業を成し遂げたはバスク人の船長でした。 |
聖ヤコブ像 (サンチャゴ) |
| 第125話、時の鐘 ラバルト神父様の故郷、フランス南部のバスク地方の中心地には古い教会があり、その教会の塔は町のシンボルとなっています。しかも、それは川越のシンボルになっている時の鐘と石造りと木造の違いはありますが、高さといい、形といい、塔の下を人が通り抜ける構造といい、兄弟と思える位良く似ています。そして、川越を第二の故郷された神父様も同じ様にお考えでした。第一の故郷と第二の故郷のそれぞれの良く似たシンボル、「他人の空似」とだけでは済まされない話です。 その町は川越と同じ様に古い城下町ですが、その教会は教会として機能すると同時に城壁の一部を成しています。しかも、教会の塔の下を抜ける通路は外堀の役目をしている川に掛る橋を城外から渡った先にあるのです。つまり、塔自体が城内に入る玄関の役目をしています。そして、そうした構造になっているのは、万一、敵が攻めて来た時に教会に向かって弓矢を構えるのを躊躇させる為で、念入りにも塔の上部の城外から良く見える位置には守護の聖人像が飾られています。川越では昔、城をめぐって多くの戦がありましたが、神父様の故郷もまた同じだった様です。 |
時の鐘 (川越のシンボル) |
| 第126話、嫌いな食べ物 日本の生活が長かったラバルト神父様は洋食はもちろんですが日本食でも大抵の物はお召し上がりになりましたが、どうしてもお嫌いな食べ物がありました。それは、和菓子に使われる事の多い餡子(あんこ)で、その事は、時々、公言されてもいました。ある時、それを知らない信者が、多分、地方によってはめでたい時に配る習慣があるからでしょう、神父様の為に大きなオハギを幾つも教会に持って来ました。普段、相手の気持ちを酌んで大抵の物を受け取られる神父様ですが、これには参られた様です。 5月の連休に入った暖かい日でした。ひたしぶりに外出された神父様はレストランで、コーヒーと共にフルーツ入りのクリーム餡蜜を注文されました。それを頼んだのは、神父様が果物をお召し上がりになりたかったからですが、ただし、餡子は抜きでした。そして、注文の品が運ばれると、神父様は、ふと、器の中の透明な四角い物を指差され「これは何ですか。」とお聞きになり、同行の信者が「寒天ですよ。コンニャクの様な物ですが、テングサという海草から出来ています。」と答えると、珍しそうにお召し上がりになりました。餡子がお嫌いな神父様は来日47年にして初めて寒天をお召し上がりになった様です。なぜなら、これは亡くなる一週間前のお話だからです。 |
聖堂入口 (東松山教会) |
| 第127話、改宗 ある時、教会で信者の葬儀が行われましたが、参列した故人の親戚の中にプロテスタントの牧師がいました。すると、それをお知りになった神父様は、わざわざ、その牧師の席まで来られ、まじめな顔で熱心にカトリックに改宗する様、話し掛けられました。どうやら、神父様は葬式も福音宣教の場とお考えだった様です。ただ、残念ながら、それは実を結びませんでしたが、故人の配偶者は今でもその事を懐かしく思い出すそうです。 また、中東出身のイスラム教徒が洗礼の為に教会に勉強に来ていた事もありました。しかし、ある日を境に突然姿を見せなくなり、連絡も取れない事から、神父様はその人が不法就労で捕まって母国に強制送還されたのではないかとお考えになり、後々まで心配されました。ちなみに、他の宗派や宗教からカトリックに替わる事を改宗と云いますが、それに含まれるのはキリスト教の各宗派やユダヤ教、イスラム教だけで、仏教や神道等からの場合、無宗教者と同じ様に入信と言います。 |
琵琶の実 (川越教会) |
