数え切れないくらい悔いて、数え切れないくらい立ち止まって、数え切れないくらい後戻りして。
でも私はいつだって、必ずこう言える。もし生まれ変われるなら、私は、ラシア=ナ・バーディングは、何度でも私に生まれたいと。
物心ついた時には、彼等はごく自然に私の前にいた。この世界に舞い降りた精霊達。だから、彼等の言葉を覚えるのにさほど時間はかからなかった。
基本を母に習ったら、後は彼らが教えてくれたから。
でも父に教えてもらった笛の方の才能はいまいちだったようで、その音を耳にした動物達が近付いてきてくれる程度になったところで訓練をやめてしまったから、
人様に聞かせられるくらい上手くはならなかった。もし自分の子供が笛に興味を持ったら、その時は基本だけでもすぐさま教えようと決めた。ありがとう父上様。渋ってすぐに教えてくれなかった
貴方はよい反面教師でした。ええ、決して、私が途中で投げ出したのがいけないわけではないんですよ、多分。
そうして、毎日精霊達と一緒にいたわけだから、私は村の誰にも、召還魔法の技術では負けないと思っていた。…ううん、本当は長老様には負けていたかも知れないけど。
でも実際に腕比べをしたことはないし、だから長老に負けたこともないし。何だって言うのは自由ですよね?ごめんなさい、長老。
言っちゃいます。私が村で、一番でした。
ある時、精霊達のおしゃべりの中に、ずっと東方、海に浮かぶ国の話を聞いた。その国には、ありとあらゆるものに精神が宿り、
多くの人々が精霊の存在を感じられるらしい、と。
一瞬で心魅かれた。
私は彼等の事をもっともっと知りたかったから。それには、この村は狭すぎた。外の世界には、まだ見たこともない精霊達がいるかも知れないじゃない。
私はいつしか、ずっと閉ざされたままの鳥籠のようなこの村を飛び出したいと思うようになった。
そんな風に思っているうちに月日は流れて、私を愛してくれたご両親様が召されて、私は村を出る決意をした。親不孝ものですいません。
でもお二人の教育には感謝しているのです。ありがとう、こんな風に育ててくれて。
両親の遺品の整理が終わって一息ついたある日、私は荷物を纏めて夜のうちに発とうと、隣に住んでいた幼馴染みのビアトリーチェにだけその事を告げた。
長老には適当に言って誤魔化しておいてほしい事、家は好きに使っていい事、多分二度と帰ってくる事はないから、特に綺麗にしておかなくてもいい事、
むしろ邪魔だったら取り壊してビビの家を大きくしてもいい事、さっきも言ったけど二度と帰ってくる気はない事、少なくとも今の私のままの
間はそうだろうという事、その他、見ての通り私は親不孝だったから貴女はお母さんを大切にしなさいとか、自分の事を棚に上げて少しは家事もしなさいとか
お節介を色々と、あと、貴女は相当いい旦那さんを持ったわとか、リディちゃんは可愛くて羨ましいとか、
いつかアイルちゃんを引き取ってやろうと思ってたのに出ていっちゃって残念だったとか余計なことをあれこれ話して、
いつの間にか出てきていたお茶菓子とポットいっぱいだったお茶が空になった頃に、空が白み始めたことに気付いて話を打ち切った。
そしたらビビのお母様が顔を出して、朝ご飯を食べていかない?と訊いてきて、でも流石にそれでは出発が遅くなってしまうので渋々断ると、
代わりにお弁当を作ってくれたので喜んで受け取って、ようやく村を出発した。
その時は、これが彼女達との永遠の別れになるとは思っていなかった。
村を出たら後はもう、自由気ままに目に止まった街や村や森なんかに、思いのままに立ち寄って。
自らの探究心を満たせるのなら、精霊達とより親しくなれるなら、他には何もいらないと思っていた。現に、生まれ育った故郷まで捨てたのだから。でも。
でもそれはどうやら違ったらしかった。
村を出て数年後、セージという街で、ある人と出会った。その人は綺麗なシルバーパープルの髪をしていて、眼鏡の奥の瞳は落ち着いた深い緑色で、
とても優しい顔で笑いかけてくれて、あっと言う間に好きになってしまった。でもその人は良家の息子で、彼の家の人は私を快く思って