| 第128話、弟子 司祭は自分の教会の信者を等しく扱うべきですが、そうは言っても、ラバルト神父様のご自分が洗礼を授けた者への思いはひとしおだった様で、また、そうした信者が立派なキリスト者に成長する事をお望みでもありました。ある時、そうした信者の一人が神父様の親友の神父から「あなたはラバルトの弟子だ。」と言われました。後日、その話をお聞きになった神父様は「弟子は先生より偉大な者になる。」とお答えになりましたが、一方、聖書には「僕(弟子=使徒)は主人(先生=キリスト)よりも偉大なものではない。(ヨハネ第13章第16節)」と記されています。神父様はキリストとは逆さまの事をおっしゃってご自分の気持ちを表されたのです。 新しく洗礼が授けられると、教会の洗礼台帳には本人の姓名や洗礼名と共に洗礼を授けた人の名前が記されますから、それは神父様の日本における宣教活動の証でもあった訳です。神父様はまた、ご自分が司祭に導いた若い神父達に対しても同じ様にお思いで、更に、その家族にまでも気を配られました。それは神父様が「司祭の家族は信徒の模範として謙遜に生きなければならない。」とお考えだったからですが、現実にはその反対に見える場合もありました。すると、神父様は、それが若い神父本人にまで影響するのではないかと、真剣に心配されました。 |
春の司祭館 (川越教会) |
| 第129話、高齢者マーク いくつになっても、自分を年寄りだと認めたくないというのは人情ですが、多分、ラバルト神父様も同じでした。70を過ぎても自動車を運転されているのを心配した一人の信者がある日、神父様に自動車に掲示する高齢者マークをお渡ししましたが、神父様がそれを車にお付けにならなかったからです。ところが、それから大分経ったある日の事、突然、それが神父様のお車に付けられました。なんでも、タクシーの運転手に運転振りをひどく注意された為の様でした。信者の言う事は、なかなか、お聞き入れにならなかった神父様ですが、運転のプロの忠告には素直に従われたと云う訳です。 フランスとドイツの運転を比べた話に「フランス人は自分は交通法規を守らず、相手も守らないと考えるから、小さな事故は多いが大きな事故にはなりにくい。一方、ドイツ人は自分は交通法規を守り、相手も守ると考えるから、事故は少ないが、一度起きると大事故になる。」というのがあるそうです。フランス国籍の神父様の運転も正にその通りで、ファジーな運転をされる割には大事故とは無縁で、せいぜい、駐車場で当て逃げをされて「修理代が掛ります。」と悔しがられる程度でした。しかし、その運転振りを知る人達はいつも心配していた様です。晩年、神父様は、お気の毒にも右足の病状悪化から御自分では車の運転が出来なくなりましたが、それを伝え聞いた幼稚園の卒園生の一人は、とても安心した風で「神父様は自分中心の運転をされるから、その方が良いんですよ。」と言っていました。 |
陽だまりの中で (白鳩幼稚園) |
| 第130話、宝物 ある日、ラバルト神父様は1枚の書類を示しながら「これは、今から百一年前の洗礼台帳です。教区から、欲しいと言われていますが絶対に渡しません。これは川越教会の宝です。」とおっしゃいました。これは、神父様が川越教会で長く主任司祭を務められ、この教会を深く愛されていた事はもちろんですが、同時に、ご自身が所属するパリー外国宣教会の先輩の貴重な記録でもあった為の様です。 幕末に日本が開国されると、最初に日本全国に派遣されたのは東アジアの宣教を任務とするパリー外国宣教会でした。関東では最初、この宣教会が東京や横浜に幾つかの教会を建設して行きましたが、東京都の西端にある八王子教会もこうして出来た教会の一つでした。そこに明治25年(1892年)に赴任したメイラン神父は入間宮寺や川越など埼玉県内各地の巡回を始め、川越では同年最初の洗礼を見ます。当時は電車やバスもなかった時代ですから、当然、徒歩での巡回で、同神父は仲間の多くと共に「歩く宣教師」と呼ばれました。その後の大正5年(1917年)、同神父は自身が建設し、また埼玉県最初の小教区となった川越教会の主任司祭に就任します。そして、ラバルト神父様は二重の意味でその後輩に当たる訳です。 |
メイラン神父(初代 川越教会主任司祭) |
| 第131話、赦し ある青年が重大な決意を持ってラバルト神父様の元を訪ねました。その青年は一昔前に神父様から公教要理(キリスト教の入門講座)を習ったのですが、それは長崎の出身で幼児洗礼を受けていた青年が、実際にはキリスト教の事を全く知らなかったからでした。ところが、この勉強が終わっても青年は信者としての最低年に一度の務めである告解(司祭を通して神に自分の罪を告白し赦しを受ける事・赦しの秘蹟)を果たさないでいたのです。そして、その青年が素直に自分の罪を告白すると、神父様は「あなたの10年分の罪を許します。」と力強く宣言されました。その時、青年は本当に赦されたのだと思いました。 また、神父様の元を数人の若者が訪ねて来た時に、神父様は、その内の一人が最近告解をしていないのを様子から、すぐに見抜かれて、その場で、その若者の告解をお聞きになったと云う事もありました。また、こうした普通の告解とは違い、命が尽きる間際に司祭の手を通して赦しを受ける事もあります。それは出来るだけ罪のない状態で死を迎えたいとの切なる願いからなのですが、多くの人の告解を聞き続けた神父様もそれを強くお望みだった様です。しかし、その死が余りに突然だった為に果たされなかった事は悔やまれる所です。 |
棒タイをつけて (晩年) |
| 第132話、誤解 かつての川越教会にはカテキスタ(教会で教育等の仕事に従事する信徒)が家族で暮らしながら、働いていましたが、ある時、過労が原因で入院してしまいました。すると、ラバルト神父様は責任を感じられ、それまでカテキスタがしていた仕事をご自分で始められました。やがて、カテキスタは全快して退院しましたが、神父様の様子を見て、自分が教会を追い出されるのではないかと感じた様です。それは神父様がカテキスタを少しでも楽にさせようと考えての事で、全くの誤解だったのですが、やがて、カテキスタは神父様と衝突し、家族と共に教会を去りました。 後年、そのカテキスタは亡くなり、それを知った神父様も葬儀に列席されました。神父様は教会で葬儀をして欲しいとお思いになった様ですが、結局、葬儀は無宗教式でした。これは神父様にとって、とても悔やまれる誤解でした。 |
雪の園舎 (白鳩幼稚園) |
| 第133話、一字違い ラバルト神父様の金祝(司祭叙階50年)のお祝いが開かれた日の事でした。一人の信者が駅の改札を出ると、続いて見知らぬ一人の外国人の神父が改札を出て来ました。そこで、その信者は道案内の積りで声を掛け、共に式典の会場の教会に向かいました。神父が黒いベレー帽を被っているので、「バスク人ですか。」と信者が訊ねますと、神父は慎重に「故郷はバスクです。」と答えました。次に信者はかつて、神父様と巡礼に行ったバスク地方の古い町の教会から持ち帰った建物の壁の一部だった小石を見せますと、神父は驚いた様でした。更に話をすると、その神父はラバルタと名乗りました。ラバルトとラバルタ、一字違いの親友でした。 後日、神父様に、その話をすると「彼はあの町の出身だ。」とおっしゃいました。ラバルタ神父は故郷の教会の石を思いがけなく見せられて、驚いたのです。また、バスク人と答えなかったのは、母親はバスク人ですが、父親はフランスに帰化したスペイン人だったからでした。二人の神父は一字違いで、しかも、同じ宣教会に所属していましたので間違われる事が多かった様ですが、ラバルタ神父の体格は小柄で痩せ方でしたので、ラバルト神父様とは対照的とも言えました。3年後、今度はラバルタ神父の金祝のお祝いが開かれると、義理堅いラバルト神父様は重い足を引きづられて、遠路北九州まで向かわれましたが、これが二人が会う最後となりました。神父様の死の半年前の事です。 |
ザビエル城 (スペイン・バスク) |
| 第134話、脱走 ある時、一人の園児が黙って幼稚園を抜け出しましたが、幸い、すぐに近所の店屋の人に発見され、事無きを得ました。しかも捕まえてみると、その子とその両親は教会の信者でした。そこで、ラバルト神父様はその母親に向かって「脱走する子はたくさんいましたが、信者の子供で脱走したのはお宅が初めてですよ。」と、呆れた様におっしゃいました。子供は慣れない所に置かれると、怖くなって脱走したりするものですが、信者の子供の場合は日曜日ごとに隣接する教会に来ているので、そんな事はない筈だったのです。 その園児は、幼稚園が嫌だった訳ではなく、送って来た母親の後を追って飛び出した様です。一人っ子だったので、寂しがり屋だったのかも知れません。しかし、卒園した後も、神父様の事をとても慕っていたそうです。そして、脱走と言えば、病院からの脱走は神父様の得意技でした。神父様は市内のある病院のクリスマスパーティーに毎年欠かさず参加されましたが、ある時、「自分は病院から脱走して来たので、皆さんも脱走しなさい。」と患者達に説いて、医師達を震え上がらせたそうです。 |