いなかったみたいで。だけど頭に血がのぼって、のぼせているみたいな感じで、自分でもわけが分からないうちに彼の手を引いて、
大通りを駆け抜けて街を飛び出して。色んな感覚が入り混じって、自分の心臓が意志を持ち始めたと思うくらい勝手に暴れ回っていて、なかなかあがった
息が治まらなかった事をよく覚えている。
そして、とても後悔した。
あの人が昔の自分みたいに思えたから、鳥籠の中の鳥に見えたから、何も考えずに突っ走って連れ出してしまって。鳥籠の外に必ず自由があるとは限らないのに。
でもあの人は笑顔で許してくれて、森の中に小さな家を建てて、二人で暮らし始めた。
故郷の森ほど魔力は溢れていないけれど、それでも雰囲気が似ていて落ち着くと言ったら、あの人は初めて村の事を訊いてきた。
本当はずっと色々訊きたかったらしい。私は特に一般に知られているようなエルフらしい生活をしていたわけではないので、
人間の生活と大して変わらないわよと前置きして、私の小さい頃の話や、幼馴染みが珍しい花を育てるのが趣味だった事、
彼女のお母様が家事の達人だった事、だから彼女の娘は彼女のお母様に家事を一生懸命教わっていて、
いつか自分の料理を大好きな人に食べてもらえるようになる日を心待ちにしている事、彼女の旦那さんはとても優しくていい人だった事、
でも貴方にはちょっと負けるかも知れない事、彼女が預かっていた男の子がとても可愛くて
綺麗な銀髪をしていた事、でも貴方の方がもうちょっと綺麗かも知れない事なんかを。
そしたら、
「いつか行ってみたいな、君の故郷に」
なんていうから。
「来たって面白い事なんかないわよ。私達が変わっているだけで、村の人たちは歓迎なんてしてくれないし。でも、もし私の村に来る気
になったら、北の森から行くといいわ。それなら村の人にも見つかり難いし」
こっそり、村に行く道を教えてしまって。
あの人は指輪の代わりにと、ペンダントをくれた。それは、彼の持つ片割れと合わせると一つになるもの。
涙型の土台も、填められた珠も半分で、その不安定さが元は一つである事を、傍らにいるべきパートナーがいる事を主張していた。
誰からも認められず、誰からも祝福されなかったけれど、そんな事は気にならないくらい私達は、少なくとも私は、幸せで。私はこの頃、
あの人にも内緒で、勝手に『ブロッサム』と、彼の姓を名乗っていた。とは言っても、名乗った相手なんて精霊以外にはいなかったけれど。
それから、同時に私はその頃、今までろくに家事をしていなかった事を大失敗だったと思っていた。殆どの家事はブラウニー達がとても手際よく
かつ丁寧にやってくれたけど、一応人の妻となった身としてそれはどうかと思わなかったわけではなかったので。
「う゛―――――ん…」
台所でラシャナが悩んでいると、そこへ近付いてくる人影があった。
「何を悩んでいるんだい?」
「あ、ちょうどよかったわ、これの味見してみてくれない?」
「………。味が、しないけど…」
「…やっぱり?凄いでしょ、万人が同じ感想を述べる料理よ」
「ある意味それは凄いね」
「…………。…不味くなりえる要素を全て排すと、いつもこうなっちゃうのよ…」
「大丈夫。きっとそのうち上手くなるよ。でも…流石にこれは作り過ぎじゃないかな」
「…やっぱり?」
巨大な寸胴鍋いっぱいの料理を前に、彼女は苦笑いを浮かべた。
そんな風な生活が続いたある日、
「あ゛ーあ゛ーあ゛ーあ゛ーっ」
私は酷く混乱していた。
「少しは落ち着いたほうがいいんじゃないかな?」
「貴方はいいわよ!でも私はこんなの初めてだもの!」
「少なくとも僕も初めてだから」
「あぁもうだめ死ぬーっ」
「そういう人ほど丈夫だからね、安心だ」
「こんな事ならリディちゃんが生まれた時の事ビビに色々訊いておくんだったわっ。私のばかーっ」
「はいはい分かったから暴れないんで」
そう、私の中には彼の子が宿っていた。
エルフは総じて年齢を気にしない種族であったけれど、その頃同い年の友人に約二百歳の娘がいた事を考えれば、それでも私の出産は遅かったのだと思う。