徽章 (白鳩幼稚園) |
| 第135話、管理人 ラバルト神父様は長く務められた川越教会の主任司祭を去るに当たって、教会報に「管理人の卒業」のタイトルで最後の巻頭言をお書きになりました。つまり、神父様は御自分を「教会の管理人」と自覚されていた様です。そして、「教会の管理人」は立場上、その守備範囲内の全てを事前に知っておく必要がありました。事実、神父様は教会内の御自分の知らないところで何かの事が運ばれると、烈火の如くお怒りになりましたが、それは神父様の「教会の管理人」としての強い責任感から来ていたのです。ちなみに、司祭とはギリシャ語の長老(プレスビテル)が元となった言葉ですが、教区の司教から小教区を任せられた代理者の事で、更に、その司教とはギリシャ語の監督(エピスコポス)からきています。 皆さんは司祭という言葉から何を連想されるでしょうか。たぶん、教会の責任者、代表者、司牧者などが当てはまると思います。なかには、ラバルト神父様を親愛の念を込めて「おやじ」と呼ぶ信者もありましたが、そう呼ばれるには若過ぎる司祭もたくさんいます。また、信徒と神との間を取り持つ仲介者というのもありますが、神は被造物である人間一人一人に直接働き掛ける存在ですから、適切とは言えません。 |
プログラム (送別演奏会) |
| 第136話、巻頭言集 ラバルト神父様が川越から東松山に異動されてまもなく、川越教会から巻頭言集「ロバの頭 犀の鎧 天使の心」が出版されました。この面白いタイトルはラバルト神父様の座右の銘で「何事にも妥協しない頑固な頭脳、苦難を防ぐ丈夫な精神、子供の様に素直な心」という意味ですが、ある聖公会の主教が司祭を続ける心得を述べたものだそうです。出版後しばらくして、神父様は一人の信者に読後の感想をお尋ねになりましたので、少し考えた後で信者が「初めの頃(お若い頃)のものは、とても厳しく見えますが、それに比べて近年のものは随分穏やかに見えます。でも、内容は更に厳しくなりました。」と答えました。すると、神父様は大きく一度肯かれました。 ラバルト神父様は川越教会の月刊教会報の巻頭言を長く担当されましたが、締め切りを過ぎる事は度々で、しかも、神父様の下書きはローマ字でしたので、担当者はとても苦労をした筈です。もちろん、神父様はひらかな、カタカナはおろか、漢字の読み書きも充分お出来になりましたが、ローマ字をお使いになるのは子供の頃から使い慣れていた為の様です。こうして、蓄えられた原稿は神父様が東松山に異動されるまでに222回分にもなりました。そして、この巻頭言集は川越教会の大きな宝と言えるでしょう。 |
巻頭言集 (川越教会発行) |
| 第137話、美人ですね 川越教会時代、ラバルト神父様は毎週土曜日の午後に2時間程、公教要理(洗礼の為の勉強)を求道者に教えられました。ある日、神父様は、その中の一人の若い女性に向って「あなたは美人ですね。」と、御自分の孫を見る様な優しい目でおっしゃいました。そして、その女性が恥かしそうに黙って微笑むと、神父様は「でも、あなたは結婚してアメリカに行ってしまうんですね。」と少し寂しそうに言葉をつながれました。 一緒に勉強している中には他に何人も若い女性がいましたが、これらの女性達は、そのやり取りをニコニコしながら見ていました。成人になってから洗礼を受けるのには、何か具体的なキッカケがあるものですが、結婚はその大きな理由の一つです。 |
子供達と (川越教会玄関) |
| 第138話、日本の奇跡 これは堅信(洗礼の後で聖霊の祝福を受ける秘蹟)の勉強会での話です。ラバルト神父様は「幕末に日本が開国すると、たくさんの隠れキリシタンが発見されました。禁教以来、実に250年ぶりの事です。これは世界でも稀な奇跡です。」とおっしゃいました。神父様は公教要理でもそうでしたが、単に教科書通りの勉強ではなく、より具体的な事柄を強調されました。 その時、隠れキリシタンを発見したのはパリー外国宣教会のプチジャン神父(後に司教)で神父様の先輩に当たり、その場所は長崎の大浦天主堂でした。そして、より正確には、フランス寺と言われていた大浦教会を訪ねて来た隠れキリシタン達が、「ローマの教皇、司祭の独身、マリア像」の三つを手掛かりにカトリック教会を探し当てたのです。そして、これは当時の世界に驚きをもって伝えられたトップニュースだったのです。 |
信徒発見記念碑 (長崎大浦教会) |
| 第139話、天使 ある時、若いカップルが東松山教会のラバルト神父様のもとを訪れました。それは結婚式の依頼をする為でしたが、話をしているうちに二人はペルー人とブラジル人で、最近、生まれたばかりの子供を亡くして教会で葬式を出していた事を神父様は思い出されました。そこで、神父様は「子供は天使になったんですよ。」と何度も優しく二人に向って話され、喜んで結婚式をお引き受けになりました。 外国から日本に来ると、言葉や習慣、経済的などの問題から、寂しい思いをしたり、困った問題を抱えたりするものです。当然の事ながら、外国人の神父様はそれを良く理解されていました。その為、最後の赴任地となった東松山教会では外国籍の信徒が随分と増えたのだそうです。 |
ルルドのマリア像 (贈 神父様より) |
| 第140話、神父様の声 ある時、一人の信者がラバルト神父様に電話をしました。そして、電話に出られた神父様が用件をお訊ねになったので、その信者は「特に用事はありませんが、神父様のお声が聞きたかったのです。」と答えました。すると、次の瞬間「ガチャン」といって電話が切れました。どうやら、神父様は「もう用は済んだ。」と思われた様です。 これは神父様のユーモアを示すお話です。多分、神父様は本当に用事があれば、「また電話をしてくるだろう。」とお考えになったのでしょう。ちなみに、神父様の声は電話や一対一で会話をする時には全く気になりませんが、聖堂でマイクを通して聞くと、聞き取るのが、とても大変でした。当初はマイクや音響機器の問題かと担当者が調整しましたが、何度やっても無駄でした。それは、比較的遅くなってから日本語を学ばれた神父様の発音が日本語的ではなかった為の様です。 |
堅信式 (川越教会) |
| 第141話、お母さん達は ラバルト神父様が園長をされていた白鳩幼稚園で、ある日の事、父母の参観日がありました。張り切られた神父様は教壇から園児達に熱心に話し掛けられました。少しすると、神父様のお話の最中にも関わらず、後ろのお母さん達がひそひそと話を始めました。そこで、それに気が付かれた神父様は「おかあさんは外に出なさい。」と、お母さん達におしゃいました。さすがに注意されたお母さん達もたいそう驚きました。 神父様は園児達に語っている様に見せながら、実は、その話を園児の父母達に聞かせたかった様です。カトリックの幼稚園は幼い子供にキリスト教を伝えるのが目的と言われますが、大人になってからはともかく、信者ではない子供が自分から洗礼を受ける事は当然の如くありません。ですから、神父様は宣教の対象を園児の両親にも向けられていた訳です。 |
体操 (白鳩幼稚園) |
| 第142話、私の信仰の第2次成長期 私は、大学生活のうちの2年間を(今から約10年前)川越教会で過ごさせていただきました。ラバルト神父様お亡くなりになられたのですね。乳児洗礼の私は、高校生の時、堅信までうけつつも、青年期に入り、教会から足が遠のいていました。島根から埼玉の大学に進学し、寮を出て1人暮らしをすることになった川越で、ぶらりと教会に寄った時、大きな体で、ボーっと(失礼!)していらしたのが、神父様でした。その時は、たまたま教会が新築された時で、設計士さんとお話をされていました。 話好きでいらしたラバルト神父様は広い視野を持つ教養人でしたが、そうした事を表に出す方ではなく、誰とでも同じ目線に立って普通の会話を楽しまれました。特に、青年達に対しては人間臭い所もお見せになり、そうした事が教会に来る青年達に人気がある理由でもありました。 |
献堂式 (川越教会) |