ハーフエルフ。生まれてくる子が、禁忌と呼ばれる存在である事は考えなかったわけではないけれど、でも私にとってこの小さな家が
世界の全てで、村に帰る気など少しもなかったから、そう深刻には思わなかった。
あれだけ騒いだ甲斐もなく、結局何事もなしに子供はすんなり生まれて。あの人は、ほら僕の言ったとおりだとか言っていたけれど、
母子共に健康だったのは私の努力のおかげだから。そこは強調させてもらいますからね。
息子が生まれてからしばらくして、私がベッドから起き上がれるようになった頃、あの人に誘われて少し風に当たろうと外に出た時に、
「フェルを生んでくれてありがとう。本当に感謝している」
突然あの人が言った。
「いきなりどうしたの?」
私が訊くと、彼は照れ臭そうに、言い難そうに続けた。
「実は、僕は心の何処かで、いつか君と一緒になった事を後悔するかも知れないと思っていたんだ。でも、今はもう、そうは思わない。
二人が一緒にならなかったら、フェルは、一つの尊い命は、この世に生まれて来なかったんだから。君も僕も間違ってなんかいない。
僕は決して後悔はしてないし、これからもしない。だから君も、後悔しなくていい。後悔しないでほしい」
その瞬間、世界で一番の幸せ者は絶対に私だった。何だって言うのは自由だから。
息子は父親似で、あの人みたいな綺麗な銀髪をしていた。それが時折水色がかって見えるあたりが私の血かも知れない。それから、
両の眼が違う色をしていた。片方があの人の色。もう一方が私の色。
私は自分が教育には向いていない事を百も承知だったから、そっちの方面はあの人に任せきりだった。息子は頭の方もあの人に似て
本が好きで、ただでさえ本でいっぱいだった家の中は益々凄いことになってしまった。精霊達に興味を持ったようだったらすぐに色々と教えてあげる
つもりだったけれど、そちらにはあまり心引かれなかったみたいでちょっと残念だった。でも日々自分の中に増えていく知識に喜びを
覚えている姿は私そっくりに見えて、ついつい私も嬉しくなった。
この頃、私は息子の髪を梳くのが好きだった。きらきら流れる髪がとても綺麗だったから。男の子だから息子は本当は嫌がっていたかも知れないけど。
ううん、嫌がってもきっと私は息子を捕まえて梳いたに違いないわ、ごめんね。
何事もなく時は過ぎて、あの人は着々と歳を重ねていく。息子も、下手をしたら他人から見ると私の兄弟に思えるかも知れないくらい大きくなって。
流れる時間の違う家族は、それでも幸せな刻を共に歩いて、私には一瞬のように過ぎていく一日一日がとても愛しかった。
そして、人間で言ったらそれなりな年がたった頃に。
「…貴方、お坊ちゃんだったくせに実は結構体力あるでしょ。昔何処かで鍛えてたに違いないわ」
「突然何を?」
「だって、二十一歳も違うのよ?普通だったら有り得ないんじゃないの?」
「そうかな?でも君はまだまだ若いから」
「責任転嫁はずるいわ」
「フェルを生んだときに私のお陰だって言い張ったのは君の方だよ。次は女の子か。楽しみだな。」
「まだ女の子とは決まってないわよ」
「いや、女の子さ。君似のね」
またしてもあの人の言った事は当たった。二番目の子は娘だった。その上、私そっくりだった。
でも結局あの人は、娘が私に似ているのがはっきりと分かるようになるまで成長を見守る事はなかったけれど。
その日はあの人が近くの町に買出しに行く日で、息子も手伝いであの人についていった。私は娘の面倒を見ながら留守番をしていたけれど、
あまりに精霊達が騒ぐから、嫌な予感がして、彼等に娘の事を頼んで慌てて二人の後を追った。
それでも、私が町に着いた時にはもう遅くて、二人はあの人の家の人に雇われた奴等に発見された後だった。
連れていかれようとしている二人の姿を見つけて、私は一瞬にして頭に血が上った。私の怒りに精霊達も同調し力を注いでくれる。
それを奴等に向かって一気に放とうとした瞬間、
「待って!」