| 第143話、イスラエルの民は ラバルト神父様が長く園長をされていた川越教会付属の幼稚園が閉園する事が正式に発表された頃の事です。それは神父様の高齢に伴う教区の方針だったのですが、神父様は最後まで閉園に反対をされていましたので、その落胆振りはお気の毒な程でした。たまたま、一人の信者が神父様の元を訪ねると、神父様は悲しそうに「イスラエルの民は約束の地に着いたと思った。しかし、そこは約束の地ではなかった。」と、おっしゃいました。その信者は神父様が旧約聖書の記述を御自身の生涯に合わせて語ったのだと直ぐに悟りました。 旧約聖書によれば、預言者モーセの指導でエジプトを脱出したイスラエルの民は紅海を渡った後、40年の間、砂漠をさすらい、遂にヨルダン川を越えて神が約束の地として与えたと信じるパレスチナに侵入します。しかし、そこは異民族が常に侵入する土地であり、イスラエルの民は多くの長い苦難の歴史の末、ローマ人によって、この土地を完全に追い出されてしまいます。一方、神父様が人生の大半を過ごされた川越の地は読んで字の如く、川を越えた所と云う意味なのです。 |
洗礼式 (川越教会) |
| 第144話、幼馴染 ある年の夏の盛りの頃、ラバルト神父様は巡礼団を組織して、スペインのバルセロナとサンチャゴ・デ・コンポステーラ、フランスのルルドとパリ、それから御自分の出身地であるバスク地方を回られました。その時、神父様は既にお年を召され、また、体調もよろしくなかった為か、同じ宣教会所属の神父を神父様が旅費を負担する条件で、わざわざ台湾からお呼びになりました。その神父は神父様の実家とは一山越えた近所の出身で幼馴染でもあったからです。責任感の強い神父様は折角予定した巡礼旅行を御自分の体調のせいで中止したくはなかったのでしょう。その神父は日本語は分りませんでしたが、幸いにもイギリスに滞在した事がある為、英語が通じたので、巡礼団のメンバー達と仲良くなり、見事に巡礼団の副団長の役割を務めました。 後年、その神父はラバルト神父様の司祭叙階50周年のお祝いにも、わざわざ台湾から駆け付け、祝典の中で遠方からの来客として紹介され、会衆の皆から盛大な拍手喝さいを受けました。やがて、神父様が亡くなると、その時の巡礼団の一人がこの台湾の神父の元に、葬式の時に配られた写真としおりを送りました。しかし、それらは全て日本語で書かれたので、神父は知り合いの大学教授に依頼して翻訳してもらったとの事です。 |
カテドラル (サンチャゴ) |
| 第145話、写真 ある日のミサでの説教の事です。ラバルト神父様は祭壇の後ろの十字架に付けられたキリスト像の足元を右手で軽く叩きながら「この象は単なる木で出来た像です。ですから、これは私達が自分の両親の写真を眺めるのと同じで、礼拝の対象ではありません。礼拝の対象はこの食卓と聖棺だけです。」とおっしゃって、祭壇とその後ろの壁に取り付けられている聖棺を指差されました。 カトリック教会にはキリスト像やマリア像、更には聖人達の像がありますが、これらを礼拝の対象と考える事は、実は大きな誤りです。カトリックではキリストの最後の晩餐を表し普通は聖人の遺物を入れてもある祭壇とキリストの身体となった特別なパンを入れた聖棺だけが、正しい礼拝の対象なのです。しかし、カトリック信者の中にもこうした事を正しく理解していない人がいて、それが更に誤解を生んでいる為に、神父様はわざわざそうした説明をされたのです。 |
神父様と母親 (納骨式の写真) |
| 第146話、賞味期限 ある年、川越の町にドイツから建築学の学生の一団が古い町並みを見学に訪れ、ラバルト神父様が主任司祭をされている川越教会で歓迎会が開かれました。日頃から来客をもてなす事に熱心であった神父様は司祭館に蓄えられていた沢山の飲み物や食べ物を歓迎の為に用意されました。歓迎会が始まると、そうした食べ物の一つの落花生を食べていた学生から驚きの声が上がりました。何と、その落花生は賞味期間切れで、しかも中から虫が沢山出てきたからです。どうやら、ドイツの学生達は日本の落花生には虫がいると思った様でした。 神父様は多くの人達から食べ物を頂く事が良くありましたが、食べ切れずに、そのまま冷蔵庫に入れたり、自室に積まれたりして、何時の間にか賞味期間が切れたものばかりになる事がありました。それは何事にも決して捨てる事が出来ない神父様の御性格から来ていたのですが、こうした神父様を良く知る信者の中では「神父様が呉れるとおっしゃる物はどんな物でも喜んで頂き、賞味期間を確認して、もし過ぎていたら直ぐに捨てる。」という暗黙の決まりがあった程なのです。 |
神父様の誕生日 (川越教会図書室) |
| 第147話、献血手帳 ある信者が教会に着くなり、いま献血をして来たところだと告げると、ラバルト神父様は、にこやかに「献血手帳を見せなさい。」とおっしゃいました。そこで、その信者が神父様に褒められると思いながら、喜んで手帳を開いてお渡しすると意外にも神父様はその記録を見ながら「少ないですね。」とおっしゃいました。でも、その手帳の8割の欄は既に献血済の記録があったのです。信者が意外な顔をすると、神父様は「私はもっとしていますよ。」と再び、にこやかに、そして少し得意げに、おっしゃいました。 実は神父様は定期的に頻繁に献血をされており、それが理由で日本赤十字社から表彰まで受けられ、当然、その回数は相当なものだったのです。キリスト教を名乗る団体の中には旧約聖書の記述を曲解して輸血を拒否するものもありますが、神父様の働きは、それが明らかな誤りである事を示すものでもありました。また、日本で長く宣教された神父様の御活躍の裏には、こうした目立たぬ働きが他にも多かったのです。 |
キリストにならいて (ローマ字版) |
| 第148話、宣教師魂 ラバルト神父様が亡くなる半年余り前の事です。フランスに一時帰国される事になった神父様は手続きの為にパスポートや必要な書類を持って入管事務所を訪れました。既に、その部屋は同じ様な手続きを待つ世界各地出身の人々で、ほぼ満席です。当時、相当に足の状態が悪かった神父様ですが、杖を突きながら空いているベンチに腰掛けられると、直ぐに目を輝かしながら隣のご婦人に話し掛けられました。「あなた、どこの国の人?」こうして、多くの外国人が楽しそうに話される神父様周りに輪を描きました。そして、神父様は相手がカトリックの信者だと判ると、優しい言い方で「あなた、教会行ってる?」。すると、皆が一斉に笑いました。 神父様は何時どんな所でも、こうして皆の輪の中に入って行かれました。そして、日本人にも外国人にも分け隔てなくされました。困っている人を見ると黙っておられませんでした。何時でも魅力的な人物であり続けました。神父様は本当の宣教者でした。 |
寄留の他国人として (神父様蔵書) |
| 第149話、鐘一つ ラバルト神父様が川越教会に主任司祭として赴任されて程ない頃ですが、川越の町でNHKの喉自慢番組の公開放送が開かれる事になりました。そこで、何事にも挑戦される若くて元気だった神父様は何とその番組に単身出演されたのです。フランス人のカトリック司祭がテレビの歌番組に出演という椿事によって神父様が川越の町一番の名物外国人となられたのは言うまでもありません。しかし、残念にも鐘の数は熱唱の割には1つだったのだそうです。 東京のベットタウンとなっている川越のカトリック教会は今では1400名を数えるまでの大所帯なっていますが、戦後10年程だった当時は、その何分の一の規模でした。ですから、神父様はテレビ出演が少しでも教会の宣伝になればと思われていた様です。普通の人であれば、楽しみや余興として出る筈の喉自慢番組ですが、仕事熱心な神父様にとっては大事な福音宣教活動の一つだったのです。 |
笑顔の神父様 (祭服姿) |