私に気付いたあの人がそれを止めた。
「どうして止めるの!?」
語気を強めて私が言うとあの人はこう言った。
「君に人を傷つけてほしくないんだよ。それが僕のせいならなおさら…」
…ずるい、と思った。そんな事言われたら何もできなくなっちゃうじゃない。後はもう、連れていかれるあの人と息子の姿を、ただ
呆然と見送るしかなかった。
その後、どうやって家に戻ったのかは覚えていない。精霊達が連れ帰ってくれたのかも知れない。ただ、家の中に入って、娘の姿を見た
途端に涙が溢れて、彼女を抱きしめて大声で泣き出してしまった。次から次から、涙は止め処無く溢れて、驚いて娘も泣き出してしまった。
それでも私は泣き止むことができなくて、慌てて精霊達が私から引き離してあやしてくれた。私は母親失格だった。それから数日間、
娘の面倒も見ず、抜け殻のようになっていたのだから。けれど、何気なく抱いた娘が私にぎゅっとしがみついて、顔を擦り寄せてきてくれて。
ごめんね、情けないお母さんで。こんな私でも、この子が母親と認めてくれていた事が嬉しくて、そっと、私の蒼に近いその子の紫色の
髪を撫でたら、また、涙がこぼれた。この子がいなかったら、私は立ち直れなかったかも知れない。
それから私は、東を目指す事にした。そうすれば、あの人に出会った頃の、他のものが見えないくらい何かに夢中だった自分に戻れるのでは
ないかと思ったから。そしてその頃から、私は元の姓を名乗るようになった。あの姓を名乗っている時の思い出は、全ていいものであって
ほしいから。蕾は『花』になったけれど、ぎゅっと膝を抱えてうずくまって、今はまた蕾にもどってしまった。
もしかしたらあの人がここへ帰ってくるかも知れないと思って、書き置きを残そうとしたけれど、万が一掠れて読めなくなってしまっては
困るから、家に入ると真っ先に目に入る柱に、「東の国へ行ってきます」と共通語で彫り込んで、ドアを閉める時に薄い木の皮をドア枠との間に
挟んで、鍵をかけて、しばらく家を眺めた後で、そこから離れた。
急ぐ旅ではなかったし、娘もいたからそれなりに無理はしない速さで、でも以前のように大きく北や南にそれての寄り道はしない程度に
東へ進んでいった。森から結構離れたとある街で、食料の買い出しをしようと市場へ行った時の事、私は白い体に羽のような形の耳を持つ、
珍しい生き物を見つけた。本で見たものよりぽてぽてとして不恰好だったけど、間違いなくそれは珍獣といわれる、通称『ピーティー』、
正式名『パラッチトッピウス』だと思った。そして、そのピーティーは、奥で作業している店の人から見えにくい場所で、売り物の
果物を次から次へとたいらげていて、そのまま様子を見ていると、作業が終わった店の人がピーティーに気付いて、怒って殴りつけようと
したけれど、ピーティーは悠然と構えてその人の拳にぱくっと食い付いた。店の人は慌ててもう一方の手で引き離そうとするけれど、
ピーティーの皮が伸びて上手く剥がせなかったので、その人は今度は食い付かれた腕をぶんぶん上下に振って離そうとした。
でもピーティーは、それを待ってましたとばかりに拳から口を離し、振り回された勢いに乗ってぽーんと遠くに投げ出されて逃げていった。
「凄い、食い逃げしたわ。私も今度やってみようかしら。…あ、ネシェルがいるから無理ね、残念」
それを見て私はそう呟いて、すぐさまピーティーを探した。
風の精霊の存在に気付いて、ピーティーが足を止めた。
「見つけた!」
すぐに子供を抱えた女性――ラシャナが追い付き、
「ねえ、あなた、私と一緒に旅しましょ!」
いきなりそんな事を言い出した。
ピーティーはふるふると首を横に振る。すると、すぐラシャナが、
「じゃあ一日五食で雇われない?不満なら昼寝も付けるわ」
と言い、ピーティーは少し考えて…頷いた。
「やったわ、ネシェル、お供よお供っ」
ラシャナは喜んで、抱えていた子供にピーティーを見せる。
『なにそのお供って…』
「あ、やっぱりあなた、話ができるのね。そうだと思ったわ」