| 第150話、ロザリオ フランスのルルドという大巡礼地での事です。スペインからパリ経由で夕方になって現地に到着されたラバルト神父様は夕食を終えられると、日が暮れたルルドの巡礼地を杖を突きながら懐かしそうに、ゆっくりと歩かれました。そして、ロザリオを持った貴婦人(聖母マリア)が出現されたとされる洞窟の前に来ると、跪いて祈り始められました。そこで、一人同行した信徒が「神父様ロザリオです。」と言って持って来たロザリオを差し出しました。神父様が手の甲の指の付け根の関節の数で聖母祝詞の祈りを数えておられたからです。一度、神父様は断られましたが、更に「(これは)神父様の為にお持ちしたのです。」と信徒が言うと、神父様は、そのロザリオを受け取られ祈りを続けられました。 キリスト教においても、そして他の全ての宗教においても、祈りは非常に大切なものです。しかし、神父様はミサ以外の人前では祈りをいかにもしているという姿勢はお取りになられませんでしたが、同時に実際には深い祈りの方でした。そして、ロザリオ祈りの本当の奥義は手にではなく心の中に聖母のロザリオを持つ事であり、また、十字架の奥義は十字架を手に持つ事ではなく心の中にキリストの十字架を背負う事なのです。 |
ルルドのロザリオ (神父様祝別) |
| 川越で35年間、キリストの教えを伝え続けたローラン・ラバルト神父(東松山市)
「人と人とのこうさてん」川越市女性問題情報紙第14号 いきいき人と人のコーナー 発行日 平成13年7月 発行 川越市女性政策推進室 |
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| どっしりとした体格。いつもかぶっている黒いベレー帽はバスクの男たちのトレードマーク。1924年フランス、バスク地方生まれのローラン・ラバルト神父は、フランス語で書いたメモを見ながら静かに話し出した。 尊敬する先輩宣教師がベトナムで志半ばで殺されたと聞いたときに「先輩の意志を継ぎ、アジアに行こう」と強く決心したと言う。パリー外国宣教会の派遣決定により54年に来日し、61年にカトリック川越教会の主任司祭に。翌年には付属の川越カトリック白鳩幼稚園園長、川越少年刑務所の教誨師になり96年にカトリック東松山教会に赴任するまでの35年間、川越でキリストの教えを伝え続けた。 「男が女の真似をしてもおもしろくないでしょう?」体ばかりでなく心も違う。足りないものをお互いに補い合う、それは大切。相手に無いものねだりをしてはいけないと、結婚式前の結婚講座で若い二人に説く。この言葉はすべての男性、女性にいえることだと、ラバルト神父は言う。 また、今年の3月に50年の歴史を閉じた白鳩幼稚園については「私が幼稚園の園長になるとは思わなかったですよ。それも39年間(4年間は東松山教会司祭と兼任)も。教会に幼稚園がくっついていたからね(笑)。浦和教区が3年前に廃園を決定したけれど、最後の園児が卒園するまでは園児と親御さんに約束違反になるからと言って今年まで続けましたよ。でも、廃園はもったいない」と少し寂しそう。 最後に川越での35年間を振り返り、「私は受刑者からも悩める信者からも、本当にたくさんのことを教えてもらった。特に受刑者は私の知らない体験をした人ばかり。それはすべてが勉強。そして、多くの知り合いが増えたことがなによりいいね」と語るラバルト神父の穏やかな笑顔の奥には、「隣人への愛」があった。 このお話を伺った後の5月9日に、ローラン・ラバルト神父は急逝されました。心よりご冥福をお祈りいたします。 |
ベレー帽姿 (転載承認済) |
| 上記の記事を著者がラバルト神父様の所属するパリー外国宣教会の日本管区本部にお送りしたところ、以下のお手紙を頂きましたので、ここに御紹介致します。 | |
| ラバルト神父様の記事をお送り下さいましてありがとうございました。改めて、地域に深く根ざして活動されていた神父様が思い出されます。 感謝を込めて、 |
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(注:写真の但し書きにあるドニ・バネ・ガラジはバスク語名で、フランス語名はサン・ジャン・ピエト・デ・ポールというフランス南部バスク地方の古都。ラバルト神父様が神学生時代の1年間をここで過され、また、有名なS・カンドウ神父の生家もあります。尚、神父様の出生地で実家のあるイバロル村はこの町より車で30分足らずの所です。)
著者より: 多くの方のご協力でこのエピソード集が掲載出来ました事を感謝します。もしも、不正確な記述や不適切な表現がありば適宜修正致しますので、メールにてご連絡下さい。