全く口を動かさず、脳に直接響いてくる声を聞いてラシャナはごく当たり前といった様子で応えた。
「お供が嫌なら、小間使いがいい?それとも使用人とか?だったら呼び名に見合う仕事してもらうわよ」
『…お供でいいです』
「そう?それならいいわ。ネシェルネシェル、ほらふわふわクッションよ」
そういって、子供をお供に乗せると、その子は、
「ふあふあー」
と頭にしがみつく。
『ちょっと、僕はクッションじゃないし、重いんですけど』
「いいじゃない、ネシェルだってあっと言う間に大きくなるわ。そうしたら、あなたがこの子の頭に乗れるわよ」
お供が旅に加わって、話し相手ができて、少し気が軽くなった頃、私は遂に海を渡り東の方の島国へ上陸した。
話に聞いていた通り、そこには多くの精霊と、精霊の力を借りて生きる人々がいて。その地の精霊に、最古の森の最長齢の古木に、
計り知れない力と知恵を持った精霊が宿っている事を聞いて、私はどうしても会いたいと思った。その精霊は迷える者を導くという話だったから。
けれど、最古の森の入り口まで来て、私はそこの精霊達に足止めされてしまった。私がこの島の者ではなかったから。なるほど、余所からの
人はエルフの森でこんな仕打ちにあっていたんだわ、と思ったけれど、諦める気にもならなくて、どうにかその精霊にあう方法を探そうと
していたら、いきなりお供がしゃしゃり出て、
『僕を誰だと思っている。ごちゃごちゃ言わずに案内をすればいいんだ』
と言い出して、しかもそれを聞いた精霊達がしずしずと案内を始めたので私はすっかり驚いた。
「お供って結構頭はいいと思ってたけど、実は凄く偉かったの?」
『さあね。でも、ここの長老には会ったことがある』
よく分からないうちに、目の前に巨大で立派な古木が現れて、もはやどのくらいの年月を経たのか分からないくらいの精霊がそこに座っていた。
私は挨拶と、一応自己紹介をしたけれど、やっぱり精霊の長老は私が今までどんな生活を送ってきたかはお見通しだったから、
もちろん私が何を訊こうとしていたかも分かっているはずだと思って、遠慮なく、これから私はどうしたらいいのかを尋ねた。
精霊の長老は、私に故郷に帰る事を薦めた。でも私は既に故郷を捨てたのにと言ったら、
『いつだって貴女の故郷に貴女の居場所はある。そこでしばらく腰を落ち着けて、ゆっくりと考えて見なさい。
そして、そこが自分のいるべき場所でないと思ったなら、改めて故郷から旅立てばよい』
と、徳の高い事を言ってくれて。
故郷は、もう帰ってはいけない所だと、私が心にかけていた枷を、精霊の長老がその言葉で外してくれたら、途端に村へ帰りたくなって、
私はすぐに踵を返した。嫌だったらついて来なくてもいいわよと言ったけれど、どうやら五食昼寝付きは捨て難かったらしく、
お供はその後も私についてきた。
今度の旅は急ぎだった。別に急がなくてはいけない理由はなかったけれど、何となく気が急いて。
途中、私はあの人と暮らした森の家に行った。あの人や息子が帰ってきている望みは薄かったけれど、それでも私が村へ
帰る事を書き残しておかなくてはと思ったから。案の定、私が出た時にドアに挟んだ木の皮はそのままになっていて、中に入っても
二人が帰ってきた形跡はなかった。分かってはいたけれど、やっぱり残念で少し肩を落としていると、ここを出たときより随分と
大きくなった娘が頼りない足取りで近付いてきて、元気を出してというような表情を浮かべていて、私は大丈夫よと笑顔を返した。
そして、「東の国に行ってきます」と彫った字の上に横線を二本彫って、すぐ下に「私は故郷にいます。もし私に会いに来る気になったら、
北の森から来て。私はそこで待っているから」と、共通語で彫った。それから、その柱の前に娘を立たせて、背の高さの所に傷を付けて、
そこに今日の年月日と、「ネシェルはこんなに大きくなりました」と彫り込んだ。家の空気を入れ替えて、精霊達と一通り埃を
はたいてから、前に旅立った時と同じように木の皮を挟んで鍵を閉めて、しばらく家を眺めた後で、そこを離れた。
<小説一覧に戻る 次へ>